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人待ち顔の少女がいた。

白い麻のノースリーブのシャツ、ややスリットの入ったロングスカート。さりげなく露出度は高く、だがそうは感じさせない。健康的ですらある。

そよぐ風に、抑える白い手から長く豊かな髪が流れる。
艶やかな漆黒の髪であっても、暑苦しさを全く感じさせない。

自然と、周囲の人間の注目を集めてはいたが、レベルが高すぎて、声を掛けるには躊躇ってしまうタイプであった。

ちらちらと、一体どんな男がやってくるのかと、なんとなく視線を遣っていた周囲の者たちは、ひとりの男の姿に気付き、確信した。

彼に違いないと。

「ごめん、待たせたね」

予想通り、男が声を掛ける。
ううん、今来たところよ――とベタな返しをするのは彼女。

少女を眺めていた周囲の者たちは、一斉に溜息を吐いた。
彼が――彼女が――相手ならば仕方ないと、男も女も諦めて頷く。


この暑いのに、黒の長袖かよという突っ込みは、彼にだけは入れられないであろう。
色素は薄い。肌は白く髪と瞳は淡い茶。美貌ともいえるレベルの端正な顔立ちに穏やかな微笑みを浮かべ、幸せそうに少女の元へ駆け寄る。

――なのに黒が似合う。


そこは、あるマンションの一室。
大学に入ったばかりの青年が一人暮らしをするには、不似合いなほどの豪華な部屋であった。

今、その部屋に居るのは、ふたりきり。
昼食を済ませ、その片付けを終え、彼らがイチャイチャしだそうとした時であった。それを見計らったように、携帯の呼び出し音が鳴る。

掛かってきた携帯に、青年は仕方なしに目を遣った。
表示が、彼が妹のように思う大切な少女のものであった為に。

おそらく他の者であれば、恋人との時間には気付かないフリをするのであろうが、彼女相手にその手法をとるつもりはなかった。

『龍麻お兄チャン、ヒスイが死んじゃうッ!!』

あまりの内容に、一瞬呆気に取られた青年は、すぐに冷静に戻り、状況を聞き出す。
そちらへ向かうことを約束して電話を切ったあと、傍らの恋人に――――少女の義姉に、尋ねる。

「葵……マリィ、何しに翡翠のところに行ってるんだ?」
「マリィは骨董に興味があるらしくて、よく如月さんのお店にお邪魔しているのよ。どうしたの?」


まずは、部屋で突っ伏すように倒れていた如月を寝かせてから、龍麻と葵は、泣きじゃくるマリィを慰めていた。
やっと落ち着きだした彼女から、更に詳しい事情を聞きだし、龍麻はズキズキと痛むこめかみを抑えながら、優しい声でマリィに問う。

「作った料理ってこれかな」
「ウン……頑張ったんだけど」

沈んだ様子で答えたマリィを見て、彼らは顔を見合わせた。
食卓には相当に豪華な食事が並んでいた。おそらくは美里家の手練の技。ただ重大な問題がある。

「美味しそうだし、実際そうだと思うんだけどね、マリィ。一つ覚えて欲しい」
「え……?」

龍麻とマリィは、実に三十センチ以上もの身長差があるため、しゃがんで目線を合わせる。
食事は、体調に相応しいものがある――――非常に大切なその原則を、龍麻は切々と語った。

「翡翠はどうやら風邪をひいて消化器系に、症状が出てるんだ。簡単にいうと、胃腸が弱ってる。
だからね、胃がおかしい時に、香ばしいベーコン入りのチーズオムレツとスペアリブはきついと思うな。シーザーサラダもちょっと」

これは冷蔵庫に入れておいて、元気になったら食べてもらおう――そう続け、頭を撫でて慰める。
当然ながら、マリィに悪気は全く無かったのだろう。元気が無いヒスイに、美味しいものを食べてもらおうと張り切ったのだろう。

だが、弱った胃腸にこの豪華さは、流石に辛かろう。作成者が彼女でなければ、嫌がらせの域に達している。

むしろ何口が食べられた如月の精神力を、褒め称えるべきである。




如月の風邪自体が、結構な症状と思えたので、龍麻はとりあえず、マリィを葵とともに帰らせた。
幸いというか、希望通りの某国立大学に入れた彼は、現在夏休み――試験は休み明けである為、余裕がある。

寝込んだままの如月に対し、薄味のおじやを新たに作り、運んでいく。
如月の顔色は、土と同じ色になっていたが、一応意識はあるようなので、龍麻は素直に思ったことを口にした。

