横須賀線を下車した瞬間、小蒔と葵が歓声を上げた。
「うわー格好良い。山だー」
「お寺……円覚寺ね。鎌倉駅よりも小さいけど、私は素敵だと思うわ」
感動するふたりの様子に、そんなものかなと龍麻は首を傾げた。ここで十七年間暮らした身には、すぐ近くの寺も山も、慣れた環境であったから。
「そうだ、みんな和菓子って好きかな」
勿論と一番元気に頷いた相手に、龍麻は苦笑を返した。
「小蒔はちょっと恥ずかしいかもしれないよ」
恥ずかしいという理由が想像もつかずに、首を捻る彼女に、龍麻は、すぐに分かるよと笑って、店へと案内する。
本当に駅の前。改札口を降りてすぐの場所の小さな和菓子屋には、『こまき』という看板が出ていた。
「た、確かに。でも」
ぐっと拳を握り、彼女はやたらと雄雄しく凛々しく宣言する。
「甘味の為なら気にしない!!」
くすりと笑み、扉を開けた龍麻に、店の人間らしき女性が、目を丸くする。
「まあ、お久しぶりです。角倉さま」
「ご無沙汰していました。五人なのですが、食べていけますか」
どうぞと招き入れる女性に、龍麻は、土産用に菓子を包んでもらうように頼んでから、珍しそうに席から庭を眺める皆の下へと戻った。
あんみつと御菓子両方を頼んでいいかなと、恥ずかしそうに、頬を染めた小蒔に、龍麻は少し考えてから言った。
「勿論構わないが、生菓子は土産に皆の分も買ったよ?」
「え、そうなの? どれ? なんてやつ?」
メニューを真剣な表情で睨む小蒔の姿に、そうか普通はそう考えるか――と、龍麻はポンと手を打った。
残念だが、この店においては、生菓子に『どれ』という観念は存在しないのだ。
「どれとかじゃなくてね。ここの生菓子は、大体月に一度変わるけど、その間は一種類のみ。ちなみに個人的には、六月前後の紫陽花って菓子が特に好き。むしろ《愛》」
「そ、そんなに!?」
力説。ぐっと握った拳に、やたらと力が入っていた。
「見た目も味も好きだな。この前、今の近所のチェーン和菓子屋で、超劣化版のどぎつい紫色の似たの見掛けて、遠間から鳳凰ぶちこんだろうかと思ったくらいに《愛》」
「龍麻……鳳凰は止めてやれ」
崩れ落ちる和菓子屋に背を向け、静かに微笑んで去る彼の姿を幻視した友人たちは、頭を抱えた。ものすごくやりかねない。
それはともかく、まだ生菓子が待っているのならばと、それぞれあんみつだのみつまめだのぜんざいだのを注文し、抹茶を口にする。
「あ、鳥が」
「目の前の円覚寺の庭と直結してるから、池とか野鳥とか見えて和めるんだよ」
日本庭園を眺めながらのお茶。
高校生らしからぬ休憩を終え、女性から箱を受け取った龍麻は、店の扉を閉めると、土産を葵に少し持っててと頼み、携帯を取り出した。
「あ、お久しぶりです、おかあさん。……ええ、今北鎌倉の駅をでますので、二・三十分程度で到着すると思います。……はい。……では、また」
母親に対する丁寧語に、皆がそっと友人を見遣る。
彼が実の両親を喪っていることは、闘いの中で知っていた。
もしかして育ての親と上手くいっていないのだろうかと、心配になってしまった。
皆、息を呑んでいた。
龍麻が良い家の出であることは、立ち振る舞いから大体察してはいた。
しかし古都鎌倉にて、これほど大きく、そしていかにも由緒ありげな『お屋敷』に住んでいるとまでは、予想外であったから。
皆を誘う龍麻は、平然としたものではあったが、門をくぐっても玄関は見えなかった。
いかにも日本庭園といった景色の中をしばらく歩いていると、やっと玄関らしきものが見え始める。
やっと辿り着いた―――そんな安堵の隙を突いたように、上空から人が降ってくる。
気配も殺気もなし、けれど剣を構えたその影は、龍麻へと迫る。
「ひーちゃんッ!!」
「た、龍ッ」
京一らでさえもすぐには勘付けなかった人影は、容赦無く其の剣を振り下ろす。
頭をかち割らんばかりに勢いのついた剣を、龍麻は疲れきった表情で、右腕だけで止めた。
身構え、殺気立つ京一らには注意を向けず、不審人物は平然と口を開いた。
