「来須狩夜、入ります」
任務の呼び出しを受け、執務室を訪れた来須は、首を捻った。
上司がその場にいるのは当然のこと。だが、対ヴァンパイア専門ともいえる青年が、その隣にいた。
《魔女の鉄槌》―――Malleus Maleficarum、通称、M+M機関という彼らの基本は単独行動。独自の事情で動く彼らは、あくまでも同僚であって仲間ではない。ゆえに1+1は2にさえも届かない。
「心配するな。共同作戦ではない」
「詳細は私の方から説明いたします」
にこやかに青年が引き取る。
笑みを絶やさぬ、眼鏡の似合う穏やかな青年だと思う者も多いであろう。
だが、観察力があれば、必ず気付く。
その口元が笑いの形をとっているだけであることに。
その眼鏡の奥の瞳が、決して笑わぬことに。
来須は、この機関に属し数年が経つ。が、この青年の容姿は、初対面のときより変化していない。
「私がいつものように吸血姫の情報を追っていると、二つ掴めたのです」
彼が追うのは、とある姫君のみ。
ほかに滅ぼすのは、誤情報または、ついでに出会った魔に過ぎない。
来須としても、彼の事情など知らぬし、興味もない。
少々対象が狭すぎるが、極めて優秀なハンター、その認識があれば、十分であるから。
「双方ともに、女性のようでした。
片方は黒髪の少女、片方は金の髪の女性」
黒と金――彼が追うのは、黒の姫君と呼ばれる吸血鬼であることは有名である。
「あの人は当然私が受け持ちますが、問題はもうひとり。一年ほどその近辺で生息しているというのに、大規模は無論のこと、少数の従者さえも作っていないようです。ですから――」
私としては、放置しても構わないのですが―――そう呟いた言葉は彼の本音のようであった。
彼は、対象人物以外、魔であっても、吸血鬼であっても、全く関心を抱かない。
だが、隣に立つ人物は違う。魔を狩る執行者たちの集う機関の長。彼は、全ての魔の存在を認めない。人間以外を否定して、今まで生きてきた。
「できるわけなかろう!!汚らわしい吸血鬼の存在など、抹消すべきだ!!」
「あくまでも、個人的な見解ですよ。己が属する組織の性質くらい理解しております」
語気荒く怒鳴りつける長に対し、苦笑しながら、青年は応じた。
勿論、黒の姫君の待つ方へは己が向かう。ではもうひとりは誰が狩りに行くのかと、彼は続けた。
「私の情報に引っかかっただけはあって、金の姫君も、どうやら『堕ちし者』ではなく『生まれし者』のようでして……。生半可な人材では、太刀打ちできないでしょう」
「『闇に生まれし者』が、いまだ居たとはな……」
来須ですら驚きの声をあげる。伝染病のように増えていった『人間が吸血鬼になったモノ』は数多くても、元より――生まれた時から、吸血鬼であったモノは、最早ほとんど存在しない。今現在確認されていたのは、眼鏡の青年の追う黒の姫君くらいであったはずだ。
「だから貴方にお任せしたいのです。貴方は正統派にして、万能系のエクソシスト。どのような相手にも安定した戦闘力を発揮できる」
お願いできますか――――そう首を傾げた青年に、来須は躊躇うことなく頷いた。
考えるまでも無い。
一匹でも多く、闇の者たちを狩る。
それが、己に残された、唯一の生きる理由なのだから。
「どこが『少しだけ』気になるのやら……」
書類に目を落としていた男が苦笑を洩らす。
そこは、とある都立高校の職員室。男は、その学校に属する生物教師。
立場的には、彼がその場に居ることは、おかしくはない。だが、時間帯が異常であった。
深夜ともいうべき夜の十一時過ぎにひとり。その上、明かりを点けることなく、暗闇の中で手慣れた様子で椅子を引き、音を立てずに座る。
「泣きながら最期の仕度を整えるくらいならば、止めればよかったものを」
彼が目に留めるのは、書類の文字の滲んだ部分。
特に、ある五人の書類に多いことから、涙の跡であろうと容易に想像できた。
念の為と、彼に書類の不備の確認を頼んだ女性が、冬休みに頻繁に来校し、書類を整えていたことは気付いていた。まるで己の存在が消えることを覚悟していたかのように、必死に一月二日までの間、内申書と格闘していた。闇の中でも高位にあたる旧き血族の者とは思えないほど、地道に真剣に。
彼女は己の行為の矛盾に気付いていたのだろうか。
闇の再来を、人間にとって恐怖の日々を望みながらも、生徒たちの小さな幸せを願っていた事を。
人間に見えるはずの無い暗闇の中でチェックを続けながら、彼は元同僚の現在の状態を思い描いていた。
強力な光に倒された彼女の身体は、崩壊しかけている。
世界でも、五本の指に入る《心霊治療者》である岩山たか子の力と、特殊な薬草から調合した薬によって、どうにか生き長らえている。
崩壊の理由は単純。生きようと思っていないのだ。
彼女は、自分を殺してくれる者を求めている。
これまでの彼女は、永い刻を憎悪と復讐の念を抱いて生きてきた。ただ、人間たちを滅ぼす事だけを考えて。
それなのに、人に紛れて機会を窺ううちに、復讐の対象に触れ過ぎてしまった。
人間に復讐したい心と、人間を愛しはじめている想いに葛藤し、苦しんだ。そして決定付けたのはあの男。獲物であり利用すべき存在であったはずの黄龍の器を、彼女は愛してしまった。
遥かに勝る力を持ち、冷徹に仲間を選択した筈の緋勇が、彼女に殺す機会を与えたことが決定となった。破れるものだと覚悟していた彼女に、緋勇に殺されるのならば仕方が無いと闘いに挑んだ彼女に、緋勇は機会を与えてしまった。
自分が倒され、闇を望む者にその身を与えたなら、どんな事態が待っているかを理解した上で。その一瞬だけは、奴は人間の世界よりも仲間よりも、他の総てよりも彼女を取った。
その優しさは残酷だった。実力差により、倒せないのならば問題はない。彼女は己の力不足を悔やむだけで良かった。
だが、動きを止めた緋勇を殺せなかったことで、彼女は気付いてしまった。もう人間を憎んではいられないことを。たとえこれから助かっても、目的としてしがみついていたはずのものは既に無いことを。生きる意味さえも失われたと理解してしまった。
「たまに見せた優しさが、何よりも残酷だったとは……皮肉だな。緋勇」
「ハァハァハァ―――。誰か!!」
悲痛な顔で、走りつづけていた女性が、周囲を見渡してやっと止まる。
捲いたようね――と小さく呟いた直後に、恐怖で硬直する。かすかな安堵の色が、瞬く間に消えた。
「クックック……。どうしたんだ?そんなに脅えて」
笑いながら現れたのは、先程見かけた恐怖の原因。
知らない顔であった。黒ずくめの不吉な姿に、金ともオレンジともつかない髪の男。見覚えなどない。