「お前はアホか。あれを喰ったのか? その体調で」
「君だったら……断われるのかい? 満面の笑みで……ご飯作ったの……と、元気を出して……と、彼女に……言われて」

息も絶え絶えながら、反論が返ってくる。
龍麻は、その光景を想像し、確かにそれはガード不能かもしれんと、頷いてしまった。

「それにしても……夏バテか? 水系の人間は、夏は辛そうだな」

死にそうな返事の切れ切れの内容から察するに、体力の低下中に、悪いことに風邪を引いたらしい。
如月は学力はお釣りが来るほど十分にあったのだが、進学せず、商売に専念していた。ネット通販の構築を始めようとしていたそうで、連日の無理が祟ってしまったのだろう。

やりかけのPCを覗き込み、龍麻は呆れた様子で操作を終了させていく。

「お前なあ、爆弾みたいな金のやり取りをするってのに完全自作かよ。プロに頼め、プロに。金ならあるだろう?」
「金は……ある。だが……使うのが嫌だ」

友人の商人の鑑といった台詞に、龍麻はオールデリートしたろうかと本気で思った。尤も、それを行えば、この友人の魂は、本当に砕けるであろう。それほどに彼の調子は酷い。元々彼にとっての夏とは、動物園の白熊やらペンギンやらと同種のものなのだろう。

忙しさ、夏バテ、夏風邪、そして夏自体。
全てが如月にとって、敵となり、この惨状を招いたらしい。

「仕方ないな――」



幾分回復した如月の最初の行動は、PCをチェックすることであった。

余計なことはされていないか――壁紙がグロまたはエロに変えられていないか、接続先が海外に設定されていたりはしないか――等を確認し、とりあえずは無事なことに安堵した。

安堵ついでに、龍麻の言葉を思い出す。

『――経費以外ほぼ全額やるから一回、旧校舎に付き合え。そして人を雇え』

主からの暖かいお言葉。
復調してからで良いから、かなりの深部で、金を稼ぐぞと。

金を投げ置いていったりはしない辺り、彼の性格が良く出ている優しさであった。
そもそも、旧校舎を金稼ぎと考えること自体が、人として何か間違っている。

ちなみに経費とは、消費したアイテムや、終了後の打ち上げ代金を指す。

「探索利益をほぼ全額か」

龍麻には告げていないが、ネットショップの構築は趣味などではなく。扱うものも骨董ではなく武器であった。それゆえ、勿論最終的には、きちんとプロへ依頼するつもりはあったが、少しでもケチる気で、プロトタイプを作成していたのだ。
他社に昔作らせたシステムの『変更』という形であれば、新規よりはかなり安く済む為に行っている小細工であった。

「だが告げることもない」

どちらかと言わなくとも悪人寄りの密やかな笑みを、如月は浮かべる。

「みすみすこの機を逃す必要は無いからね」


旧校舎入り口に集まった面子を見て、如月は少々引いた。

ひたすらに高い攻撃力を持つ比良坂に、万能の攻撃手段を有する龍麻に御門に村雨。反属性には一撃必殺たるマリィに雨紋に如月自身。
そして弱点がなく戦闘力自体が高い紫暮に醍醐。更には言わずと知れた壬生。

本気過ぎるのだ。
しかも性悪三人が揃っている。
如月個人の事情での探索で、しかも必然性はないなどと、彼らが気付いたら、どのような目に遭うことか。

ちなみに、仲間一般的には、如月も加えて性悪四人ということになっているのだが、如月自身は決して認めない。
また舞園さやか、比良坂紗夜、織部姉妹、マリィ、アラン、コスモなど、事実――緋勇龍麻の性格が悪い――を認識しない人間もいる。


細かいことを追求されぬよう、如月は可能な限り後ろの方をキープしながら、深部へと進んでいった。


「あっつーい。何だよ、ここは。今まで突っ込むまいと思っていたが、溶岩があるよオイ」
「今更何を言っているのですか。恐らくここは異世界なのでしょう、異世界。漂流教室ですよ、漂流教室」

むわっとした熱気に、あちこちに煮立つ溶岩。流石に叫んだ龍麻に、御門が諦めきったような投げやりな答えを返す。

確かに今更かもしれない。

皆が皆、諦観の表情で、ありえない戦場へと踏み出した。



所詮は演習程度でしかない敵のレベル。
敵の攻撃を、普段通りに玄武の力にて弾こうとした如月は、顔色を変えた。

「なッ!?」

水を扱えなかった。物心ついた頃から、共に在った気配が掴めない。

微熱が未だ残っていたせいか、火の気配の強いこの空間のせいか、ともかく、間近に迫った敵を防ぐ術が、存在しなかった。

「マリィ、ストップ」
「サセナイッ!!」

事態に気付いた『お兄ちゃん』の制止すら聞かずに、間に割って入ったのは、すぐ近くにいた赤い服を着た少女。
目に怒りの炎を宿らせた彼女は、如月とは逆に強まった力を炸裂させた。――暴発に近いレベルで。



