「あ、いらっしゃい」
部屋に入ってきた醍醐と京一を振り返ることなく、彼はやや上の空で挨拶を口にする。
真剣な表情で、貯金通帳らしきものと新聞と計算機を手にして。
緋勇龍麻が何事かに熱中していた。
なんだか危険なものを感じた。
醍醐と京一としては、このまま回れ右をして部屋から出ようかとも思ったが、外の暑さとこの部屋の良く効いたエアコンとに、その勇気を持つことができなかった。
勝手知ったる他人の家。
グラスとかウーロン茶とか勝手に出してくつろぐ彼らは、矢張りどーしても、家主の不審な行動が気になった。
表情が真面目すぎる。
手にしたものも、気になりすぎる。
こんなとき、龍麻はきっと碌なことを考えていない。経験が嫌になるほどそう語っていたが、それでも好奇心が勝ってしまった。
「さっきから何してんだよ、ひーちゃん」
「商談と金稼ぎの算段。拳武の人に見積だけ頼んだんだけど、やっぱ有名人は高くてさ」
全額下ろせば足りるけど、これは一応皆の共通の金だからと続ける彼の瞳は、本気と書いてマジなのさ――って感じであった。
ものすご〜くさりげなく、ものすご〜く静かに――殺意が溢れていた。
「け、拳武にって、暗殺ということか?一体、誰を」
「ナベツーネ」
あっさりとした答えに、京一が顔を顰める。
「あー、またなんか言ったのか、アレ」
巨人ファンの京一にすら、アレ呼ばわりされるオーナーではあるが、仕方のないこと。
今までも、サラ金なんかと伝統ある日本シリーズをしたくないとか、髪型には品位が表れるとか、金だけ持っていれば良いってもんじゃないとか――お前の方こそ品位は存在しているのかと聞きたくなるような、数々の金言をほざいてらっしゃるのだから。
「新聞見てないのか?ステキ語録がまたふえたんだよ。今回のは『無礼なことを言うな。分をわきまえなきゃいかんよ。たかが選手が』」
「……マジで?正気か?」
選手とオーナーが対等だとでも思っているのか――と。
聞いた人間皆が、『うわぁ、言っちゃったーーッ!!』と叫びたくなるようなことを、今回彼は口にした。
そりゃ確かに厳密にいうならば、対等ではないだろう。雇用主と被雇用者。
けれど、思っていても口にしてはいけない類のことだろう。
ところで見積もりって幾らだったんだ?――という京一のもっともな疑問に、龍麻は顔を挙げて答えた。
「暗殺で七千万円。社会的抹殺で、三億四千万円だとさ」
高い。拳武はお手ごろ価格が売りなのに。
『『な、なんだってーッ!?』』と、某M○R並みの反応を返しかけた醍醐と京一であったが、ふと先程の龍麻の言動を思い出す。
「なあ、ひーちゃん。……じゃあ、七千万以上持ってんのか?」
全額下ろせば足りる。そういうことだろう。
大体一億弱だったよ――と平然と応じる龍麻に、京一はちょっと木刀を振るってみたくなったりした。ラーメンとたこ焼が何皿食えるんだろうかという思いとか衝動とかを、頑張って抑える。そもそも暗証番号を知らないのだし。
「預金というのは、多額になると税金取られるのではないのか?それに株など見ているということは、資産運用とかしているのか?」
「あ、これスイス銀行だから税金は平気。新聞は、為替レート見てただけだよ。日本円に換算してたんだ」
スイス銀行。
ゴルゴ13が依頼とかで使ってるやつだよなあと、京一は遠い目になる。
この親友は、奥が深いとか底が見えないとかではなく、なんだか妙なのだと実感した。
「奥さんでも子でも孫でも愛人でも、とにかく誰かあのじいさんに、本音と建前とか、モノはいいようとかって概念を教えてやったほうが良いんじゃないのか」
なんだか不穏な単語も混じっていたが、もっともな龍麻の台詞に、醍醐も全くだと頷いた。こうなるとアンチ巨人は話が長ェえんだよなと経験上知っている京一は、会話のキャッチボールから外れて、その辺の雑誌を手にとった。
最初は、どうすればあのじいさんは失言を無くすのかという議題であったはずだった。
「マスク被って襲えばいいんじゃないか。俺ウルティモドラゴンの」
「ならば俺はタイガーマスクか。ブラックはいても、ホワイトはいなかったよな」
変生すれば、普通の銃程度、きっと平気だよな――と、いつの間にやら激しく妙な方向へ転がりだした会話に、京一は頭を抱えた。
ついさっきまでの会話は、比較的まともだったはずだ。
