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「藤咲さん、君が好きなんだ」

これは、夕刻の新宿駅構内で発された言葉であったので、相当注目を集めた。

百七十近い、すらりとした、なおかつ出るところは出た肢体の妖艶な少女と、百八十程度の端正な面持ちの青年――――と、彼等が見目麗しい男女であることが拍車をかける。


青年は、周囲の好奇の目も気にすることなく、平然と続ける。

「どうだろう?」
「あんたはもっと大人しい子がタイプかと思ってたわ。おまけに、こんな所でそんな恥かしい事を言うとは思わなかった」

藤咲と呼ばれた少女は、たっぷりと黙り込んだあと、小さく答える。彼女の方は、周囲の目が気になるようで、顔を赤らめていた。

「僕が好きなのは君だから……。あまり周囲を気にしない性質でもあるし」
「み……壬生」

あくまでもさらりと語る青年に、藤咲は口篭もるしかなかった。
真摯な瞳で見つめ続ける彼の様子から、冗談ではないのだと思い知らされる。

彼女にしてみれば、偶然駅で出会って声を掛けただけであった。

東京を巡る幾多の闘いも、ようやく決着が見られ、自然と彼らと出会う機会も減っていた。だから偶然の出会いが嬉しくて、彼に駆け寄った。その結果が、この衆人環視の中での告白であった。

藤咲は、困惑するほかはなかった。何を言うべきなのか、自分でもよく判らなかった。
その想いを、正直に口にする。

「急に言われても……よく分からない。それに……比良坂さんはいいの?」

だが、彼女は、拉致された危機を助けられた時から、ずっと彼のことが気になっていた。
はじめは、龍麻によく似た空気が理由かと思っていた。だが、偶然病院で会った時に、自分の境遇を卑下するでもなく呪うでもなく、ただ淡々と受け入れる姿勢を見て、『龍麻に似た人』ではなく、彼自身に惹かれていった。
けれど、その時の彼と比良坂との、互いを理解しきったような雰囲気から、てっきりデキてるものだと思いこんでいたのであった。

藤咲は知らない。
壬生と比良坂が、どこか似ていて、理解しあっているような空気を持っているのは、彼らが似た者同士であるからだということを。
ともに、龍脈に関わる重大な存在の『代用品』。そして、世間の裏も闇も知ってしまった者たち。


「これは龍もだと思うけれど、彼女は妹のような存在だよ。大切に思うし、幸せになって欲しいと思う。でも、それはきっと恋愛感情じゃない」

気負うでもなく、壬生はさらりと口にする。彼にとって比良坂とは、どこか放って置けない雰囲気を持った少女。確かに守りたい相手。だが、それ以上の感情ではないようだ。

今すぐとは言わない、そのうちに返事を聞かせて欲しい――――壬生は、そう言って去っていった。

それから彼女は考え続けた。
比良坂を『妹』のように思っていると、壬生は断言した。
だが、比良坂の方は『兄』を重ねているのではないだろう。

彼女は、龍麻のことが好きだったらしい。
だが、とうに美里と恋人関係にあった彼は、当然その想いには応えられなかった。

結果、比良坂は失恋。最近は、漸くその痛手から癒え、違う人間を見つめるようになっていた。
龍麻によく似た印象で――――なおかつ、どこか彼女に似た陰を持つ壬生の事を。

両親を喪い、そして、闘いの中でたったひとりの兄を喪った彼女が抱く想いを、奪ってしまっていいのだろうか。
けれど、自分自身はどう思っているのか。


煩悶し、考え抜き、結論が出たときには、実に一週間が経過していた。


―― 霞初月 ――



藤咲は答えを告げようと決心し、拳武へと向かっていた。

勿論、その高校の顔は、龍麻から知らされている。その上、自身でたっぷりと味わってもいる。
正門で待つほど愚かではなく、そこが視界に入る少々離れた路地で待っていた。

そして、それが裏目に出た。
そう、出たのは最悪ともいえる目であった……。
彼女にとっても、壬生にとっても、そして、彼らにとっても。




人気のないビル裏に、連れこまれた女性がひとり。
男たちは五人、いずれも裏では知られた暗殺組織である、拳武の制服を身に着けている。

「へっ、これが壬生の女か」
「むちゃくちゃ上玉じゃねぇか」

男達は、下卑た笑いに顔を歪める。

少女――藤咲亜里沙は、確かに相当強い。龍脈に選ばれし者の一人である彼女は、正面きって闘えば、彼らなど相手にもならなかったはずである。だが、正式に武道を習得しているわけではない彼女は、気配を感じる等の芸当はできず、背後から一斉に襲われ、捕らえられた。
押さえ込まれてしまえば、強い術の使えぬ彼女は、か弱き女性に過ぎなかった。


