「そういう気があるのは気付いていたけれど――彼は想像以上に危ういよ」
影との戦いの補佐を頼まれていた青年が、顔を顰める。
彼は見てしまった。普段闊達な青年が浮かべた、闘いの昂揚によるものだというには、あまりにも昏い笑みを。
玄武の宿星を受け、闇に生きる忍びの家に生まれ、微かながらも前世らしき記憶を持つ彼には分かってしまった。生死の境を、よく知っているが為に。
「そんなに酷かったか」
呟く主の声には抑揚が無く、とうに彼も気付いていたのだということが分かった。
ゆえにここで止めようかとも思った。
友人としては伝えない方が良いのかもしれない。
だが、やはり、守護する者としては、あれほどの危険性を告げぬわけにはいかなかった。
「君や壬生のように冷徹に作業として殺人をこなせる、職人ともいうべきレベルまで昇華した暗殺者ならたいした問題ではない。君も壬生も、殺人が好きでもなんでもないだろう? ただ卓越した技術で、上手くこなせるだけで。だが彼は――」
そこで言葉を切った。
役割から考えれば当然のこと。それでも口にしていいのか悩み、逡巡を見せた後に、小さく呟いた。
理解したくなかった真実を。認識してしまった事実を。
気の合わない、底抜けに明るい脳天気だと思っていた仲間の深層を。
――彼は、類稀な殺人鬼だ
「HR終わったぞ」
体育館裏の、お気に入りの木にて寝そべっていた京一は、目を覚ました。
掛けられた声は、既に聞き慣れたもの。――――緋勇龍麻が、下から見上げていた。
「あ〜」
「まだしばらく寝てるのか?」
いや、少しだらだらするだけだ――京一の答えに、龍麻が少々思案する。
珍しい態度を訝しんだ京一が言葉にする前に、決心がついたのか、龍麻は顔を上げた。
「隣良いか?」
京一が頷くと、龍麻は足を軽く屈し、一挙に京一の横まで飛びのる。
それだけ勢いをつけたというのに、衝撃はほとんど無かった。ふわりという擬音が相応しいほどに、静かに枝に着地する。
「へぇ、夕日まで見えるんだ。意味あったんだな」
てっきりなんとかと煙は高いところがというヤツかと思っていた――――ごにょごにょと小声で失礼なことを続ける。
「ここからの景色が、俺が真神で一番好きだった景色だ」
龍麻の言葉に怒ることもなく、京一は穏やかに呟く。彼らしくもなく、しみじみと。
「どうしたんだよ」
しばしの沈黙の後、やっと視線を龍麻に向けて訊ねる。
「挨拶と礼。皆を回ってるんだが。
ありがとう、あんな闘いに協力してくれて。そしてもうひとつ、ありがとう。出会えて良かったよ」
穏やかな声音で――――本当に終わったのだと……終わってしまったのだと、実感させる表情で。
一瞬見惚れた京一は、照れを隠すように、茶化してみる。
「美里が最後のお楽しみってか」
お前で最後だよ――龍麻は首を横に振る。
「仲間になってくれた逆順で、挨拶にまわっていたから。最初に、共に闘ってくれたのは、お前だろ」
その言葉で京一は思い出した。
総てはここから始まった事を。
この木の下で、ありがちな喧嘩に首を突っ込んだ。
緋勇という転校生と初めて背中をあわせた、たかが喧嘩が――――龍脈を巡る大規模な闘いの始まりとなった。
京一は、小さく笑う。
当然の話だが、あの時は考えてもいなかった。龍脈だの東京を守るだなど。
そしてこんな感情に悩まされる日がくるなど、思いもしなかった。
すぐ隣で微笑む親友に、剣を振りかぶったら、どのような反応を示すか。構える彼と対峙することができたら、どれほどに愉しいか。
妄想と切り捨てるべきものに、堪らない魅力を感じるようになるなどとは。
数日前の身体が疼くような悦びを思い出し、京一は拳を堅く握り締めた。
「ひーちゃん。……美里が吸血鬼になったらどうする?」
「は?」
唐突な言葉に意図を掴めず、首を傾げた相手に、京一はたとえ話だと笑った。
「美里が――人の血を吸わなくちゃ生きていけなくなったら、ひーちゃんはどうする?」
練習を手伝えと言われ、龍麻は本から視線を上げて嫌そうに顔を顰めた。
道場で後輩に指導していた京一に、教師からの伝言を持ってきた。
もうすぐ終わるから、ラーメン食いに行こうと誘われ、邪魔にならぬように、道場の隅にて本を読んで待っていただけのはずだった。
「いーじゃねェか。多分ひーちゃんの方が、面白い相手になるんだからよ」
確かに今の龍麻は剣を使える。一流の剣士に師事し、元よりの素質に助けられ、そして何よりも妙な集中力を発揮して学んだ結果、この場に居る他の剣道部員より強いであろう。けれど――それは京一に教えていない。
「ラーメンおごってやるからよ」
なぜならば、最近の、どこか危うい京一を相手に、相当の腕であることを示してしまうことは危険と判断したがゆえ。
今もまた冗談めかしながらも、瞳の奥に見え隠れする光が在った。
仕方なく、だが表情には危惧を出さずに頷いた龍麻に、手渡されたものは――木刀。
なおかつ防具を渡す気は、京一には更々ないらしい。
