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― 東京魔人学園外法帖 第壱章 ――


「おい―――。お客さん―――。ちょっと、お客さん―――」

肩を掴まれ揺さぶられ、意識が覚醒していく。
知らない景色。どこかの小さな茶屋らしき場。

「やれやれ、お目覚めかい?寝息も聴こえないから、死んでんのかと思ったよ」

目が合った店の男が、呆れた様子で呟く。
緋勇は、何もかもが理解できなかった。つい先程まで、仲間達の屍の中で、自身も死を迎えつつあったはず。

愕然と立ち上がり、周囲を見回すも、そこは平和な光景でしかなかった。
寝ぼけた男としか思えぬ緋勇の行動に、周囲の客達は小さな笑いを洩らした。ただひとり、心配そうな表情となった女を除いて。

「あの……大丈夫ですか?どこか具合でも悪いんじゃ?」

声を掛けてきた女の顔に、緋勇は再び衝撃を受けた。
知っている。この女はあいつの妹。菩薩眼の女であり、一度は彼ら鬼道衆が捕らえながらも、頭目の考えによって結局は解放した女。

「脈が少し乱れているわ。それに、身体のあちこちに擦り傷が。うん―――。他には、これといって異常はないみたいだけど……あら?この傷は何かしら?額の中央に―――。斬り傷みたいだけど」

呟きながら診断を下していた女が、突然口を噤んだ。どこか呆然とした様子で静かに座していた青年の整った面に、痛切な色が走った為に。

ごめんなさい。悪い事をきいてしまったみたいね――頭を下げた女に、緋勇は虚ろな瞳のまま首を振った。そんなことはどうでも良い話であった。

「私の名前は、美里 藍。この街道の先の内藤新宿で、診療所の手伝いをしているの。あなたの名前は?」
「すまんが、それどころではない」

相手をしている余裕は無い。理解できぬ事態に、必死に考えを巡らす。
あれが夢の筈はなかった。あんな苦しみを想像だけで感じられる筈がない。

「でも……。こうしてこんなところで会えたのも、きっと何かの巡り合わせだもの。それに、このままじゃあなたの事、なんて呼んだらいいかわからないわ。だから……」

尚も言い募る美里の言葉が、引っかかった。
巡り合わせ?人の縁?

『貴方たちだけではあの人には勝てない』

そう言ったのは誰であったか。あの心を裂かれるような痛みは、何故感じていたのか。

「美里……度忘れした。少し訊ねたいのだが、今は何月何日だ?」
「え?えーと」

美里の答えを聞いて、緋勇は薄く笑った。
やっと全ての得心がいった。事態が理解できた。

――初めて桔梗姐さんに会った、鬼道衆に加わった日。なるほど、そういう事か比良坂。

――時の回廊を曲げる事が可能なのは、世界を繋ぐ糸を紡ぐ織り姫たるあいつだけ。
――時を溯る程の力を受けても無事なのは、無限の力を注ぐ事が可能な黄龍の器である俺だけ。



ゆえに彼女は時を戻らせた。記憶を残したままの彼を、陽の力と接触できる場へと送った。

考え込んでいた緋勇は、即座にある決意を固めた。

目的がある。柳生を倒し、友たちを救う。
その手段が確かにある。陰の力だけでは足りないというのなら、陽の力も使えばいい。あえて、対立していたある組織に属すればいい。

そこにどうやって属すれば良いのか――簡単な話だ。目の前に、その構成員がいるのだから。

「すまなかったな、寝ぼけていた。俺の名は、―――緋勇 龍斗だ」

偽名を使おうか悩み、止めておいた。
これから闘いの中に身を置くというのに、偽の名に俊敏に反応できるほど、己が器用だとは思えなかったゆえに。

「緋勇さんは、何処のご出身?歳は、お幾つ?」

適当に答えながら、具体的な策を練る。何食わぬ顔で新宿へ戻る美里を尾行するのも一つの手だが、最良とは言えまい。

「さっきより、顔色は良くなっているみたいだけど……、そうだ。この漢方薬を飲むといいわ。気分が楽になるから」
「いや、無用だ。心遣い感謝する」

原因はわかっている。
身体はほぼ復元されている、全ては心因性なもの。額に残った刀傷は、記憶を失わぬように己の意思で残した痕なのだろう。
顔色が悪いのは当然のことだ。つい先ほどまで、仲間たちの屍のなかで、死につつあったのだから。