彼女は知らなかった。

拳武に拉致されたときに、彼女の顔写真が反館長派に流れたことを。
現実的な拳武の館長は、弱みを握った彼らを、むしろ好都合とばかりに使い続けていることを。

粛正されず地位こそ守れたものの、あからさまに境遇が悪くなり、反抗すれば反旗を翻しかけた弱みを突かれる彼らが、立場に不安を持たなかった訳がない。
隙あらば館長にダメージを与えたかった。

そこに、館長の懐刀とまで言われる壬生の関係者が、のこのこ飛びこんでしまったのである。


四肢は男達に押さえられ、口には猿轡を噛まされている。
誰も助けにくるはずのない、暗い路地裏であり、見張りも当然配置されているのであろう。


男の手が、胸元に伸びる。

藤咲は信じられなかった。
彼女はただ、壬生に応えに来ただけのはずであったのに。

なのに、今にも複数の下衆な男たちに凌辱されようとしている。

……こんな奴らになんかに
……助けて

……壬生、龍麻
……誰か!!

彼女の声にならない叫びに、何かが応えた。
冷たく威厳のある女の声が響く。――自身の奥深くから。

『ならば、しばし身体をよこせ』


それと同時に、するりと猿轡が外れる。

「誰?」

藤咲の唇から、疑念の声が漏れた。

「あ、何言ってんだよ」
「おかしくなっちまったのか?」

さすがに慌てた男たちが、女の顔に目を向け、そして硬直した。
女の顔には、表情が無かった。憎悪も、恐怖も、嫌悪も……。なのに、とてつもなく美しく妖艶だった。


「このような者たちなど、殺せば良かろう?」

女性が呟いた。
それと同時に、覆い被さっていた男の両腕が弾ける。

「貴様らになど……触れるのも汚らわしいわ」

時代がかった物言いに、虫けらを眺めるような表情。浮かぶのは冷然とした薄い微笑。
降り注いだ血や肉片をそのままに、彼女はゆっくりと身を起こす。

頬にかかった鮮血を白い指先で拭い、彼女はそれを唇と目元に刷く。計算し尽くされた真紅の化粧が、彼女を更に美しく飾る。
それとともに、彼女の姿がわずかに霞み、洋服が幻想的な和服へと変じた。



殺戮と破壊の女神が降臨した。
微かな衣擦れと劈く悲鳴を楽曲とし、艶やかな真紅の衣を、彼女は纏う。
冷たく笑みながら、降り注ぐ赤い雨の中で、軽やかに踊る。

美しくも恐ろしい舞を。


東京の弁財天を祭る七福神関連の神社が、一斉に霊威を失った。
その中でも中心に近い、中央区の銀座稲荷神社に、今生にて東京を護った者たちが集っていた。

「どうなさるおつもりで? 弁財天といえば、かなりの神格ですよ」

当座の代用として、とりあえずの結界を張りつつ、呆れたように御門が視線を向ける。
その訊ねているのか責めているのか微妙な口調に、流石の龍麻もしばらくは返答に困っていた。

それでもどうにか、口を開く。

「とりあえずは東京を護るさ。まずここの結界を拠点として、四神による護りの陣を敷いてくれ。あとは……この中で神系は、霧島くんとさやかちゃんと比良坂だったか?」
「そうですが、彼は止めた方が……」

チラと横目で対象者を眺め、珍しいことに、御門が言いよどむ。
気乗りしなさそうに、龍麻も頷きながら続ける。

「ま、ね……下手に本格的に覚醒したら大変だ。皮を剥がれた牛を投げ込まれても困るからな。じゃあ張った結界を、さやかちゃんと比良坂だけで、人柱風になって、強化しながら維持してくれ」
「では、あとは僕が行くから、お前が結界支えていてくれ」