「……防具は? あと竹刀じゃないのか?」
木刀と竹刀では、危険性が根本から異なる。
稽古での怪我を避ける為に開発されたものが竹刀。開発以前は、人死にがでることもあったのだ。それだけ木刀の重さは危険であり、更には防具もなしときた。
「竹刀は持ちにくいし、防具だぁ? あんなもん、重くて邪魔なだけだろ」
これ以上は、むしろ危険を招くかもしれない。
狂的な空気すら漂わせる京一の様子に微かに溜息を吐き、龍麻は敢えて軽い表情を浮かべて応じた。
「ラーメンじゃ割に合わん。最低でチャーシュー以上だからな」
木刀を構えた龍麻の姿に、京一は薄く笑った。
彼ならば、部員たちよりはマシだと思っていた。剣の使い方など知らなくとも、卓越した運動能力と実戦経験から、剣を持った状態ですら、ある程度は楽しめると思った。
予想外であった。
素人などではない。構えた姿を見ただけで理解できる。
隙は皆無。実戦系の剣術の流れ。
剣士としてもまた、間違いなく一級である。ゆえに、いや、元よりそのつもりであったが、京一は手加減など心の片隅にも置かずに踏み出した。
「……すげェ」
「あの主将を相手に」
本気で感嘆した声が聞こえてはきたが、龍麻は顔を顰めるのみであった。僅かに上がった息に、苛立ちが募る。
『超互角の相手と剣先を相殺しまくる』
嘗て如月相手に、冗談交じりに語った、剣を習得する上での目的。
今が実行できているのかなと呑気に喜びたいところではあったが、そんな余裕など存在しない。
大体、超互角――ではない。
素人目ならば、互角に見えたかもしれない。
龍麻は素早さに優れ、動体視力にも恵まれている。ゆえに高速の剣の軌跡も把握しやすく、闘いに慣れた身体は回避と相殺を主とする限り、失敗などない。
だが、本来は精々手甲しか着けぬ身に、木刀を持っての長時間の攻防は辛い。
強すぎるがゆえに――長丁場の闘いの経験が極端に少ないこともマイナスに働く。
対して京一は、最近用いている日本刀に比べれば、木刀の重さなど、碌に感じないだろう。
更には歩んできた道の重みが違う。
一を聞いて十を悟ってしまう龍麻。
十を聞いて十を――下手をすれば、百を聞いて十を積んできた京一。
習得したものが同じとしても、土台となったものが違う。
高さが同じだとしても、厚みが、容量が全く異なる。
京一は、手を抜く様子もなく、疲れもみせずに、剣を振るう。
息も吐かせぬ連続攻撃を顔色も変えずに捌きながら、龍麻は内心で溜息を吐く。
適当な時点で一本取られようと思っていたのだが、こんなものを喰らったら、結構な怪我を負う。ほんとどうしようかなあと、身体は忙しなく動かしながら、心の何処かが麻痺したように、龍麻は、ぼんやりと困惑していた。
「オラァッ!!」
京一の気合に、龍麻は目を見張った。
逃げ場を塞ぐように放たれた陰氣の塊は――鬼剄。何も知らぬ部員たちの中で、そんな暴挙に出るとは予想していなかった。下手に避ければ、彼らが巻き込まれる。
相殺の為の陽氣を放った龍麻は、失策に気付いた。
鬼剄と一瞬の錬氣の間。
それらを巧妙に利用し、距離を詰めた京一の振るう木刀が、龍麻の『動体視力』には、しっかりと捕らえられた。だが――それは見えただけのこと。
『君にとって剣術とは遊びだ。本分たる体術に、一片たりとも影響を及ぼすな』
剣術の師匠の言葉を、龍麻は忠実に守っていた。
ゆえに今も、脳裏に浮かんだ回避策は徒手を前提としたものであった。
剣を手にした身体で実行することは敵わず。
そして、剣での対応策を考えるには間に合わず。
剣と拳のタイムラグ。微かな時間は致命な隙を生んだ。
龍麻は口元を皮肉に歪める。
――頭部に迫る軌跡が確かに見えるのに、回避方法も浮かんだというのに、現実には見ていることしかできないのだから。
剣道部員たちの顔色は蒼白であった。
今、響いた鈍い音が引き起こす結果が、軽い怪我だと思えるほどの楽天家は存在しなかった。
元主将の鋭すぎる払いが、その友人の頭を確かに薙いだ。
防具も付けぬ頭に、よりにもよって木刀の攻撃が。
混乱に騒ぐこともできずに硬直する場で、ただひとり平然とした人物は呟いた。
「前から気になっていた。ひーちゃんは、警戒を左後方に移すとき、ガードが少しぶれるよな」
だから其処を突いたと。
剣でも変わらないんだなと。
口調は普段と変わらずあくまでも軽く。
密やかな笑みはあまりに酷薄で。
血が流れる傷口よりも、躊躇無く振り抜かれた攻撃よりも、その笑顔こそに、龍麻は痛みを感じた。
このまま寝てようかとも、本気で悩んでいた。そうすれば彼の深淵に触れずに済む。敗北という事実などどうでも良かった。
「で、大袈裟だぜ。それとも俺に、お約束台詞を言わせてェのか? 『むぅ……自ら後ろに跳んで、威力を殺すとは』とかよ」
だが、お見通しの言葉を合図に、龍麻は、かなりの無表情にて起き上がる。
額に手を当て、流血量を確認すると、しばしの逡巡のすえに、癒すでなく、バンダナを取り出し、血止めをかねて前髪をとめる。
