「今日こそは、壬生さんに認めてもらうんです!!」
キラキラした瞳で意気込む一年生を、壬生は疲れた眼差しで見た。
彼とこの問答を繰り返したのは、もう何度目なのだろう――遠い目をしながら、毎度の言葉を繰り返す。
「何度も言っているけれど、僕は部活も文科系だし、そんなに本格的にする気は」
「それでも壬生さんが憧れなんですッ!!」
諭す壬生の言葉を遮って、少年は宣言する。
拳武の『表』――空手部門の奨学生である彼と壬生は、偶々体育教師の欠勤によって実現した合同授業で出会ってしまった。
表とはいえ、奨学生の才能は確かなようだ。適当に手を抜きつつ組み手をこなしていた壬生の実力を、彼はあっさりと見抜いてしまい、それ以降はこのように付きまとっているのである。
「壬生さんのライバルとして認められて!! 拳を交え!! 成長していくようになりたいんです!!」
感嘆符の連続に魂を抜かれかけていた壬生であったが、少年の言葉に一縷の光を見た。
勿論その手段を使えば、後々面倒な事になるとの予想はついていた。
だが、その日の壬生は、疲れきっていた。一週間、寝食を削りながら張り付いていた標的を仕留めたのは、今朝のこと。報告だけを済まし、帰宅しようとしていたところを、少年に捕まったのである。
もう一度だけ悩んで、壬生は決めた。
困惑した様子を演出し、口を開く。
「僕には、尊敬する――切磋琢磨しているライバルが既にいるんだ」
隣にいた、現在の拳武のトップのひとりとされる二年生は、バヒュッとしか表記できない音で吹き出した。尊敬の辺りが、彼の笑いのツボに嵌まったようだ。同じ仕事に就いていた彼も、疲れにより自制心が弱まっているのだろう。
そちらをチラリと冷たい目で一瞥しながらも、壬生は即座に困ったような顔に戻る。
「だから、ライバルは彼だけで良い。彼を誰よりも認めているし、尊敬している」
照れくさそうに、それでも真摯に彼は呟く。
ニヒル・クール等で有名な二年生の先輩が、小刻みに震えながら、笑いの衝動を必死で抑えている珍しい姿には気付かずに、純な少年は壬生の罠にまんまと嵌まった。
「どこの……何ていう人ですか!?」
答えを聞くと、少年は、一陣の風だけを残して去っていった。
拳武のトップ二名は、同時に疲れた様子で息を吐いた。
どちらかと言わなくとも陰気に属する彼らにとって、少年の前向きなノリは辛すぎたようであった。
しばらく経ってから、片方が首を傾げる。
それに気付いた壬生は、少々不機嫌な声で問う。
「何か?」
「良いのですか? あの人が、彼のようなタイプを受け入れるとは、到底思えませんが」
彼の脳裏に浮かぶのは、少年がこれから訪ねるであろう壬生の『好敵手』の姿。偶然夜の公園で出会った極悪人のこと。
報復とはいえ、なんの躊躇いもなく、死してもおかしくない攻撃を仕掛けてきた黒衣の青年が、あの前向きな少年に優しく対応するだろうか。そして、己を面倒事に巻き込ませた元凶を、許すだろうか。
「後の面倒のことも考えてはみたんだよ。だが、僕が今日ゆっくり休む事の方が、大事だと思ってね」
壬生とて、それは嫌になるほど熟知している。
承知の上で行うほど――――眠いのである。
新宿真神学園の校門前に、やたらと意気込んだ様子の少年がいた。
拳武の出来事など露知らず、真神名物の御一行は、例によってラーメン屋に向かおうとしていた。
話から既に当たりをつけていたのだろう。
少年は、向かって来る、やたらと目立つ五人組の前に立ちはだかって叫んだ。
「緋勇龍麻さん! 勝負して下さいッ!!」
呆気に取られる四人に対し、少年の制服からざっと経緯を悟った人物がひとりいた。
彼――茶髪の青年は、隣の赤毛の青年の肩を、労うように叩く。
「だとさ。頑張れよ、龍麻」
「ちょっと待てッ!! それはいくらなんでも……へぶッ」
なぜか吹き飛んでいった『龍麻』を指差し、茶髪の青年は柔らかく微笑んで少年に告げる。
「では、あとは当人同士で話をつけて下さい」
爽やかに微笑み、彼は踵を返す。
