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風待月

夜の帳が降りてくる。

月齢14.8――真円を描く月が、ほぼ真上に在る真夜中。

月の姿に比例するように、沸き上がる力と紅き衝動。
それを押し殺しながら、真神学園生物教諭は、屋上からの光景と月を眺めていた。

ふいに彼――犬神杜人は、かすかな足音と血臭を感じた。
だが、気付かないふりを続けていた。
そんな犬神の様子には構わず、ひとりの生徒がその空間に入ってきた。

「いい月ですね」

それは、緋勇 龍麻。

この春に転入してきたばかりの生徒。
だが、名門校からの転入生、長身、美形と揃いに揃った長所で、瞬く間に真神でも一・二を争う憧れの的となった。
おまけに、それまでは、それなりの仲でしかなかった有名人四名を結びつけて、真神新名物とも言える五人衆を作ってしまった。

この外見で、性格も穏やかで優しいというのだから、文句のつけようが無い人物像であった――実体を知らなければ。

今も彼は、柔らかく微笑んでいる。
深夜の校舎にいるとは、そして、むせ返るほどの返り血を浴びているとは思えないほどに。

「こんな夜中に何をしている?」

犬神は、愚問だとは思いつつも尋ねた。
瞳が稀に金に輝くのを、隠そうともしない。
どうせ緋勇には、初めて会った時から勘付かれていたのだから。

「ストレス解消に、ジェノサイドを少々」

あっさりと緋勇は答えた。

犬神は、緋勇がこの数日間欠席していたこと、そして『なにか』があったらしいことも、蓬莱寺や醍醐らのわかりやすい態度から、察してはいた。
それでも、こんな言い方をすることに少し驚かされる。

緋勇は、静かな声のまま首を傾げる。

「先生は、この時期は眠くならないんですか?」
「寝ないでも平気――という程度だな」

「では、少し話を聞いていただけませんか?」
「虐殺では気が済まなかったのか?」
「あまり。やってる最中は楽しいのですがね」

その笑みは、凍えるほどに冷たく、そして美しかった。
今更ながら犬神は、緋勇のその演技力に感心した。
裏表があることには気付いていたが、これほどのものとは。


「昨日私を庇って、ある女の子が死にました。その事を悲しんでいるなら良いのですがね。特に何とも思えなかったんです。結構好きだったのに」

犬神は、ただ黙って聞いていた。
緋勇の懺悔とも相談ともつかない話を。

「真神に来て、いやその少し前の事件から、変われたと思っていた。何事にも執着が無かったのに、初めて護りたいと思える人ができたから。
その人数が徐々に増え、やっと人間に近くなれたと思ったのに。その中のひとりが死んでも、平気だったんですよ。通常通りに的確に指示を出して、敷地内に火を放たれたら、冷静に皆を避難させて」

緋勇は、笑みを浮かべたままだった。
話そのものは痛切で、悔恨としか思えないのに。まるで、その表情しか持たないかのように、薄く微笑んだままで語る。

「どうでもいいから、誰にでも優しかった。何時でも見捨てられるから、どんな奴にも手を差し伸べていた。――今までは。そういう事か」

犬神は理解していたが、確認の意味で訊ねた。

昔から、稀に居た。
いざとなると、そこらの残虐な奴など裸足で逃げ出すほどの事を平然と行うのは、こういう普段は温厚と思われている奴だった。

大切なもの――人とは限らない『それ』のためならば、他のものなど、どうとでもできる人間。

「ええ、そして変われたつもりだった。けれど、変わってなどいなかった。
そして、怖くなった。葵や京一たちに何かあったとしても、このままなのかと」

緋勇は気付いていない。

「違うと思うが」
「え?」

悩むだけで、既に変わっている事に。

自覚も無いのだろう。今、泣きそうな顔をしている事に。

「俺が思うに、おまえは残酷なまでに、順位付けが明確なんだろうな。今までは、他人が等しく低い位置にいたんだろう」

誰も大切ではないから、誰にでも優しい。
皆がどうでもいいから、どんな奴でも受け入れられる。悪い所を苦言を呈してでも直してやろうなどとは、考えもしない。それが今までの緋勇 龍麻。