それなのに、目があった瞬間に、アレから逃げろと、警告の声を聞いた。アレに関わってはいけないと、全身全霊で理解した。だから、必死で逃げてきたのに。
「あッ、あんた、誰ッ!?」
叫びだしたい恐怖を抑え、女性は問い質す。だって自分は何もしていない。彼の事など何も知らない。
なのに、どうして彼の瞳には、こんなにも昏い憎悪が宿っているのか理解できない。
「オレが、誰か――って?」
ほんの一瞬だけ、男は黙り込んだ。意外そうに、呆気に取られたように。
直後、狂ったように笑い出した。
「アーハハハハハッ!!こいつは、傑作だぜ。じゃ、聞くが……、お前は誰なんだよ」
ますます理解できなかった。彼女の事も知らず、それでも追ってきたのか。狂っているのだろうか。
今のうちに逃げようと、一歩足を引いた彼女は硬直した。哄笑は止んでいた。男の瞳には、憎悪と怒りだけが存在した。
「オレたち人間様の社会に紛れ込んでいる―――お前は」
男の言葉と同時に、彼女の腕が弾けとんだ。信じられない痛みの中、男が大型の拳銃を構えていることに気付き、彼女は絶叫する。
「い……いやァ」
懸命に逃げ出そうとする足が、なぜか縺れる。まるで、まともに繋がっていないかのように。
「身体が――」
半ば這うように、自由にならない身体を動かして、逃げようとする。
彼女はそれでも気付かない。
吹き飛ばされた腕から、血が流れないことにも、その足のあちこちが、とうに腐り始めていることにも。
「オレの仕事は、お前らみたいな《人ならざる者》を狩るコトだ」
背後からの言葉を理解する余裕はなかった。
もう一度銃声が轟いたあとには、女性の身体は残っていなかった。
「八年振りの日本だが、こんな化け物が、幅をきかせて歩いているようじゃ、また、当分、滞在する事になりそうだ」
男――異端審問会の情報より、日本を訪れた来須は、ひとり呟いた。
《亡者:レブナント》フランス語で《再来する者》を意味する化け物。中には、蘇った事さえ、知らずにいる者もいるという。今の女は、まさにそれであろう。
「エイメン」
自覚を有さぬ死者に、しばしの黙祷を捧げてから、彼は眉を顰めた。
東京の霊的汚染は、予想よりも深刻であった。今の女も、おそらくは通り魔の被害者あたりが、氣の乱れにより屍鬼化したのであろう。
霊的汚染は、現在進行中というよりも混乱直後、台風一過のような状態であった。
が、日本の霊的機関からは、そのような報告は成されていない。
もっとも、世界的に見ても、日本はトップクラスに霊的加護が厚く、かつ、民の信仰心の『ない』特殊な国である。
それゆえに事件は起こりにくく、防ぎやすい。その印象が深く浸透しているため、ここ数年の無報告を訝しむ国も機関もなかった。
だが、さすがにこの乱れは―――、そして、その規模に反して、この程度の事件しか起きていないことは異常だ。
解せぬ疑念を抱えていたせいか、周囲への注意が疎かになっていたのかもしれない。
――可哀相に
静かに掛けられた声に、来須の身体が強張る。
気配など存在しなかった。いや、それは今もそうだ。だが、黒衣の青年がそこに居た。
整った顔立ちに表情を浮かべず、彼は続ける。
「今の女性――気付いていなかったのでしょう?放っておいても、家に帰り、悲嘆にくれる家族を見たら、自覚したかもしれないのに」
懐の霊銃を何時でも抜けるように緊張しながらも、聞き逃せぬ言葉に、来須の目は鋭さを増した。
『かもしれない』だと?
希望的観測でどうする?死者は、た易く生者を羨む性質を持つ。
「己が既に死んでいることに気付き……他者も連れて行こうとしたら、どうするつもりだ?」
「その時こそ、貴方が滅せばいいでしょうに。まあ、人の仕事に口を出すつもりはありませんので、御自由に」
静かに告げると、どうでもいいと言わんばかりにあっさりと、青年は背を向けた。
だが来須としては、そうはいかない。彼は『仕事』と言った。
一瞬で取り出した銃を、青年の背に突きつける。
安全装置を外す音が、静かな空間に響いた。
「貴様、何者だ?」
「一応は人間にあたりますが」
肩を竦めて、青年は苦笑した。銃の感触に脅えることもなく、平然としたままで。
「ふん、動く屍者に、それを滅する者を目撃しても、そして銃を突き付けられても動じんのが、昨今では、普通の人間というのか?おまけに、なぜ仕事と知っている」
――普通と申した記憶はございませんが。
更に険を増す来須の表情にも悪びれることなく、彼は静かに笑った。
来須の額に走った青筋に気付いたのかどうか、それからやっと一応の説明を行う。
「知人に陰陽師の頭領がおりますので、大体のところは……ね。妖を霊銃にて滅ぼして廻ることを、趣味としている方が居るとも思えませんし――」
青年は振り向いて、微笑んだ。
そして、話を変える。脈絡の無さそうな、その実、非常に関連のある事を、頬を指しながら言い放つ。
「その傷痕、痛そうですね。猫に引掻かれたのですか?」
数少ない屈辱の記憶を刺激され、来須の頬が紅潮する。
満月の中自分を見下ろし、止めも刺さずに去った人狼の顔が脳裏に浮かび、銃を握る手に力がこもる。
だが、吹き上がった殺気に恐れる風もなく、青年は己の頬を軽く触れる。
そこに殆ど消えかけているが、自分と同じ傷痕があることに来須は気付いた。
「治るのに結構な時間が掛かりますよね、これって」
同意を求めるように首を傾げるその姿に、邪気はない。
だが来須の背には、戦慄が走った。
治療を任せたMM機関嘱託の魔法医師は、この傷は一生消えないと断言した。
深さの問題ではなく、行った相手が悪すぎるという理由で。
『酷いものだな。少々の霊力の持ち主程度では、癒えることすらない。
お前の霊的資質は相当なものだから、塞がりはするだろう。だが、この傷痕を完全に消すことは不可能だ』
医師の言葉は正しかった。
その後も、死にそうな目にもあった。遥かに深く傷付けられたこともあった。だが、その傷が消えても、頬と背の三条の傷は、残り続けた。
技術の熟練により、知略により、魔を滅することは可能ではある。
だが、それでも絶対に覆らぬ真実として、機関に所属し、最初に叩き込まれることがある。
『人である以上、生き物としては魔に敵わない』
だから己を過信してはならない。
深すぎる傷を負ってはならない。霊的に傷付けられた傷は、霊力によってしか癒せない。傷付けた相手との差が大きければ大きいほど治りは遅い――――最悪は、治りもしない。
なのに、この青年の傷跡は、ほぼ消えている。それは、神の名を冠する魔であるあの男と、同格以上の霊位であることを示している。
「もう一度だけ聞く。貴様は何者だ?」
今度は正面から――額に当てられた銃口にも、青年の表情は変わらない。彼は笑みを浮かべたまま答えた。