唖然と見ていた少年だったが、一際大きい青年が、足早に去りかけた茶髪の青年を締め上げたところで、事態を理解した。
「龍麻!! 名乗りをあげた相手に、その態度は失礼だろうッ!!」
「だって、彼拳武だぞ。もういやだ」
双方とも全身全霊の力を込めているのか、かなり苦しそうな様子であった。
驚くべきことに、力がほぼ互角らしく、前に進もうとする茶髪の青年と引き戻そうとする大柄な青年は、拮抗した状態で怒鳴りあう。
「それでも武道家かッ!!」
ふてくされたような茶髪の青年に対し、大柄な青年が大声で責め立てた。
「そんなつもりは毛頭ない!!」
茶髪の青年は断言し、なおも前へ進もうとする。
だが、さすがに体格差がものをいうのか、じりじりと僅かずつではあるが、引き戻されていた。
その遣り取りで少年は確信できた。
茶髪の青年こそが、緋勇龍麻で、壬生の『好敵手』だと。
赤毛の青年――蓬莱寺京一。見事な殴られ損であった。
「ほうほう。自分こそが壬生 紅葉の好敵手となりたいから、俺と勝負して勝ち、奴に認めさせたい――ね」
少年の話を聞き終えた龍麻は、静かに、どこか周辺をひんやりさせる眼差しで呟いた。おそらく今現在、彼の心の中では、ある人物への罵詈雑言の嵐が吹き荒れているのだろう。
たっぷりと沈黙した後、彼はむすっとした様子で、口を開く。
「悪いけれど、俺は帰宅部だから、相手をする場がないよ。君とて喧嘩をしたい訳ではないだろう?」
「それは……」
痛いところを突く。
少年は言葉に詰まった。確かに知りたいのは、格闘の腕。路上で喧嘩したいわけではない。一年生である彼には、拳武の道場を私的に使う権限などない。
しかし、彼の苦悩は、意外な人物からの進言で解決した。
「へッ、それなら良い案があるぜ」
京一は腫れた頬に、濡れた布をあてがいながら笑った。
少年さえさっさと消えてくれれば、この程度なら美里の力で一瞬で癒せるのだが、いるからには仕方なかった。痛いまま我慢をしなければならない彼が、逆襲を考えたことは責められまい。……正解とは、思えないが。
「明後日、剣道部が道場を独占する。場所なんざ、たーっぷりと貸してやれ……る」
不敵に笑った後、彼は硬直した。
龍麻が凄い状態になっていたから。
黒い塊になり、シュゴーシュゴーと音がして、目がキュピーンとばかりに光ってそうな感じであった。
ちなみに、髪の毛は少しだが、本当に逆立っていた。
「本当ですかッ!?」
「あ……ああ、男に二言は……ないぜ」
歓喜のあまり、周囲の様子など見ていない少年は素直に喜んだが、京一はだらだらと汗を流していた。
例外作っちゃおうっかなーとの考えも、正直浮かんだのだが、いきなり顔面殴られた憤りが、恐怖に打ち勝っていた。
勝負の日取りという約束を取り付け、少年は弾む足取りで去っていった。勿論、その背を凄まじい眼差しで睨んでる人物もいる。
彼は、少年が充分離れたと見るや否や、くるぅりと京一へと向き直る。妖怪とか幽霊とか――そういった存在に『見ぃたぁなぁ〜〜』と振り返られた人間は、こんな気持ちを抱くのだろうなと、京一は遠くを見つめながら現状から逃避しようとした。
「蓬莱寺くん、先刻のあれは何事かなぁぁあ?」
無論、そんなことは許されないが。
「何か私に恨みでもあるのか、ご教授願えると有難いのだが」
既に口調が、敵に対してのものへと変じている。
ちなみに瞳の色は、琥珀色の段階まで達している。後一歩で金だ。
恨みはあるだろう。突然顔面殴ってきたお前の方が悪い。
――などという正論は、今の彼には通じまい。
神様、これはさすがに助けてくれても良いんじゃねェか――との、京一の祈りを聞き入れてくれたのは、神様ならぬ菩薩様。
すっと白い手を京一の頬に当て、一言祈る。腫れが引いたことを確認してから、彼女は少し怒った顔で、龍麻の正面に立つ。
「龍麻……、貴方がひどいからじゃないの。京一くんにまだ謝ってないでしょう?」
数少ない彼に意見できる存在。中でも、そのまま喧嘩に移行される壬生や、スルーされる如月や御門とは異なり、彼女は唯一意見が聞き入れられる存在。