何度も上がりこんだことのある恋人の家で、龍麻は背負った少女を、彼女のベッドにそっと寝かせる。

全霊力を使って疲労しているだけでしょう――との陰陽師の診断通り、すぴすぴと眠るのは赤い服の少女。

消え入りそうな玄武の力。
暴発する朱雀の力。

間に入り、無理矢理緩衝材となった黄龍に流れてきたのは、少女の必死の思い。
ヒスイを絶対に死なせない――との決意を支えていたものは、淡い、だが確かな恋慕。

「マリィが恋か」

くすりと笑い、マリィの金の髪を撫でる龍麻は、最早兄を通り越して、娘を愛でる父親の顔。
本性が歪んでいることは否定できないが、今は本当に優しく笑み、傍らの恋人に話し掛ける。

「ま、翡翠なら良いかなと思ってしまうけどね。これで『シコウが好きなノ』とか言われてたら、お父さん、村雨を闇の中で滅殺しちゃってたけど」
「うふふ、それはお母さんもジハードよ」

和やかに、仲良さそうに、恋人たちは笑いあう。
……どうやら、村雨の立場というものは存在しないようであった。


彼らは気付いていなかった。彼らでさえ気付けなかった。

夢現にて、マリィが会話を聞いていた事に。
彼女の中の誰かが、嘲笑したことに。



夜に目を覚ましたマリィは、まだ痛む頭に手を当て起き上がった。

「……恋?」

ぽつりと呟き、闇の中マリィは自問する。大好きな葵お姉ちゃんと龍麻お兄ちゃんが話していたことについて。

ヒスイと共にいると楽しい。
綺麗な櫛や小さな手鏡、澄んだ鈴の音。

色々な、骨董に触れさせてくれて、店番を手伝わせてくれて。

楽しくて幸せで。
オニイチャンとオネエチャンに優しくされて。
ミンナとても親切で。

ヒスイといると、ドキドキして。

自分だけが、こんなに幸せで。


ずきりと胸が痛む。
幸せだと思う度、楽しいと感じる度に、じくじくと傷跡のように痛む。

痛みの原因は、幼くして死した仲間たち。

――ナンバーを授けられた者たちは、皆、あの崩れる校舎と共に、逝ってしまったのに。
――ジル様の戦士として選ばれた者たちは、皆、彼に従い、護り、殉じたのに。

脳裏に響いた冷たい声に、一層強く痛んだ。
彼らのことを忘れた訳じゃない――と、弱々しく頭を振ったマリィは、より明瞭な言葉を聞いた。

――お前だけが、汚らわしき敵たちに取り入り、生き延びた。
――使命を果たすどころか、裏切って。

「え? あ……」

気付けば、嗤う少女が目の前にいた。
いつしか糾弾の言葉は、彼女の唇から発されていた。

――お前はジル様を裏切り、敵に媚びた。

「ち……違う。ミンナは敵なんかじゃナイ。ミンナは」

懸命に言い募るマリィを馬鹿にしたように眺め、少女は赤い唇を歪める。
真紅の瞳に宿るのは憎悪の光。


「マリィ?」

微かな変異を感じた少女の義姉は、マリィを起こさぬように、部屋の扉をそっと開ける。
まだ眠っている筈。深夜ともいえる時間帯。

身体を起こしている影は、マリィよりもかなり大きかった。

「……マリア先生?」

そんなはずがないと分かっていながらも、葵は呆然と呟いた。
それほどに似ていたのだ。ゆるくうねる豪奢な金の髪も、紅く光る瞳も、女性にしては――日本人から見れば――かなりの長身も、妖艶な姿態も、全身に纏う濃厚で上質な魔の空気さえも。

「この裏切り者の大切な人とやらが、私を封じるの」

笑みを乗せた声が、唄うように呟く。
確かに幼い義妹の声に似ている――だが、ずっと大人びた声。

「貴女も私が在る為には邪魔なの。死になさい……『オネエチャン』」


マリィを美里家に運んだ後に、如月宅を見舞った龍麻は、扉を開けた半身の姿に、微妙な表情となった。
エプロンでなくてまだ良かったのかもしれないと前向きに考えてみる。

「おじやとさっぱりしたものを何点か作っておいたよ。氷も替えたし、今は眠っているからあまり近寄らない方が良いんじゃないかな」
「うい。……割烹着はどうかと思うぞ」

一分の隙もなく割烹着を着こなし、服が汚れるじゃないかと真顔で反論する相手の様子から、きっとそこにエプロンがあれば、白のフリルがついていようとも躊躇いなく着けたんだろうなと察して、龍麻はちょっと疲れた。