「お客さん、具合悪いだか?」

会話を聞きつけたのか、店の娘までが、心配そうに覗き込む。
心配の言葉から、連鎖的に思い出してしまった朱色の光景。僅かに顔を歪めた緋勇の様子に、娘は慌てて頭を下げた。

「すまねえだ。あの……おら、よけいな事聞いちゃったか?」
「そういうわけではない。すまんな、先程から少し頭痛がして集中できないだけだ」

ある意味で正しい緋勇の言い分に、美里が頷いた。

「やっぱり、お医者様に診てもらった方がいいみたいね」
「こっからだと、この先の内藤新宿が近いだよ」

娘の言に、緋勇の口元が僅かに歪んだ。
これならば、不慣れな振りをして道を尋ねれば良い。そうすれば、この善良な女は、自分から案内を申し出るであろう。

「そうね。良かったら、わたしと一緒に内藤新宿まで行かない?丁度、これから戻るところなの。今からすぐ出れば、日が沈む前に内藤新宿に着く事ができるわ」

だが、その前に美里が頷いた。
流石に、緋勇は呆気に取られた。ここまでお人良しとは予想外であった。会ったばかりの若い男を、そこまで気遣う若い女が居るとは思わなかった。第一、危険であろうに。

それでも、渡りに船であることは確か。頷いた緋勇に対し、美里は満面の笑みを浮かべた。

「ちょっと、待っててね。荷物をもってくるから。それじゃ」

身を翻した美里の凛然とした姿に、店の娘が嘆息した。

「はァ〜、ほんに綺麗な人だべなァ。きっと、ええトコの出に違いないだ。あッ、よぐおでんした」

しみじみと呟いてはいたが、新たに店に入ってきた客には、元気に挨拶をする。娘は、緋勇にぺこりと礼をして、そちらに素早く向かった。きちんと教育されているのであろう。

緋勇がひとりになったのを見計らったのか、明るい声が掛けられた。

「おい、あんた。こっちだ、こっち―――」

またもや聞き覚えのある声に、振り向いた。視線の先に居たのは、若い剣士。――蓬莱寺 京梧。

美里と蓬莱寺に、知り合いらしき素振りはない。
そして話によれば、蓬莱寺はこれから江戸へ向かうという。推論は、確信に変わった。

間違いない。彼らはこれから龍閃組に加わることになる。
共に居て、機会を窺えばいい。そうすれば確実に、龍閃組の一員になれるであろう。

「ふたりとも江戸に行くだか?」

蓬莱寺の注文で団子を持ってきた娘が、遠慮がちに首を傾げた。
共に頷く彼らの答えに、その表情は曇っていく。

「まんず、気をつけてけろ。江戸にゃ、鬼が出るって話だ」

馬鹿馬鹿しいと、笑い飛ばす蓬莱寺の様子に、緋勇は小さく苦笑してしまった。彼はこれから、その鬼との付き合いが続くというのに。知らないということは、恐ろしい。

「鬼か。まッ、そういうのも悪くねェ。この腕を試すにゃもってこいだ」

目を丸くする娘に対し、彼は豪快に笑い飛ばしてみせる。今じゃ『刀を飾りで下げてる腑抜けやゴロツキばかり』だと、わざわざ周囲の人間を挑発するようなことまで口にしながら。

「おいッ、貴様ッ!!今、何といったッ!!」

案の定、先程入ってきた浪人らしき一団が、目を吊り上げる。
口喧嘩の段階ならば放って置こうと、気にもしていなかった緋勇だが、展開に小さく溜息を吐いた。

「武士の魂を忘れたのなら、女の尻でも追いかけてるのが似合いだぜ?」
「別に俺だって、好きで追ってる訳じゃねェ!!全ては御屋形様の―――」

余計な事を口にした男を、仲間のふたりが鋭く叱責する。それだけで、緋勇には、彼らの正体が判ってしまった。流石に、友人とは違い、下忍の顔まで全て把握しているわけではないが、この空気は確かに『仲間』なのであろう。