龍麻が結論付けると同時に、壬生が言った。
それは常の無表情に見えながらも、決意を秘めた強い意思が宿っていた。

「おい、それはちょっとまずいだろ」
「壬生さん? 率直に申し上げますが、救出は龍麻さんの方が適任ですよ」

龍麻と御門が止めようとするも、壬生は聞き入れる様子はなかった。そもそも彼は、自分の出した結論を曲げたことが、一度たりとも無かった。

「かもしれませんね。ですが、彼女がああなったのは……僕の責任です」

彼の意志を曲げられるものは、基本的には存在しない。
そして今、彼は静かに……、だが、嫌になるほどキレている。

悲しいくらい理解している龍麻は、頭を抱えて座り込みたくなる衝動を必死で抑えていた。


ここで彼を止めるには、本気で闘って動けなくするしかない。

だが、壬生相手では、必ず勝てる自信など無かった。そして、勝ったとしても、満身創痍になっているに決まっている。その状態で、神を降ろした『彼女』を止められるとは思えなかった。

龍麻はしばらく悩み、それから、ある結論を出した。
それは、非常に好みの方法でもあったため、採用することにした。

『全てを壬生に押し付ける』


既に背を向けて歩き出していた壬生に、声をかける。

「くれは」
「まだ何か用が……え?」

初めて本当の名を呼ばれ、虚を衝かれた壬生は立ち止まる。
出会った時から、ずっと『もみじ』と呼ばれつづけていたから。

「手」

ゆえに、思わず素直に差し出してしまう。
それに自分の手を重ねた龍麻は、宣言した。

「壬生 紅葉。黄龍が力、しばし汝に譲渡せん」

膨大な量の金の光が、龍麻から壬生へと流れていく。
それは黄龍の器たる全て。龍脈を制御する力から、黄龍を降ろす資格まで。

「うっ」
「壬生!?」

胸元を抑え膝をつき、荒い息で苦しむ壬生に、何人かの仲間が駆け寄る。
彼の身体からは、金の光が溢れていた。まるで容量を超え、耐え切れないかのように。

「龍麻!! 無茶だ。ひとりの人間に陰陽の王龍の力なんて」

如月が声を荒げて、龍麻に詰め寄った。
それ程に、今の壬生の状態は危険ということであろう。

「召 童子切安綱」

その抗議には構う素振りもなく、龍麻は一言唱えた。
今の主の召喚に応えて、その手に、強き念を持った妖刀が現れる。

「安綱、頼む」

鞘から抜き、そう呟くと、龍麻は静かに刀を下ろした。
抜き身の刀を、苦しむ壬生の背に。

「ひーちゃん!?」
「おいッ!!」

悲鳴があがる。
だが、生じた現象は、皆の想像とは異なっていた。

スッと壬生の身体に刀が吸いこまれる。
水面に石が入ったように、僅かに表面が揺らいだだけ。
血も出ない。ただ体の中に収まるように、ゆっくりと入っていく。
それとともに、溢れ続けていた金の光が徐々に弱まっていき、そして消えた。

いまだ苦しげな息の壬生に、龍麻が呑気に話し掛ける。

「鬼の力が篭った妖刀だから、俺の――――陽龍の力は殆ど封じられるはず。普段とそんなに変わらないだろ」
「ああ、今は。……さっきは死ぬかと思ったけどね」

非常に恨みがましい壬生の声に、全く気付かないフリをしつつ、彼は説明を続ける。

「願えば、それはどくから、力が使えるようになる。
双龍の力――亜里沙の意思を目覚めさせるに使うもよし、弁財天の強制封印に使うもよし、……殺すのにも」

最後の言葉に、その場の空気が凍りつく。
殺気に満ちた瞳で睨み付けてくる壬生を平然と見返し、龍麻は続けた。

「できる事なら何とかしてくれ。俺は、嫁にするなら葵か亜里沙か雪乃ってくらいには、好きなんだから」

その言葉の強さから、彼が本気であることがわかった。そして、『弁財天を相手にする』ことが、それほどに困難であることも。
あくまでも不承不承といった不機嫌な表情ながら、壬生は頷く。

「当然だ。自分の命に代えてもとかもしないさ。それをやったら、彼女が悲しむ」
「言ってろよ。じゃあ気を付けてな。相手は神なんだから」

ひらひらと呑気に手を振る龍麻に背を向け、ふらついた様子ながら、壬生は歩き出した。
目的の殺戮現場へと。

その背が視界から消えるまで眺めていた龍麻は、仲間を振り返り、軽く頭を下げる。

「じゃ、護ってね」

スタスタと結界の中心へ向かう彼に、何人かが驚きの声を上げる。

「おい、龍麻!」
「今の俺は運動神経が良いだけの一般人だよ、マジで」

一切の力を譲渡したゆえに。
氣を練ることさえも不可能。

平然としたままの『元』黄龍の言葉に、仲間の幾人かは蒼白となる。
言い方は悪いが、壬生は、龍麻の代用品となれる。龍麻が死しても黄龍の力は壬生が受け、壬生が死した場合は『本体』に影響は無い。