「ま……俺だけとは限らない訳だな。仲間内であっても、敵として闘う事態を考慮して、常に観察しているのは」
あの癖は気付いていたんだが、楽に攻撃に移行できるからそのままにしていた。
お前には、二度としない。
冷えた口調で呟き、握っていた手を開く。
「もうこれは離していいよな?」
カランと渇いた音をたてて、木刀が落ちる。
半身を引き、素手で構えをとった龍麻に対し、京一は頷いた。
望むところだ――と凄惨かつ満面の笑みでもって。
いつからだったのだろうか。醍醐さえも簡単に倒したあの時からだろうか。佐久間を一撃で叩きのめしたときからだろうか。それとも――転校生と紹介され、静かに立っていた彼を見たときからだろうか。
冷たい眼差しで構える彼の、横ではなく、正面に立つ事を望むようになったのは。
『こちら側』に来て良かったと、ざわめく感覚に、京一の口元がゆっくりと吊り上る。
心より待ち望んだ事態に、鳥肌が立つ。
向かわなければ見ることはなかっただろう。怒りによってか、感情が一挙に消え去る龍麻の変貌を。
茶の瞳が一瞬淡く色を失い――段々と濃く変じていく。
人ならざる琥珀の瞳の輝くさまは、恐ろしく、美しく――そして愉しい。
悦びに京一の笑みは消えなかった。
先程までの龍麻とて、一級の剣士。
それでも――体術を使う今の彼の足元にも及ばない。
全てが違う。
先程は、剣士としてどう動くか、どう対処するか、頭で判断していた。
技術そのものが高水準で、思考速度と伝達速度が異様に速いがゆえに、そうそう襤褸がでないのだが、あくまでも考えてから動いていた。
違う。
様々な高い才能も付随品であった。黄龍の器であることさえも、おまけに過ぎない。喩えそんな宿星を擁いていなかったとしても、きっと彼は唯一無二の存在。
彼は生まれついての拳士であった。
顔面を壊しかねない勢いのハイキック。
飛び退き、そして直後に間合いを詰めようとした京一は、龍麻の呟きを聞いた。
「お前は、後方右上の反応が若干弱いよな。こっちの目が悪いのか?」
昔も蝙蝠ごときに怪我したし――と続く言葉の意味を理解しても、対応は出来なかった。
確かに避けたはずの脚が戻ってくる。最短の軌跡を描くそれを、躱す術などなかった。
龍麻もまた躊躇いなく。
硬い踵が京一の側頭部を薙ぐ。
派手に吹き飛んだ京一に、龍麻は構えを解くことなく首を傾げる。
「こっちも返した方が良いか? 『自ら跳んで』云々と」
哀れな観戦者たちは、息を呑むことさえできなかった。ただ彫像のように立ち尽くすのみ。
最早救いはない。明らかに乗り気でなかった先輩も、その気になってしまった。そして――元主将は言うまでもない。
先程とは逆の立場であったが、京一もまた、起き上がる。
額の血を乱暴に拭い、凶暴な眼差しで、親友を睨み付ける。口元に在るのは歪な笑み。
言葉は既に存在しない。
殺意と冷徹と――熱と冷の瞳が交錯し、細められる。
タンッと軽い音がひとつ鳴った。
ふたりが足を踏み出したのはまるで同時。二つの音は重なり、一足で距離は零となる。
極度の集中により、時間の進みさえも変化する。
白く焼きつきそうな意識の中で、剣先と手足とが相殺しあう。
思考は高速に回転し、それでもなおかつ追いつかない。
目で捉えることも、考察することもできず、身に刻み込まれた経験と勘とが勝手に身体を動かし、相手の攻撃を避け、攻撃に移る。
僅かでも勘が外れれば、ただの一撃でも致命に近い攻撃を喰らう。
その幸福に、京一は歓喜し猛る。
その事実に、龍麻は嘆き冷える。
剣同士の時とは比較にならない速度と威力に、居合わせた者たちの血の気が引く。
彼らは本物の闘いなど知らない。殺し合いには触れたことすらもない。だが、部活といえど――ままごとであろうとも――曲がりなりにも剣の道に携わっているからこそ、精神が理解する。
この闘いは、命に係わると。
止めなければと理性が震える。
冗談ではないと本能が怯える。
一体何ができようか。
闘いも死すらも知る者たちが行う、超高速での本気の攻防に対して、間に入れというのか。かなりの血を流しながらの激しい動きにも、一片の苦痛も見せぬ者たちの集中をどうやって乱せばよいのか。
別人であった。
明るいお調子者の元主将ではなかった。
その親友として名高い穏やかな先輩ではなかった。
愉しげに輝く瞳に宿るは狂気。
深々と冷える瞳に宿るは寂寥。
反撥し合う烈光の輝きを、鋭い感性を持つ者たちは幻視した。
感じ取れぬ者たちも、襲う寒気から逃げるように己が身体をかき抱く。
生死の境たる闘いを、彼ら只人は見ていることしかできなかった。
ゆえに闘いを止めたのは人ならざる者。
学園に存在する誰よりも、生と死を識る者。
数え切れない人生と終焉を看取ってきた者。
この学園が、狼の在る園と名付けられた原因。
無限に続く魔の生命を、流れ去る運命である人間たちを護る為に使うと誓った者。
――――何をしている?