「ただの高校生ですよ」
言葉が終わると同時に、青年の瞳が金に変じた。
その瞬間、来須は立っていられないほどの揺れを感じ、平衡感覚を失いかけた。
だが、それでも精神を集中し、既に踵を返している青年の姿へ、銃の照準を合わせてトリガーを二回引く。
「クッ」
だが、倒れこみながら放った銃弾は、青年の背に届く前に炎に包まれた。
「失礼します」
唖然とする来須を振り返る事なく、青年は静かに歩いていく。その姿が完全に闇に溶けるまで、来須は動く事ができなかった。
「犬神先生、おはようございます」
これ以上ないほどに爽やかな微笑み。礼儀正しく頭を下げた秀麗な顔立ちの青年の挨拶に、先生と呼ばれた男の全身を、寒気と怖気が隈なく駆け巡った。
「なにを企んでいるんだ、緋勇」
珍しく朝から機嫌の良さそうな教え子の様子に、真神の生物教師は顔を顰め、嫌そうに応じた。
相手の腹黒さから判断すれば、当然の反応であった。そして、それは正しかった。
ひどすぎる、よよよ――と泣き崩れた振りをする生徒を、教師は冷たい目で見続けた。
やがて、この相手に演技する無駄に気付いたのか、彼は何事も無かったかのように立ち上がる。
「そんな瑣末事よりも先生、事件です。大変な人が来ていますよ」
「お前に対し、奇跡認定委員でも来ていたのか」
さぞかしご利益の薄そうな奇跡だな――素っ気無く呟き、肩を竦めた教師に、教え子は『腹真っ黒』としか言いようの無い、嫌な輝く笑顔で首を振る。
「惜しい、そして残念。ベクトル正反対、対象はア・ナ・タ。
先生のお友達に会いましたよ。色素の薄い、相当な腕の霊銃使いの方に」
鼻先に指を突きつけ『ア・ナ・タ』のところにて、その指を左右に振る徹底ぶりである。余程、楽しいようだ。
あの公園を夜通ったら、面倒事に遭遇するものだと認識しておきます――などと、笑いながら続けていたが、それは碌に教師の耳には入らなかった。
「なん……だと?」
態度ではなく先の言葉の内容に反応し、殺気すら滲ませながら、教師は真剣に問い返した。だが、その迫力に動じもせず、生徒は顔面に『他人の不幸は蜜の味』とデカデカと貼り付けながら、楽しそうに続けた。
「やたら魔を憎んでそうな印象でした。頑張って下さい」
スキップでもしそうなほど軽やかな足取りにて、能天気に言い捨てていった教え子の後ろ姿を睨みながら、教師は記憶を手繰った。
そう深く潜らずとも、該当する人物が浮かぶ。
奇跡認定委員の真逆。その言葉から連想するのは、魔を審問し、そして裁く法王庁の陰を担う機関、異端審問会。何が審問だと、始末するだけだろうと、あれは埋葬機関だろうと、陰口を叩かれる、処刑者たちの集まり。
本名かどうかは知らない。いや……その名に込められた言霊から、偽名であると断じても良いだろう。夜を狩る十字架――来須 狩夜と呼ばれる霊銃使いにして、高位の術を行使する異端審問官を、確かに知っていた。
満月の夜に、獣人に襲い掛かってくる間抜けた審問官が存在するなど、いざ襲われてみるまでは考えたこともなかった。が、あの男はそれでもどうにか出来ると考えるだけの実力と、そして認識した魔を逃すことができない程の事情とを、有しているのだろう。
強力な法力に、鍛え上げられた体術、古き刻を経て力の宿った武器、なによりも苛烈な魔への憎しみ。
悠長に手加減などできる相手ではなかった。
かと言って、満月という血の昂ぶりと能力の増大は、容易く人を動かぬ肉塊へ変えてしまう。
結果として、己にできたことは、ただ死なせないことのみ。
それだけを念頭に、叩きのめした。やっと動かなくなった審問官の身体は、どこもかしこも血に塗れていた。あまりに深く抉った背と頬の傷など、一生癒えまい。恨まれていることは想像に難くない。
「むしろ……俺が狙いならば良いのだがな」
彼は、思わずぽつりと口にしていた。
緋勇は彼女の生存を知らない。ゆえに、この近辺に『唯一』存在する強力な魔である犬神が、その人物の目的だと思ったのであろう。だが、そもそも異端審問会が最も強く嫌悪する種族は、有名である。欧州でこそ最も盛んに活動する彼らは、別名吸血鬼狩りとまで呼ばれるのだから。
来須は、手にしていた煙草に火をつけ、病院を見上げた。
間違いなく、獲物はそこに居るはずであった。
「マリア・アルカード。聖母の名を持つヴァンパイアか。――ふざけた存在だな」
あのハンターの情報から、新宿周辺の施設にて、この二年以内で入れ替わりのあった存在を調査した。
該当するものは、すぐに見つかった。
隠す気も無いのか、堂々とArucard――Dracuraを名乗っていたソレは、ふざけたことに、ある高校の教師をしていた。
が、少し前に『行方不明』となっていた。
そしてすぐ近くにあるこの桜ヶ丘という病院に、確かに弱った闇の気配が感じられる。
闇の者を受け入れるだけのことはあり、病棟全体が結界に包まれてはいたが、有事に備えてのものではないらしく、大した強度ではない。
彼ならば、破る事は可能であった。
結界を破壊した直後に偽装用の結界を展開すれば、術者が気付くまで三十分程度の時間は稼げるであろう。
「これほどに弱った状態ならば、アルカードの名を冠する王族級であろうと――――滅ぼせる」
懐の霊銃に触れ、彼は病院の敷地内へ足を踏み入れた。
「ここは。……そういえば、入院していたのね」
夕刻、目を覚ましたマリアは、しばらく天井を呆と見つめてから呟いた。
助かってしまったのだ。折角、死ぬ事ができたかもしれないのに。愛した男の手によって。
「何故、ワタシを救けたの」
誰も居ない部屋で、ひとり言葉を紡ぐ。
あの瞬間、彼女は紛れもなく幸せだったのに。自分の名を叫び、必死となった彼の姿だけで、
『確かに、人は弱い。だが、護るべきものがあれば、強くも生きられる生き物なんだ』
人を庇い続けた狼は、首を振った。許さないと。あの愚かな欲深い存在を認めないと、嘲笑した彼女を諭すように。
何故、そんな哀しい瞳をするのか。何故、彼は人間たちの味方をするのか。
わからない。―――わかってはいけない。
認めたら、今まで生きてきた事の意味がなくなる。想いが嘘になる。
『見失ってしまった真実なら――分からなくなるほどに幸せな虚構なら――、虚構を選んでも、良いのかもしれませんよ。選んでも、きっと誰も責めないでしょう』
懸命に耳を塞ぐ彼女に、『彼』は優しく言った。
頷きたかった。あの紅い満月の夜も、彼の差し出す手を取り、戻りたかった。それでも選んだのは、真実の方。黄龍の器に襲い掛かり、そして倒された。
だから……あのまま消えたかったのに。
「あの〜、すいません」
