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花残月


寝付けない夜だった。明日は休日だった。
だから、なんとなく表に出た。ただそれだけの偶然だった。


煙草を吸いながら歩くうち、中央公園に着いてしまった。

人気が全くない。それも当然か。
ここで、殺傷事件が起きたのは、つい最近の事だった。
真神の皆は、随分と気に病んでいたようだ。優しいことだな、と感心してしまう。
正直な話、自分とっては、見知らぬ人間のことなど、どうでも良かったから。



あの時の血痕は既に無い。あれだけ咲いていた桜も、ほとんどが散っていた。

いや、そんな中で、一本だけ咲き誇っている桜がある。



狂い咲きというのは、早く咲くことを示すのではなかったか
いや、遅かろうと早かろうと、時期はずれに咲いていればいいのか

など、つらつらと考えながら歩いていた。
それに近付くにつれて、ふとその理由に思い当たった。



狂い咲きの桜――それは、あの狂った男がもたれていた幹だった。

夜目にも艶やかに、美しく咲いている。そう、異様なまでに。
大量の血を吸い、魔でも宿ったのだろうか。

近寄ると、静電気のような感覚を受ける。なにかに包まれたように、煙草の火がフッと消えた。



その木の元には、長めの茶髪を束ねた二十三、四歳程度の青年が座していた。
一瞬前までは、存在しなかったのに。
気配だけではない。確かに見えなかった。

彼は、あの男と同じように幹にもたれていた。
失礼だが、櫻の精というには風雅に欠ける。だが、普通の人間とは思えない。


それに、どこかで会った事があるような気がする。
はっきりとは思い出せないけれど。
一度会ったら、忘れなさそうな存在感のある人なのに。



「邪魔をしたかな。失礼」

だが、その辺りの疑念は表に出さずに、そう話し掛けた。
どうやら彼は、夜桜のついでに呑んでいた様子だから。人間外だろうが、趣を邪魔したことに変わりはない。とりあえず詫びておく。


それにしても、凄いのは彼の前に並ぶ日本酒の銘柄だった。
失礼を承知で訊ねてしまう。

「どこぞの馬鹿ボンボンですか? 〆張に久保田、それに越乃寒梅とは」

三本とも定価こそは普通だが、その入手の困難さから、公然と数倍の値段で、売買されている銘酒だった。
もっとも、通常はこんな失礼な聞き方はしない。桜に浮かされたか、それとも、なぜか懐かしく感じたからか。


「いいや、俺のさ。それにしても、人の結界破ってきた割には、呑気なことをいう奴だな」

彼は、軽く苦笑しながら答えた。

なるほど。さっき煙草の火が消えたのは、それか。
ミサちゃんの結界とは、感じが違うんだな。

言葉の内容から判断すると、何らかの術者なだけで一応は人間なんだろうか。
だが、微妙に感じが違う気がする。勿論、先生たちのような、明らかな魔でもないのだが。


「アレ結界だったんですか。それは重ね重ね失礼を」

それはともかく、更に謝っておく。
なにしろミサちゃんに、結界を破られるのはプライドが傷つくと教えられたから。

「気付かれない為のもんだし、構わねェよ。……ひとりで飲むのも飽きたところだ。呑むか?」
「酒には目がないです。でもいいんですか? そんな名品を」


しかし、彼は細かいことを気にしない性質なのか、笑いながら杯をこちらに向けてくる。
そんなことを言われたら、もらわないわけにはいかないだろう。越乃寒梅だし。

魔性の桜だけを肴として、ささやかな宴が始まる。

もっとも、構成は野郎がふたり。その上、双方カッパカパと杯を空けていくので、周囲が醸し出してくれる情緒というものが、かなり失われていたが。

三升がカラになるまでに、そうはかからなかった。

「これだけじゃ、足りなかったな」

空になった杯を振りながら、青年は言った。
確かに。呑み足りないとまでは言わないが、まだ呑めそうだ。

「ウワバミがふたりではねぇ。そういえば、私一応、未成年なのですが」

今更に思い出した常識――というよりも法律を、一応口にしてみる。
尤も、育ての親が欠片も気にしない性格であった為、三〜四歳の頃から、呑んでいるらしいのだから、今更どころではないのだが。