声は静かな呟きであった。普段通りのやる気の欠片も無い口調。
だが話し掛けられた当のふたりは総毛立った。
跳んで、彼らは距離を取った。受けた殺意から、感じた恐怖から逃れる為に、弾けるように道場の両端へと。
「蓬莱寺は保健室へ行け。緋勇はついて来い」
よれよれの白衣のポケットに手を突っ込んだままの、煙草を口にしたままの、通常通りの態度の彼は、惨状にも平然とした様子であっさりと告げると、踵を返した。
速く刻む心臓を宥めるように、ゆっくりと息を吐いた龍麻は、一瞬で『普段通り』の穏やかな笑みを浮かべ、顔を上げた。
「皆さんお騒がせしました、申し訳ない。京一はちゃんとチャーシュー麺おごれよ」
俯いたまま、ああと頷いた彼に、保健室に行くように告げて、龍麻は犬神を追い、道場を後にした。
歩きながら癒したのであろう。
額に在ったバンダナを取り、手を当てて確認する龍麻の出血は、屋上に着いた時には、既に止まっているようであった。
何箇所か同様に確認し、頷いてバンダナを畳み仕舞った後に、彼は教師に頭を下げた。
「先生……。ありがとうございました」
「ずいぶんと本気をだしていたな。校舎内で殺し合いをするほど馬鹿だとは思わなかったぞ」
引きずられました――と、悪びれるようすもなく肩を竦めた優等生を、教師は睨みつけた。
それは紛れもなく真実。そして半分は嘘。
わざと引きずられて『やった』のだ。相手の望みに少々の間とはいえ、付き合ってやるために。
吸うか? と差し出された煙草を躊躇なく受け取り、一流国立大学に合格した学年首席が慣れた様子で煙を吐く。
「頂いておいてなんですが、本当に吸いにくいですね。あ、口に入った。フィルターが欲しい」
ならば吸うなと言い捨ててから、犬神は自身も煙を深く吐いて、龍麻へ向き直り――静かに言った。
「正直感心できんな。味を知らなければ、いつか餓えは引くかもしれん」
まるで喫煙への説教。だが、別次元。
味とは死。飢えとは闘い、いや、殺し合いへの渇望。
――戯言を。
龍麻の呟きは、諦観を含んでいた。
彼は直視してしまった。心底死を愉しむ京一の笑みを。
「京一が可哀想ですよ。拳武の暗殺者の言葉は、あいつに関しては真実としか思えない」
悲壮ですらあるその声に、興味を引かれたのか犬神が顔を上げる。
「ほう……それは?」
「『お前たちも同類だ』」
正答率25%と低かったんですけどね――どこかひび割れた声のまま、彼は歪な笑いを浮かべる。瞳を僅かに横切ったものは憎悪と……悔恨。
余計なことを自覚させた狂ったふりをした剣士へと、巻き込んでしまった己への。
「私や半身にあたるモノは、強い相手とは闘いたくない。醍醐は強い相手と闘うのが楽しい。だが、京一は――――」
「強い相手との――――殺し合いが好きか。前にもそんな奴が居たな」
途切れた言葉の続きを、犬神は引き取った。
百年以上も前にも、蓬莱寺という名の男をもうひとり見知っていた。前世ともいうべき存在。同じ顔を持ち、蓬莱寺京一よりもやや直情的だったその男も、同じだった。明るく、正義感が強く、そして――――殺し合いが、生死のやりとりの極限が好きだった。
殺人狂ではない。悪人ですらない。
だが――闘いを、殺し合いを、死を愉しむ。
一瞬で死ねるほど近くに死が在る。ゆえに、今は鮮烈に生きていると実感できる。
その狭間に、彼は魅せられた。組織の仲間を大切に想ったのは真実。皆の命を護りたかったのも本願。
それでも彼が最も強く望んだのは、殺し合いの場に身を置くこと。
「明治を迎え平和になったあと、『前』の彼は、二度と仲間たちの前に姿を見せなかったそうです。
それは――殺したくなるからだったのかもしれません」
拳を握り、僅かに震える声で、龍麻は遠い目をして呟いた。
今の京一と同じく、要求と理性との狭間で、苦しんだのではないだろうか。
そして、京一の状況は更に悪い。
幕末ならば、闘いが在った。柳生が引き起こすものだけには限られず、闘える者も多かった。生と死の境目は、他所にも在った。
「あのころなら――幕末ならいざ知らず、現代には、もうあんな闘いはないでしょう。柳生の巻き起こす騒動だけが、数少ない京一の糧だった」
嘗て敵だった者たちは、皆上位の敵に狩られた。
残る糧となれる力ある者は、仲間だけ。
「私がここに……俺が、真神に来なければ良かったんですかね」
静かな抑揚のない――泣きそうな声を聞いていたのは、犬神だけではなかった。
屋上の入り口に背を凭れ、聞いた会話を反芻する。
彼はしばらくの間、己の掌をじっと見詰め――踵を返した。
長く黙っていた龍麻であったが、ゆっくりと顔を上げる。