不意に、どこか呑気な声が、病室の外から掛けられた。遠慮がちに、アルカードの名を口にする男の声に、自分がそうだと、マリアは頷いた。
「そうですか。いやァ、それは良かった。捜したんですよ」
途端に空気が変質していく。
含み笑いとともに、熱気のようなものが吹き付けてくる。
「Miss.ウピールチカ……吸血姫!」
「――――――ッ!!」
ウピールチカ。その言葉を使う立場は、そうない。
なによりもこの熱気が、殺気というものだということは、彼女には理解できた。『彼』のおかげで。
響いた爆発音。発射されたのは、銀の弾丸。同時に幾重にも行使されたのは白の法術。高位の司祭クラスにしか使うことのできない退魔の術。
「アーハハハハッ。あっけねェなァ、おいッ」
狂ったように笑う男は、確かに口にした。異端審問会の名を。
M+M機関。その噂をマリアは耳にしたことがあった。
「聞いた事があるわ。魔女や悪魔などを専門に狩る者たちがいる事を」
姿なき女の声に、男は眉を顰めて宙を睨む。
魔の気配が、移動したのを感じ取り、口元を歪めた。
「ほう……、雑魚とは違うって訳か」
上か―――と。笑みらしきものさえ浮かべて彼は呟いた。
屋上への扉を開け、男――来須は目を細める。沈む夕日の眩しさに。朱に染まった空間に。
「黄昏は、昼と夜の狭間。魔物たちが、うごめきだす時間。貴様ら―――闇の眷族たちが這い出てくる時間だ」
呟きに込められた感情は、徐々に力を増した。
そうだろ?Miss.吸血姫――同意を求め、銃弾を放つ。
だが、魔を滅する聖なる弾丸は、マリアには当たらない。全く異なる場所から、彼女は姿を現した。
「どこを狙っているの?M+M機関の《狩人》の質も堕ちたものね。その程度の腕で、ワタシが斃せるとでも思ったの?」
命が惜しかったら出直してくるのね――と。今なら見逃してあげる――と。
静かに告げる高位の魔に対し、お見逸れしたよ――と、審問官はおどけるように応じた。
「御挨拶が遅れて申し訳ない。異端審問会から派遣された来須 狩夜だ。審問会の命により、マリア・アルカード―――アンタを狩らせてもらう」
坊やにできるかしら?
嘲笑を浮かべようとしたマリアであったが、気付いた。身体が動かない。
呪縛されたかのように、力を揮うこともできない。
「さっき撃った弾は、アンタに向けて撃ったんじゃない。白魔術の楔として撃ち込んだのさ」
勝ち誇るでもなく、来須は静かに語った。
瞳だけが殺意に燃え、ゆっくりと銃の狙いを定める。マリアの額へと。
「《縛鎖の薔薇》と呼ばれ、古来から吸血鬼の動きを封じるのに用いられたモンだ。高位の吸血鬼でも、その術から抜け出すのは至難の技さ。……だろ?」
嬲るように首を傾げ問う。
だが、マリアに答えられる訳が無かった。全身を束縛する鎖は、言葉を発する事すら許さない。
「まァ、長居は無用だ。さっさと、狩らせてもらうぜ」
目を細め、あばよと呟いた来須であったが、その引き金を引くことはできなかった。
間近……しかも背後から呆れたような呟きが聞こえたゆえに。
「この病院の防犯設備も当てにはならんな。深刻な事情を有する患者がいるのだから、レベルAにしておくべきだろう」
聞き覚えなどありすぎる、忌々しい声。
愕然と――それでも可能な限り素早く、来須は振り向いた。その先には、以前と寸分も変わらない姿の男が居た。
「久し振りだな、来須」
「犬神……。貴様……何故、ここに」
着崩した背広姿も、だらしない無精ひげも、その瞳を隠す眼鏡も。
何一つ変わらないまま、そこに存在していた。八年前に己を殺しかけた人狼が。
「腹の黒い教え子に聞いた。頬に三条の傷を持つ異端審問官を見た――と。胸騒ぎがして、来てみれば、正解だったようだな」
来須の脳裏に即座に浮かんだのは、亡者を滅した夜に出逢った黒衣の青年。二十前後と思しき青年の頬には、殆ど消えかけた三条の傷があった。
「待ってろ。今、救けてやる」
「面白い……。ふたりまとめて狩ってやるぜ」
マリアに僅かに微笑んでみせた犬神に、来須の殺気が向けられる。
ふたりの間の空気が、徐々に熱を持っていく。だが、いつ爆発するかと思われた均衡を破ったのは、弱々しい女の声であった。
「―――待って」
苦しそうに、それでも彼女は、どうにか自由を取り戻していた。
縛鎖の結界を破る事は、彼女であっても困難であったようだ。
「この男は、ワタシを狩りに来たの。だから……ワタシが相手をするわ」
「だが、君は……」
ただでさえ低下した能力。更に、今の結界を破る為に、かなりの力を消費したはず。
その上、来須の能力は侮ることなどできない。
それでも、犬神は言葉を続けられなかった。
彼女の望みを勘付いていた。止めるべきで、また同時に手を出すべきではなかった。
「……見上げた心掛けだ。その容姿もさる事ながら、化け物にしておくのは、もったいない。今度、生まれ変わったら、人間にでもなるんだな」
黙って傍観していた来須が、呟きながら霊銃を構える。
もはやその目に映るのは、金の吸血鬼だけ。
異端審問官は、形としては、司祭位にある。無論、対魔の装備も充分であろう。
ゆえに虜化や魅惑などの魔術は無効。直接攻撃にて、勝負をつけるしかない―――あの夜と同じく。
そして……展開も酷似していた。
マリアは、攻撃を避けることは可能であった。審問官と彼女には、速度に圧倒的な差があったから。なのに、彼女からの攻撃も当たらない。
「つくづく勿体ないな、お前ら化け物の学習能力の無さは」
凄まじい速度での攻撃を難なく避けながら、来須は小さく呟いた。
人間より遥かに強大な力を有する魔の、殺し合いでの弱点。
彼らは生まれついて強い。効率的な動きなど考えずとも、光の如き速度で動き、正しい構えを知らずとも、ただ振り回すだけで絶望的な破壊力を有する攻撃を繰り出せる。
ゆえに、それこそが弱点。彼らの動きはあまりにも無駄。そして、それを欠点と認識せず、ひたすらに暴れ回る。いかに強き攻撃も、当たらなければ何の意味もないというのに。
そして武術とは、力劣る者が勝る者にも対抗できるよう、長き刻を経て研鑚されてきた学問。いかに効率良く、いかに手際良く――敵を倒すか。それだけの為に。
フェイントもなく死角も知らず、正面から叩きつけられる速くて強いだけの攻撃を躱すことは、闘いに慣れ、武術を嗜んだ者にとって、そこまで難しいことではない。
「死にな、化け物」
静かな声にて、弾丸を撃ち尽くす。
だが込められた強い感情と力とは裏腹に、弾丸は単純にただ真っ直ぐに跳んできた。
やはりマリアは闘いに慣れていない。僅かに訝しんだが、そこまでであった。今までと同じように、普通に避けてしまった。
「こんなもの……ああッ!!」