だが、今の壬生は黄龍であり紫龍。もしも、壬生が弁財天に致命的な傷を負わされ、命を落とすことがあれば、彼は陰陽の龍の力を抱えたまま、この世から消えることになる。
柳生らの起こした事件により、未だ龍脈が安定しきらないこの地において、絶望的な結果をもたらすことが容易に想像できる。

完全に覚醒した四神の揃う今でさえ、天変地異は免れない。

――――だが、最早打つ手はない。
当人が納得の上で、その力を預けてしまったのだから。

彼らに出来る事は、仲間の生還を祈ることだけであった。


奥まった路地裏に、壬生は足を踏み入れる。
『認識しない』という結界を張ってあるのか、集中しなければ、そこに路地に続く道があることに気付かなかったであろう。

数歩進んだ壬生は、嗅ぎ慣れた、吐き気を催す匂いに眉を顰めた。
多人数分の新鮮な血と死の臭い。

軽く頭を振り、再度奥へと進む。
突き当たりでは、凍りついた表情の藤咲が座していた。ただ石像のように、微動だにせず佇んでいる。
その周りには、肉塊やら内臓やらが、無造作に転がり、グロテスクなオブジェを形成していた。

それらを無表情に、だが、僅かに怒りを込めた目で見遣り、壬生は小さく呟いた。

「心は、今争っている最中か。安綱……一瞬だけ出てくれ」




何もない世界、上下も左右も光も存在しない空間に、ふたりの女性がいた。

「もうやめて!! あたしはこんなことしたくない!!」
「……何を迷う? 全てを殺してしまえばよかろう。こやつらは下賎な人間の分際で、お前を汚そうとしたのだぞ」

「ここかな」

言い争う美女たちの元に、緊張感に乏しい声が届く。
思わず動きを止めた彼女らの側にて、見慣れた人物が具現化していく。

「壬生!」
「ほう? 人間がよくぞここまで……」

弁財天が感心したように呟く。
それも当然のこと。

この空間は、彼女が作り出した強力な結界の中に存在する。内面的な宇宙ともいえる閉ざされた空間。
彼はそれを、破壊するでもなく、ただ侵入してきた。

冷ややかに彼を眺めるうちに、何かを思い付いた様子で、弁財天が嗤う。
審判者の瞳で、口を開く。

「のう、想い人よ……そなたもこやつらと同じく、いや、有能さから考えれば、更に汚れし存在と言えような」
「やめてよッ!! 壬生に何の関係、あぁッ……」

弁財天の衣が、藤咲の自由を奪う。
己が衣に拘束された依代を、薄い笑みと共に眺め、闖入者に対し、なおも問いかける。

「正義の名の元に、人を殺す。そこに、真の正義など存在すると思っているのか?」

女神は責め立てる。
人が人を極刑でもって裁く――――拳武の存在の、本質的な矛盾を。


対する答えは、肩を竦めた無表情。

「さあ、知らない。興味も無い」

実際、彼はこの問いに、いい加減厭きていた。
幾度問われたかのも、もうわからない。

己が思想、属する組織の理念、それらを『信念』を抱え闘う敵は、すぐにこの種の問いを投げてきた。

『何を以って正義とするのか』
『貴様らに人を裁く権利があるのか』
『人を殺す貴様らの罪は、誰が裁くのか』

己の属する組織が世界を救おうとしていると本気で信じ、その敵を『罰して』いた少年は叫んだ。
己が復讐のために、僅かでも関わった人間を幼子に至るまで全て殺し、拳武の裁きの対象となった青年は、最期の瞬間にそう問うた。
殺しを否定し、裏家業ながら護衛だけを引き受けている男は、怒りの表情で凄んだ。

壬生の答えはいつも同じ。
そんなことは――――知った事ではない。

「何?」
「み、壬生?」

意表を突かれたのか、藤咲を捕らえる布が緩んだようだ。
ふたりとも同じ表情で、首を傾げる。
驚きと――戸惑いの色で。

「そんな暇な事、考えたこともない。僕が暗殺者を選んだのは、単に効率が良いからだよ。安定して、母を養う事ができる……僕の個人的都合で選んだ道だ。理想も正義も知らない」