「んじゃ、あとは引き受ける。明日仕事なんだったよな。悪かった」
「あの面子では、僕しかいなかったろう。それにお前の為でもない」


眠っているとの言葉に油断していたらしい。
臥せっていたはずの如月は、微かな音にすら反応し、目を開けた。

「……龍麻? すまない、迷惑を掛けた」

寝込みながらも謝る如月に対し、少々の呆れとともに責める。

「具合悪いなら、素直に言えよ。紅葉と御門の性悪コンビが揃ってたから、言い出せなかったんだろうが」

如月は、君を含めて極悪トリオだよと突っ込みたくなった心を押し殺し、小さく首を横に振った。

「自分の都合で呼び出しておいて、氣の合わない空間に出たくらいで体調不良がぶり返しただなんて言える筈がない」
「まったく。何でそう責任感が強いんだ。隠される方が危険を招くことだって多いんだぞ。今回だってそうだろう」

反論できずに、如月は黙った。
勿論皆を信頼していないわけではない。ただ、容易に人を頼るには、彼は独りで無理をすることに慣れすぎていた。

「……ほんと、お前とか御門とかは、もう少し人を使え。あ、コーラ貰うぞ」
「どうぞ」

億劫そうに、如月は頷いた。
彼自身は元々清涼飲料水系など口にしない。骨董堂を根城にする連中が、いつの間にやら勝手に冷やし、勝手に飲んでいくものである。

冷蔵庫へと向かう龍麻の背を眺めながら、如月は働かない頭でつらつらと考えた。

全てを背負い込むほど傲慢ではない。
だが、それでも己の背負っているものが、仲間内ではかなり重い部類に入ると理解している。
ゆえに、気軽に人を頼ることなどできはしない。

それは御門も同様なのだろう。


「ぎゃッ」

台所から悲鳴が聞こえた。
何事かと思ったが、現在のだるい体調と沈んだ思考で動きたくはないので、如月はただ待っていた。
しばらく後に、ずる……ずる……とホラーのような音が聞こえてきた。ぴちゃ……ぴちゃんと段々と水音が大きくなるのが、また怖い。

「……雑巾何処だ? あと、流石にこれはちょっと笑えないぞ。復調したら、覚悟しておくように」

びちゃびちゃと、頭からコーラを滴らせた龍麻が、極上の顔で微笑んでいた。
開けた瞬間、常識からはありえないほどの勢いでコーラが噴出してきたのだという。甘さゆえのべたべたした不快な感覚に、キレる寸前らしい。

「ちょっと待ってくれ。何もしていない――というより、今、水が上手く使えないんだ。僕じゃない」

心当たりなどないと。
必死で言い募る如月に、龍麻は鼻で笑ってみせた。

「コーラがなあ、アメーバ―のように広がって、俺の全身を包んだんだぞ? 自然現象で説明できたらノーベル賞もんだ」
「包み込むってそれは――君を護ったんじゃないのかい? この地にある限り、眷属と主は、水が護るように設定してあるのだから」

如月の言葉に、龍麻は薄ら笑いを消した。
まさか逆凪かと顔を顰める彼に、如月は首を傾げた。

逆凪とは術の反作用のこと。陰陽師ならいざ知らず、本来彼には関わりの無い分野。そもそも彼に呪いなどという遠まわしな手段は似合わない。直に闇討ちする程度ならば、平然と行う人間なのだから。

「意外だ。誰かを呪っていたのか?」
「……失礼だな。何故まず呪いと考える? 御門に掛けてもらったもので呪いじゃなく護りだ」

今は真顔。当然だろう。彼がわざわざ護りを敷く。その対象者は著しく限られる。

「あまり強いと、気付かれるから――災厄を少しだけ引き受ける」


その時鳴った携帯を、龍麻は凄まじい速さでとった。
勿論着信は――護りの対象者からのもの。

『龍麻!! マリィが大変なの!!』



「火傷は本当に平気?」

一流の術者でもある葵でも気付けぬように敷かれた護りでは、引き受けられる災禍は、本当に一端。
熱量は少しばかり龍麻に流れたものの、大部分は葵に襲い掛かった。

「大丈夫。高見沢さんたちのお陰で、もう痛くないから」

高い術力は、術への防御力にも繋がる。
朱雀の炎に襲われたというのに、咄嗟に庇った手に火傷を負っただけだったのは、僥倖と言える。

火傷を見た龍麻は、有無を言わさず、先ず桜ヶ丘に向かった。
高見沢が夜勤であったことも幸運だった。彼女は、すぐに陰陽師にも連絡してくれた。

葵自身の癒しの力や、高見沢たちの助力により、痕は殆ど見えない。

だが――だからどうしたと、龍麻は思っていた。

何かに乗っ取られた様子の、成長したマリィが火を放ったのだと、葵は凄まじく言い淀んだすえに答えた。

異常な言動から、ある程度は察することができる。

マリィを裏切り者と呼び、彼女の大切な人が自分を封じると言った。
単純に思い当たるのは、洗脳済みの人格か何か。
あの学院で生まれたであろう、連中に従う兵器である為の人格。