パターンによって対処は違う――と。
首を捻った京一に、葵は繊細だからと、笑いながら龍麻は答える。
「例えばさ、命まで奪わずに済むのなら、なんとか説得して可能な限り共に生きる。魔狩人やら警察等の治安機関は、俺が引き受ける」
人の命を奪う訳ではないのだから、生きていく為には仕方のないことなのだから――自分を置いて逝かないでくれ、と、情と生存本能に懇願することすら厭わず。
「自覚がないまま殺害するのなら、相手の命など知ったことか。必要であれば、俺が安全な場所まで、関わりのない人間を気絶させて運んでも構わない」
葵本人が苦しまないのなら、他人など、どうでもいいと彼は断言する。
ただ、偶々親しい人間を襲ってしまったりすれば、彼女は知人の死を酷く悲しみ悼むから、それを避ける為には生餌の供給さえも行うと。
行方不明になっても誰も気付かぬ境遇の者も沢山居ると、薄く笑う。
「最悪なのは自覚が有って、なおかつ相手の命を奪わなければならない場合」
他人の命を犠牲にしなければ生きていけないのならば、彼女は生を望まない。人の死を糧に己が命を繋ぐことに、精神が耐えられない。無理に禁断症状を利用してでも人間を喰わせたりすれば、壊れるであろう。
「彼女が望むのならこの手で殺すし、静かな衰弱死を受け入れるのなら看取る。全ては彼女の望むままに。自分には、その位しかできないのだから」
いつしか笑みは消えていた。
淡々と告げる表情は乏しく、それゆえに、本音なのだと分かった。
荒唐無稽な筈の仮定に、真摯に答えた後に、龍麻は表情を消したまま、京一を真っ直ぐに見て問う。
「で、お前はどのパターンなんだ?」
知らぬうちに、京一の口元が微かに吊り上る。
自覚が有るまま、自ら望んで血を求めるのだと答えれば、彼は自分を殺してくれるのだろうか。殺し合いをしてくれるのだろうか。
京一は理解していた。
自分には良心もある。常識も知っている。人を殺したら、悩み苦しむだろう。
それでも――――渇望する。
「自覚もある。躊躇いもある。だが、殺したい」
懺悔ではなく。
無論誇るでもなく。京一は淡々と事実を語る。
「本当に……皆と闘ってみてェ。けど、それは醍醐や紫暮たちみてェに、爽やかに全力で力を出し切りたいわけじゃねェ」
どう反応すべきなのか、龍麻には分からなかった。気付いていたから、それ以上口にするなと、優しく首を振れば良いのか。それとも、そんなことはないと、澄んだ瞳で強く否定するべきなのか。
流すのも嗜めるのも偽善。
結局、龍麻は黙って、ただ聞いていた。
「お前らと、極限の中で命を遣り取りしたら、どれほど愉しいか、考えただけで震えが走る」
木刀と素手で、あれほど愉しかった。
手に持つのが真剣であったら、相手が手甲を装備していたら。死が更に近くに在れば。
それはどんなに至高の時間か。
呟く京一の表情は、どうしようもなく酷薄で、京一はこんな顔をしていたのだな、と龍麻は少しだけ哀しく思った。
ころころ変わる表情が、明るく豪快な笑顔さえもが、まるで擬態であったかのような、冷たく端正な顔。赤毛の髪が、赤みがかった瞳が、夕日をうけて血の如く鮮やかに染まる。
「だから卒業したら――――中国へ発つ。言っとくが、あっちで殺しまわるつもりもねェからな。ただ獲物が間近にいなければ、こんな気持ちも収まるかと思った」
「……遠いな。そういえば京一は、お師匠さんとの仲は良好なのか」
『京一【は】』という妙な強調が少々気にはなったが、龍麻らと師匠の間の微妙な緊迫感に触れるほど、京一は愚かではなかった。少しだけ考え、実態そのままを話す。
「良好っつーか、もう何年も会ってねェしな。……悪くはねェとおもう」
「じゃあ良かったな。中国で会うかもしれんよ」
予想外の言葉に、京一は勢い良く顔を上げた。
何故そんなことを知っているのか。
それに、師と出会ったら、また今と同じこと――渇望を抱くことになるのではないか。
「俺が転校してくる直前に、俺の師匠のところに来たらしい。んで、数年は中国に居るって言ってたんだと」
もしも再会してしまい、また衝動に苦しむことがあったら――会いにくれば良いと、龍麻は言った。
「殺されない程度には、強くあろうと思う。だから、どうしても我慢できなくなったら、来てくれれば、擬似的になら殺し合いに付き合える」
平然と告げられるあまりな内容。ククッと、くぐもった笑いが京一の喉から漏れる。
「ったく、感情は無いのに欲求の解消相手として、付き合ってくれるってのか? ……セフレじゃねェんだからよ」
冗談めかした京一の言葉に対しても、龍麻は真顔で頷いた。