「……殴ったことは、悪かった。だが、あんな面倒な相手、押し付けたくもなる。京一は、嫌いじゃないだろ?あーいうのは」
似たような人物である霧島のことが、彼の脳裏には浮かんでいるのだろう。
確かに京一は、少年のようなタイプは嫌いではない。相当な腕であるのだから、楽しめるかもしれない。だが問題は、戦闘形態。少年は、異種とも闘うように研鑚されてはいない。あれはあくまでも空手のスペシャリスト。
「否定はしねェけどよ。だが、あいつは徒手空拳だろ?やっぱ、ひーちゃんが相手すべきだろうが」
むすっとした表情で、龍麻は押し黙る。醍醐に押し付ければ良かったのか――だの、紫暮って手もあるか――などと呟く様子から、あまり反省していないことが窺える。
「でも、どーして壬生クンに認められる為に、ひーちゃんに勝つ必要があるんだろう?」
首を捻った小蒔は、昏い笑い声を聞いた。クククッとかフッとか、ともかく悪役用の笑いを浮かべて、龍麻は肩を竦める。
「ふふ……。どーせ、自分には認めたライバルがただひとり居るんだとか言ったんだろ。あいつなら、尊敬しているとかも加えたかもしれない。要は、言外にて――そいつを倒せなきゃ認められないと、匂わせたんだよ」
ほぼ正解である辺り、やはりこの表裏の龍、相互理解はよくできている。
それが友好に全く繋がらないところが、不思議なところなのだが。
どきどき。わくわく。
そんな擬音を顔に貼り付けて、道着を纏った少年が、軽くストレッチをしていた。約束より遥か前に待っていた彼は、見た瞬間顔を顰めた龍麻の態度に怯むことなく、道場へと意気込んで駈けていった。
今や仕度を整え終わり、準備万端だと全身から主張していた。
対して龍麻は『……着替えて……くる』と陰鬱に呟いてから、更衣室へと消えた。逃げかねないので、醍醐に見張るよう言ったのだが、大丈夫だろうかと、京一は不安に思っていた。
「やっぱ、美里にも行ってもらった方が、良かったんじゃねェのか?」
「……もう逃げたりしないと思うのだけれど。あ、来た……わ」
引き戸の開く音とともに、歓声とも溜息ともつかない声が、あちこちで生じた。
視線を向けて、京一は納得した。
その対象は龍麻。
一見細身の彼も、道着となれば、その筋肉質な身体がわかる。
常の印象とあまり変わらぬ黒の道着に、黒帯を締めた彼の姿は、異様なまでに絵になっていた。
「へー、ひーちゃんの道着姿初めて見た。格好良いね、ねッ葵」
「……ええ」
呆けていた美里が、小蒔の問いに、夢心地に肯いた。
見慣れている彼女でさえこうなのだから、剣道部の女子は言わずもがな。悲鳴に近い嬌声が止むことはなかった。
「ちッ……。ところで、カラー道着なんだな」
縄張りを荒らされたような気分になり、京一はあからさまに不機嫌な声音にて、近付いてきた龍麻に尋ねた。
ああ――と頷いた龍麻は、平然と嫌な説明をする。
「拳武は、基本的に濃紺か黒だよ。そういう性質なんだから。白の彼が珍しいんだ」
闇に紛れ――血を目立たせぬように。理由に気付き、皆は少し静かになった。
沈黙には構わず、龍麻は、ウォームアップを続ける少年へと視線を向ける。同じくそちらを向いた醍醐が、ほうと感心したように嘆息した。
息吹――上段受けから、中段受けの流れ。そして正拳突き。
間違いなく相当の腕。引き手と突き手が、糸で繋がれたかのように滑らかに連動する様を見て、醍醐は目を細める。
彼と戦える龍麻を羨ましくさえ思い、視線を移したときに、異常に気付いた。
「ん? どうした、ひーちゃん」
「おい? 今更、怖気づいたのか?」
龍麻は、蒼白となって、少年を見つめていた。
たり――と一筋の冷や汗さえたらし、彼は呟く。
「今頃気付いた。やばい……俺、寸止めってやったことがない。空手の試合って、一般的な方が……寸止めだったよな?」
実戦派どころではなく、生死に関わるような修行しか受けていないゆえに。どの位置で止めればいいのか、そんな事さえ龍麻は知らなかった。
意味を悟り、京一たちも青ざめる。
寸止めをできない龍麻の相手を、普通の人間である少年がする?