対して壬生は、無表情のまま、いつもと同じ答えを返す。
強がりでも何でもない、彼は本当にそう思っていた。

人を殺して悔やんだ記憶も、恐怖に震えたことも無い。よく聞く話の如く、幾ら洗おうと血の取れない手を冷たい水で洗い続けた事も無ければ、胃の中が空になるほど嘔吐する事も無かった。
また、逆のパターンである殺人嗜好――――血に狂い、殺しに酔いしれ、死に傾倒したこともない。
彼にとって、人を殺すこととは、本当にただの仕事。コンビニでレジを打つこととなんら変わりはない、ただそれよりは割の良い仕事に過ぎない。

あまりの返答に、さすがの女神も絶句する。
殺人狂でも、信念に殉ずる志士でもなく――――ただ、仕事と割り切っているとは予想もしていなかったようだ。

「で、では、わらわは愛欲を司る者……。そなたに至高の快楽を与えようぞ」
「いらない。僕が大切に思うのは、弁財天の宿星を持つ者ではなくて、藤咲亜里沙自身だ」

狼狽しながらも放った、もう一つの誘いに対しても、壬生は、逡巡もせずに即答する。
そして、藤咲の方に手を差し伸べ、彼にしては穏やかに語りかける。

「藤咲さん、帰ろう。あの連中のことは自業自得だったし、実行したのは君ではなく弁財天だ。気にすることはないし、どうしても気になるのなら、御門さん辺りに記憶を消してもらおう」

内容は、あまりに身勝手で、だが、藤咲のことだけを気遣って。
しばし呆然としていた女神は、声を上げて笑い出した。

「ほほほほほほ、これは良い。ここまで愛されれば女冥利もつきようというもの。
わらわとて、これほどの経験はないわ」

今のうちに攻撃できないかと観察していた壬生だったが、あまりの無防備ぶりに、その気も失せてしまった。
それほどに、心底可笑しそうに、彼女はころころと笑い続ける。


やっと発作が収まったらしく、女神は目に涙を溜めながらも笑いを止める。
余韻は残っているのか、稀に思い出したように小さく笑ってはいたが、壬生を見据えて問い掛ける。

「そなたも不思議な男よな。殺人など、なんとも思っていないのに、その娘には、人殺しをして欲しくないか?」
「彼女が苦しむからね」

あっさりと――全ては藤咲の為と断言する。
その言葉に、女神の笑みは更に深まった。

笑顔のままで、彼女は、衣の裾をそっと摘んだ。

舞の予兆と見て構えかけた壬生らに対し、黙って見ておれ――と、威厳の戻った瞳で告げる。
そう聞いても警戒心をとかないままの彼らの姿は、既に視界に入っていないようで、女神は再び一心に踊る。

但し、今度は結果が異なった。

まずは、路地裏に存在した塊たちが、この空間に現れる。
衣が舞い装飾品が涼やかな音を奏でるたびに、先ほどとは逆に、紅が消えていく。まるでビデオを巻き戻すように、塊と化していた人体が、元の形へ戻っていく。

再生された拳武の者たちは、己が身体を信じられないように見つめ、周囲を見回す。
そこに、壬生と藤咲と――女神を認め、騒がしい悲鳴が響くのと、女神が煩そうにその腕を振って、彼らを消し去ったのは、ほぼ同時であった。

「まったく騒がしき輩よ――。奴らはれっきとした本人であり、正真正銘の人間。死の直前まで刻を登ったまで。記憶を消すことも可能ではあるが、敢えて残しておいた」

目を丸くするばかりの藤咲とは異なり、壬生は瞬時に状況を理解した。
優雅にかつ丁寧に、だが、やはりどこか慇懃無礼に一礼をする。

「感謝いたします。では、なんの躊躇いもなく――彼女を連れ出しますが宜しいでしょうか?」

確認の形をとってはいるが、否定されようが攫って行く。そう目が語っていた。
彼の中では、礼を口にしたその瞬間に、恩を返したことになっている。

「勝手にするがよい。所詮、わらわにそなたは殺せぬ」
「え?」

背を向け、心なしか拗ねたように呟いた女神に、藤咲は首を傾げた。壬生も怪訝そうな表情となる。
くるりと振り返り、藤咲を見つめて、女神は告げた。
愛する者は殺せぬ――――と。

「わらわはそなた、そなたはわらわ。藤咲亜里沙が愛するものは、わらわも愛している」
「ちょっ……と!!」

真っ赤になった己の形質を継ぐ少女を可笑しそうに見遣り、艶やかな華の笑みがほころぶ。
それは娘を見る母のような、妹を見る姉のような、相手を微笑ましく思う、先達の優しい笑み。

