TOPへ


背を凭れるコンクリートの堅い感触に、脇腹から流れ続ける血潮の冷たさに、青年は苦笑した。
つい数日前の話だった。

半身というべき存在から、珍しくも忠告めいたものをされたのは。

『今に始まった事でもないが……最近非常に厄介事に巻き込まれている。そういう時期なのかもしれない』
『だから? お払いでもして欲しいなら、雛乃さんか御門さん辺りに頼むべきじゃないのかい?』

肩の辺りに白い……正確には薄紅のぼやけたものを乗せた相手に、青年は首を傾げる。
万能に近い彼には、退魔的な能力も確かに存在する。だが、それならば相手も持っている。
更には、他の仲間には、巫女やら魔女やら陰陽師やら、専門家が揃っているのである。

『ああ、これの事なら構わないんだ。そうじゃなくて、お前も気を付けておいた方が良いって話だよ。いわゆる厄日ってやつなんだろうからさ』

そう続けた相手に、違和感を通り越して、恐怖に近いものを持った青年は、正直に想いを口にする。

『何か悪いものでも食べたのかい? 拾い食いは良くないよ』
『お前な……』


憤然とした様子ながらも、相手は去る時に念を押すように、再度言った。
本当に、気を付けろよ――と。

彼がそこまで念を押したことを、重要視しなかった己の軽率さを悔やむしかなかった。

だが、本当に問題はなかったはずだった。
高校生ながら特殊な仕事に従事する青年は、しばらく受験関連に専念する為に、その仕事を断っていた。
その上、忠告した青年を中心として起きていた東京の異変は、確かに収まったはずであった。

だから、変異の生じる要素など、なかった。

ただ彼は、己の運命と、半身たる青年の運命との重なりを甘く見ていた。
あの青年が、なんの落ち度も前触れも無く厄介ごとに巻きこまれるのならば、己もそうなのだということを、認識していなかった。

深夜というほどでもない夜――十時過ぎ頃に、彼は帰宅途中であった。
ついいつもの習慣で、暗い近道を通っていた時に、小さな殺気に気付いた。

己に向けられたものではないそれの出所を手繰り視線を向け、彼はしばし呆気に取られた。
少し先の、公園の広場には、既に幾つかの動かない人の形をしたものが転がっていた。
残る数人も、次々と倒されていく。

恐るべきことに、それはひとりが行っている様子であった。
どうやら腕利きひとり対十数人の凡庸レベルとの闘いらしい。

凄まじい手腕に、賞賛の口笛のひとつでも吹きたい気分になったが、
関わりのない組織の争いに巻き込まれるのは御免であった。
よって、彼は足音を立てず、気配も無のままで、元来た道を辿った。

それで終わるはずだった。
死闘は、彼には関わらず続いているはずだった。

しかし、予想よりも早く終わってしまったようであった。
本能の警告により、飛び退いた彼の右脇腹に灼熱感が走る。
致命傷ではない――そう判断し、手を当てることすらせず、
至近距離に入りこんでいた敵の首へ、蹴りを叩き込む。

威力に吹き飛ばされる相手が、確かに腕でガードしていたのを見て取り、彼はすぐさま逃走に移った。


人気のない橋の下で、青年は濡れた脇腹を探り、半ば突き出た細い針状の物を握ると、一気に引き抜いた。
いくらか血の量が増すが、怖れていた鉤状ではなく――かえしが付かないような、真っ直ぐなものであった事に安堵する。
また、刺さっていた部分の長さから、おそらく敵が狙ったであろう器官――肝臓には届いてないだろうとの判断を下す。

しかし、その武器を観察するうちに思い当たった。
完全なまでに、隠す暗殺に特化されたものであることに。

その長さゆえに、心臓なり脳なり重要器官なりに、容易に届く。
その細さゆえに、肋骨等の骨の守りをものともしない。

そして、彼は中途半端に躱した為に出血したが、完全に押し込んでしまえば、僅かな血と小さな傷しか残らないだろう。
合理性に感心しつつ、もう治ったかと思い、傷口に手を当てる。
彼は半身ほどの自己治癒能力は有していないものの、常人を遥かに越えた治癒力がある。

だが、本来はとうに止まっているはずの流れは、依然として続いていた。
身体から流れ続ける血が、川の色を濁していく。

じわじわと戦慄が染み入ってくる。
こんな小さな傷口からの出血量にしては、多すぎ、長すぎることに今更気付く。

痛みにも血にも慣れすぎて、鈍感になっていたことが致命的であった。出血量は既に『人』の限界に近く、身体を動かすと眩暈に襲われる。

「やられた……」

針を仔細に観察し、中央付近の色が他と僅かに異なることに気付き、舌打ちする。

二段構えの用心。
全て押し込めば、針は栓と同様の役目を果たし、殆ど出血しない。
だが、抜けば中央の何らかの薬品が傷口に付着し、その効果を発揮する。
灼熱感も激痛もないことから考えるに、直接的な毒ではなく、おそらくは――血液の凝固を阻害するもの。

助かる可能性があるとすれば、致死の血液を失う前に、薬の効果が切れる事のみ。
効果さえ消えれば、この程度の傷など一瞬で治る。

「そんなはずがないけどね」

が、彼の顔には、苦笑が浮かんだ。
あれほどの腕を持ち、これだけの下準備をするプロの道具に、そんな都合の良いことが起こり得る訳もない。

何か色々なものを諦めて、鞄を探る。

彼は任務中ならば、当然、身分を明かすものは一切所持していない。

だが、今は一般の――しかも少々真面目よりの学生である。
きちんと生徒手帳を携帯しており、それには三年 壬生紅葉と記載されている。
拳武という高校に属する壬生紅葉という人物と、拳武の長の懐刀とまでいわれる『壬生』を結びつけるのは、至極当然である。

「醍醐くんでもあるまいに……。タイガーマスクみたいだな」

テレビ版だったか漫画版だったか定かではないが、最終回、事故に遭ったタイガーマスクが、その正体を晒さないように、持っていたマスクを下水道に投げ捨ててから息絶える。
そんなシーンと、プロレス好きかつ『虎』の宿星を持つ仲間のことを思い浮かべながら、壬生は生徒手帳を取り出し、川の流れに乗るように、投げ捨てる。


流れ続ける血を眺めながら、自分が陽の龍であれば――とつくづく思った。

龍を身に宿せば、傷は再生し、毒など霧散する。
だが、ここで龍を降ろすことは、彼には出来ない。裏であるがゆえに、彼は自在に王龍たりえない。

陽である王龍――黄龍である半身、緋勇 龍麻が共に居る場、もしくは、彼の名において委任されなければ、完全に降臨させることは不可能である。
例外は緋勇 龍麻の命が消えるか、その寸前にまでなった場合のみ。