それは、誇張でなく生死に関わる。というか、死ぬ。
「つ……疲れるまで躱し続けるって、失礼かな?」
「それは失礼だが……それしかない……のか。手加減の要領では、無理か?」
考え込み、代替案を出す醍醐に、龍麻は今までの一般人を相手にした場合を思い出した。
「俺の手加減って、気絶させることか死なない程度に叩きのめすことを指すんだが……いいのか?」
どちらかしかない。殺さない程度には力を弱めるか、一撃で昏倒させるか。試合というものは、それで良いのだろうかと、少々思い悩む。
「……美里が居るんだし、昏倒しかねェか。叩きのめすって、骨とか折っちまうんだろ?」
物騒なことを平然と尋ねる京一に、龍麻は頷いた。正確に答えるのならば、『骨とか関節とか砕いちまう』のだが、ただでさえヒキぎみな美里と小蒔に、止めをさすことはあるまいと考えて。
「どうかなさったんですか?」
ひそひそと、焦りの表情を浮かべながら囁きあう彼らに不安を覚えたのだろう。少年が首を傾げる。
「あ……あア。君は、寸止めとフルコンタクト、どちらがいいのカな?」
焦っているのか、妙に裏返った声で醍醐が尋ねる。
今更何を――と顔に書きながら、少年はきっぱりと答えた。
「拳武ですから、フルコンタクトです。まさか寸止めがお望みですか?」
挑戦的ですらある響きに、どこからかピキと音が聞こえた気がして、皆がそうっと龍麻の表情を窺う。
彼はにっこりと微笑んで優しそうであった。つまりは激怒でこそないが、結構怒っている。
「いえ、フルコンタクトの方が、私も有難いです」
私で丁寧語。今の彼の心は、精々ほざけよガキが――くらいの段階のようだ。
「ねえ、ひーちゃん。フルコンタクトってなに?」
とりあえずは和ませようと、龍麻の裾を引いて小蒔が尋ねる。その努力が功を奏したのか、冷ややか完璧笑顔から、普段よりの表情へとやや戻り、龍麻が口を開く。
「ああ、空手ってのはね、型だけを行う空手。それと攻撃を相手の身体に当てる寸前で止める寸止め空手、攻撃を直接当てる直接打撃制空手とあって、フルコンタクトってのは、最後の直接当てるやつのこと」
少なくとも、龍麻に不慣れな寸止めよりは遥かに望ましい展開だというのに、醍醐と京一は胸騒ぎがしていた。いざという場合は、躊躇わず間に入ろうと、彼らは小声で打ち合わせた。
はじめ――という醍醐の声を合図に、少年の方から仕掛けた。
予想よりもやるな、というのが、龍麻の正直な感想であった。感心さえしていた。
高校の一年にてこのレベル。全国でも相当の結果を出せるであろう。
あくまでも一般的には。
少年にしてみれば、悪夢以外の何物でもない。部の先輩すら、追い抜くまでにそう苦労はしなかった。だからこそ、真面目に相手をしてくれない――底知れぬ実力を隠す壬生を求めていた。
壬生も本気を出せば、これほどなのだろうか。
どれほど素早く踏み込もうと、全力を込めた攻撃を繰り出そうと、精緻なフェイントにて隙を突こうと、舞うように相手は全て躱す。
身体ごと避けられているのならば、まだ良い。だが、事実は違う。すぐにでも触れられるほどの距離に在るというのに、当たらない。ミリ単位で、完璧なまでに見切られている。
これでは幾ら繰り返そうとも、永遠に近付けない。
歯噛みし、少年は勝負に出る。
フェイントの右の前蹴り、本気に見せかけた――あくまでもフェイントの左上段回し蹴り。そして、地に着いた左脚を軸とし、前の回転さえも加えた右後ろ回し蹴り。
必殺の――必勝の連撃。今までの大抵の相手が、二撃目の回し蹴りを受けた。もしそれを避けたとしても、続けて襲いくる右蹴りに、文字通り吹き飛ばされた。