「勝手に何を!」
「ほほほ、それではの」

駆け寄りながら怒声をあげる藤咲に対し、笑い声だけを残して彼女は消えた。
まさに、掴み掛かろうとする手が届く寸前で。

「あッ……もう、このこのッ」

消えた辺りを、藤咲は悔しげにグリグリと踏みにじっていた。彼女を見る壬生の顔に、笑いが浮かぶ。
しばらくは、ただ見ていた彼であったが、ふいに背後から藤咲をそっと抱きしめた。

「ちょっと、壬生!?」
「無事で……良かった」

心底安堵したようなその声に、藤咲の頬がカッと赤くなる。
それを隠すように俯いているうちに、ふと、言うべき事に気付いたようだ。

ガバッと顔を上げ、ぐるりと向き直る。
正面から抱き合ったような体勢になってしまうが、その辺りの恥ずかしさに思い当たる余裕はないようだ。

「バカッ!! 何かあったら、どうするつもり!? あんたは冷静な人じゃなかったのッ!!」
「冷静だと思うけど」

しれっと言い放つ壬生に反比例するように、藤咲の語調が強くなる。

「どこがよッ!? ……こんな無茶して」

一旦怒鳴り、それから消え入るような声で続けた。
宿星に――神の力に覚醒した藤咲には、今の壬生の状態が理解できる。

壬生と緋勇、彼らの王龍の力は、陰と陽に分かたれた状態でさえ、人に余る。
なのに、壬生は陰と陽の――大極を宿した完全なる龍の力を使っていた。

それもすべては藤咲の為に。

恐ろしくて仕方がなかった。
涙さえ滲んでいた彼女の頬を、壬生は優しく拭って答える。

「無茶なんかじゃないさ。君を失う事を考えれば、何でもない。さ、一緒に帰ろう」

流石にここまで言われると、絶句するのが普通の神経である。
藤咲も例に漏れず、頬を更に朱に染めて俯いた。

「アンタ……すっごく口が上手かったのね」
「口が上手い? 全て本心だよ」
「そういうのを、口が上手いというのよ」

拗ねた口調の彼女が愛しくて、壬生は微笑んだ。
敵に見せる皮肉な笑みではない。普通の青年のように、柔らかく暖かい表情に変わる。

思わず見惚れた藤咲が呆けていると、壬生の表情が、不意に苦痛に歪んだ。

「ぐッ」
「どうしたの!? 平気!?」

慌てて見上げてくる藤咲を安心させるように、壬生は殊更ゆっくりと説明する。

「平気だよ、黄龍の力が抜けていっただけだから。どうやら龍が、終わったら戻るように設定していたようだ」

そう落ち着いた口調で述べてから、彼はある事に気付いて硬直した。首を傾げて問いかてくる藤咲に、困った顔で説明をする。

「いや、この空間からどうやって戻ろうかと。もう一度強制干渉するには、僕の紫龍の力だけでは辛いかもしれないから」
「なら大丈夫よ」

安心した様子で、藤咲は笑った。
それなら何の問題も無い。弁財天は、その力の全てを彼女に置いていったのだから。己と同じ存在が作った空間から抜けることなど、造作も無い。

くすりと笑いながら、輪郭が一瞬ぼやける。
これも変生の一種。顔形は藤咲のまま、衣装は先の弁財天のものへ変化する。

魂の記憶に従い、彼女は舞う。衣擦れのさらさらという音だけが、その異空間に響く。
空間の砕ける音が響き、浮遊感を感じるのと同時に、風に舞った柔布が、ふたりを包んだ。