「気にするな、俺もだ。大体、お前煙草を」
「ええぇぇぇぇー!!」


せっかく喫煙に対して突っ込んでくれたのに申し訳ないが、思わず叫んでいた。
一生で一番驚いた。鬼とか殺人鬼とか目じゃない。
生まれてはじめて、こんなに大声を出したと思う。

このヒトが未成年。
俺も少々老けてるけど、断然まし。こっちの方が酷い。



「無礼な奴だな。てめェだって、未成年には見えねェだろうが!」

彼は相当むかついたらしく、憤然としていた。
しょっちゅう言われているんだろうか。

……それにしても、怒ると更に老けてるぞ。

「それは自覚してますが、もっと凄いですよ?」
「……俺は、正真正銘の十七歳、高校三年だ」

さらに吹き出した。
十九歳でも、納得できないのに。なのに十七。同じ年!?

「タメぇ〜!? それは嘘だ。絶対嘘だ」
「殺すか」

低く呟かれた。そんな怒らんでもええやん。
いや、だって嘘と思うだろう。十七ってことはないって。



「あー、なんか一生分くらい叫んだ気がする」
「てめェ、先刻までの、礼儀正しさはいったい何だったんだ」

さわやかに言ったら、速攻突っ込まれた。
俺の礼儀正しさ……ねェ。それは、浮世の義理ってやつで。

「あまりにも驚いたんで、常に頭に乗っけてる猫が何処かに逃走しました」
「一升以上飲んどいて、その態度かよ?」

お望みならば、戻るけど。簡単だ。
がらっと、態度を変えてみる。

「ご馳走様でした。通り掛かりの私に、これほどの厚遇、誠に感謝致します」

わざわざ優雅に一礼までしてやる。あ、眉根が寄った。

「いきなり戻るんじゃねェよ」


忙しい人だな。せっかく丁寧バージョンで礼を言ったのに。
ワガママさんめ。それでもご希望通りに、再度フランクに戻してみる。


「いや、本当に美味しかった。大感謝。越乃寒梅って初めて飲んだけど、さすがは幻の酒ですな」
「調子のいい奴だ。……そういや、名前を聞いてねェな」



そのとき風が、吹きぬけた。桜の花びらが舞い上がる。
その光景に、かすかな既視感が頭を過ぎった。

いつかどこかの櫻の下で――
――誰かと会った



浮かんだその映像を、振り払う。
よく分からんが、軽い痛みが走った。

「名乗ると、なぜだか嫌な予感がしたんで」
「そんな気はするな。なんとなくだが」

軽く答えたことに、相手は深く頷いた。
嫌な予感――それは本当に漠然としたものでしかなかったんだが。
実は深刻な『何か』があるんだろうか。だが、呑んだ直後に面倒事は嫌だ。


「飲酒の後の過度の運動は、控えるべきだから、やめよう」
「酔ってるしな」

全く変わらぬ様子で、よく言うよな。
人の事は言えんけど。

いい酒もらったんだし、名前も告げないのは悪いかと思った。
それに、今のやりとりで力も抜けたので、一応名乗ってみた。

「ちなみに、名前は緋勇龍麻」
「九角天童だ」



こづぬ 
音を聞いて、漢字がわかった。――九角と。
こんな聞いた事のない、一般的でない苗字なのに。

確実に聞いた事がある。
いつだか、遥か昔に……

痛みが再度走る。
思い出したくなくて、頭を軽く振った。
話題を変える。

「……オタク名だ」
「ほっとけ、てめェもだろう。名前に龍が入ってるヤツに、言われたくねェぞ」
「あ、このやろ、人が気にしてるのに」


話題の転換に失敗した。ダメージが自分に返ってくる。

ああ、そうだよ。龍が入ってるさ。おまけに苗字にだが、色名まで入っている。


と、いくら考えを逸らしても意味の無いことだな。

鳴瀧さんが言っていた。

宿星とやらの力は、想像を絶する。
これから『運命的』な出会いを、腐るほどするだろう。敵味方を問わずに。



こいつの場合は、敵なんだろうな。
九角は、もっと知っていそうだった。
俺の名前を聞いた瞬間、微かに笑ったから。

まあ、それでも別に構わない。
今なにかがある訳ではないし、何よりもうまい酒を馳走になったのだから。


だから何も聞かない。
何も言わない。
ただ礼を言い、そして別れを告げる。


「ご馳走様。桜も美しかったし、酒も美味かった……楽しかったですよ。それでは」
「ああ、俺もだ。また、な」