一向に収まらない吐き気に、刻々と暗くなっていく視界に、深刻な失血の症状に、身震いする。

こんな最期を、覚悟していなかった訳ではない。
暗殺者となった瞬間から、何時でも起こり得た終幕である。

それに、これで生命が終わっても、雇い主でもある師匠は、彼の母親を見捨てはしないだろう。

だが、心底恐ろしく思う。

『亜里沙は脆い。お前を喪ったら、きっと耐えられない』

いつか半身より為された忠告がグルグルと頭を廻る。

そう――死ぬ事自体よりも、彼女が哀しむ事が恐ろしい。
弟を喪った経験のある彼女は、これ以上大切な人間が奪われることを極端に恐れる。
緋勇が、黒幕ともいうべき真の敵に殺されかけた時の、彼女の錯乱の度合いは酷かった。美里の上を行っていたかもしれない。

―――では、壬生の死を彼女が聞いたら、どうなることか。


死にたくない、死ぬわけにはいかない。
――――彼女を泣かせたくない。

薄れゆく意識を、彼は懸命に繋ぎ止める。

彼は気付いていなかった。
強い想いが、奇跡を起こしつつある事に。

混濁した意識に細められたその瞳は、僅かとはいえ紫がかっていた。

周囲の闇を更に凝縮したような漆黒の塊が、傷口を覆い、やがて傷に吸い込まれるように消えていく。
しかし、それは少しばかり遅かった。

既に意識を失った彼は、気付く事はなかった。

「誰かいるの? どうしたの?」

闇を掻き分け、ひとりの少女が現れたことに。

染色月

廊下を歩いていた青年は、不意に目の前に現れた相手に、それと気付かれぬほど微かに目を見張った。

「緋勇、お客さんだ」

気配も兆候もなく、忽然と間近現れた男は、覇気もない声で告げる。

臨時の担任である彼に、やる気が存在しないのはいつもの事であるが、珍しいことにかなり嫌そうな響きが声に宿っていた為に、青年――緋勇 龍麻の面倒事センサーが敏感に反応する。

そうですか、ありがとうございます――言葉上は丁寧に礼をしながら、いきなり全速力で反対方向へ進もうとした彼であったが、一瞬後には襟首を掴まれていた。

捕まった緋勇は、不審の目で相手を見る。
はっきり言って今の教師の動きは『力』を使っていた。そこまでするほどの事なのか。

「俺が嫌味を言われる。素直に行け」
「え〜〜」

屋上で待っているそうだ――そう告げると、掴んでいた手を放す。
仕方なしに、緋勇は嫌々階段を上っていく。
逃げぬようにと圧力を含んだ教師の視線が、いつまでも背中から離れぬのを感じながら。


「紅葉が、昨夜から行方不明でね」

単刀直入に用件を告げたのは、予想通りの相手。緋勇の師であり、知人の通う高校の校長にあたる人物。
昨夜からって子供じゃないんですよ――と顔を顰める弟子には特に構わずに、彼は説明を続ける。

「ハーミットと呼ばれるフリーの暗殺者と、とあるカルト集団の殺し合いが、彼の家の近くで起きた。もしかしたら、帰宅中に巻き込まれたのかもしれない」
「はぁみっと。……隠者ときた。前から疑問だったのですが、どうして殺し屋のコードネームは恥ずかしいんですか? まさか貴方にも『踊るフランス人形』とかあるんですか?」

そんな場合じゃねェだろ――と、常識人であれば突っ込みたくなるような点に対して、緋勇は首を深く捻った。尤も師匠は、そんな彼のずれた反応には慣れている為、平然としたものであった。

「フランス人形……どこから連想した名か知らないが、拳武の人間は、基本的に普通に呼ばれる。稀に武器が称号的に冠されることもあるがね」

そりゃ、ロング茶髪ゆるやかウェーブですよ――と、小さく呟いてから、緋勇は納得したように頷いた。
脳裏に浮かんだのは、偶然出会い、殺し合いにまで発展した、ある拳武の人間の異名。


「死んでいたら、もっと何かしら流れ込んできそうなので、命に別状はない……と思いますが」

先ほどの師匠の言葉を吟味したようで、しばし考え込んだ後、さほど自信はない様子で、ぽつぽつと口にする。

嘗て、宿星的には何ら関わりの無い親友行方不明の際には、『何も感じない筈がない。だから無事だ』と断言したのとは、えらい違いであった。


「殺し合いの現場は、この辺り。紅葉の生徒手帳が見つかったのが、この川の下流だ」

地図を示す鳴瀧の指先を目で追っていた緋勇は首を傾げる。
ここまで限定されているのならば、拳武の力だけで充分に居場所が掴めるとしか思えない。

常識的に考えられる範囲を指でなぞり、訝しげに師へ問う。

「素人考えですが、拳武の力でこの辺を舐めれば、すぐに見つかりそうですが。……まさかただ面倒事に巻き込みたいだけではないですよね」

正しく素人考えだと鼻で笑った師に、弟子はほんの一瞬額が引きつった。
だが、走った青筋を即座に消して問う。

「浅学ゆえに、懸念が理解ができません。ご教授願えますか?」
「拳武による大掛かりな捜索は、それだけで注目を集める。神出鬼没、正体不明こそがウリの暗殺者、しかもトップの人間の行方不明など、僅かに噂されることすら許されない」