ふわりとした感覚がしばらく続き、やがて見慣れた現実の景色が現れる。
そこは惨劇の現場であった路地裏の上空。
衣が羽の如く広がり、彼らは緩やかに降りる。

「戻ったわよ」

壬生を支えて着地すると同時に、藤咲はいつもの制服姿に戻った。
正直勿体ないな――と思った心を完璧に押し隠し、壬生は真剣な表情となり、藤咲の瞳を覗き込んだ。

「で、返事を聞かせてくれるかな」
「え、えッ……、だ、だってあの女が勝手に」

アワアワと狼狽する彼女を愛しげに見つめ、壬生はあくまでも優しく訊ねる。

「君の口から聞きたい。君の声で」

壬生の瞳に――その穏やかな声に、魅惑されたかのように、藤咲は想いを素直に口にした。

「好きよ……紅葉」

龍麻に似ているからではない。
宿星で結ばれているからではない。

拳武の一員でありながら自分とエルを護ってくれた、そして、今また救いに来てくれた彼その人が好きだから。


その言葉に、壬生は破顔した。
冷笑でも嘲笑でもなく、暖かい笑みを浮かべた彼は、藤咲を強く抱きすくめる。
戸惑いながらも、藤咲はその手をそっと、壬生の背に回した。


ただ、彼らは甘かった。
既に現実世界に戻ってきていることを、失念していたのだから。


『君の口から聞きたい。君の声で』
『好きよ、紅葉』

聞こえてきた笑いを含んだ声に、壬生らは硬直した。
ギチギチギチと音がしそうなほどギクシャクとした動きで、視線をそちらへと向ける。

そこには赤毛の青年を抱きしめる、薄茶の髪の青年がいた。
止めてやれよ――――と苦笑する周辺の『全員揃っている』仲間たちを見回してから、彼は続けた。

「ちなみに、さっきの空間ではこう言っていた。
『僕が大切に思うのは、弁財天の宿星を持つ者ではなくて、藤咲亜里沙自身だ』」

京一の目を覗き込みながらの熱演である。
遠慮を知らぬ者たち――雪乃や雨紋、劉といった率直組が、堪らず吹き出した。

「紅葉……」

潤んだ目で、龍麻を見上げる京一。
悪ノリしてしまう辺りが、彼の良い所で、悪い所でもある。


「黄龍の力に……五感を同調させていた……のか?」

あくまでも静かに、だが、深遠なる怒りを漂わせて壬生が呟く。
渦巻いた怒りの氣に、うぉッ――と、頓狂な声をあげて退いた京一と異なり、龍麻は微笑んで答えた。

「五感なんて危ないじゃないか、聴覚を少しだけだよ」

壬生の身体から、ごうごうと殺気が立ち上る。
彼にも一応、恥ずかしいという感情はあったようだ。

「僕に喧嘩を売るとは良い度胸だね」

足を踏み出した壬生の姿に、藤咲は加勢すべきなのか考えて太腿に備えた鞭を触った。
彼女もそれなりに怒っているから。

しかし、鞭を取り出す前に、その手は背後からそっと抑えられた。
振り返る彼女に対し、美里が悪戯っぽく微笑んで告げる。

「大丈夫よ藤咲さん。見てて」
「大丈夫って?」

美里は答えずに、ただ指差す。
龍麻と壬生の既に始まった激闘を。

ふっと壬生の姿が霞んだかと思うと、矢のような蹴りが放たれる。
龍麻はそれをギリギリの所で躱し、当然のように反撃に出る。

いつものように、異様に高度な展開で、原因が低レベルな争いが延々と続くかと思われた。

だが、幾度目かの激突の後、距離を取った壬生は、違和感を感じた。
根拠も無く、ただそれを信じて身を翻す。

「紫暮さん!?」

一瞬前まで壬生の居た場所を、紫暮の拳が通り過ぎる。
龍麻を相手にし、なおかつ紫暮の攻撃を躱したのは、流石と言える。だか、さしもの壬生としても、そこまでが限界であったようだ。

「すまん」

飛び退いた先に待っていた醍醐の拳が、壬生の鳩尾に吸い込まれる。
ちなみに醍醐は、白虎と化していた。

「おお、ふたり目で成功」
「僕まで順が来なくて、良かったよ」

パチパチと拍手をしながらの龍麻の言葉を合図に、気配を消して次の番として控えていた如月が、安堵しながら出てくる。
その言葉に、実際に手を下した醍醐が複雑な表情となった。気絶した壬生に視線を下ろし、彼は遠慮がちに口を開いた。