マリアは悲鳴を上げて、膝をついた。
跳弾と呼ばれる技術。反射を利用した高度な技を、来須は行った。
後ろに目が有るでもなし。背後から跳ね返った銃弾全てを躱すことなど不可能であった。
「くッ……」
二発が足に、一発が肩を掠めていた。
月が、傷を修復していく。だがその速度は、あまりにも遅い。能力の低下。加えて、対魔として特化された力を付与された弾丸。
「地獄へ還りな」
新たに弾丸を充填し、座したままのマリアに、照準を合わせる。犬神であっても、あの距離を詰めて、弾丸を止めることはできない。これで終わりの筈であった。
足に力が入りきらない。それゆえにマリアは思い出したのかもしれない。
器を見つけてからよく覗いていた、彼の闘い振りを。
彼の動きが、ああまで速く感じるのは、移動や攻撃の仕方が効率的だから。最短距離で間合を詰め、死角というものを最大限に活かし、呼気のタイミングすらも利用する。
少し真似をしてみようと思った。本当にこの危機を乗り切れるかなどと、信じてはいなかったけれど。
間近に迫った死の具現を、今までのように飛び退くのではなく、触れないギリギリの所で躱した。激痛に襲われる足でも、少し移動する程度は可能だった。
そのまま来須の背後に廻り、やや斜め後ろから、爪を振るった。
今まで掠りもしなかったというのに、その攻撃は確かに彼の背を薙いだ。
「な……なにッ!!」
マリアの動きが変わったのを、来須は肌で感じていた。
狙いが丸分かりの振りも、馬鹿正直に移動先に視線を向ける癖も消えた。これでは、犬神並に闘り難い。
死角を突く魔の者の攻撃を、人間が躱し続けることなど不可能であった。
動けないほどに傷付いた来須の身体を見下ろし、マリアは苦しそうに息を吐いた。
喰らった弾丸による傷は大体癒えていたが、力を大量に使った影響で、ある衝動に襲われていた。身近にある芳醇な香りが、余計に要求を強め、それを抑えるのに必死であった。注意力など、非常に散漫になっていた。
「油断するなッ。まだ終わっていないぞ」
「え?」
ゆえに犬神の警告は、間に合わなかった。
同時に跳ね起きた来須が、銃の照準をマリアの胸元に合わせていた。
「なッ、なぜ―――」
「不死身は、お前たちだけの専売特許じゃないんだぜ」
彼は笑い、懐から取り出した。彼ら異端審問会に保管されていた《哲学者の樹》という強力な再生能力を持つ霊薬だと。
「という訳で、形勢逆転だ。どうする?《夜魔族》の諸君」
返す言葉などあるはずがなかった。今度は、銃はマリアの胸に突き付けられている。
来須のおどける言葉の中には、殺意しか存在しない。
止める方法など、存在しなかった。
マリアには、抵抗する気力など、元より少なかった。ましてやこの状態。
彼女は目をそっと閉じ、疲れた様子で呟いた。
「ワタシを殺しなさい。それが、アナタたち人間の望みなんでしょう?」
静かな声に、来須は首を捻った。観念とも諦観とも違う。最も強い感情は――哀しみ。
「アナタたち人間は、ワタシから何もかも奪っていくのね。ワタシには、もう帰る家はない。待っていてくれる仲間もいない」
魔を――闇の者を、反吐が出るほど来須は見てきた。
多くが人を見下した高慢な連中だった。その次に多いのは、人間に憎悪を抱く凶悪な連中だった。そして、達観したような穏やかな連中がわずかに存在した。
すべてがこの三種に分類された。
だが、これはどう判断すれば、どう対処すれば良い?
見たことが無かった。幼子の如く、膝を抱えて泣いている高位の魔など。
考えたことが無かった。家族を殺され、居場所を奪われ、相手を憎む自分と同じ境遇の魔など。
困惑するほか無かった。
だが――そんな感情を否定するように、脳裏に浮かんだのは、朱の光景。
「ふざけるなッ!!そういえば、オレが同情するとでも、思ってるのかッ!!貴様ら一族が、何をしてきたかわかってるだろッ!!」
彼を苛み続けてきた、妻と子の残骸。あれを殺し、喰らったのは、間違いなく人外の者ども。
だから叫んだ。今まで信じてきたことを。今までひたすらに実行してきたことを。
「オレは、貴様らを狩るッ!!絶対に許さねェッ!!狩って狩って狩り続けて、いつか、根絶やしにしてやるッ!!」
来須の叫びに、マリアは目を見張った。
嘗て自分が発したものと同じ、血を吐くような想いに気付かされる。
彼は、まるで自分を鏡に映したような存在であることに。
互いの種族に家族を殺され、憎み続けた。
自分が人間を恨み、魔の世界を取り戻そうとしていたのと同じように、彼は魔を憎み、狂ったように狩り続けてきたのだろう。
どちらかが、滅びるまで終わりのない殺戮の歴史、憎悪の連鎖。
「いっておくが、オレは情けなんてかけない。あばよッ!!」
「待て、来須ッ!!」
激昂したまま、引き金を引こうとした来須であったが、それは果たせなかった。
ごとりと銃の落ちる音が響く。
彼の手には、銀のメスが深々と刺さっていた。
「クッ」
「どんな理由があるか知らないが―――、わしの病院で勝手な真似はしないでもらおうか」
いつのまにか、其処にはこの病院の院長が佇んでいた。
彼ら人外の者や凄腕の狩人に気付かれることなく、メスを投じた。
「きッ、貴様……、病院のヤツは、全員眠らせたはず」
「ふんッ。あんなチャチな術に、わしがかかるとでも思ったのかい」
狼狽する来須を、彼女は鼻で笑った。
抗術のスペシャリストである彼女には、通常人を眠らす程度の術は児戯にすら値しない。術の存在に気付かないほどに自然に弾いたため、事態に気付くのが遅れたほどであった。
「クソッ―――!!」
「おっと、動くな―――。動けば、額に風穴があく事になる」
急ぎ、銃を手に取ろうとした来須に、冷たい声が掛けられる。
犬神が煙草を吸いながら、銃を拾い構えていた。
「このまま、続けるか、それとも、大人しく帰るか。どうするんだ?来須―――」
詰まらなさそうに、だが、静かな殺意だけは確かに存在した瞳で、彼は尋ねる。
返答によっては、彼は躊躇いもなく引き金を引く。それを理解しているからこそ、来須は挽回の機会を必死で探していた。今現在、最も弱い敵を判断し、間合いを測る。
目の動きから来須の狙いを察したのだろう。医師は溜息を吐き、諭すように優しく言った。
「止められないのかい?主なる神の、大いなる愛は、万物に降り注ぐ。……闇の者に対しても。そうだろ神父?」
彼女の言葉は真実。
旧き神――背徳の都に容赦なく滅びの火を降らし、従わぬ異教徒たちの赤子を一夜で皆殺しにした苛烈な裁きの神とは異なる。
主なる神は、赦しの神。優しき御方。
罪なき者だけが、その女を石うて。
善きサマリア人のたとえ。