明らかに怒りの表れである緋勇の丁寧語に、言い過ぎたかもしれんとの後悔の色を微かに面に乗せ、鳴瀧は答える。
そして――と、真面目な表情に戻り付け加える。

「遭遇したかもしれない殺し屋のことも気になる」




「この辺に反応があるわ〜」

探し人ならば、プロに頼めば良い。
霊研を訪れた緋勇に、裏密ミサはあっさりと答えた。

「随分と明瞭に分かるのだな」
「壬生くんの氣なら大体知っているし〜、ひーちゃんとあなたという似た性質の氣が間近にあるのだから〜、絞るのは難しくはないわ〜」

誇るでもなく平然と告げたあと、彼女はでもなんかヘンな感じと、首を捻った。

「あいつはいつもヘンだよ?」
「そうじゃなくって〜、身体は普通だけど〜、精神の反応が弱いの〜。意識の混濁とかしてるかも〜」

本当に微かに。
だが瞬時に、緋勇と鳴瀧の表情が翳り、顔を見合わせる。



裏密に礼を言い、即座に真神を飛び出した彼らは、校門前にて立ち止まった。鳴瀧は報告書にて見たことがあり、緋勇にはよく見知った人物が待っていた。

「龍麻……、よかった。紅葉と昨日から……連絡がつかないの」

嘗ての再現のように。今にも泣きそうな不安の表情で。
藤咲 亜里沙が震えていた。



力ならば充分過ぎるほどにあるからと、緋勇は鳴瀧に説明し、鳴瀧もまた、問答で要らぬ時間を浪費するくらいならばと、藤咲を同行させることを了承した。


「先程の少女の占いが正確ならば、この辺りのはずだが」
「あー確かにここまで近ければ、なんとなく分かります。ちょっと待って下さい」

タクシーから降り、周囲を見回す鳴瀧に、緋勇が半眼となり集中する。真剣な表情を、藤咲は祈るようにみつめていた。

彼女には探索手段が無い。大切な恋人の危機だというのに、なにも分からない。

「分かった。……本当に反応がおかしいな」

薄く目を開いた緋勇が首を傾げる。
確かにすぐ近くに在る。だが、違和感が消えない。

「その少し先の豪勢な一軒家です」




冗談のように高い塀。
木々に囲まれた、大層な高級住宅地の中でも、相当の規模。

いかにもな洋館を訪れたところ、出てきたのは二十に届かぬであろう少女。

知人が此方でお世話になっているらしいという話を伺ったのですが――と、外面モード全開で礼儀正しく問う緋勇に、少女は頷いた。


ただし、連れてこられた青年は、呆然としたまま、訪問者たちの顔を眺めていた。

「彼に怪我等はなかったのかね?」
「服には――脇腹の辺りに血がついていました。でも怪我はなくて――記憶もないと言っていたので」

鳴瀧の問いに、少女は困った表情にて、申し訳なさそうに答える。
他人を眺めるような目も道理。記憶に障害が出ているのだと、少女は告げた。何故ここに居るのかも、自分が誰なのかさえも彼は分かっていないのだと。

「紅葉……うそでしょ? あたしのことも……分からないの?」
「……申し訳ない」

困惑した瞳で、すまなさそうに己を見る恋人の姿に、藤咲は息を呑んだ。
あれほど自分だけには甘かった相手が、全てを忘れきっている。

だが、やりきれない想いをぶつける前に、間を遮られた。すっと壬生の前に立ったのは、緋勇であった。

「君は……?」

同様に、申し訳なさそうに呟いた壬生に対して、本当に何も思い出せないのか――と、何故か異様なほどに、にこやかに微笑んだ緋勇が、静かな声音で訊ねる。

態度から展開の想像できたふたりが、焦った様子で声を掛ける。

「やめるんだ、龍!!」
「ちょっと、龍麻ッ!!」

ふたりの必死の制止が意味するところは理解できず、壬生は正直に答える。

「すまない、君のことも彼らのことも全ッ!!」

もっとも最後までは続けられなかった。
壬生は頷いた直後に、景気良く吹き飛ばされた。
ゴッと鈍い音が響いて激痛が襲ってきてはじめて、彼は己が壁に激突したことを認識できた。

声も無く後頭部を抑える彼に対し、緋勇は昏く呟く。

「死にさらせ。つーか、むしろコロス」

表情は、完全な無表情。声音に抑揚はなく。

彼と壬生の間に、両手を広げて立ちふさがった藤咲と、懸命に彼を羽交い絞めにして止める鳴瀧がいなければ、実行に移されていたかもしれない。それほどに、緋勇はキレていた。

あれだけ念を押していた。
藤咲が、どれほど脆い面があるかを。それを踏まえて、なおも彼女と付き合い、拳武の仕事を続けるのならば、何があろうと死ぬなと、伝えたはずだった。
そして、壬生も確かに答えた。分かっている―――と。

それが間抜けにも重傷を負い、なおかつ、記憶の混濁があるときた。

本気でこのまま死ね――と、彼は嘘偽りなく思っていたし、その気であった。

ふたり掛りで宥められ、どうにか実行を諦めた緋勇と目が合った少女は、そのまま硬直した。
彼は既に激昂はしていない。態度も落ち着いたものだ。

だが殺される――と思った。
静かな意思。純然な殺意。暖かな感情など欠片も存在しない瞳に、少女は震える声で叫んでいた。

「彼は帰せません!! 貴方が何をするか分からない!!」


「全く、こんな事態になるとはな」

拳武の館長室にて、鳴瀧は溜息と共に呟いた。
あの目は演技などではなかった。壬生は本気で記憶を失っている。

今さしあたって急ぎの仕事があるわけではないが、遭遇した可能性の高い殺し屋の件もある。一刻も早く戻ってもらうに越した事は無い。

ゆえに彼は拳武の館長としての行動を取った。
何らおかしくは無い、当然の行動を。


殺気を纏った男たちの姿を電柱の上より見下ろし、緋勇もまた溜息を吐いた。
予想してなかったわけではないが、本当にやるなよヒゲロン毛――という想いで胸が一杯になる。

裏に情報が流されたのであろう。『拳武の壬生』の居場所。そしておそらくは、怪我だのなんだのと理屈をつけた上で、弱体化しているというお得なお知らせ付きで。


記憶を――闘う術を失った弟子に対して、殺し屋をぶつけるというのはどうなのか。

雑魚であることが、師のせめてもの優しさなのだろうか。

確かにあの人の教えは、獅子は我が子を千尋の谷に落とし、更に大岩を転がし、どうにか上がってきた手を踏みつけて高笑いするって感じだからなあと、悪しき思い出を刺激された緋勇は、軽く頭を振る。

今は師に対し、殺意を燃やしている場合ではなく――己はどうするか。

闘う術を失い、雑魚相手に、悪戦苦闘する半身を、上から眺めていても良かった。流石に殺されるまで記憶が戻らなければ間には入るが、苦戦レベルならば、ただ見ているのも楽しそうだと思う。

正直なところ、誘惑にかなり惑わされかけた緋勇であったが、決心する。

壬生の為でなく、あくまでも藤咲の為に。
この家から帰る間、虚ろな眼差しで、ずっと生返事だった彼女の為に。

小さな足場から、一歩踏み出した。



とすん――と。
微かな音だけて中央に降り立った青年の姿に、暗殺者たちは我が目を疑った。暗視スコープと武器を装備し、闇の中での行動に備えた彼らと違い、青年は軽装極まりなかった。

「これで皆さん勢ぞろいですかね?」

問いの形をとりながら、微かな動きで周囲を探る。その動作にすら滲み出ている。本来の彼らが歯が立つはずもない腕利きだと。

だが、今この場では、絶対的な有利は暗殺者たちにある。
一対多数。そして、青年は、暗闇の中で、対処方法も持たず、武器を用意した様子もない。

「どこの者だ? 協約も成さずに、この場に姿を現すなど、正気か?」
「心配していただき、ありがとうございます。ですが――」

人数差など意味がないと、青年は微笑んだ。
本物の余裕に、暗殺者たちの間に緊張が走る。流石は、生死の境に身を置く者たちではあったが――――相手の非常識は、遥か上をいった。

「暗視スコープを装備した方に、このお約束は外せませんね」

青年は何かを地面に叩きつける。

「フラッシュグレネードだと!?」
「し、しまった」

暗視スコープにはハレーション。
様式美に近いほどの基本的な対処法。

僅かな明かりを拾い暗闇を照らす暗視スコープは、強い光を見てしまえば一時的に視力を失う。
そして、青年には、閃光弾を買う必要などなかった。使用すると強い光を発する珠など、馴染みの骨董屋にも、アイテム補給庫たる旧校舎にも溢れている。