「なあ……、龍麻」
「なに」

にこにこにこにこ

「い、いやなんでもない」

満面の笑みで見られて、醍醐はそれ以上聞けなかった。
なぜなら――怖いから。

だが、あまりそういった事を気にしない紫暮が、続きを引き取った。

「素直に『疲労が限界に達しているはずだから休め』と言えば良かったのではないか?」
「言っても多分聞かないし」

その言葉に皆が頷き、続いた言葉に、更に深く頷いた。

「俺も言いたくないし」



リーダーの意地っ張りぶりに、皆は納得したようであったが、稀代の陰陽師にとって、その消耗は看過できないようであった。
彼は、ややきつい声で忠告する。

「あなたもさっさと休みなさい。使ったのは壬生さんとは言え、相当量の黄龍の力が使われたようですから、疲労感は来ているでしょう?」

龍麻は素直に頷く。
隠す意味のない相手でもあるし、実際のところ、限界に近かった。

さりげなく壁に寄りかかりながら、お開きにする為の指示を出す。
結界の維持とその消去のタイミング、実際に依代となるメンバーの回復等の判断を下し、最後に首を傾げる。

「で、こいつはどうする? 紅葉は今、一人暮らし同然だから、ほっとけないしな。
本職の看護婦さんと、『僕だけの看護婦さん』ふたりがかりで看病してもらおうか?」

『僕だけの看護婦さん』で、視線を向けられた藤咲は、真っ赤になって俯いた。
百戦錬磨のような外見とは違い、彼女はこういう扱いに慣れていなかった。

その様子に気付いた仲間連中から、冷やかしの声が殺到する。
ますます顔を赤らめる彼女を、小蒔と雪乃が両脇を固めてからかい続けていた。


そちらを優しい瞳で見つめた後、美里がそっと龍麻に寄り添った。
少し背伸びをして、龍麻の額に手を当て、美里は微笑む。

あなたには私が付き添うわ――熱い目で見上げる美里に、龍麻がありがとうと頷く。
確かに流れる暖かい空気に、独り者達がやっかむようなブーイングを飛ばす。

「へッ、お熱いことで」
「お熱いからね」

野次にも、こちらは気にもしない。
この程度の冷やかしで恥ずかしがるようでは、運命で結ばれた二人などやってられないようだ。



「ふぬッ!」

龍麻の住む高級マンションとは異なり、普通レベルのマンションにて、妙な気合が響いた。

細身とはいえ長身ゆえに、壬生にはそこそこの体重がある。
それを長時間担いでいた為、さすがの紫暮といえども、息が少々上がっていた。

「確か……ここだったな」

途切れ気味の声で、壬生の部屋の前にて彼は立ち止まる。
後ろの少女ふたりが、慌てて鍵を取り出し、中に入る。




「本当に平気〜?」
「ああ、伊達に鍛えてはいないからな」

ふたりは少し休んで行くよう勧めたのだが、病人の世話のできない者は、邪魔にしかならんから去るべきだと、彼は頑として聞き入れなかった。

「ホント、ありがとね〜、紫暮く〜ん」
「いや、構わん。壬生は、俺にとっても仲間だからな」

玄関口まで送りに来た舞子に、紫暮は本心から応じる。
本当に、そう思っている。無愛想で不器用な――大切な友人と。


そこに絶叫に近い悲鳴が響いた。

「舞子ッ、氷のうが破けた!!」

は〜い、今行きま〜す――――珍しく焦った様子で、振り返って藤咲に応じる舞子の姿に、紫暮は知らずの内に笑っていた。

「どうしたの〜?」
「いや、正直藤咲のことは、男に媚びているようで苦手だったのだが、なんというか一生懸命だなと思って」

紫暮は、途中で言葉を切った。
原因は舞子が見せた――慈母の表情。

『舞子は稀にだけど、誰よりも大人びた綺麗な表情の時がある』

女性陣が知ったら張り倒されるであろうが、仲間内で誰が好みかを、男連中で語り合ったことがあった。
彼女が居る龍麻とほぼ確定の醍醐は、決定権は無しとされていたのだが、その際に龍麻がポツリと洩らした一言だった。

彼女が大人っぽい? ――――失礼なことに、皆が一様に首を捻った。
但し、醍醐と蓬莱寺だけは、納得したように頷いた。

彼らは知っていたのだろう。彼女のこの顔を。
荘厳でさえある、慈しみの聖母の優美さで、舞子は微笑む。

「亜里沙ちゃんは〜、あの格好が似合ってて〜、好きだからしてるのよ〜。媚びる為じゃないもの〜」

だから、もうそんなこと言っちゃダメよ――頭ひとつ以上は優に大きい大男に、諌めるように優しく諭す。
和んだ気分になり、紫暮は素直に頷いた。

「ああ、すまなかった。では、あとは頼んだぞ」
「任せて〜」

にっこりと微笑むその笑顔は、いつもの無邪気な少女のものへと戻っていた。
ぽやんとした空気で紫暮を見送り、舞子は腕まくりをして、張り切って部屋へと戻る。


大好きなお友達の――――

「舞子! 熱を冷やそうと思って、濡らしたタオルを顔に乗せたら、すごい苦しそうなのッ!!」

――――恋人の命を護るために。