死した下衆の魂を呼び戻し、泣き叫び消滅を求めるまで嬲ってやろうかと、龍麻は本気で考えた。変生の末の死であるからには、あの程度の魂では滅しているであろうことが残念でならない。

他人格であろうとも、マリィはマリィ。自らの力で『オネエチャン』を傷付けたこと知り、どう思うか。
正気を取り戻したときに苦しまないはずがない。

何よりも――連中の下らぬ施術のせいで、葵が傷付けられたことが我慢ならない。

「じゃあ行ってきます」

静かな恐ろしい――おぞましくさえある声に、マリィを心配して集った仲間たちは黙り込んだ。誰も何も言える筈のない絶対の宣言。

だが異議を唱えた者が居た。

「僕に行かせてくれ」

一瞬の静寂。
ゆっくりと振り向いた龍麻に、静かに見返される。
感情など見えない氷のような目に。

彼の性格など熟知しているつもりだった。その実力も同じく。

それでも如月の背は凍りついた。
怒りの対象が自分でないと分かっていても凍える。

彼は首を横に振り、口を開いた。

「これほどに火の強い日、理性と制御を取っ払った力。張られた大規模な火の結界。お前に言うまでもないだろうが、そもそも、火というのは、破壊に関しては、ほんと優れているんだ」

強大な攻撃力を有するだけではない。
風や水や地は、余程の大容量とともに召喚されぬ限り、術者の制御から抜ければ、無害に近い。

だが火は、術者の支配下から離れたとしても、在るだけで周りを傷付ける。
術者を気絶させれば済むような話ではない。

正面切って闘うなら、自分でも危険なのだと、龍麻は言い切った。

「正直、属性効果なんて大して期待できない。おまけに今日の彼女なら、反転呪法さえ可能だろう。更にはお前は絶不調。それでも、お前が止めたいと言うのか」

業火が水を蒸発させ、洪水が大地を押し流し、土砂が樹木をなぎ倒す、相克を逆転させる法を行使されれば、理も変わり、本来有利である水克火さえもが、意味を喪う。

不利な点だけが、次々と挙げられる。

如月とて分かっている。四神の暴走を止めるのに最適な人物は、誰なのかということくらい、考えるまでもない常識。

そして最適者のとる方法が、互いの傷となるということも理解している。


「ああ。だって君は、彼女に『命じる』つもりなのだろう?」

それだけは認めたくなかった。

彼をお兄ちゃんと慕う彼女の為にも。
彼を友と思いたい自分の為にも。

皆を配下だなどと認めたくない彼自身の為にも。

「確かに、その手を使ったら、俺と四神が主従であることを確定させてしまう。が――――、彼女の力もまた朱雀である以上、確実に止められる」

取りたくない手段。
だが、これほど危険な状況の中であっても、確実に成功する。
己が真剣になれば良いだけならば、命でも賭してみれば絶対に『妹』を助けられるのならば、龍麻は躊躇わずに実行する。

だが彼が命すら賭けても、所詮は可能性がやや高まるだけ。己自身に呑まれた者を外から助けだすのは、それ程に困難を極める。

しかし、黄龍と朱雀としてならば、シンプル極まりない方法がある。
ただ告げればいい。表に出た人格のひとつである少女に。

消えろ――と。絶対的な命令を下せば良い。

学院長らに従う殺戮機械。
あまりに接点の薄い人格であるがゆえに、消滅しようとも、主人格である本来のマリィに与える影響は無に等しい。

「それらを考慮した上でなお、危険な賭けにでようとする、そして俺が納得できるだけの理由を聞かせてもらおうか」
「それは――――」

しばし悩んだ後に口にした如月の理由に、流石の龍麻も動きを止めた。
たっぷり時間が経ってから、彼は声をあげて笑い出した。彼がよく見せる冷笑・嘲笑といった類ではなく、素直に心からの笑顔にて。

「お前、思っていたよりも馬鹿だったんだな」
「ほっといてくれ」

目を擦りながら笑っていた龍麻は、いまだ苦しそうな様子ながら、どうにか笑いを止めて道を開ける。
ホッと安堵の息を吐き、歩き出した如月は、背に冷気を感じて思わず足を止めた。
続けて掛けられた言葉からは、既に笑いは消えていた。

「なんかあったら、強制的に彼女の存在を消すからな」

それが最大の譲歩。彼にとっては、妹や友人の命が喪われるくらいならば、今の関係が崩れてしまう方がマシだった。
苦渋の末の選択だということを理解している如月は、振り向かずに頷いた。