「本来、貴方たちごときに必要ないのですがね」

お約束には従わなくては――。

笑みを含んだ呟きを聞いた者は、何人居たことか。
余韻など与えず、彼は風の如き迅さで舞った。すれ違った者は、何もできずにバタバタと倒れていく。

視界が回復したときに、残っていた者はたったのふたり。技量になんら関係はない。彼らはただ最初の位置が遠かった。それだけの――不幸であった。

「ま、待ってくれ。独り占めしたいというのならば退くから……」

狼狽する男たちに対し、青年は、壬生が狙いなのではないと、否定してみせた。

「罠……だったのか?」

悔しげに呟いた男に対し、青年はくすりと笑った。
お前らレベルにそんな手間など必要あるかよ――と嘲笑う内心を宥め、穏やかな眼差しで嘲弄を取り繕った上で、殊更ゆっくりと首を横に振る。

「いいえ、壬生は確かに闘う術を失い、その家の中に居る。情報は正しかった」

拳武なのかと慄く男たちに、青年は、はい――と優しく頷いた。

「な……何者なんだ!?」

声すら震える男に、彼は酷薄な笑みを浮かべた。
一歩踏み出し、問いに応じる。

「我が名は――八剣 右近」

平然と他人の名前を口にして。

僅かな禍根も人に押し付ける。
彼らレベルが幾人集おうとも、彼にとっては雑魚に過ぎないのだが、それでも名乗りはしない。

名乗られた高名な殺人者の名に、暗殺者たちが身を硬くしたのは一瞬。
青年にはとっては、長すぎるほどであった。


たっぷりと暗くなってから、鳴瀧は壬生を発見した家へと戻った。
気配を消し、周囲を観察して、感嘆の声を洩らした。

「ほう」

口元は僅かにつり上がり、目には楽しそうな光が宿る。
予想とは少々異なっていた。そして遥かに面白い展開であった。

息を殺して潜んでいる筈の、暗い色彩の服を纏った者たちが、あちらこちらに、人形のようにぴくりとも動かずに倒れていた。

「これは……君の仕業かな?」

誰も居ない、何の気配もない闇に、彼は問いかける。
相手は迷いもせずに、そこから現れた。意味のない隠行を続ける趣味は、持っていない様子であった。

闇を固めたかのような黒の上下。ご丁寧にハイネックな上に、黒の皮手袋まで身につけている。
暗いカーキのシャツを上から羽織った青年は、冷ややかに、剣呑に、頷いた。

闇と暗い木々の中での闘いに向けた服装をわざわざ纏った彼に、鳴瀧は僅かに苦笑を洩らした。彼の眼差しと殺気に対して、更に笑みは深まる。

「で、連中に――名声目当ての暗殺者などに、『拳武の壬生』の弱体化と居場所の情報を流したのは、貴方ですね」

続いた追求の言葉にも、鳴瀧は笑うのみであった。
手っ取り早く記憶が戻るように、危機に瀕させる――それは、彼にしてみれば、当然の手段であるようだ。

むしろ弟子を非難するかのように、肩を竦めてみせる。

「君こそ意外に過保護だったのだね。紅葉ならば、きっと切抜け……」
「奴に対して過保護なのではありません。ところで……後手の携帯離して頂けませんか?」

途中で遮った緋勇は、一層凍えた表情となっていた。
それは、心まで射抜くような峻烈な眼差し。
二段階目の相手――拳武に恨みを持つ連中への、情報公開指示を送信しようとしていた鳴瀧の動きが止まる。

「優しいと思わないかね? ちゃんと三段階に分けたのだよ」

彼は苦笑しながら、言い募る。
一段階:金等が目当ての雑魚、二段階:拳武に恨みを持つ者、三段階:壬生自身を恨む者と分け、こんなに気を使ったのに、なぜ君は怒っている? ――そういわんばかりの師の言葉に、緋勇の脳の血管が、幾本かまとめてぶち切れる。

「聞く耳持ちませんね」

先程までの雰囲気が、冬の凍てつく大気だとしたら、今は北極圏のブリザードである。
流石に怒らせすぎたかと、内心で少々反省しながらも、鳴瀧は笑みを消さずに――不敵に応じる。

「それは困ったな。君は強くなったから――殺さぬように手加減して気絶させるのは、少々手間が掛かるというのに」

あくまでも余裕のような言葉を掛けながら、心では緊張を高める。
一年前の緋勇を――素質こそは凄まじいものの実戦経験の少なさから、隙の多かった彼を思い出し、つい小さな笑みを浮かべる。

今の彼は全く違う。
経験が、死に瀕した危機が、彼を急激に成長させた。
風に溶け込むような希薄な気配にて、前兆もなく行動に移せる。

「殺すつもりで……構いませんよ」

限界まで圧縮された殺気の中で、ふたりの間に一枚の葉がひらりと落ちる。
―――それが落ちきる前に、彼らは同時に動いた。

身長180を超す彼らふたりの頭より高い位置で、脚が交錯する。

それは一瞬のこと。
踵落としに似た要領で、緋勇が蹴り足を戻すように薙ぐ。――鳴瀧の頭部に向けて。

手加減する様子もなく、当たれば顔を蹴り砕いていたであろう蹴りを、鳴瀧は軽く屈んで避ける。
深追いせず、流れるように退いた緋勇は、挑発ごときに動きが乱れる様子は微塵もなかった。

緻密なフェイントを交えつつ、急所狙いの攻撃を、鳴瀧は捌くでなく引いて躱した。

一方的な攻勢に、緋勇の方が眉を顰める。
自分が有利なときは、相手が何かを企んでいるときだということを、経験上哀しいくらいに熟知しているがゆえに。

疑念は正解。
微かな音と共に、何の苦もなく間合いに入った師は、零的距離からの掌打を弟子の頭部に、躊躇いもなく放つ。

顔を圧搾しかねないそれをスウェーで避け、距離をとった緋勇は小さく舌打ちする。
どうにも半身相手の感覚から逃れられないが、ああまで蹴りを多く使うのは壬生個人の好みの問題。元来の陰の龍は―――少なくとも鳴瀧や幕末に知っていた少年は、手とて使う。
僅かな違和感によるほんの少しの反応の遅れは、この領域では致命的な結果となりうる。

「非道い。気絶以前に死ねますよ。ほんとの意味で、弟子の顔を潰すつもりですか」
「構わないと言っただろうに。それに、師の脳漿ぶちまけかねない蹴りをしてきた君の台詞ではないだろう」

面白がっているとしか思えぬ鳴瀧の笑みに、緋勇は真顔で応える。

「心に大きく頑丈な棚を作れ。どんなものでも上げられるように――というのが私のモットーです」
「他にも碌でもない信条が沢山ありそうだね」

昨年の今ごろに修行をつけていた際も、緋勇はそうだった。

古の賢人が言ってましたし――などとほざきながら、雨が降ったので今日はお休みですと逃げていたりした。ハメハメハ大王がいつ賢人になったのだと、激怒する師範代らを宥めながら、善良な両親との類似点がどこかに片鱗だけでも存在しないかと、必死に探した日々を鳴瀧は懐かしく思い出した。