「今は大切だと思える奴らが、やっと何人かできた。だが……その中にも、厳然と順序が存在する。だから、その時にも迷ったのじゃないか?その少女を助ける為に、仲間を危険に晒すことと、逆を。
結果、お前は仲間達の方を、選択したんだ。多分な」

変わってはいる。
真に今まで通りならば、切り捨てた下位の『大切な存在』について苦しまない。
仕方の無いことだと、納得できていただろう。

「それは、結局は非情ということでは?」
「確かにそうかもしれんな。だがその代り、お前は両方を死なせてしまうことは決してない。ふたりが同時に崖からぶら下がっていて、片方しか助けられないようなときにな」

緋勇は俯き、そして笑いだした。やや自嘲気味ではあったが、しっかりした声で言う。

「必要かもしれませんね。あの善人ばかりの仲間内には、こういう人間も」
「というよりも、リーダーはそうでないと駄目だろう。蓬莱寺や醍醐では、悩んだ末に両方が、力尽きそうだ」


犬神の言葉に、幾分すっきりした顔で緋勇は笑った。
それから可愛らしく首を傾げて、可愛くない事を口にする。

「一本頂けますか?」
「未成年だろう」

素っ気無く応じつつも、犬神は一本投げてやった。

「危ないですね」

緋勇は、器用にキャッチし、手慣れた様子で着火して吸った。
そのあまりに堂に入った姿に、犬神は眉を顰める。

「一年やそこらの喫煙暦には、見えないが?」
「もう四年になりますか。試験勉強中の眠気覚ましに。日本の学歴社会の弊害ですね。恐ろしい」

しれっとした顔で、緋勇は答えた。
軽い頭痛を覚えながら、犬神は忠告を続ける。

「あとは、指から火は出さんほうがいいと思うが」

ライターもなしに煙草に火をつけた。
炎氣の錬成によって、そこまで制御が可能なところは素晴らしいが、人としてはどうだろう――と、犬神は痛み続ける頭を、そっと抑えた。

「便利なんですけれど、コレ。それにしても、しんせいってフィルターがないから吸いにくくないですか?口にたまに入りますよ」
「慣れの問題だ。大体普段はお前、何を吸っているんだ」

お気に入りを貶され、ムッとした顔にて問う教師に、教え子は平然と答える。

「銘柄ですか?パーラメントですよ。高いのが珠に傷ですが」
「悪かったな、安くって」

緋勇の答えが嫌味に聞こえたのか、犬神は憮然とした表情になった。
確かにパーラメントとしんせいには、かなりの値段差が存在する。


「確かにしんせいって安いですよね。初めて買った時は、おばちゃんが間違えたのかと思いましたよ」
「売店で買っているのか?それに中学生がしんせいはまずいだろう」

止むことのない頭痛に、犬神は片手で額を強く抑えながら訊ねた。

「あー、ある小説を読んで、しんせいを吸う刑事さんに憧れて」
「……中学生が菊地秀行も、どうかと思うんだが」

「ご存知ですか?朽葉さんて強くもないけれど、そこが格好良いんで、好きなんです。
ちなみに制服を着てると、売店の方が余程買いやすいんですよ。親に頼まれていると、思うんでしょうね」


取り留めのない事を話しているうちに、時間はかなり経過していた。
月の位置を眺めていた犬神が、視線を緋勇へ戻す。

「今日の授業は、大丈夫なのか」
「大丈夫でしょう。おそらく」

即答。明るい光の中ならば、さぞかし頼もしく映るであろう優等生の笑みであった。

「蓬莱寺のように、爆睡するなよ」

だが、今は闇の中。
犬神は鼻で笑い、忠告する。

「ええ。ではそろそろ失礼いたします。今日はありがとうございました」
「別に、たいしたことはしていない」

去りかけていた緋勇は、くるりと振り返る。その顔には、悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。