「お帰り、まい ぶらざー。腕を上げたな」
「……ただいまです、ブラザー。脳天割れるかと思いましたよ」
まだ二十代半ばから後半であろう青年は、若草色というのだろか。矢鱈と渋い色の和服を着ていた。
彼は肩を竦めて、臆面も無く言い放つ。
「結果的に無事なんだ。瑣末事は気にするな。むしろ二十分も前から、木の上で潜んでいた俺の努力を称えよ」
義母に連絡を入れた直後から潜んでいたらしい。
馬鹿としか言いようの無い義兄の行動に、龍麻は二段階くらい低い声で問う。
「……兄さんは、こまきの桜餅は嫌いなんでしたっけ? 俺が二個食いますよ」
見事に据わった目をした義弟の言葉に、飄々としていた青年が狼狽する。
「大好きだ。怪我は無かったか、最愛の弟よ」
妙な遣り取りに、皆の緊張が和らいだ。
丁寧語はただの癖であり、不和など杞憂だったのだと安堵する。
「お帰りなさい、龍麻さん」
「ただいまです。お母さん」
龍麻の言葉に、皆が目を剥いた。
『お母さん』と確かに言った。ということは、この目の前の女性は、龍麻の兄と名乗った和服の青年の母親でもあるはずだ。
だが、空色のワンピースに純白のフリルのエプロンを纏った女性は、どうみてもせいぜいが三十代前半。二十代の後半といっても通るような美人であった。
通された応接室に当たるであろう間は、ひたすらに和的に豪奢。
外に見える景色は見事な日本庭園。
土産を受け取り、お茶を入れますわねとふわりと微笑んだ女性が、確かに遠くへ行ったことを確認してから、京一は小声で親友に尋ねた。
「なあ、ひーちゃん。……お袋さんって、幾つだ?」
「京一くん……、駄目よ。もしかしたら」
呆然と問う京一を、嗜めかけた葵に龍麻は首を振った。
後妻かもしれないなどと、心配したのだろう。だが、それは無用だった。東洋の神秘と、知人の西欧人に絶叫されたらしいのだが、彼女は世間一般的には中年女性と呼ばれる年齢であった。
「……あの人は兄さんの実母だよ。兄さんは老けて見えるけどまだ二十三で、母さんは若く見えるけど確かもう四十五」
「まだ今は三と十ヶ月よ、龍麻さん」
何時の間に戻っていたのか。
ドゴッと息子の頭にウェッジウッドのティーカップを乗せ、ジョボジョボとアフタヌーンティーを優雅に注ぐ女性はあくまでも笑顔を湛えたままであった。
「すみません。……お母さん、熱いです」
「熱くしてますもの。あ、皆さんは、適温ですわよ」
にこにこと。煮立った紅茶を並々と注ぐ。養子虐待じゃないのかなーなどと思いながらも、龍麻は静かに座していた。被ると洒落にならないので。
「どうぞ。お口に合うと良いのだけれど」
ひとりひとりに――龍麻以外に――微笑みながら『紅茶』を手渡す。
茶請けは生菓子であるのだが。
「それにしても、本当に何があっても紅茶ですね。何も和菓子のときに紅茶を飲まなくても」
「でも、私、お抹茶は苦味が強くて好きになれなくて。もう皆諦めてるでしょう?」
鎌倉に住んでおいて、それはないだろう。
そんな突っ込みは許さぬ笑顔で、彼女は可愛らしく首を傾げる。その姿は、やはり二十代にしか見えなかった。
諦めたように龍麻は溜息を洩らす。
「まあいいですけど。ただ兄さんは? あの人は紅茶は嫌いでしょう?」
「氷雨さんは、自分の分だけお茶を立てていたわよ」
貰えばよかった――と呟き、龍麻は頭上のカップを苦労して取った。
極上の茶葉に、ゴールデンルールにて――彼のものは温度が適温ではなかったが――淹れられた紅茶。
それでも桜餅には、抹茶かせめて煎茶と思うのは我儘ではないだろう。
「お腹が落ち着いたら、お昼を食べてくださいな」
「わあ、お母さんの手料理ですか?」
何か問題が――と、にこやかに睨む義母に、龍麻はナンデモアリマセンと、棒読みで応じた。
では仕度をしますわ――と、微笑みとともに彼女が去ったのを確認してから、京一が龍麻へと急ぎ向き直る。
「おふくろさん、まさか料理下手なのか?」
あれほど良妻賢母――と全身で主張した外見を持ちながら、それは酷くないかと小声になる京一に、龍麻は首を振った。