「他といいますと、明日できることは今日やるなとか――――」

逆だろうと鳴瀧が突っ込む前に、緋勇は言葉を切った。

何より大事なモットーを思い出しました――と続けた緋勇と、それに思い当たった鳴瀧と。
ゆっくりとふたりの顔に浮かんだ笑みは、まるで同種のもの。

彼らは同時に呟く。ある意味で――彼らの流派の根底に流れるモットーを。

「「殺られる前に殺れ」」

言葉は重なった。前へ進む歩みも同時。

あとは最早、暴風。
台風の如き衝撃を伴う重さの攻撃を、信じがたい速さで相互に行う。


師弟の稽古とは呼べぬ闘いは、目的を見失うほどの激しさで行われた。
もしかしたら永劫に続いていたかもしれない。


屋敷で爆発した、陰の龍の氣によって―――中止を余儀なくされなければ。


少し前に、微かな悲鳴がした。
注意してみれば、時折押し殺したような悲鳴が聞こえる。

警察にとも思ったが、電話は通じもなかった。
それは家の電話に限らず、携帯さえも圏外を表示する。この家では、三本立っている状態が常だというのに。

「どういうことなの?」

何が起きているのか理解できず、少女はパニックに陥る。
折悪しく、何かが割れる音が響いた。

「何? 一体どうなってるのッ!?」

悲鳴をあげ、しゃがみこむ。
そっと、その隣に屈み込んだのは壬生。

「わからない……。けれど、君は護ってみせるから」

壬生は、少女を抱きしめて囁く。
その手は彼女の背に回され、あやすように――安心させるように、優しく上下に動く。

その暖かみに、護るという壬生の強い言葉に、少女の震えていた身体が止まる。
涙目で見上げてくる少女に、壬生は微笑む。

その笑みが、触れ合った箇所から感じる彼の鼓動が、少女の恐怖を和らげる。

「ありがとう……」

少女は、涙を滲ませ、己の手を壬生の背に回す。

左手がそっと背に触れる。壬生の鼓動を、確かに感じる。
右手には――黒光りする長針が握られていた。

場所を測るように、左手が僅かに上下する。
やがて、相応しい場所――心臓の真裏に到達し、しばらくその動きが止まる。

この位置で、細い針を得物とするからには、力を入れる必要もない。
それでも躊躇するように、僅かに手が震える。

だが、彼をこのままにはしておけない。
昼に訪れてきたのは、拳武の館長。共に居た青年も、並の腕ではなかった。殺気の昏さから考えても、拳武の中でも上級にあたるのであろう。

後顧の憂いは断たなければならない。

やがて、決意した少女の目に、僅かに痛ましげな光が宿る。

右手に力を込めようとした瞬間に、彼女の視界は暗転した。


意識が戻っても、碌に動かない身体。
激しい後頭部の痛みに、いまだ暗い景色。重度の貧血のような状態に、手刀にて打たれたのだと気付かされる。
同時に少女は理解した。『拳武の壬生』の記憶がとうに戻っていたという事を。

「……いつから?」

床に転がったまま、青年を見上げて問うた。

壬生は、この家に来てから見せたことのない表情をしていた。
おそらく自分も今、同じ顔をしているのだろう――少女は、感慨もなくそう思った。

「昼に来た中のひとりに、殴られた瞬間に」

答えるのは少女と同じ、無表情で抑揚のない声音。
拳武のトップとは、伊達や酔狂で与えられる評価ではない。それゆえに、これは異常な事態だ。

「じゃあ、なぜ私を殺さなかったの?」
「君は僕を殺さなかった。そして、君が殺していた連中は、僕と関わりがない。逃げるかい?」

どうやら本気らしかった。悪い冗談としかいいようのない申し出に、少女は嘲笑で応じた。

「無理よ、拳武に正体のばれたフリーの殺し屋なんて、誰も使わない。それくらい知っているでしょう」

声に僅かな怒りが混じる。
棒読みであった言葉に、挑戦的な響きが宿る。

引退という手もあるよ―――壬生はそう答える。

「他の生き方なんて知らない。私はこれしか与えられなかったんだから」
「探してみてから、否定すれば良い」

予想外に穏やかな壬生の言葉に、少女は首を振る。

考えたことなどないのだから。
考えることなど許されなかったのだから。

考えなければ――楽なのだから。

「このままくだらない話を続けるつもりなら、僅かでも動けるようになった瞬間に、貴方を殺すわよ」
「残念だね」

溜息を吐き、壬生は一歩踏み出す。
少女はそれを待っていた。

呼気とともに三本の針を取り出し、その手を揮う。

顔というよりも眉間を狙った針を、壬生は仰け反って躱す。
投擲と同時に跳ね上がり、ナイフを振りかぶった少女の腕を、避けた勢いに任せ、バク転の要領で、正確に蹴り上げる。

痺れ、ナイフを取り落としそうになった左腕に、懸命に力を込めて少女は飛び退き、隙なく構えた。
左手に近接格闘用のナイフを、右手に投擲用の針を持ち、顔の前で交差させる隠者と呼ばれる殺し屋独特のスタイルで。

「なんだ。もう動けるって気付いていたの?」

苦笑する少女に対し、壬生は無表情で応じる。

「君は一度、殺せるはずの僕を助けた。そのお返しだった。……今逃げるのなら、追わないよ」

最終勧告。ここに留まるのならば、殺し合い。
言外に告げる壬生に対し、少女は構えることで応じた。

それ以上の説得はせず、壬生も身構える。
もはや交わす言葉も、その必要も、余裕もない。

彼らは同じ人種であった。
気負うこともなく愉しむこともなく、仕事として人を殺せる、衝動を持たない殺人者たち。一片の殺意も抱くことなく、相手の活動を停止させるためだけに、効率的に動く。

ゆえに心理戦は存在しない。
限られた空間を戦場に、無言のまま互いの技量を最大に発揮しあう。

幾度かの交差の後、蹴られたナイフが少女の手から遠くへ弾け飛んだ。

だが、そこで動揺するようでは、一流とは呼ばれない。遠近両対応から、即座に遠距離戦へと己のスタイルをスイッチする。
少女は、後ろへ跳び、距離を詰めようとしていた壬生の間合いから逃れる。

更にバックステップ。その一瞬間に、魔法のように手には針が現れ、しなった両腕から、八本の針が放たれる。間などおかない。即座に現れた新たな八本の針が、先の軌道の間を縫うように、壬生へと迫る。

遮蔽物などない場で、上に逃れれば、少女の連射砲の餌食にしかならない状況で、壬生が選択したのは――下。ダンッという床を蹴る音。視界から消えるほどに、地を這うかの如き低さで少女に迫る。

それでも少女の驚愕は、ほんのわずかの間。次の瞬間には、正確に壬生に向けて投擲された針は、またもや空しく床を抉った。
更にもう一度行われた側面への方向転換は、完全に少女の動体視力の上をいった。