「あと一つ、お伺いしたいのですが」
「なんだ」
「先生は満月だけですか?新月もですか?」

月にその魔力の影響を受ける闇の住人たちの中でも、一際その傾向が強い獣人。
大抵の者たちは、満月が最大、新月が弱まる。だが稀に、新月と満月双方で最大となる者も存在する。どうやらそれについて訊いているようだ。

「………………満月だけだ」

散々の沈黙の後の答えに、緋勇は満足したように笑った。

「分かりました。ただの好奇心ですので、お気になさらずに。いつか闇討ちを等の他意はありません。では、おやすみなさい」
「ああ」

新月の晩は、気を付けよう。
緋勇が立ち去った後、犬神はそう決意し、軽く笑った。

彼の知る緋勇とは、純粋な男だった。
感情をすぐあらわにし、単純とも言える程に素直だった。

影のように付き添う対の龍――紫龍が居なければ危ない事も多かった。
強さと、それに反した危なっかしさを見ると、誰もが手助けをしたくなる、護りたくなる緋勇 弦麻。
冷静沈着で頭脳明晰、信頼され皆を護る側にある緋勇 龍麻。
強さと容姿こそ面影があるが、父である弦麻とは、正反対といえるだろう。

いや、犬神が人間でない事を、驚きもせず受け入れた点も似ているのか。
もちろん弦麻の場合は見抜いたのではなく、偶然に変化を見られたのだが。



「そんな理由で、中国に行ってくるから。日本のことは頼む」

あっさりと、なんでもないことのように話す――緋勇 弦麻。
その覚悟の決まった瞳に、犬神は訊ねてしまった。

「死ぬつもりなのか?」
「さて。迦代が死んだら、相当危ないけれどな」

軽い言葉は、遺言に近い。
誰もが知っている。この男と、その妻の間に生まれる子が背負うであろう宿命は。

「この龍脈の乱れの中での、迦代さんとお前の子では、どう考えても……」
「菩薩眼の女は、必ず死ぬわけではないさ。たか子も居る事だし、可能性は0じゃない」

緋勇は、自分でも信じていなさそうに言う。
確かに0ではない。だが、限りになく0に近い。

「では、なぜ鳴瀧を連れて行かない」
「冬吾が居たら、俺は助かってしまうかもしれない。敢えて死のうとは思わないさ。だが迦代が居ないなら、必死に生きようとも思わない」

悲壮感の欠片も無く、ごくあっさりと。
重きを置くのは、あくまで妻。己の命など、重視していないと口にする。

「あれだけ皆に慕われながら、たったひとりの為に生きるんだな。子供はどうするんだ?両親を失う事に」
「なったとしても強く生きるさ。そして己の唯ひとりを見つけられるだろう」

あまりにさりげなく、それでいて最早動かしがたいほどに固く決意した緋勇の言葉に、犬神は何も訊けなかった。

「わかった。じゃあな」

犬神は、自然にそう一言だけいった。
おそらくは、今生の別れとなる言葉を。

そんな彼の気遣いに、緋勇は知らずのうちに笑っていた。
最後に願いを告げる。

日本を――真神を護る事は『頼み』。そしてこれは『願い』。

「子供に出会ったら、優しくしてやってくれよ。どうせ、まだ生きてるだろう?」


老人連中には丁寧な口を利いていたくせに、それより遥かに長く生きている犬神には、まるで同年代のような扱いをした。
抗議したら、だったらもっと老けろとまで言われた。

そういう男だった。気持ち良いほどに真っ直ぐな男。

最期に交わした言葉と、彼の笑みを思い出す。

あれは伴侶の為だけに生き、死んだ男の我が子への贖罪。
ならば、叶えてやるべきだろう。


力の象徴たる月を眺め、彼は誓う。何よりも強く、それ故に哀しい宿命を負わされた青年を護る事を。

「星ならぬ、月に願いを……か」

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