「いや、美味いよ。ただひとつ重大な問題点が」
「な、なにが?」
恐る恐る訊ねる小蒔に、龍麻は奇妙なほどに沈痛な面持ちで、静かに答えた。
量が半端じゃないんだ――と。
満願全席。
洋食にもそんな言葉があるのか不明だが、そんな感じであった。
特に最後の豪奢なビーフシチューが皆の腹にキタ。
自宅でもある龍麻は、早々に寝転がっていたが、他は流石にそうもいかず苦しんでいた。
「本当に寝てても良いよ。母と兄は、気使って席を外してくれたんだから」
大量に作りすぎるという自覚はあるらしい。
それでも、彼女はお客さんが来るというと、作りたいもの全てを作らなければ気がすまないのである。
よく自分はデブらなかったもんだと、龍麻は今更だが、不思議に思った。
まあ、義母自身も、義父も義兄も、何故か太らないのだが。
「そうは言ってもよ……人ん家でそれは」
「畳ってのはその為にあるんだから構わんよ。寝るのが心苦しけりゃ、せめてくつろぐように」
比較的慣れている為なのか、立ち直りも早いらしく、龍麻は起き上がり、襖を開けて叫ぶ。
「兄さん、腹が落ち着く系の茶プリーズ」
「蛇が飲むやつでいいかー?」
「人が溶けるのは駄目」
落語ネタを交えつつ、注文は済んだらしい。
失礼――と。
落ち着いた言葉と共に、和服の青年が湯呑みと急須を盆に載せて、入ってくる。
「あ……素敵な万古焼の急須ですね」
骨董好きの葵が、目を輝かせた。
おや、わかりますか―――と、青年は穏やかに微笑む。
だが龍麻は熟知している。今の笑みは、狩りに赴く時の表情であった。
「しかし、綺麗な人だ。弟は外面人間で、性根が腐ってて、とろけるスライス雪印という状態ですよ。私に乗り換えませんか?」
「え……その、私には……」
即、攻撃。
葵に湯呑みを差し出し、その瞳を覗き込みながらの真顔であった。特に紹介されていないのに、彼女の方を恋人だと見抜いたのは、単に義弟の好みからの判断であった。――正解なのだが。
ぐいっと、葵に覆いかぶさるように背後から抱きつき、義兄を睨んだ龍麻が牽制する。
「同じ人とイベント三個超えてから、人の恋人を口説いてください」
「四代前は、イベント三個達成したぞ」
心外だと言い返す義兄に、龍麻は呆れたように肩を竦めた。
「あれは彼女の誕生日が、十二月中旬だったからでしょう。誕生日、クリスマス、バレンタイン……三ヶ月もってないじゃないですか。誕生日とクリスマスが近い人は同じ扱いですよ。伝統でしょう?」
「それはプレゼントを省略される子供の頃の話だと思うが。ま、その辺はおまけしろ。季節を越えるなんて至難の業だ」
こんな義兄を持ったから、まともな恋愛が今までできなかったんだよなあと、龍麻は溜息を吐いた。そういや『初めて』は、義兄の不実にキレた女性に半ば襲われたんだったなあと、少し懐かしく思った。何しろ五〜六年前の話なので、記憶が怪しい。
「こちらも可愛らしい人だ」
龍麻が遠い記憶を辿っている隙に、今度は、小蒔を見詰めながら口説いていた。
「彼女はそこのまっちょの恋人ですよ」
冷たく告げた龍麻は、男には一向に配られる素振りのない湯呑みを盆から取り、京一と醍醐に手渡す。
自分の分を取り、ひとくちこくりと飲んだ龍麻は、つくづく美味いと思った。
義兄は中国茶と日本茶しか、義母は紅茶しか存在を認めないのだが、双方途轍もなく美味いものを淹れる。
一人暮らしを始めて何が辛かったって、自炊や掃除洗濯などではなく、自分で淹れてみたそれらの飲み物が不味いことであった。
料理に関しては、龍麻は義母の教育の成果にて問題はなかった。
ちなみに教育とは、
『男は胃を掴めなんていう考えで、料理だけが取柄のロクでもない女が、いい男を捕まえたりするのよ! 貴方たちは、そんな手口に騙されてないように、自分で料理ができるようにならなきゃ!!』
という主張により為された。何か恨みを持つ実例が居るのかもしれない。
新宿で知り合った皆は、龍麻はコーヒー好きだと思っているが、実は残された選択肢としてコーヒーを好んでいるだけであった。