彼女は下がりすぎていた。通常は安全な位置となる左右に壁を置く部屋の角は、壬生を相手にする場合は、加速台にしかならない。

背を強打され、少女は感覚を失った。指一本動かない。
目の前に音も立てずに降り立った壬生が、静かに口を開いた。

「もう良いんじゃないかな?」

幾度最終勧告をすれば気が済むのだろうと、少女は呆れた。拳武の壬生ともあろうものが、未だそんな戯言をほざくとは。流石に殺し合いの最中に、無駄口を叩くほど愚かではなかったようだが、それにしても甘すぎるだろう。

「それを……選べる筈が……ないでしょう。さっさ……と殺しな……さい」
「じゃあ取引。君が僕を助けた理由を教えてくれたら、止めをさすよ。そうでなければ、手当てをする」

少女は、壬生の評価を訂正した。これは甘いのではない。意地っ張りなのだ。

「無関係の者を殺すのは……、好きではない……からよ。立ち去る背を見たから……咄嗟に追ってしまったけれど、本来貴方……には何の関係も無い……仕事だったのだから」

そう――と頷き、一歩踏み出した壬生の瞳を見て、少女は気付いた。
不思議であった。死を映すだけの虚ろなもの。間近に開いた暗い奈落のような闇の中に、僅かに感情があった。それは他者の生死を握る愉悦でもなく、命を奪う恐怖でもなく、――迷っていた。

どうせ避けることなど叶わない。ゆえに、地に伏せたまま、純粋に疑問に思い、尋ねた。

「『拳武の壬生』……貴方は、人殺しが……好きなんじゃ……ないの?」
「別に好きではないよ。ただ――」

――得意なだけさ

答えは、少女に聞こえたかどうか。
同時に降ろされた死神の鎌が、彼女の意識を確かに断ち切ったから。


「ここは?」

痛む首に手を当て、少女は呟いた。
絶え間ない鈍痛により、身体を起こす事は出来ない。ゆえに入ってくる情報は、天井とベッドの周囲だけ。ほぼ白一色の世界、腕に取り付けられた点滴。連想する場所はただ一つ。

――病院。

「あ、良かった〜。目が覚めたのね〜」
「あ……ここは桜ヶ丘中央病院という所です。あなたは意識を失った状態で、運び込まれました」

ナース服を身に着けた少女たちが、パタパタと駆け寄ってきて彼女の様子を覗き込んだ。


身体は快方に向かったが、記憶は一向に戻らない。
名前すら思い出せない少女は、診療費を払う算段がつかないことを、病院長へ正直に告げた。

「この病院は看護師が足りないんだ。住み込みもできる。あんたさえ良ければ、見習として働いてみたらどうだい?」



そもそもの運動神経の差なのか、他の見習い看護師二名と比べて倍近い速度で働いている少女の姿を、病院長は笑って眺めていた。記憶は定かではないくせに、なぜか残った医療知識に助けられ、彼女は即戦力になると断言できた。血にも怪我にも動じない強靭な精神すら持ち合わせていた。

あとは、笑顔が増えれば――看護師として、完璧と言えよう。
その欠点さえも、いつかなくなるだろう。ぎこちなくはあったが、少女は確かに笑えたのだから。

満足げな医師の背後から、不意に声が掛けられた。

「感謝する」

ここは病院でも奥まった場。そして、来客の知らせは受けていない。

だが、驚愕することもなく、彼女はゆっくりと振り向いた。

元より戦闘系ではない癒し手たる彼女に、この声の持ち主が近付くことを察知するなど不可能。彼と知り合ってから、気配を掴めたことなどない。ゆえに、こんな事態には慣れていた。

平然とした様子で応じる。

「人手不足は本当のこと。構わないさ」

二十年ほど昔に、共に闘う仲間であった男が、暗く笑った。
無愛想なだけで真っ直ぐであった彼が、いつしか闇に慣れたことを少しだけ哀しく思いながらも、医師はなにも言わなかった。

それが彼の選択だったのだから。
親友の忘れ形見を護る為に、彼は逃れることも可能であった決められたレールの上を、躊躇うことなく歩み続けた。哀れむことなど、彼は望むまい。

「意外だったのは、あんたたちの方さ。あんたの弟子が、あの子を殺さなかったことも、あんたがそれを許したこともね」

戸籍まで用意して。
居場所と存在意義を与えて。

もう一度、最初からやり直すかのように。

「紅葉はそもそも無駄な殺しを好まない。彼は優秀な暗殺者だが、殺人鬼ではないからな」

予想通りの答え。目の前の男と同じく、あの青年が殺人嗜好を欠片も有していない優れた職業的暗殺者であることは一目で判っていた。

「で? あんたが許した理由は?」

生け捕った優秀な暗殺者を利用するでなく、始末するでなく。拳武の長という肩書きからは在り得ない判断を下した理由を問う。

もっとも、尋ねながらも、彼女の頭の中には、一つの答えが既に浮かんでいた。
それしか考えられなかった。そして、そうであれば良いと願っていた。

鳴瀧は、押し黙る。
無愛想に、だが照れたように。

その表情は昔と同じ。
闊達に穏やかに優しげに、非道な判断を下せる、最近の彼の表情とは違う。

「彼女に似ているから――――では、納得できないか?」

少女を一目見たとき、医師は親友の剣士を連想した。凛とした顔立ちだけでなく、研ぎ澄まされた優美な日本刀のような纏った空気まで、そっくりであった。

鳴瀧を庇い死した女性。
彼女を思い起こさせる少女のことを、鳴瀧は助けた。


「全く不器用だねェ」

嘗て哀しみとともに呟いた言葉を、今度は笑みとともに口にする。

「ウチの看護師になってとことは、もう身内さ。……身内はなんとしても守る」

任せておきな――と頼もしく続けた医師に、鳴瀧はもう一度頭を下げた。


「まあまあな幕だな。ノーマルEDってとこか」
「ハッピーではなさそうだけどね」

くるくると駒のように、忙しく駆け回る少女。
その働きざまを、高くから眺めている黒衣の青年がふたりいた。

壬生紅葉と緋勇龍麻。彼らは私服になると、双方黒系を好む為に、余計に雰囲気から印象までがかぶってしまい、互いに似ているとの自覚があるだけに、なんとなく不機嫌になっていた。


鳴瀧と院長との話が、良い方向に落ち着いたらしいことを確認した上で、壬生は非難の眼差しを相手へと向ける。

「ところでまだ後頭部が痛いんだが」
「自業自得だ。それに関して謝る気は欠片も無い」

舌噛んで死ねと瞳に宿しながら、緋勇は冷たく応じた。
一歩も引く気のないらしい相手から、壬生は珍しいことに視線を逸らした。

「僕もそう思う。信じがたい失態だった。責める気は欠片も無いさ」

たった今責めたじゃないかと思わんでもない緋勇であったが、突っ込むのはとりあえず止めておいた。半身が、引け目があると攻撃的になる嫌なタイプであることを、熟知しているがゆえに。