百匹の羊の中で一匹の羊が迷ったら、その羊を見つけるために九十九匹の羊を残して探す。
その慈悲を示す話は、枚挙に遑がない。
「全てを愛する優しき御方。だからどうした? お笑い種だな。……神などいない」
だが、来須は顔を歪めて吐き捨てた。
異端審問という特殊な形とはいえ、紛れもなく教会に属し、立場的には司祭に値する彼が。
神の愛は無限。
そんな事は知っている。
嘗て敬虔な『普通』の聖職者であったころ、感謝し、祈りを捧げていた。彼も信じていた。感じていた。
大いなる主の愛。その御心を。
―――血溜りに散らばる、妻と娘の一部であったモノを目の当たりにするまでは。
ほんの少し前。朝、行ってらっしゃいと小さな手を懸命に振った娘は、手など残っていなかった。今日は結婚記念日だからと、早く帰ってきてねと、家を出る自分に口付けた妻の唇は、どこにあるのか見つからなかった。残っていた部分の方が、遥かに少なかった。
朝までは確かに存在していた、ささやかな――だが、何よりも大切な幸せは、二度と帰ってこなかった。
右の頬を打たれて、左の頬を差し出そうなどとは思えなかった。
試練だのなんだので、納得できるはずはなかった。神がいないから、奴らが存在し、家族を殺した。……万が一居たとしても、見守るだけで、助けてくれない存在を、崇めつづけるつもりはなかった。全てを愛しているなど、何も愛していないのと同義ではないのか。闇すら愛し、人が殺されるのを放置するのが神の愛ならば――いらない。
「今の俺にとって神とは、名を呼び決まった祈りの言葉を唱えれば、そいつら魔に対抗する白の力が生み出せる――ただの攻撃手段だ」
「……だが、彼女を滅したからって、あんたの家族が帰っ」
医師は最も聞きたくないことを口にしようとした。
復讐など考えるなと。
彼女達はお前が危険な目に遭い、血塗れの道を歩むことなど望まないだろうと。
優しく穏やかに諭す者たちは多かった。
「そんな事は分かっているッ!!」
分かっているに決まっている。
これから何千何万と闇を滅ぼしたところで、時間は戻らない。死した彼女たちを蘇らせる術もない。
あの優しかった妻と娘が、魔とはいえ生きた者の命を止め、その屍を踏み躙り、狂ったように笑う自分の姿を喜ぶ筈がない。
「それがどうした。俺が許せないんだ。奴等と同じ空気を吸うかと思うだけで吐き気がする。あいつらを殺した連中の仲間が、生きているかと考えるだけで耐えられない」
お前がいつまでも執着していたら、彼女たちの魂は天の門をくぐれない、そう説教した元同僚も居た。
答えは同じだ。『だからどうした?』。魂など知らない。己が納得できない。
「神が不在なら、人間が―――オレが代わりに、裁くしかねェだろう」
そう決めたのだから。
それだけが、ひとり残された彼の生きていく理由。
「炎よッ!!」
だから、感情のままに、怒りを具現化したような炎を放つ。
《浄火》魔を祓うための最高位の術。魔を滅ぼすために破壊を繰り返す、彼そのもののような術。
「来須―――ッ!! くッ―――!?」
「今日のトコロは、見逃してやる。だが、人間を甘くみるなよ……。いつか、その胸に杭を打ち込んでやる」
機会があったら、また会おうぜ――甲高い高笑いと燃え盛る炎を残し、彼は消えた。
しばし気配を探っていた犬神であったが、諦めたように首を振った。
「逃げたか。来須の奴……、小賢しい真似を」
擬装用の結界やら眠りの術やらを展開する際に、はなから逃走用の経路を用意していたようだ。強い退魔の力だけが、彼の武器ではない。有能な狩人は、一途だけでは足りない。魔を滅ぼすために、愚直にただひたすらに行動するだけではない所が、彼を生き残らせてきた。
「大丈夫かい、ふたりとも」
医師の気遣う声に、自分は問題ないから彼女の方を頼むと、犬神は答えた。
傷口が開いたらしく、マリアは胸を抑えて苦しげに喘いでいた。
だが、近寄ろうとした医師の助けを、彼女は首を振って拒絶した。
「このまま……死なせて。あのひとになら……、殺されても……いいわ」
気絶しそうな熱に苛まされながら、マリアはうわごとのように呟いた。
本当にそう思っていた。彼の声が聞こえたから。逃走する際に、叫び声のような――、泣き声のような、悲痛な言葉を確かに聞いた。
『オレは、生涯―――、この身が果てるまで、化け物を、赦す訳にはいかねェんだよッ!!』
声に出してはいなかった筈。それでも、マリアには確かに聞こえた。
まるで鏡に映したように、正反対なのに、同じ存在だから理解できたのかもしれない。
もう眠らせて――。弱々しく笑む彼女を見据え、犬神は真剣な眼差しで彼女の名を呼んだ。
「君は、緋勇たちの未来を―――人間たちの行く末を、本当は、見護りたいんじゃないのか?」
彼らが何処に行くのか。
闇は安らぎだと微笑んだあの青年が、どんな選択をしていくのか。
どうしようもないほどに疲れているからか、マリアは素直に頷いた。
そうかもしれないと。彼に《陽と陰》の共存を託し、夢見ていたのかもしれないと。
弱々しく、あくまでも過去形で肯定する。
「そう思っていたけど、結末を見護る役は、アナタに譲るわ―――。あの子たちを、よろしくね」
力ない微笑み。紛れもなく命が消え去る直前の、透明な表情。
犬神は、その表情を何度も見てきた。永い刻の中を生き、多くの死と出会い看取ってきた。親しくした人間は、彼に澄んだ瞳で、言葉を残していった。別れの言葉の墓守になる気などないと、憮然とする彼に対して、そのくらいは背負えと、悪戯っぽく笑いながら。しかたなく、頷いてきた。流れ去る彼らの事を覚えていることが、自分の役目なのかもしれないと、思えていたから。
「断る―――といえば、君は、生き続けるのか?」
だが、彼女はまだ生きていられる。生きようとさえ思ってくれれば、まだいくらでも永く生きられる。
だから決して頷かない。思い残すことの無くなったマリアが、安らかに眠らないように。
「たか子―――。マリアの手当てを頼む」
「そうだね。治療室に運ぼう。あんたは、癒されるべきだよ」
『嫌です。先生が死にたいと思うのは勝手です。貴女に生きて欲しいと思うのも、私の勝手でしょう』
後は頼んだぞ――とだけ告げ、踵を返した犬神に、肩から流れる血に怯むことなく自分を引き上げようとした青年の言葉が重なった。
凍えるような美しい満月の下でも、犬神は、死なれてたまるかと言った。
『もう、誰も死なせない―――』
静かに歩み去る犬神の背から、そんな声を聞いた気がした。
誰かとの約束なのだろうか。それとも誓いかもしれない。犬神は、自分にそう言い聞かせて生きているのだろう。
病室へ行こうか。
優しく微笑む医師に対し、マリアは弱々しく首を振った。