なのに、彼に届いたのは風圧だけだろう。位置すら殆ど変えずに、顔面を狙った右の蹴りさえも、僅かに仰け反ることだけで躱された。
「馬鹿に……しているんですか」
悔しさに唇を噛み、せめてもの矜持に息を整えながら、少年は言葉を搾り出す。
相手は呼吸さえ乱れていない。
当然だろう。彼は、開始した位置より、殆ど動いていないのだから。
「そう悲観せずとも。君は得意分野が足技だということが不運だった」
弱くなどない。高い機動力を生かし、恵まれてはいない体格をカバーする為に、足技を主とする。その選択は、間違っていない。
ただ龍麻には、何度も闘り合った相手に、足技のスペシャリストが居ただけの話。
更に、彼相手の際は、前後左右だけが戦場として固定されるのではない。蜘蛛でもあるまいに、天井を足場として加速した踵が降ってきた経験もある。
在るもの全てを足場とし、上下をも使う闘いに慣れた身には、二次元だけを考慮すればいい、道場でのまともな闘いは、退屈ですらある。
「こちらから動けば一撃で終わる。ゆえにしばらく付き合おうと思った。失礼だというのならば、今すぐ終わらせるが?」
嘘ではないのだろう。
だが、淡々と告げるその言葉を、受け入れてしまえば全てが終わる。壬生に認めてもらうという当初の目的さえも喪われる。
少年の表情が、ストンと抜け落ちた。集中は、嘗てないほどに高まっている。身体の隅々まで、制御が行き渡る。
防御など考えていなかった。
下手すれば命に関わる。そんな常識すら失念し、貫手を相手の喉元へ定め、少年は駆けた。
弓より放たれた矢と化した高速の一撃から、龍麻は大きく飛び退いて逃れた。
彼の立ち位置が、初めて大きく動いた。
ほんの少しだけ掠った。フルコンタクト制はおろか、通常においても一本に届かぬ接触。
それでも、避けられ続けた攻撃が掠めたことで、少年の顔は歓喜に輝いた。
但し、喜びは一瞬の事。
今のうちに。
連続で追撃を。
そんな筋の通った戦略は、微塵も考えられなかった。
殺される。死にたくない。でも――殺される。
交互に訪れる恐怖と絶望。感情全てが埋められる。可能ならば、悲鳴を上げて一目散に逃げ出したかった。だが、それすらも許されまい。
目の前の相手は、ただ棒立ちであった。今までのように、洗練された構えも無い。観察するかのような鋭い眼差しも無い。
そこに宿るは、純粋な殺意のみ。
「ひーちゃん、止めッ!?」
「龍麻!!」
制止の声も届かない。
踏み出されたのはただの一歩。
なのに、確かに存在した筈の距離は、一瞬で無とされた。
掌打などではなく、ただ拳で腹を殴られる。その手が、背に突き抜けてるのではと思うほどの衝撃。そして吹き飛ぶ感覚。
一挙に狭まる視界に映ったのは、高く上げられた脚。叩き付けられるのさえ待たず、吹き飛ばされる己との距離を瞬時に詰め、頭を砕こうかという蹴り。
躱すことなど到底不可能だった。
そもそも意識を保てなかった。最後に見た相手の瞳が、金に見えたのは少年の錯覚だったのだろうか。
悲鳴が響いた。
だが、最悪の事態だけは避けられた。
吹き飛ばされた少年の身体を、京一が受け止める。その凄まじい衝撃に顔を顰めながら、京一は慌てて顔を上げる。
間近に迫っていた龍麻によって、今にも振り下ろされようとしていた死の鎌は、醍醐が間に入り、止めていた。その背が一回り大きいことから考えるに、彼は白虎に変じているようだった。
「早く……ギャラリーを出してくれ」
微かに戻った龍麻が、苦しそうに囁く。
軋む声に、その様子に、尋常ではない事態だと理解し、小蒔が大きく手を叩いて、観客たちの注目を集める。