「ああ。機会をくれて感謝する」



一年が経過し、それでも未だ更地のままのローゼンクロイツ学院跡。
多数の死傷者を出した大規模の騒動。元より存在した疑惑を補強するかのように囁かれた噂。

買い手がつくはずもなく放置されていた。

「あの下衆も、まさか兵士の育成を行う革命家ではなく、少年少女への性的虐待者として死後も謗られるとは思わなかっただろうな」

闇に沈んだ廃墟を見下ろし、如月は小さく笑った。
龍麻は、妄想を抱いた狂人と怖れられることさえ許さなかった。

拳武と如月とルポライターの女性と。
彼らを走らせて、あの男をありふれた変質者とした。

「マリィは――あちらか」

力を殆ど使えない今の如月にさえ、はっきりと感じられる。
暴発寸前の気配が、人気のない廃墟にて、地上に落ちた星のように輝いていた。



無表情で何も無い校舎跡を眺めていた少女は、近付いてくる足音に顔を上げる。
ゆっくりと嘲笑が浮かぶ。

「水克火――――フフフ、だから何なの。何をしにきたというの? この火の方陣の中で、玄武に何ができる?」

嘲笑う少女は、確かに金の髪に赤茶の瞳を持つマリィであるはず。
但し、その姿は本来の年齢――――十七歳に相応しく成長していた。西欧人ゆえ、日本人から見れば、年齢以上に大人びて、かなりの長身となり、可愛らしく幼い印象を与えるそばかすは消え、ぬけるような白い肌に、真紅の瞳と唇が輝いていた。

だが、如月は余りに様変わりした彼女にも臆することなく、真顔で呟いた。

「――きた」
「……何と言った?」

聞き取れず、怪訝そうに聞き返した彼女に、如月はもう一度繰り返す。

「お礼を言いに来たんだ。身体が治ってから、冷蔵庫に入っていた料理を食べさせてもらった。美味しかったよ」

如月が龍麻に告げた理由。
看病の礼を、作ってくれた料理への礼を、まだ彼女に伝えていないから。

それゆえに、それだけの為に、不調の身体をおして、最適な手段をとらなかった。
如月は、軽く頭を下げて礼を言う。

「ありがとう」

今度こそ呆気にとられた少女相手に、話し掛け続ける。

「だが、シーザーサラダは少し胡椒がきつかった。粒胡椒を挽いたのだから、もう少し控えめで良かったと思うよ。帰ったら、一緒に作ってみるかい?」
「なにを……何を言ってる」

赤の少女は、呆然と呟いた。
何を言っているのだろう、この目の前の男は。

料理の礼。
自分はそんなもの作っていない。

『帰ったら』
帰還すべき地は此処だった。それは彼らによって滅ぼされた。

自分は――あの裏切者とは違う。


「君だってマリィだろう」
「な――」

なのにこの男は断言する。
当たり前のように。

忠実であるはずの兵器に微笑みかける。少しだけ哀しそうに。

「マリィが人を殺したことがあるのは、なんとなく分かっていたよ」

免れるはずがない。
視ることで炎を操ることが可能な火走り。
強力で汎用性の高い彼女の力を、あの狂った下衆が利用しないはずがなかった。

それは洗脳が完全ではない彼女には、辛すぎることだったから――――。

「だから――――君が生まれたのだろう? 学院長たちに従い、罪悪感も、恐怖も持たずに人を殺せる『別の人格』が」

善悪など教えられていなかった。彼女が受けた教育とは、歪んだ思想の押し付けのみ。
実験と薬物による人格統制も受けていた。

それでも、彼女は苦しかった。人を殺したくはなかった。

現実も環境も変えることは敵わない。
ならば残された手段は、己を歪めることだけであった。

苦しむことのない、命令に疑問を持たない、人を殺すために生まれた生体兵器。
学院長に、教師たちに望まれた在るべき姿を、彼女は作り出した。別の人格として。

自分よりやや低いくらいの――170センチ程度の少女の頭に手を乗せ、如月は優しく撫でながら微笑んだ。

「怖かったろう。苦しかっただろう。でも、もう君に人殺しを強いる奴は居ない。だから――――もういいんだよ」

眼差しから険が消え、呆然と見開いたまま、少女は硬直する。
相手が何を言っているのか、今自分が何をされているのか、理解が追いつかない。

けれど――暖かい。
触れる手が優しく――暖かいということだけは分かる。

混乱のうちに、大粒の涙が溢れる。

20と呼ばれる兵器であった彼女に笑いかけてくれる人間などいなかった。彼女に下されるのは命だけであり、その内容は人を傷付けることだけであった。

なのに、目の前の青年は笑い、告げる。

力を破壊に使う必要など無いと。
――もう君は自由なのだと。


たっぷりと時間が経過した。
不意に彼女の身体が縮みだす。長身は小柄へ。妖艶な顔立ちは、愛らしい十三才程度の少女の顔へ。


「お帰り、マリィ」
「ヒスイ……ヒスイ」

優しく微笑んだ青年の名を呼びながら、少女はほろほろと涙を零す。混乱のままに消えたであろう『彼女』を想い、悔やむ。

主人格の安定の為に作り出された、『初めから狂った』人格。
『彼女』は最大の被害者だった。ならばその加害者とは、今安穏と幸せの中で生き、あの学園の中でも呑気に苦悩していた、自分ではないのか。