「あなたもあの人もバカよ。なぜ、ワタシに、そこまでやさしくするの?ワタシは、アナタたちの敵だった女じゃない。どうして……」
彼らが護ろうとしているものを奪おうとした。
逡巡もあった。恐怖もあった。でも、自分で選択した。それなのに、彼らはどうして、こんなに優しく助けてくれようとするのか。
だが、医師は、きょとんとしたあと、心底おかしそうに笑い出した。
おかしな事をいうねえ――と。
「ここは、病院だよ?病院は、怪我を治すだけが仕事じゃないさ。心を癒すのも、仕事だよ」
至極あっさりと続ける。
何となくだと。君を救けたいから、救けた……それ以外の意味はないと。
ぶっきらぼうに答えた犬神の様子を思い出した。
理由など、それだけで充分ではないかと、暗に告げる彼らはとてもよく似ていた。彼女の方に、彼からの影響があるのかもしれない。最初に会ったころ、医師はまだ高校生だったと、犬神は言っていた。
「アナタは―――」
察してしまった。彼女にとって、もしかしたら彼は初恋の……いや、今でも想っているのかもしれない。無限の命を持つ、同じ刻を生きられない男のことを。
「いいえ、何でもないわ。……ありがとう」
それでも自分が口に出すべきことではないと気付き、マリアは言葉を濁して礼を言った。
数日後、成田国際空港のロビーにふたりの姿があった。
「本当に、行くのかい?」
「えェ。もう決めたコトなの」
心配そうに尋ねる医師に、マリアは微笑んで答える。
そこに、闘いのあとに在った儚さはない。自分で決心した者特有の、強い表情をしていた。
「その顔じゃ、決心は鈍らないようだねェ。故郷へ帰るのかい?」
故郷という言葉に、一瞬顔を曇らせてから、マリアは首を振った。
あそこではなく、中国へ行くと。中国の仙境―――、《崑崙》へと。
「《崑崙山》へかい? 西王母を頼るのかい?道は険しいよ」
霊域として名高い仙人たちの住まうあそこならば、確かに彼女の痕を消す方法があるかもしれない。だが、あの分厚い結界に閉ざされた異界に、今の彼女の状態で辿り着くのは、困難であろう。
それでも、マリアは頷いた。考えたいこともあるから――と、静かに微笑む。
「人間と、人外の存在――。生きとし生けるモノ、全て。森羅万象の、生きるというコトを」
「そうかい。じゃあ、わしには、これ以上、あんたを引き止める理由はないね。お行き。中国へ」
まるで教え子を見守る教師のように、優しく医師は頷いた。
ただ一つだけ、どうしても気になることがあった。
「ところで―――、誰にも報せなくていいのかい?」
何人もいた。その中でも特に教えたいのはふたり。彼女の元同僚と元教え子。
彼らとて、彼女の行く末は気になっているだろうに。彼女とて、彼らにもう一度会いたいだろうに。
「……えェ。ありがとう、いろいろと」
たっぷりと沈黙した後に、彼女は無理に笑った。
その笑顔があまりに綺麗で哀しくて、いつの間にか医師は言葉を紡いでいた。
「あんた―――、いつか日本へ帰っておいでよ」
『帰る』? 仮初の立場の一時の居場所に、そんな言葉を使った医師に、マリアは首を傾げた。
だが、医師は、力強く頷いた。
「あァ。ここには、あんたの仲間がいる。そして、あんたを心配している生徒たちがいる」
じわじわと意味を理解したらしく、ゆっくりと表情が変わっていく。
まずは驚き、それからふんわりと微笑んで、マリアは頷いた。いつも湛えていた妖艶な笑みではなく、子供のように純粋な明るい笑顔。
いくつかの言葉を交わし、そして別れた彼女達の姿を、かなり離れた場所のソファーに座して眺めていた黒ずくめの男が、小さく呟いた。
「《崑崙》か」
言わずと知れた異端審問官である。だが、狩人の瞳は静かなまま。逃げていく獲物への焦燥も怒りも、そこには存在しなかった。
追わなくていいのか?
背後からの、からかいを含んだ声に、さっと振り向く。
よりによって、背中合わせのすぐ後ろの席に座していたのは、例によって犬神であった。
「奇遇だな。こんな所で会うとは」
わざとらしく笑う魔に対し、審問官は憮然としながらも尋ねた。
「ふんッ。止めなくていいのか? あの傷で、《崑崙》に辿り着けるとは、思えないぜ」
「マリアの決めた道だ。俺が、止める謂れはない―――おまえ、なぜここに」
最後の言葉が自分に掛けられたものではないと知り、来須は犬神の視線を辿った。
この男の呆気に取られた顔など、初めて見たが、驚くべき事はそこではないだろう。その先にいたのは、確かに見た顔であった。
「おや奇遇ですね。ご旅行ですか?」
二人分の鋭い視線を受けてもなお、平然と微笑んだモノが首を傾げた。
彼だけではない。そこにいたのは、それぞれが凄まじいまでに人目を惹く、三人の三色の青年。
白いコートに白の学生服の長髪の青年と、濃紺のコートに同色の学生服の細身の青年、それにあの時の青年。
闇に佇んでいた時とさほど変わらぬ印象の黒いコートの中は、同じく黒の学生服。
『ただの高校生ですよ』
あの台詞は、少なくとも嘘ではなかったようだ。
心底呆れ返った様子で、犬神が唸る。
「緋勇……どこから嗅ぎ付けたんだ」
「嗅ぎ付けた……ひどい話だよ。それが愛しい教え子相手にかける言葉ですか」
ああ相応しいだろう――あっさりと頷いた教師に、教え子が渋面を見せる。
「ひどいヒトだよ……この顔疲れますね」
わざとらしいほど哀しげな眼差しにて肩を竦めてから、ころりと表情を変える。
この辺りが、こいつの信用できないところだ――との思いを込めて睨みつける犬神の視線を、さらりと受け流し、青年は口を開く。
「そう難しくないですよ。現実面から拳武に、霊的面から陰陽寮に調査を頼んだだけです」
「「頼んだ?」」
黒の青年の説明の途中で、見事なほど同時に、左右の―――白と紺の青年が顔を顰めた。どうやら望んで協力したわけではないようだ。だが、そんな言外の非難を一切気にしないらしく、黒の青年は反応すらしなかった。
「そもそも埋葬機関のお方ですからね。目的は吸血鬼の可能性の方が高いでしょうし、彼女を匿うとしたら桜ヶ丘ですから、そこを見張れば、より確実に動向を掴めますし」
しれっとした顔で、彼は続ける。
異端審問会の陰口もその性質も、全て熟知した上で。貴方が狙いなのでは?などと、わざわざ犬神に告げたわけだ。
細心の注意を払って隠したつもりであった事実は、とうに勘付かれていた。――どっと疲れを感じながらも、犬神は教え子に問い掛けた。
「見送りにきたんじゃなかったのか?」
ちらりと視線をやった先には、既に金の女性の姿はなかった。
声も掛けないのは、確かに彼らしい選択ではあったが。
「見送る資格はないでしょう。私に彼女は救えなかった。倒す事でしか、止める事ができなかった」