なんだって人が雑誌の四コマ漫画読んでいる僅かな間に、こいつらは襲撃計画を練っているのか。
そもそもこの面子で、自分が一番常識的なことに悩んでいるなど、何かが可笑しいと思う。
非常識な会話に、頭を痛めるのは、本来ならば間違いなく醍醐のキャラであろうに。
「どうした、百面相などして。何か面白い記事でもあったのか」
首を傾げて聞いてきた醍醐に、お前らのせいだと怒鳴り返す気力は既になかった。何でもねェと力なく答える京一の手元を、醍醐は不思議そうに覗き込む。
更なる悲劇の幕開けであった。
「あ、その文春読むと疲れるよ。特に醍醐は止めておいた方が」
「……」
龍麻の忠告よりも先に、醍醐は目次を見てしまった。
険しい表情にて、見出しから素早くページを捲る。行き着く先は、酔っ払った近鉄オーナーの言動。
四コマ漫画を読んでいただけで、他は見てもいなかった京一は、横から記事を覗きこみ、あまりのタイミングの悪さに気が遠くなった。
ただ燃え上がる彼らから逃げようと、近くにあった週刊誌を手に取っただけのこと。なのに、よりによってな記事が掲載されていた。
暴言に近い言動。その中には、猛将への悪口も含まれていた。
「ああ、でも東スポが言ってたけど、速攻謝罪したらしい。格好良いよな。己の発言、即座に掌返してこそ漢と書いて『おとこ』と読めって感じだよなあ」
「……こちらから先に征くか」
静かに、凄惨に。
闘いを知る者の瞳で、醍醐が呟いた。
そう彼は阪神ファン。優勝へと導いた炎の男を、当然のごとく尊敬してたりする。
「でも近鉄のオーナーは、警察に警護依頼しちゃったらしいよ」
「ふ……それがどうしたというのだ?」
ブラボー。マーベラス。
スタンディングオベーションにて、称えたくなるような格好の良さに、京一は泣きたくなった。
どう考えても、この会話の流れですべきではない、どんな困難に対しても諦めないとの決意を秘めた漢の顔を、醍醐はしていた。
「まあ、とりあえずは落ち着け」
穏やかな声が、静かに笑う。
嘗て闘いの中で仲間を導いた、頼りがいのある声が――今の京一には、不吉なものにしか思えなかった。
裏金の発覚。オーナーの辞任。
結構な大騒ぎとなったニュースに、京一は人知れず悶え転げた。
大学生に――ドラフト逆指名枠をめぐってのことであろう――交通代、食事代などの名目で現金を渡していたことが発覚し、その責任をとってオーナーの辞任が決定した。
無論、竜と虎の仮面をかぶった男たちに襲われた等の報はない。だが――タイミングが良すぎであった。
事情を聞く。決心したは良いが、なんだか非常に嫌な感じを受けた京一は、龍麻の部屋の前で、足を止める。
止めて置いた方が良いと止める理性を叱咤し、どうにか先へと進む。
玄関の扉を開けると――醍醐と龍麻が、すっごくエエ顔でハイタッチしていた。
後ろには、奇妙に表情の乏しい御門と如月がいた。
そのまま閉めようとする手をどうにか押し止め、京一は疲れきった顔で重い足を引きずるようにして、中へと入る。
「ひーちゃん……三億四千万円、払ったんか」
祝杯をあげているのだろうが、どうにも如月と御門の表情には、『あー、嫌なことに巻き込まれた!!』と書かれていた。彼らにも、助力を頼んだというか、手伝わせたのだろうか。
「社会的抹殺まで行ってないだろ。金の節約の為に、内部で賄ってみたんだよ」
情報は主に御門から。
といっても、情報掴むこと自体は大して難しくなかったと、龍麻は言った。
要は、やっていない『はずがない』ので、適当に狙ってそうな大学生選手の周りを探っただけだというのである。
彼がターゲットになったのは、ただの不幸な偶然であったそうだ。
『お小遣い』を渡していた事実は、即座に掴めた。
問題は、この程度の金額、普通に流しても、大なり小なり、どこもやっていることだとの意見に消されてしまう。
ゆえに、如月が頑張った――というより頑張らされた。
噂の操作、誘導は、本来忍者が得意とするところらしい。
いかに有利に、いかに単純に怒りそうな人々に、伝達するか。伝達先と発覚時期とを、的確に見極め、始めは噂という形から、最終的には確かな情報として、しかるべき機関へと渡す。
荒事対策には、勿論彼ら。
本当に存在した黒服軍団的なガードマンに対しては、白い虎と黄色い龍が、嬉々として頑張ったらしい。