「はいはい、勝負ありッ!! 負けちゃったコが可哀想だから、野次馬はちょっと出てッ!!」
醍醐の尖った耳に、龍麻の金の瞳に、皆が気付かぬように。
わざと大袈裟に騒ぎ立てながら、急ぎ追い出す。
いつもの面子以外が外に出たことを確認し、緊張した面持ちの美里が、少年へ癒しの術を展開する。
ぐったりと動きもせず、口元からは血が溢れている彼の容態は、猶予はないと告げていた。内臓までが傷付いているかもしれない。
一方で、龍麻は膝をつき、蒼白な顔で口元を抑えていた。その身を、強い金の光が包んでいる。もしかしたら常人の目にすら映るのではと疑うほどの黄金の輝き。
「これ……多分、逆鱗ってやつだ。今すぐ……黄龍になって、……暴れ回りたい」
寒さに震えるように、吐き気を耐えるように、己が身体をかき抱いた龍麻は、力なく呟いた。
逆鱗に触れる。
格言となる程に有名な『龍の逆鱗』。
竜のあごの下にある一枚の逆さに生えたうろこであり、人が触れると大いに怒るという逆鱗。もちろん彼らはその言葉を知っていた。だが、まさか概念としての龍である龍麻に、そんなものが存在するとは、考えてもいなかった。
闘いの中で、龍麻がいつこの状態に陥ったとしても不思議ではなかったという事実に、彼らは怖気だった。
もしも柳生を前に彼が正気を失っていたら。
渦王須と対峙したときに力を制御できなかったのなら。
そのとき、世界は滅びていたのかもしれない。
「どうすりゃいいんだよッ!?」
「四神の抑えとか――か? だが、すぐに連絡が取れるのは如月くらいしか」
「大丈夫。少し待っていて」
焦る京一らに微笑みかけ、美里は呼吸の落ち着いた少年の身体を、小蒔に任せて立ち上がる。
苦しむ龍麻へそっと近付き、その胸に優しく彼を抱く。反射的に払いのけようとした龍麻の額に軽く口付け、その髪に優しく触れる。
「目を閉じて。ゆっくりと呼吸を整えて。私に――身を任せて」
囃したてようとの念など微塵も浮かばない、母の如き崇高な抱擁。
宥めるように髪を、背を撫でる優しい手。
荒れ狂っていた金の光が、徐々に凪いでいく。
菩薩眼の女は、大地の伴侶ともいうべき宿星を持つという。大地の具現である黄龍の力を、抑えることは可能であろう。だが、今の彼女の眼差しには、そんな宿星だけで説明できない暖かさがある。愛しい男を護りたいとの、強い意志がある。
穏やかになりつつも溢れていた金の光が、不意に消失する。
「ありがとう、葵」
己にも言い聞かせるように、殊更ゆっくりと龍麻は呟いた。
面を上げた彼の瞳は茶に戻り、暴走の名残は存在しない。
「彼……無事?」
視線の先は、小蒔のひざでグッタリとする少年。拭われたため、口元の血はもう存在しないが、血の気が戻りきらぬ顔色は痛々しい。
「ああ……。問題はないだろう。出血量はそうでもなかったし、喪われた血以外は、美里の力で癒されたのだからな」
一瞬むっとしてから、自制をどうにか働かせたことが、傍目にも丸分かりな醍醐が答える。確かに、少年は顔色こそは優れないが、呼吸音も整っている。
それでもまだ起こさない方が良いだろうとの結論に達し、彼が自然に目が覚めるまで待つことになった。
龍麻が着替え終わり、道場の片付けも済み、それでも目を覚ます兆候のない少年の様態に、やはり桜ヶ丘へ連れて行くべきかとの話があがる。
無論、京一は渾身の力を込めて反対したのだが、この面子での彼の決定権は、非常に低い。
「う……うわぁッ」
運ぼうと醍醐が近付いた瞬間に、少年が目を開き、恐怖に引きつった顔で退いた。少々心が傷付いた醍醐であったが、少年の恐怖の対象は、彼ではなく先程の龍麻のようだ。