望みと良心との間で、壊れてほしくはなかった。その為に必要ならば、身体くらい貸す。セカンド以降でも良いという女の子たちって、こういう気持ちなのだなと、ぼんやりと考えながら、言葉を紡ぐ。
「ああ。人を殺して欲しくないからな。本能が求めようが、根源が望もうが、お前は精神構造的には、向いてないんだから。一線を超えるべきじゃあ――ない」
京一は、己の嗜好を自覚してから、気付いていた。龍麻が人を殺したことがあることに。壬生や八剣にあった血の臭い、死の影とでもいうのだろうか。
龍麻にも、それがあった。
どちらも狂ってるんだろうな。禁忌に惹かれるお前も。禁忌とすら思わない俺も。
俯き呟く龍麻の声は、ひたすらに静か。
それが真実。共に壊れている。罪と知りながらも願う者も。罪との認識もせずに、躊躇いも歓びもなく命を消せる者も。
「けどな――狂気を隠し通すことは可能なんだ。残酷なことを言っていると自覚している。卑怯だとも思う。皆を哀しませない為だけに、常識とやらに従って、お前の望みを押し殺せと言っているんだ」
卑怯だと残酷だと己を貶めながらも、瞳には一片の迷いすら存在しない。
顔を上げ、京一を正面から見据えた龍麻は、命に等しい言葉を発した。
「闘え――闘い続けろ。血と死を求める衝動と、己の正気すら賭けて」
非道い話だと、京一は薄く笑う。
好物を我慢しろというレベルではない。自覚してしまったものと――性癖を通り越し、本質とも言える部分と闘えと、彼は断ずるのだ。しかも狂うことはなしに。『普通』のままでいろと。
「軽々と言いやがって。糖尿だから甘いものを食うなとか、血圧高いから塩分控えろとかじゃねェんだ。狂おしいほどに欲することを、正気のまま立ち向かえって言ってんだぞ、お前は。けどよ……」
ゆっくりと笑みが浮かぶ。先程の冷たいだけのものではなく、獰猛ではあったが、通常の彼の表情に近い笑みが。
だからこそ面白いと、京一は頷いた。
本質からくる要求と――絶望的なまでに強大なものと、闘ってみせると。
「やってやろうじゃねェか。生涯、品行方正のまま終えてやるよ」
かなりの真剣な表情で宣言した京一に、龍麻は、無理だなと肩を竦めた。
ンだと? ――と睨みつける京一に、彼は笑いながら応える。
「もう軽犯罪を腐るほどにやってるだろ? 喧嘩とか覗きとか痴漢と……かッ!?」
言葉と同時に、ゴスっと脳天へと振り下ろされようとしていた木刀を、白刃取りにて止めた龍麻は、たらりと冷や汗が流れるのを感じた。木の上で、白刃取り止め側の体勢は辛すぎる。落ちるかドタマかち割られる。
「ほ、蓬莱寺くん。安定の悪い場所でのマジ攻撃はどうかと思うよ、ボクは」
「『へ、お前の方から誘ったんじゃねェか』って、強姦魔みたいなことを言うぞ、コラ。そもそも痴漢は記憶にねェ」
見送りは要らないし、日程も教えない。
そもそも他には旅立つこと自体、告げてない。
卒業式が終わった後、体育館の裏にて、京一はそう言った。
最低限の知識だの言葉だのは、劉 弦月から得てはいるようだが、一緒に戻ってもらうこともしないのだと。
「霧島くんにも伝えないのか?」
「あいつはもうひとりで平気だろ。それに……そろそろあいつもやべェ」
京一はゆっくりと首を振った。
弟子はそれだけ腕を上げてしまった。だが、彼には――彼にだけは、己が深淵を知られたくなかった。一途に己を信じる純粋な彼にだけは何があろうとも。
「そうか……」
何か言いたげで、それでも言葉を飲み込んだらしき親友に、京一は屋上での彼と犬神の会話を思い出した。
『俺が、真神に来なければ良かったんですかね』
抑揚のない問いかけ。今だからこそ分かる。あれは龍麻の悲痛な叫び。
本気であればあるほど感情が薄く見える。知り合った頃には気付きもしなかった彼の癖。
そもそも知り合った頃の彼は、別人のようなものであった。穏やかで優しくて。
……今でも傍からは、そう見えるのかもしれないが。
『ちょっと転校生をからかうにしちゃァ、度が過ぎてるぜ』
あの時の京一は、佐久間たちに絡まれた龍麻を助けるつもりで間に入った。きっと彼が引くのだろうと思ったからこそ。
今ならば――そんなはずがないと理解しているが。
「なあ、ひーちゃん。ひとつだけ聞きたいことがあんだけどよ」
「ん?」
沈んだ声で顔を上げた親友に、京一は悪戯っぽく笑み、問う。
「あの時俺が出なければ、ここで佐久間になんて応じるつもりだったんだ?」
龍麻は一瞬首を傾げた。質問の方向性が予期していたものと違いすぎて、呆気に取られたのだろう。
だが、くすりと笑い、表情を変える。