「ただ少しだけ失敗した。発覚をオリンピックに合わせやがった。……やっぱ上手いよなあ」
少し悔しそうに龍麻は呟いた。
本来は、オリンピックの盛り上がりが来る少し前。
凪ともいえる話題のない時期を狙ったのだが、向こう側が死に物狂いで発覚を延ばしたのだという。
新しい大きな波がくれば、大抵の人間が元の波を忘れる。それを上手く使われたらしい。まあ、それでも以前よりは出にくくなるだろうと頷いた龍麻に、京一は問うた。
「あ、別に俺は1リーグ制反対じゃないよ。そうしなきゃやってけないほど追い詰められてるんなら、仕方ないと思うし」
「巨人戦の数を減らすのが嫌で、2リーグ制に固執するのは、俺もむしろ情けないと思う」
一リーグにそんなにも反対なのかという問いに、龍麻も醍醐も首を振った。
穏やかさだけ見れば、己の能力を、こんな使うべきでない場で駆使した人間だとは思えない程に、まともそうであった。
「ただ奴らが許せなかった――」
「――それだけのことだ」
台詞も表情も、声音すらも格好良い。
ゆえにむかつく――と京一は思った。
わざわざ決めの台詞を分ける辺りが、また、むかつくとも思った。
と、その目の前に、缶ビールがにゅっと突き出される。
その手の持ち主が醍醐であることに、京一は目を見張った。
「まあ、お前も呑め」
白蛾翁に出会うまで、『真面目に』ぐれていた醍醐は、実は酒も煙草も嗜める。
それでも、いまや堅物の代名詞となった彼のこの言動には違和感があった。
「お、おい、タイショー。気は確かか?」
普段であれば飛びついたであろう誘いに、訝しげに問うた京一は、醍醐の顔が一挙に憤怒に変わる様に、呆然とした。大魔神のようであった。
「俺の酒が呑めんというのかーッ!!」
今にもちゃぶ台ひっくり返しそうな形相となった醍醐に、龍麻がケタケタと笑い出す。
「ははは、酒、俺のじゃん」
微妙にテンションがおかしい。
慌てて、京一は周囲に視線を走らせる。
転がっている缶チューハイだの缶ビールだのは、精々三十本強。御門が大して呑んでいないにしても、彼らが酔うような度数でも本数でもないはず。
ましてやザルの龍麻が酔うはずがないとも思う。だが、かなり酒に強い筈の醍醐が、こうまで正気を失っているということは。
「どんだけ呑んだんだよ……十本程度じゃ済まねェだろ」
「正解だ。君は基本的には鋭いね」
僅かに赤みを注した頬で、如月が笑う。彼が指した先。見えにくい奥の方に、日本酒一升瓶が六本空になって転がっていた。
彼もまたザルであったはずだと気付き、京一は戦慄する。
元々大して強くもない御門に至っては、静かなのではない。何かぶつぶつと呟きながら、部屋の隅でチビチビと少しずつ、だが着実に呑みつづけていた。目は当然据わっている。
「は、半端じゃなく怖ェ」
自分はとんでもない宴に足を踏み入れたのではないかと。
今更に気付いた子羊は、じりじりと後退る。判断は正しく、彼は最善を尽くした。
唯一の問題は、敵がまともではなかったこと。
駆け出そうとした足を、如月が払う。
酔っているはずなのに的確な攻撃に舌打ちしつつ、京一は受身を取ろうとした――が諦めた。
宙に飛んだ京一と同時に動いていた龍麻が、頭を打たないように受け止めて肩を抑える。横から醍醐が補佐として押さえ込み、御門が正座で前に座り、杯を差し出して虚ろな目で呟いた。
「どうぞ――」
ふかふかの布団に、暖かい毛布。
爽やかな朝の環境で、京一は苦しんでいた。
がんがんと痛む頭に、止まらない胃のむかつき。
見事な二日酔いの症状の中で、京一は呪った。
けろり――と、なんの症状もないらしい龍麻と如月を。
流石に呑みすぎたな――と、反省した様子の、僅かに頭が痛むらしき醍醐を。
同様の症状で、ベッドで寝かされている御門に対しては、一応呪うのは止めておいた。多分に彼のせいでもあるのだが、生涯初めてであろう苦しみにうなされる御門の姿は、かなり可哀想であった為に。
『酒は呑んでも呑まれるな』
当然のことであるはずの言葉を、京一は回る視界の中で、深く噛み締めた。そして、醍醐とは呑まないことを決心した。酒に強い体育会系など――碌なものではなかった。
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