意識がそのまま断絶していたと、少年は言った。
「そうですか……、僕は結局は一撃で」
説明に納得した少年が、悄然と項垂れる。
だが、あれは不幸な事故のようなものだったのだからと、慰めようかとの龍麻の心遣いは発動されなかった。何故ならば、少年は周りの言葉を、聞いちゃあいない。
「おこがましかった。僕如きが、壬生さんのライバルになろうだなんて。緋勇さんに勝とうなんて」
延々と続く少年の自省の言葉に、龍麻の嫌な予感センサーがピシピシと反応した。
なんだかとても厄介な事をした気がする。一本取り、普通に倒すよりも、遥かに面倒な展開になりそうな気が。
そして、それは大正解。
「師匠と呼ばせてくださいッ!!」
真っ直ぐな眼差し。輝いた瞳。
そんなもので直視され、龍麻は、先程龍が体内にて暴れたのとは、別次元の眩暈を感じた。
この遣り取りを、何処かで聞いたことがある。
霧島の勢いに困惑していた京一が、認めた後には、結構嬉々として稽古をつけてやっていることを知っている。
龍麻は、彼らの関係を、自分たちに当てはめてシミュレーションしてみた。
とてもじゃないが……御免だった。
「いや、あのね……。昔、吉田兼好っていう人が『みだりに人の師となるべからず。又みだりに人を師とすべからず』って言ったんだよ。俺もそう思う。師を持ってしまったら、師に影響される。君くらいの年なら、自分の視点を重んじた方が良いんじゃないかな」
理屈は通っている。ただ面倒事を避けたいだけとは思えないほどに。
兼好法師――先人の言葉まで持ち出して、どうにか説得しようと試みる龍麻であったが、少年に効き目は薄いようであった。
「良い言葉です。ですが僕はまだ、己の道を模索できるまでに達していない。いつか己が武道を探求できるように、今の御指導を、どうかお願いいたします!!」
これは、真神に数多い騒動の一つの数日後の話。
いわゆる後日談。
僕にゴミ捨てを頼むなど良い度胸だな――と、感心しながらゴミ箱を抱え、歩く青年が居た。
暗殺組は勿論のこと。一般の生徒も、若人特有の鋭敏な感覚にて、彼の剣呑な空気を読み取り、敬遠しているというのに、先程、掃除当番のひとりの青年が口にした言葉は、『ゴミ箱に一番近い奴〜、ああ、壬生か。捨ててきてくんない?』であった。どうやら、彼は空気が読めない性質らしい。
周囲の連中は恐怖に硬直していたが、実は壬生はその程度のことは気にしない為、あっさりと頷き、木々の中を歩き、焼却炉に向かっている最中であった。
音も無い。気配も無い。勿論殺気も。
なのに気付いたのは、経験則としか答えようがない。
ゴミ箱を両手で抱えた動きにくい状態ながら、躱したのは、壬生だからとしかいいようがなかった。
始点は、木の上から。
信じ難い速度で、幹と己の頭部のあった場所とを通った軌跡を、彼はゴミ箱を抱えたまま飛び退いて避けた。
「ご挨拶だね。……なんのつもりだい?」
そのままでは決まらないと悟ったのか、壬生はゴミ箱を脇に置き、見慣れた黒ずくめの青年を睨みつける。
尤も怒りの理由など、見当はついている。
無表情っぷりに輪が掛かっていることから察するに、相当お冠なのだろう。そもそも今の蹴撃自体が、普通の腕利きレベルでは問答無用に即死するほどのものであった。
「ナに?」
妙にひび割れた、感情が磨耗した声。
流石に今回はやばかったのかもしれないと、壬生は人生において滅多に行わない行為、『反省』をした。……少しだけではあるが。
「何とは?」
それでも、もちろん彼相手に謝りはしない。至極平然と、あくまでしらっとしたまま、首を傾げる。
「……」
「……」
沈黙。
むしろ噴火直前の活火山。