「あのヒト……、マリィのせいでずっと苦しんでた。ナノニ、消えちゃった。マリィのせい……ダヨネ」

自虐的過ぎる台詞に、如月は小さく溜息を吐く。あの低俗卑俗下衆学園長の始末に自分も加われば良かったと心から思う。
それほどに苛立つ。

何が加害者か。『彼女』も、そして、勿論マリィも被害者なのだ。
分不相応かつありがちな愚昧な夢を見たあの学園長と関係者連中こそが罪を負うべき咎人だというのに、マリィは今も幸せを――恐れている。渇望しているのに、恐怖している。

「ちがう。マリィも彼女も悪くなんてない。他の子供たちもそう。総てはあそこにいた大人が狂っていた」

笑みを取り戻すのにさえ、彼女は時間が掛かった。
止められた時は、未だゆっくりとしか刻まない。強制された罪は、今もなお彼女を苛む。
そしてやっと手に入れた幸せに、彼女は震え慄く。

「他の子供たちは不幸なことに命を喪ってしまったけれど――君は生き残った。幸せになる――義務があるんだよ」

気付けば震える小さな身体を、そっと抱きしめていた。
マリィは少し驚いたように目を見張り、それから涙を流したままで力なく笑った。

優しく、暖かく自分を抱き続ける如月に、マリィは泣き笑いの顔で、途切れる声で問うた。

「マリィだけ――――、コンナニ、幸せになってもイイノカナ……」

いつも考えていた。
幸せだと思うたびに、崩れる校舎に消えてしまった『仲間』たちのことを思い出してしまう。
それが、『彼女』の自我を強めた原因。擬似的に創り出した正気を保つための人格が、確かな存在を得てしまったのは、マリィが幸福に対し、恐怖に近いほどの不安を抱いていたから。

赦されないのではないのかと。皆が死んでしまったのに、ひとりだけ幸せを得ても良いのかと、語りかけてくる声が、もう不要なはずの『彼女』の存在を確立させた。

己を糾弾し、己を罰するために。

コツンと優しくマリィの額を突付き、如月は少し怒ったように断じる。

「当たり前だろう」

馬鹿なことをしたのだと、マリィは今頃理解した。

そんなことは己への哀れみの裏返しに過ぎなかった。
傲慢ですらある、ひとりよがりの裁きだったのだ。

もう自分はひとりではなかったのに。

「君が幸せにならないなんて、おかしいんだ」

優しい家族がいるのに。
友達もできたのに。

共に闘った頼もしくて――楽しい、沢山のおにいちゃんとおねえちゃんがいるのに。


『彼女』の中で封じられ、消え去りそうになりながらも、『遠く』が視えていた。

暴走する自分を案じて、仲間であった人たちは、集まってくれた。

『如月さん、お願い。マリィはもう――幸せになるべきなの』

軽かったとはいえ、癒しによって殆ど消えたとはいえ――白い手に赤い火傷を負ったことさえ、気にすることもなく。
元から罪などないと、必死に伝えてくれたのは、オネエチャン。

『強制的に彼女の存在を消す――お前たちの命が喪われるくらいなら』

望んでなどいなくて、それでも『妹』の安全を第一に考え、罪を、罰を、滅ぼしてくれようとしたのは、オニイチャン。

『君だってマリィだろう』

まだ具合も悪く、力も復調していない状況で、罪すらをも、受け入れてくれたのは、ヒスイ。



「ヒスイ……ヒスイはいつも、そんな風に笑って、マリィを安心させてくれるネ」

初めて会ったときは冷たそうな人だと思った。
笑ったり騒いだりする人ではなかったから。

だけどいつからだろうか。

『オ金稼ギ』の帰りに、オネエチャンとオニイチャンと一緒に、お店に寄ったときに、不思議な鈴を見ていた。
綺麗な綺麗なそれは、子供の目から見ても高そうで、触れることさえ躊躇って、ただじっと眺めていた。