ちなみに緋勇は、自分に有利な点が多ければ多いほど、優しく非道く増長する。

今回は完膚なきまでに、壬生の失態であり、彼は巻き込まれた立場にある。そもそも忠告さえも与えたのだ。

今もまた、彼が居る理由は単純。

鳴瀧にばれたくはないが結末は見届けたいという二律背反を解決する為に、『気配を完全に消せるアイテム』として、ついてくるように、もの凄く嫌そうな顔ながらも、影との戦いの折の貸しを返してもらう――と、壬生に頼まれたのである。

紛れもない優位。
ゆえに――――むっちゃ笑顔。

「ところで一つお伺いしたいんだが。くれはさん」
「わたしに答えられることなら何なりと。龍麻さん」

穏やかな眼差しで。首を傾げた緋勇に対し、壬生もまた、真摯に見返す。
狸と狐の化かし合いを通り越し、ハブとマングースの睨み合いの趣で、凍りついた空気の中で。

「どこまで彼女とヤった?」
「下衆なことは何も。転校してから、少なくとも四人の女性と関係を結んだお前と一緒にしないように」

にこにこと微笑みを浮かべたまま切り込む緋勇に、同じく笑顔の壬生が切り返す。
一分の隙もなく、それでいて相手の弱みを突く。

なんで数まで把握してやがるんだと首を傾げた緋勇は、せっかく亜里沙に言いつけようと思ってたのになーと、呑気に伸びをしながら、独り言のように呟いた。

「ところで亜里沙って呼ぶのを止めてもらえないかい」

聞きとがめた壬生の、かなり不機嫌な様子に、何を今更――と、緋勇は肩を竦めた。

「知り合ったのも呼び捨てにしたのも、此方が先。大体俺が名前で呼んでいるのって、彼女だけじゃないだろう」

そう確かに違う。据わった目をした壬生は頷いた。
呼び捨ては、舞子・小蒔・雛乃・雪乃・桃香。マリィと芙蓉は別格扱いとしても、雛乃以外は彼氏持ち。彼氏たちは、内心は穏やかではない。ひとりに至っては、愚痴をこぼしていた。

『まだ龍麻さんのことをダーリンと呼ぶのですよ。私のことはハルちゃんなのに』

ダーリンと呼ばれたいんかい。ていうかハルちゃんかよ。

脳裏に浮かんだツッコミを、酒を飲んだ彼に対して入れるほど勇気のある人間は居なかった為、なんとなく流されはしたが、なんかもやもやするよなというのが、彼氏連中の共通認識。

第一位にアレが存在していて、自分は二番手なのではないかと。
そんな危惧を他者に持たせるのが、緋勇 龍麻という男である。

「男心は複雑なんだよ。御門さんなんて、凄まじく文句だらけだったよ」
「御門がって……呑ませたのか、あいつに。むちゃくちゃ弱い上に、酒癖悪いだろう」

通常の御門が、そんな愚痴をこぼすとは思えない。だが彼はある状態に限り、凄まじく駄目人間へと落ちる。即ち――酔っ払い状態。

アルコールは、頭脳の明晰な働きを鈍らせますから――などと、フッと澄ました顔で笑う男に、かなり無理に呑ませたところ、緋勇でさえも後悔した。

口にしていた理由が100パーセント嘘だったわけではないのだろう。だが、なんのことはない――非常に性質の悪い、下戸に近い酔っ払いだったのだ。

とにかく絡み上戸で、沈み込んでは説教が始まる。放って置けば、チビチビと呑み続け、暗いのにヒートアップする。また、説教やイチャモンが、不条理なほどに、理にかなっているのである。

今まで酒癖のワーストは、絡み上戸の京一か、即座に寝る霧島かとの意見が多かったのだが、一挙に順位は塗り替えられたのだった。


それはともかく――と、緋勇が視線を少女へと戻し、呟く。

「ハッピーエンドだと、どうだったんだろうな」
「記憶も技術も持ったまま、それでも彼女が己の意思で『普通』に生きていくことを決心し、苦労しながらも光の世界を歩みだす――という展開かな」

記憶がないということに支えられた平穏。
いつか彼女は己の足場を不安に思い、記憶を取り戻そうと苦労するかもしれない。
怪我人を見たときに、不意に記憶がよみがえるかもしれない。

いつまた悲劇に転じるとも知れぬ、薄氷の上の幸せな結末。

「だけど、別にそれでも良いんじゃないかな。――生きているのだから」

エンディングテーマが流れ、クレジットと共に、終演となるわけではない。
ハッピーかノーマルかは、これから彼女が決めるだろう。生きているのだから。道はまだ続いていくのだから。

「そうだな。ま……美しく纏めたところですまないが、今回のエンディングの対象は彼女じゃない。……あちらだ」

言葉の示す対象は、明瞭だった。
壬生が微かに息を呑む。

「う……」

今一番会わなければならない、そして会いにくい相手が、病院の門で待っていた。
硬直する壬生の腕を、ぐいっと引き、緋勇は、三階相当の高さの木より飛び降りた。

無事に着地したものの、掛ける言葉が出てこない壬生の背を軽く押し、緋勇は歩き出した。その背中が、一言だけ残していく。

「謝っておけよ」

彼女を呼び出したのは、この半身だということが分かった。
本物の殺気を込めて睨もうとも、怯みすらしない。振り返らずに、背中越しにひらひらと手を振り、彼は去って行った。