「何じゃあッ!! あの霧島と雨紋を足しっぱなしにした上に、黒崎のエッセンスをふりかけたような熱血小僧は!!」
そして大噴火。
言い得て妙だなと、壬生は感心した。
少年の熱血が伝染したのか、珍しくも龍麻が声を荒げる様子を、興味深く感じ観察していた。
ぎゃあぎゃあと喚き続ける龍麻であったが、段々と沈静化していく。勿論、それは声と勢いだけに限る。怒りそのものは欠片も収まっていない。
「ていうか、てめェ……最初ッから期待してたな、あのガキの負担が半分になることを」
むしろ、新たに怒りが沸いてきたのだろう。押し殺した声が、彼の限界まで撓みきった自制心を、よく物語っていた。
こんな時、ひらりと矛先を躱すのが如月。こんな事態をそもそも避けるのが御門。
そして、理解した上で煽るのが――壬生。
「当然だ。先を読んでこそ策士というものだろう?」
悪びれることなく首を傾げた壬生は、どこかでブツンという糸を裁ったような音が鳴った気がした。
「ならば先手必勝」
呟き、低い姿勢で正面より距離を詰めた壬生は、龍麻の手前で地を蹴り横へ方向を転換する。
転換先の木の幹を蹴り、勢いを増しての移動。背後まで廻り込み、その木をカタパルトとし、全ての推進力を加えて、完璧な姿勢での蹴り。
この間、一瞬。
三角跳びなど通り越し、五角も六角も利用した跳び蹴りではあったが、そのつま先が砕いたのは、罪なき地面。龍麻の姿はない。
わずかな驚愕の後、上を振り仰いだ壬生は、枝を足場とした龍麻と目が合った。
壬生が飛び退いたのと、しなった枝の力と重力とを加えた龍麻の蹴りが降ってきたのは、ほぼ同じタイミング。哀れな地面に、もう一つ大穴が開く。
弾かれたように距離をとる彼らは、周囲のことをあまり考えていなかった。どうせ鳴瀧がもみ消すだろうとの、共通の想いがあったために。
こんなにも渦巻く殺気に気付かぬようでは、拳武の裏の顔は運営できない。
異常事態に浮き足立とうとしていた彼ら暗部ではあったが、龍麻らの予想通りに、館長直々に、放置せよとのお達しが下った。
よって、地や木が悲惨な目に遭うこの闘いを、眺めていたのは極数名。
あくまでも表の立場にあるというのに、鋭敏な感覚により察知した少年は、歓喜に顔を輝かせたまま観戦していた。
『さすが!!これが真のライバルか!!』と、もしその声を龍麻らが耳にしたのなら、疲れのあまり闘いを止めたかもしれないほどに、逆方向にずれた感想を抱きながら。
何をやっているのだか、と。
いつかはこれが、館長を継ぐのか、と。
壬生の高速の動きを追いながら、溜息を吐くのは、現在の副館長。
その頃には己は引退しているであろう幸運に感謝しつつ、その時に副館長の地位に着きそうな忍びの末裔の青年の姿を思い浮かべ、先達者として、ファイト――などと、口の中で小さく激励してみた。
当の激励された青年は、木々を渡る影二つを、三階より見下ろし、教員免許を取れない学科というのは何科なのだろうなどと考え、訪れるであろう未来から逃避していた。絶対にあれの補佐にはなりたくないなと、現在神経をすり減らしている美術教師兼副館長の達観した顔を連想しながら。
そして特等席。嘗て彼らに割られた防弾ガラス越しに、飛び回る影を見下ろし、満足げに頷くヒゲが一名。
よくぞここまで成長したと、独り笑む彼は、やはり龍麻と壬生の師匠で――斜め下へ良い具合にずれていた。
誰ひとり噛み合うことのない感想を抱かれながら、いつ果てるともなく闘いは続いた。
相変わらず高度に、原因はあくまでも低度に。
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