『鳴らしてごらん』

彼は何でもなさそうに、ヒョイと鈴を手にとって、手に握らせてくれた。
綺麗な音に思わず歓声を挙げたら、更にあっさりと彼は言ったのだ。

『気に入ってくれたのならあげるよ』

「ヒスイが好き。ヒスイが大好き――――」

彼が静かに穏やかに、微笑むのが好きだった。
ずっとその側に居たいと思った。

「マリィ、頑張って大きくなる。大きくなって――――、ヒスイのオヨメサンになるのッ! オヨメサンになって、幸せになるよッ」

満面の笑みで、懸命に話す少女を、愛しく思わないはずがなかった。マリィの頭を撫でた如月は、彼女の不満そうな表情に気付いた。
しばし悩んだ後、屈みこみ、瞳を閉じる少女の額に、そっと口付ける。

顔を赤らめながらも、まだ少しばかり不満そうな彼女に、如月は微笑み、告げた。

「待つよ。君が大きくなるときを。君を迎えられる日を」

優しい約束に――誓約に、マリィは目を丸くしたあと、勢い良く頷いた。
淡く、だが、真剣な婚礼の約束を、今此処で交わす。

「――約束ダヨ、ヒスイ」



結界を解き、踏み出したときに見慣れた人物たちに気付いた。
月下に寄り添うふたりが、そこに居た。

「お帰りなさい、マリィ」

月の光を浴び咲き誇る一輪の華のように。
優しく綺麗な表情で、少女の義姉が微笑んだ。

「夜更かしだよ。早く――うちに帰りなさい」

月の光を受け玲瓏と煌く輝石のように。
綺麗で硬質な笑みを浮かべながらも、少女のオニイチャンが諭した。

「ゴメ……ゴメンナサイ」

俯き呟く少女に、ふたり揃って首を横に振る。

「私たちは叱りに来たんじゃないわ」
「言葉が間違ってる。君を迎えに来たんだよ?」

ふたりの言葉がマリィに染み渡る。
怒ってなどいない。いつも優しいオネエチャンだけではなく、彼女を傷付ける者など許さないオニイチャンまでもが。

「ウン、……タダイマ」

駆けより、ふたりに等分に抱きつきながら泣きじゃくる少女と、優しくその背を撫でる男女の姿に、まるで本当の親子のようだと、如月は微笑んだ。そして、直後に何故か寒気を感じた。


葵がマリィの手を引く。いつまでも手を振り続けるマリィに、微笑みながら手を振り返していた如月の傍に、気配もなくひとりの男が近付いた。

「『待っててね、ヒスイ』」

微かな笑みすら含まぬ声音に、如月は寒気の理由を理解した。
ただでさえ、男には『彼女』の両親という敵がいる。マリィには、それが二組存在するのだ。

「『マリィが大きくなるまで待っててね。約束ダヨ、ヒスイ』」

一言一句違えずに、彼は口にした。
待つと誓った如月に、マリィが満面の笑みを浮かべて口にした言葉を。

『視』てたのかと抗議することすら思いつかず、ひたすらに硬直した如月の肩にポンと手を置き、彼は続ける。

「待たずに手ェ出したりしたら――」
「――したら?」

一筋の汗をたらし、聞き返した如月に、緋勇はにっこりと笑う。

「Dead or die」

それ or じゃねェと、突っ込む気力と根性は、如月には残っていなかった。

生まれてきた事を後悔させるぞ――と続けた龍麻に、心が凍る。口元は微笑みがあるというのに、眼の光は凄まじく恐ろしい。

肩はみしみしと悲鳴をあげかけていた。これは本気だと、如月には哀しいほどに理解ができて、ぶんぶんと首を縦に振っていた。

実年齢は、そう変わらないというのに、どうやら彼女に『手を出せる』のは、随分と未来の話になりそうであった。恐怖のコンビ、『オネエチャンとオニイチャン』という名の、小姑と小粮が許さないであろう。

「ついでに言うなら、マリィの戸籍は今が十三歳の設定で作ったから、しばらくはロリコン扱いだな」

加えて止めまでさされて、如月は撃沈した。実際の彼らは二歳しか変わらない。マリィは十七歳。

だが現状としては、世に言うところの、大学一年と中学二年。
確かに危ない。教え子に手を出す家庭教師みたいなものである。


許されぬ恋愛だった。水の力を、脈々と継がせることを至上とする彼の一族にとって、彼女の力は、無力よりも遥かに性質の悪い、何よりも忌避すべきものなのに。

彼は困難を潜り抜けた。
主たる宿星の持ち主や、陰陽寮の実力者の助けがあったとはいえ、煩わしい非難の声を打ち破り。

せめて子供だけでも一族内の水の氣を強く有する女と成せと強要する連中を跳ね除けて、嘗て氷の男と評された無感動であった男は、無邪気な炎の女と結ばれる。

――そう遠くはない未来に。

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