数々の罵倒の言葉を心中で繰り返しながらも、壬生は叱られる直前の子供のように、目を伏せたまま、藤咲へと向き直る。

「君を忘れるなんて、自分が信じられないよ」

哀しませたくないと、初めて出会ったときに思ったのに。
必ず護ると、想いを告げたときから、決めていたのに。

言葉通りに、心底己に呆れ果てながら溜息を吐いたのちに、壬生はゆっくりと顔をあげた。
そして――続けて謝ろうとしていた言葉を、一切失った。

「引退しろ――なんて言えない。そんな資格はあたしにはないと思うから」

藤咲の方から、言葉を紡ぐ。

母を護る為に、彼は己の意思で決めたのだ。
正義感も使命感も罪悪感も嫌悪感もなく、必要だから選んだだけの道だと彼は嘗て、藤咲の大本たる存在に言い切った。

だから何も言えない。莫大な治療費を肩代わりすることもできないし、手段も思いつかない。

それでも願うことがある。

お願いだから――と。
消え入りそうな声で、彼女は嘆願する。

「何時の間にか死なないで……」

嘗て弟の死を、結果だけ聞いた。
己でまだ幼い命を絶ったのだという悲報を、ほのかなデートからの帰宅後に聞いた。

相手にとってはデートでさえなかっただろう。

幼さゆえの残酷などという言葉で済ますには、あまりに陰湿ないじめ。

いずれ卒業すると、学校側も見て見ぬ振りをした中で、唯一親身になってくれた担任の教師は、中学生――まだまだ子供に近い少女が憧れるに十分足る、優しい人であった。

そして、同時刻に偶然出会った教え子の姉である少女と、喫茶店でお茶をしていた己を激しく悔やみ責めるほどに、責任感の強い人であった。

彼は、四十九日を終えた帰りに、同じように投身自殺を図った。命こそは助かったものの、辞職を余儀なくされた。

自分の知らないうちに、大切な人が喪われた恐怖。
結果として後から聞かされる、死んでしまったという報。

二度と味わいたくなかった。

「お願い……」

弁財天と陰の龍。何ら関わりのない宿星は、何の共振もなく。神おろしという強大な力を持とうとも、恋人の危機を知らせることはなく。

何も出来なかった。

「あたしの知らないところで死なないで……」

ぼろぼろと、大粒の涙だけを流しながら、嗚咽の声も出さない、表情も歪めない彼女を、壬生は綺麗だと思った。

その決心を愛しく思った。
その苦しみに罪を感じた。

『亜里沙は脆い。お前を喪ったら、きっと耐えられない』

嘗て緋勇は言った。だから早々に死んだりするなと。これ以上彼女に、支えきれぬ荷を負わすなと。

弱いから――哀しませるなと。

今は違う。

気丈で、常に気を張った、脆い心を抱えた少女はもう居ない。

彼女は受け入れたのだ。

いつか訪れるかもしれない最悪の未来すらも。
いつかまた、大切な存在を、喪うかもしれない恐怖も。

それでもなお――壬生と共に居ることを選んだのだ。寿命を待つことなく死す可能性の高い彼のことを。


Mors certa,hora incerta.
――死は確実、時は不確実。

壬生は人より早い可能性が高い。それでもそれは、あくまで可能性。
長生きするかもしれないし、拳武となんら関わりのない事故や病気で死ぬかもしれない。

「死は確実に訪れる」

絶対の真理。人の身に避けることは叶わない。

「けれど、その訪問がいつになるかは、誰にもわからない」

ゆえにもう怯まない。
闇に在ることを卑下しないのと同様に、死が近いことを懼れない。藤咲の心の平穏の為に別れを告げるという、僅かとはいえ考えていた後ろ向きな選択肢を、今完全に捨てる。

「でも誓うよ。それでも、必ず報せるって。ほら、魂は千里とか駆けるらしいし」

敢えて軽く言い切る恋人に、藤咲は涙を流したまま、微笑んだ。
泣き笑いの綺麗な表情で、壬生の胸を軽く握った拳で、ぱすんと叩く。

「……ばか。早死にしないのが……一番なのよ」

流れ続ける涙に、掠れた声に、覚悟の深さと、心からの祈りとを感じ、壬生は恋人を柔らかく抱きしめる。

少し早いかもしれないけどと告げて、優しい口付けを降らす。

もう離さないと思った。自分から身を引くことがなくなった以上、言い寄る相手など、存在も許さない、彼女が心底嫌うようなことがあれば考えるが、そんな要素は生じさせないと、少々危ない思想さえ抱きながら、壬生は優しく誓う。

「ずっと愛してる」

死がふたりを別つまで。共に在る限りずっと。



言葉も眼差しも、優しくて甘くて非道で。

それでこそ自分が愛する人なのだと、藤咲は微笑んだ。

月に何度か、壬生は藤咲のことを哀しい目で見るときがあった。大抵、連絡できなかった夜の翌日。夜に何があったかなんて考えるまでもない。

今まで感じなかった罪悪感を自分のせいで抱くのなら、ただでさえ幸福とは言い難い彼が更に苦しむのなら、別れた方が良いのかもしれないと、考えることもあった。

だけど、連絡の取れないこの数日間、焦燥でおかしくなるかと思った。発見された家にいた少女を見たときは、勝手に顕現し彼女を引き裂こうとする力を抑えるのに必死だった。

簡単な話だった。
結局自分は、壬生を喪いたくないのだ。生き別れでも死に別れでも。

僅かに背伸びをして、藤咲から口付ける。

もう逃がさないと思った。
藤咲は、物騒ですらある想いを込めて、力強く誓う。

「永遠に愛してる」

死がふたりを別つても。共に在れなくなろうとも永遠に。



「なんつーか……すげェですねェ」
「ああ……正直なんというか……驚いたかな」

壬生と共に在ることで気配を消せるのだから、互いに努力すれば鳴瀧とでも可能なのではないか。
そう考えた緋勇が、病院から出てきた鳴瀧を捕まえて見物に戻ったのだが――凄かった。

陶然とした様子で、堅く抱き合う恋人たちを上方から眺め、緋勇が呆れたとも感心ともつかない表情で呟く。

「ナンバーワンバカップルの座を譲る日が来たかな」
「そんな下らない座は、さっさと捨てたまえ」

緋勇は弦麻ではなく、鳴瀧は壬生ではない。
ゆえに、壬生ほど完全な対極は成せず、錬氣の最中であろうとも存在を無とするなどの離れ業は不可能ではある。

が、元より隠す意図で気配を絶ちながら、残る微かな残滓を消し去る程度には充分であった。
壬生でさえも、気付く兆候を見せない。

「『ずっと愛してる』『永遠に愛してる』ですよ。皆に言い触らしたい。でもまじで殺されるだろうしなあ」

無念そうな教え子に、師匠はそうだろうなと頷いた。
紅葉とならば互角であろうが、あの少女が入れば均衡は崩れる。恋人同士でタッグを組むには、緋勇の恋人である菩薩眼の少女には、攻撃手段が乏しすぎる。

「ところで君と紅葉が居るということは、先程覗いていたのかな」
「なんのことやら」

邪気のない笑顔。実は邪気しかない笑顔だと知る者は少ない。
だがそれでも――鳴瀧は、変わったなと実感と共に思う。

彼らは表情に乏しかった。
壬生は真に乏しく、緋勇には穏やかな笑顔しかなかった。
常に冷徹なのが壬生。常に冷静なのが緋勇であった。

子供らしからぬ落ち着き。大人しさ。当然だった。感情が碌に存在しなかったのだから。発露すべき想いがないのだから、騒ぐはずもない。

ゆえに彼らは、共に居るときだけがまともであったのだ。似た者同士であるがゆえに、反発し、時に喧嘩にまで至る彼らは、確かに子供に見えた。

だがそれは――昔の話。
闘いか仲間か。はたまた両方が変えたのか。

鳴瀧はしみじみと呟く。

「君も紅葉も、まともな恋愛関係を築くなんて想像もしていなかったよ」

てっきり上っ面と爛れた肉体関係だけを持つかと思っていた――と、教育者として、いやむしろ人として問題のあることを、さらりと口にする。

心底嫌そうに顔を顰める緋勇も、本当に優しく恋人へ微笑みかける壬生も。

彼らは確かに人間であった。人間になれたのだ。
愛する人すら、その手に得て。