「『女の子が寄ってくるのは仕方ないだろ。君とは、顔も頭も出来が違うんだから。大体美里さんは、高望み過ぎるんじゃないか。分相応という日本語を学んだ方が、今後の為だよ。いくら馬鹿でも』」
自分に対して言われたものならば、間違いなく殴りかかるであろう嘲弄の顔に、京一は苦笑する。
「ははは、ほんと酷ェ奴だ。お前が謝るかと思ったから、助けに入ったつもりだったんだよな……」
無用だったということだ。
あそこで自分が出なければ、阿鼻叫喚の惨劇が、彼によって為されていただけの話。
――闘いを知ることもなかったかもしれない。
だが、京一は微かに首を振り、口を開いた。
「じゃあな、ひーちゃん。楽しかったぜ。――後悔なんかしてねェからな」
翳りを含んでいた。それでも京一は笑って言った。
龍麻は僅かに目を見張り、それから寂しそうに微笑んだ。
犬神の言葉を思い出し、小さく頷く。
『お前がここに来なければ、世界は今のまま在ったかわからない。お前が世界を救ったんだ――と、事実により慰めるのは簡単だ。だが、お前が求めている答えはそんなものではないだろう? 来なければ――蓬莱寺と会わなければ良かったのか否か。決定する資格があるのは、お前たちだけだ』
引け目を感じていた。
自分と会わなければ、あんな闘いに巻き込まれなければ、京一は己の暗部を自覚せずにすんだのではないかという気持ちは、どれほど考えようとも消せなかった。
殺意は京一の本性でも本質でもない。
ただ奥深くに確かに存在するだけのもの。知覚することもなく生きることとて可能だったのだ。
本物の闘いを知らなければ。
龍麻と会わなければ。
「俺も楽しかった」
それでも、京一は否定した。逢わなければ良かったなんて思わないと。
「お前に会えて良かった」
だから、龍麻も、笑顔で頷いてみせた。
桜並木を眺める見慣れた背中に気付き、美里 葵は急いで駆け寄った。
「こんな所にいたのね。気が付いたときには、もう教室にいなかったから、帰ってしまったのかと……」
だが語尾は途中で消失する。
知っているから。
この空気は、彼が傷付いたときのものだと。
恋人の声にも振り返ることなく、龍麻は桜を眺めたまま、感情のこもらぬ声で呟いた。
「たまに考えるんだ。――――世界を作り変えようかと。何も起きなかった日々に、何も失われなかった歴史に」
表情は何も表れず。だからこそ、本当に哀しんでいる。
「龍麻……」
妄想でなく大言壮語ではなく、今の彼には不可能ではない。世界を繋ぐ糸を紡ぐ織姫たる比良坂や、平行する世界への干渉力を持つ六道の助力もあれば、その可能性は更に高まるだろう。
京一は殺しへの誘惑に苦しまず、醍醐は友をふたりも喪わず、そして、哀しき鬼たちは目覚めない。
星見の青年とて瀕死となることもないだろうし、その妹も己が命を削りながら身代わりとなる必要もなし、弟分の村を襲った悲劇も、眷属の宿星を抱く青年や少女の、まるで『来るべき刻に、日本に集う為』だけに家族を失ったかのような不幸な身の上も、回避できるだろう。
利用された末にあっさりと捨てられた者たちの命も、戻せる。
それはどんなに優しい世界か。
勿論、知人を救う為に世界を変えれば、弊害は生じるであろう。見知らぬ誰かが、どこかで不幸になるかもしれない。だが、彼にとって、そんなことは瑣末事。大切な人の為に、その他の人間を殺さねばならなかったとしても、躊躇などない。
実行しないのは、全く別の理由。
「だけど、そんな俺ひとりの願いだけで再構成された世界は、柳生の作った偽物と同じ」
彼の意思の元に管理される、安全な箱庭。全てが用意され、平穏な時が流れる、苦しみの無い、そして選択することすらない世界。
他者は予め用意されたものを享受することしか許されない、穏やかで優しく暖かく――傲慢な檻。
それはどんなに残酷な世界か。
「一方的に哀れみ、勝手に救済するのは、自分の意志で選択してきた皆への、最高の侮辱だろう」
妹を巻き込まぬ為に、躊躇い無く死を選んだ青年への、それを拒み兄の命を支えることを決心した少女への、優しい兄妹を護る術士たちへの侮辱。誇り高き一族に伝えられた封龍の使命への介入。
昏き欲求を自覚し、認め、抗うことを選択した親友の決意を、土足で踏み躙る行為。
そして何よりも、未来を察しながらも、愛する者の子を産むと決めた母の想い、妻の決断を受け入れ、命を賭して災厄を封じてくれた父の気持ちの、根底からの否定。
「だからしない。悔しいな。全てを変革する力があるのに――なにもできない」
彼は泣かない。
彼は泣けない。
迷わない為に。
選んできた道を悔やまない為に。