最上の味を知っているだけあって、その辺の茶と紅茶は飲めたものではないのである。
――数少ない例外が、如月宅と織部宅にて出される茶であり、救いとなっている。
「では、ごゆるりと――」
落ち着いた青年に戻った彼は、渋く微笑み退出した。
女性ふたりが彼氏持ちだと聞いた時の舌打ちした顔とは、別人であった。
「お兄さん、どっかの若旦那って感じだな。如月が数年経ったら、ああなりそうだ」
「……いや、アレ、公務員なんだけどね」
苦笑した龍麻に、全員が嘘ッ!! ――と叫んだ。葵までもが突っ込み。余程似合わないらしい。
「確か税務署だよ。正式名称は知らんけど」
税務署員にあの青年。そりゃ仕事場では和服は着てないのだろうが、想像し難過ぎであった。
こちらも恐らく骨董なのであろう、手触りからして違う湯呑みを手に、庭を見、茶を飲みながら、醍醐は独り言のように呟いた。
「しかし和風好きとはいえ……本当に凄まじい家だな」
景色を眺め嘆息する醍醐は、きっと正しい。
凄まじく和風。庭には池も大松も、当然のたしなみとして、ししおどしもある。
醍醐に釣られたらしく、庭に視線を向けた京一は、固まった。
「ひーちゃん……まさかあれって」
絶句した京一の指差すものを眺め、龍麻は溜息を吐いた。まあ、一般家庭には、絶対にないものだよなあと思う。
「修練場――剣道場といってもいいけど」
そういや子供の頃には、何故自分には剣を教えてくれないのか、哀しくなったりしていたなと、懐かしく思う。緋勇の技に、影響を与えないためであったのだろうと、今ならば理解できるが。
他の流派から習ってしまったなどとばれたら、叱られそうだなと少々怖くなった。
「でもさ、この家の和風ッぷりを考えると、今度はお母さんが不思議だよね」
小蒔の言葉に、皆、頷いた。あの空色のワンピースは、洋館の玄関にて、吹き抜けのロビーなどで、ゴールデンレトリバーなどの大型穏やか犬と、戯れていてほしい感じであった。麦藁帽子なんかもあると望ましい。
「お母さんは、洋風大好きだから。ハロウィンとかの半端な洋物なんて凄まじいぞ。ディスプレイとか細かいものは好きだから、あの日本家屋玄関に、かぼちゃ飾るは、庭の大松は、ほうきにのった魔女だの飾られるし」
「……そりゃあ松が泣きそうだな」
この平屋の日本家屋にハロウィン風ディスプレイ。
シュールでさえある。
「鎌倉の旧家の跡取と、山手の洋館の貿易商のお嬢様。ある意味ロミオとジュリエットだったらしいよ」
ただの鎌倉の旧家ならば、まだ良かった。だが、よりによって、歴史の影に生きる家。期待を受けるだけの力を持って生まれた嫡男。そして折悪しく生まれた菩薩眼の実妹。
正直、友人たちに聞かすことなど到底出来ないほどの、伝奇じみた事件を乗り越えた上での恋愛成就なのだ。
それこそ、義母は全裸で縛られ、頭の古い一族の連中により外法を施される直前。義父がそこに日本刀を持って乗り込んで助け出すくらいのキクチ○○ユキな世界が繰り広げられたのだ。
あなたのよ〜、今はあなたのものよ〜と喘ぐ羽目にはならなかっただけ、ましと言えるのだろうか。
「どんな出会いだったの?」
「出会い自体は大学なんだけどね」
あくまで平凡なボーイ ミーツ ガール。サークルで出会った大学生と短大生。
義母は全くの通常人。
それでも、そんな事件に遭ってさえ、思慕は消えなかったのだから肝は据わっているのだろう。
「へェ〜、洋と和の愛は許されたんだね」
「……まあね」
許されたとは断言できず、それでも一応龍麻は首肯した。
正確には、障害を力技で打ち砕き、叩き潰し、ごり押ししたのであるが。
「結婚式の写真なんかすごい。羽織の義父の隣に、純白のウェディングドレス着た義母が写ってたからなあ。一瞬合成写真かと思った」
主張すべきことは主張する性格でもあるのだ。
流石にお色直しにて、双方和洋装を着たそうなのだが、記念である写真には、お互い似合う方で臨んだらしい。