独白するような静かな言葉の内容に、来須の背に戦慄が走る。
彼は倒したということだ――あの真の血脈に近い、強力な吸血姫を。
「だから、せめて遠巻きに確認しようと思っていたのですよ。彼女の無事を。
それと、あなたに言いたかった。来須 狩夜さん」
フルネームで呼ばれ、思わず身構える来須に対し、彼は穏やかに、本当にたおやかに微笑んだ。
この表情だけを見たならば、彼は善意しかその身に宿してないのではないかと思ったであろう。こんなにも優しき人間が、普通に暮らしていけるのかと、心配したくなったであろう。
だが、あの夜の彼を知っている。両隣の青年と犬神の呆れた表情が示す意味を、大体察することができる。
ゆえに、むしろ恐ろしかった。
「感謝しています。彼女に生きる意志を与えて下さった事を。だから――」
笑顔のまま、周囲の空気が凍る。瞬間、雑音さえも消えた。空港中の人間が、背筋が冷えた筈だ。
間近の人間に至っては、気死しそうな寒気に襲われた。彼らは不安そうに、蒼白な表情となって周囲をキョロキョロと見回した。
犬神と紺の青年は、顔を顰める。反射的に、畏れの原因に襲い掛かろうとする衝動をどうにか抑えながら。
対象者は、それどころではない。
ひたすらに硬直している。それは、彼の高い精神力と霊位の賜物。
普通であれば、泣き叫び錯乱し、惨めに頭を地べたに擦りつけて許しを請うだろう。弱ければ、誇張でなく死したであろう。
穏やかに微笑んだ口元で、静かな優しい声で、全てを滅する絶対零度の瞳で、彼は続けた。
彼女を傷付けたことは――――許してあげますよ
もはや興味など失ったようにくるりと背を向け、彼は両隣の青年らと共に去った。
それから、相当の時間が経過するまで、来須は動く事もできなかった。
「あれは何だ」
来須は、じっとりと冷たい汗をかきながら、背後の宿敵に問うた。
半ば苦笑しながら、犬神は答える。
「俺の教え子でまぎれもなく人間ではあるが、あれもある意味で化け物だな。――今の『時代を担う者』だ」
時代を担う者―――動乱の時期に生まれる、人でありながら人でないモノ。
大地の力をその身に受け入れ、操ることが可能なその存在を、来須は当然知っていた。
そして、今の東京の状態にも納得がいく。台風一過との印象は、おそらく正しい。なにか動乱があった。龍脈と呼ばれる大地のエネルギーは一度乱れた。
それを、あの青年が制御したのであろう。
霊的な混乱の割に、被害が少ないのは、両脇に居た青年たちのような仲間が『狩って』いるのかもしれない。
「で、それが何故、あの吸血鬼を見送りたいんだ」
それが解せない。
時代を担う者は、確かに陰陽同居した中立の存在ではある。その者は陰も陽も選択することができる。
だが、東京を護ったということは、陽を選択したはず。なのに闇の者を気に掛けるとは。
「彼女が担任教師だったからだ。
その事実の前には、彼女が器の力を狙う魔であったことや、殺し合いをしたことなど些細なことなのだろう。そういう奴だ」
それだけは昔から、――そう、百数十年前より変わらない。
陰でもなく陽でもなく、混沌を選ぶことができるもの。闇に堕ちるではなく、光として無慈悲に穢れを滅するのではなく。
どちらも内包したままでいられる者。尤も――――。
「……今のあいつは、闇がかちすぎている気もするがな。選んだ道は、一応は光だ」
まあ、あいつのことはどうでもいいだろうと、犬神は首を振った。いくら推し量ろうとしようとも、何を考えているのか理解し難い奴だからな――と、本人が聞いたら、またむくれそうな事を呟いて、話題を変える。
「で、結局お前は追わないのか?」
「いくら弱っていようとも、王族級が相手。その上、貴様やあの医師までを相手にするのは、得策とはいえない。だから退いた……それだけだ。今も同じだ。こんな怪我した手で銃を撃って、罪のない一般市民にでも当たったら寝覚めが悪いからな」
そいつはお優しい事だ――苦笑を洩らしながら、犬神は、医師の心遣いに感謝していた。
敵対すべき存在に、共感してしまった。だが、いくら逃したくとも、審問官という立場が許すはずもない。妻子を殺されたという己の過去が、そんな感情を認めるはずがない。
だから優しく、道を用意してくれた。
片方は傷ついているとはいえ、二体の強力な魔。そして、明らかにそれを庇う意思を示す高位の術士。おまけに、己は利き腕に傷を負った。
これだけ材料を揃えられれば、撤退を選ぶ事は出来る。魔を見逃したのではなく、自分が撤退した。結果は同じでも、別のものとして判断できる。
来須がそう選択し易いように、現れてくれた。
「じゃ、そろそろ俺は行くぞ」
これはこれは、お早い、お帰りで―――おどける来須に対し、犬神は素直に答えていた。
「彼女が、無事に旅立つのを、見送りに来ただけだ」
それは真実。来須が見逃すことを選択したからには、もう彼に用は無い。怪我が治ったあとに彼女と会ったとしても、きっと何もしないのだろう。だから、彼を殺す必要もない。
「俺は帰って、悪餓鬼どもの面倒をみなきゃならん……。じゃあな、来須」
隣のクラスの担任が消え、負担が増えたのだとぼやきながら立ち上がった男に、来須は困惑した。確かに犬神は、獰猛で凶暴な魔ではなかった。祓う必要も無い者に襲い掛かった落ち度は来須の方にあると、審問会からも放置するように命じられた無害な魔ではあった。
それでも、こんなにも人間臭く笑う事ができるなどとは思っていなかった。
「犬神―――。お前の方こそ、追わなくていいのか?―――あの女を」
聞く必要などないこと。魔同士の繋がりなど、考えるのも忌々しいこと。
なのに気にかかった。ひとりで消えようとしている魔を、この残された魔がどう想っているのかが。
「俺たちの刻は無限だ。彼女にも、いつか、また逢えるさ」
強がりでもなく犬神はそう思っていた。彼女が生きようとする意思を持ったからには、彼女はきっと助かる。それに彼女は言っていた。
『日本は、ワタシの故郷ですものね―――。刻が巡れば、帰ってくるわ。この東京へ』
己に言い聞かせるような呟きではあったが、マリアは確かに微笑んでいた。懐かしむように、何かを思い出しているかのように。だから、いつか戻ってくるだろう。
ならば、自分は今までと同じように、あの学園を見守り続ければいい。
いつか艶やかな吸血姫が、帰ってくるはずだ。
それが何年後であろうとも、どれほど生徒や街が様変わりしていようとも、彼らだけは互いに変わりのない姿で、再会できるだろうから。
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