それが有無を言わさず背負わされた重過ぎる宿星への抵抗手段。
決して流されず、己の意思を貫く為に――絶対に惑わない。
「龍麻……」
堪らず、葵はその哀しい背に駆けより抱きしめた。
声も涙もなく、それでも今、龍麻の心が哭いていると理解しているから。
「この一年――――、本当に色々なことがあったわ」
たくさんの事件があって、
たくさんの友だちができて。
出会いも別れもたくさんあって。
ごくごく平凡な毎日というものが、とっても大事なものになって。
「私……、はじめて大事なものを見つけた」
嘗て、龍麻と葵は違う意味で同類であったのだ。
何もかもがどうでも良いから――全てに優しく接していた龍麻。
何もかもが愛しいから―――――全てに優しく接していた葵。
それは全く異なるようで、全く同じ歪んだ在り方。
全てを愛していることと、全てを愛していないことは同義。
「あなたが、いつもそばにいて、あなたと一緒に闘って、それが当たり前のようになって」
そして――それだけでいいとは思えなくなった。
全てが等しく無価値であった龍麻も。
全てが等しく大切であった葵も。
今は唯一の存在がある。
「龍麻――私、貴方と逢えて良かった」
彼女にとっては、それが絶対の真実。
後悔などない。
真っ直ぐに愛しい相手の瞳をみつめ、泣けない彼の代わりに、涙を零しながらも――笑ってみせた。
親友と同じ言葉を口にした恋人の笑みに、龍麻は眩しそうに目を細めて呟いた。
「いつも君に救われる。いつも君に甘えてしまう」
古き友を殺したときも。哀しみ苦しむ闇の女の手を振り払ってしまったときも。
今また友を、救いきれなかったときも。
赦してくれると知っているからこそ、彼女に縋っているのではないかと思う。
自虐的な恋人に、葵はゆっくりと首を横に振った。
「私が貴方を護りたいの。――貴方を愛しているの」
全ては自分の意志だと、万人の聖女であった少女は微笑む。
甘えだろうと何だろうと、貴方の為になれるのならば、嬉しいのだと。
聖女をひとりの女に堕としてしまったことを自覚しながら、彼女を抱き寄せて、龍麻は呟いた。
皆に、そして、君に会えてよかった――と。
「ありがとう」
「これで良かったんだろう? ……弦麻」
屋上より、桜の前で堅く抱きうふたりを眺め、生物教師は紫煙をくゆらせた。
『己の唯ひとりを見つけられるだろう』
流石は父親というべきか。
予言は的中した。
あれほどの腹黒極悪性格破綻者は、たったひとりを見つけた。
失わなかった。相手も――自分も。
『五体満足でとはいわんが、とにかくは戻って来い。せっかく生まれた食い扶持に、ありつく前に消えてもらっては困るのでな』
嘗て同じ顔をした男に告げた言葉。彼は戻ってこなかった。
緋勇 龍麻は戻ってきた。
ならばそれだけで充分なのではないか。
お仕着せのハッピーエンドなど必要ない。
甘さだけでなくとも。切なさも哀しみも混在しようとも。
世界を『作り直して』いたら、緋勇はもう名実共に、人ではなくなっていただろう。精神も身体も存在さえもが。
人間だからこそ、世界を変えられる。
人間だけが、世界を変えられる。
彼ら龍脈に選ばれし者たちの選択だけではない。この世に生きる人間、ひとりひとりが選択した結果である、この世界こそが真実。
「これで良かったんだろう?」
同じ言葉を、此度は別の人間に投げる。
とうに流れ去った者へ。
人間を憎み呪い、過去だけを見て生きていた彼に、あんたに居場所を作るんだと、もう傷付いて欲しくないんだと、五月蝿いほどに言い続けた者へ。
そうさ――と想い出の白い衣の女は微笑んだ。
人は、誰も変わっていける。
信じる心と願う心がある限り。
彼女が幾度も繰り返した言葉。
地下に強大な霊場を隠すこの地は、平穏とは程遠い。
これまでも大小問わず、騒動は存在した。
これからもまた、同じくであろう。
それでも護人は――犬神は、屋上から学園の全貌を見下ろし、柔らかく微笑んだ。
それは誰も知らぬ顔。きっと己自身でさえも。
――我が子を護ると決心した親の如き、強く優しい笑み。
地上に降りた真の神――狼への敬称を戴く学び舎。
彼女が尽力した彼の居場所。
永久に変われぬ彼が、見守り続けると誓った世界。
寿命も強さも何もかも。
生き物として何一つ共通点の無い人と魔。想いを交わそうとも、刹那の触れ合いは、何も為せなかった。
だから……もしかしたら、この学園こそが。
懸命に刹那を生きた女と流れ去れぬ男の間に生まれた結晶なのかもしれない。
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