「そういえば、ひーちゃん。鳩サブレって欲しかったんだけど、どこかで買える?」
では帰るかという話になった時に、玄関口で小蒔がお土産を買いたいと言い出した。
一瞬頭に地図を浮かべた龍麻は、頷いた。
「駅までの通り道にある。そっちだと美味いケーキ屋通るけど……醍醐と京一、まだケーキ食えるか? 葵と小蒔は別腹だから平気かな」
誇らしげにうんと頷いた小蒔と、恥ずかしそうにええと頷いた葵のことを、京一と醍醐は素直にすげェと思った。
店であんみつ食べて、少し歩いたとはいえ、食事―― しかも濃厚なビーフシチューまで ――と桜餅を食べ、このうえまだケーキがあの細い身体に入ると。
苦しかったら、紅茶でも飲んでてくれという龍麻に、彼らは頷いた。エンジン入った小蒔に、腹一杯だからケーキ屋は止めようと提言する勇気はない。
「あれ? でも、さっきの道に、ケーキ屋さんなんかあったっけ?」
首を傾げる小蒔に、龍麻は帰りは逆に行くのだと首を振った。
「ちゃう。うちは北鎌倉と鎌倉のほぼ中間なんで、帰りは鎌倉駅まで歩く。その途中に鳩サブレとケーキ屋があ」
説明途中で、龍麻の姿は掻き消えた。
慌てる皆の中で、見送りに出ていた青年が、静かに――呆れた口調で告げる。
「心配いりません。この波動は、父の結界ですから」
突然何もない空間に放り出された龍麻は、痛む頭を軽く振った。
――結界に影響された訳ではなく、純粋に頭が痛かった。一体何を考えているのだろうと思う。
疲れた声で、ある個所に向かって話し掛ける。
「……お父さん。皆の前で、結界に引きずり込まないで頂けますか。というか、いつの間にお帰りだったんですか」
普通に出てくりゃ良いだろうに――との呆れた思いをたっぷりと込めて。
ずずずと、闇が集まり、渋い男性の形をとる。
「ママからメールを貰ったんでな。先程有無を言わさず早退してきた」
それで良いのか重役と思った龍麻であったが、とりあえず黙っておいた。ちなみに、この渋いハンサム中年が妻を『ママ』呼ばわりすることには慣れている為、特に反応しない。
「あの少女……本当に迦代にそっくりだな。マザコンだったのか?」
「俺は母の顔を知りませんよ。写真すら見せてくれなかったじゃないですか」
鳴瀧も、養父母も。
誰一人教えてくれなかった。それはきっと運命の強制力に、引き摺られない為の配慮であったのだろうと、今は分かっているが。
「菩薩眼の女と、黄龍の器。そんな決められた道で良いのか?」
「出会ったのは運命かもしれません。けれど、愛したのは自分の選択ですよ」
優しく笑えた息子に、父は苦笑した。似ていないと思っていた。妹を攫っていったあの腹の立つ、真っ直ぐな男とは。だが、微笑む息子は、こんなにもあの男に似ている。
「まったく。あの単細胞生物と同じことを言いおって。何一つ似ていないようで、しっかり――似ていたのだな」
「単細胞生物。……父ってどんな人だったんですかね」
教師だの師匠だの父の嘗ての仲間たちだの。
彼らの話を総合すればするほど、よく分からなくなる。
フナムシみたいな奴だったと吐き捨てる義父の表情から、シスコンだと確信した龍麻は、賢明にもそれ以上の言及を避けた。
実父は、危なっかしくて真っ直ぐで、単純でわがままで、強くて優しくて素直で、単細胞生物でフナムシだったという結論になってしまうが。
「まあ、好きにしろ。因果は、ほどけたのだろう?」
姿を失いながらの義父の問いに、龍麻は、はいと頷いた。
ならば良いと、声が届くと同時に、世界は元の玄関へと戻る。
慣れたことなのか、欠片の動揺もないふたりが、龍麻に向かってあっさりと告げる。
「いってらっしゃい、龍麻さん」
「早く帰ってこいよ」
平凡な日常の如く。
朝の一シーンの如く。
帰る家はここに在ると。
いつでも、帰ってこいと言わんばかりに。
彼らと、そして何処からか見ているであろう義父に――家族に微笑みかけて、龍麻は応じた。
「いってきます」
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