そういえば、帰りが遅い連中がどうとか、鬼道衆に加入した当時、彼らが表情を曇らせて話していた筈だ。

「お?さすが、武士。無益な争いはしないって事かい」

悔しげな色は隠さないが、蓬莱寺の挑発にも、乗らなかった。やはり『御屋形様』の名は大きいようだ。
つまんねェと拗ねたような顔をする蓬莱寺であったが、店の主人の諌めに、素直に頭を下げた。確かめたい事があったのだと。

矢張り、愚かではないようだ。それにも増して、彼らが露骨すぎるのかもしれないと、緋勇は嘗ての――いや未来というべきか――部下達の素直さに頭が痛くなった。
彼らは美里藍の行動を、逐一目で追っていた。これでは気付かれても仕方が無い。

「ごめんなさい。待たせてしまって。あそこの女の人が、気分がすぐれないみたいだったので、診てあげてて。それじゃ、行きましょうか」

代金を払い、近付いてきた美里に、緋勇は、頷いて立ち上がろうとした。蓬莱寺が小さく笑いながら、美里に尋ねる。

「ちょいと待ちなよッ。内藤新宿へ行くんだろ?」
「え、えェ」

展開を予想し、あまりにとんとん拍子に進む事態に、緋勇はむしろ呆れてしまった。これは最早、渡りに船どころではない。

「丁度いい。俺も行くとこなんだ一緒に行こうぜ。旅は道連れ―――ってな」
「うふふ。わたしは構いませんよ」

視線で同意を求めてくる美里に、緋勇は勿論頷いた。彼ら両方と行動を共にできることほど、望ましいことはないのだから。

それからはしばし歓談のときを過ごした。
蓬莱寺の江戸へ向かう理由が、『剣という道の果てには何があるか。それを見てみたい』などと、漠然としたものだとは意外であった。何度も立ち塞がった龍閃組の剣士の闘う理由は、江戸を護りたいからなのかと、勝手に思っていたから。

だが、和やかな時は長くは続かなかった。茶屋にいた浪人達が、殺気を湛えて姿を現したが為に。

「その女を渡してもらおうか」

蓬莱寺は無論気付いていた。彼らが店に入ってきた瞬間から、その狙いが美里であることに。
だからこそ美里に同行を申し出たのだろう。愉しげに、剣を構える。

力量差は明らか。かと言って、彼ら鬼道衆を助けるわけにもいかない。彼らは女に狼藉を働こうという連中であり、自分はその女に案内を頼んでいる立場なのだから。

「馬鹿な奴らだぜ。あの世で、己の非力を悔やむがいい。俺は、この剣士を殺る。お前らは、そっちの男と女を―――」
「同時にかかった方がいいな」

またもや聞き覚えのある声。そういえば、龍閃組を最も早くから警戒していたのは彼だった。
懐かしい僧形。楽しげに笑う彼の姿と、絶命した血塗れの姿が、重なりそうになり、緋勇は頭を軽く振るった。

「数が多いからって、油断しない事だ。その無手の兄さんは知らないが、そっちの剣士の兄さん……、結構な遣い手だよ」

明るく告げる九桐の言葉に、緋勇は少々気分を害した。失礼な――と。少なくとも今の段階の蓬莱寺など、相手にもならないとの自負はあった。

面白そうなんで見物に来たのだと、自分の事は気にせずに続けてくれと笑う彼に、浪人たちが殺気立つ。

緋勇は、呆れていた。彼らは九桐の顔も知らないのだろうか。まあ、確かに聞いた話では、九桐はかなりの放浪癖があるとのことであった。下っ端である彼らには、馴染みが浅いのかもしれないが……それにしても、頭目の右腕を知らぬとは。

「君たちの相手は、そっちの兄さんたちだろ?」

あくまでも明るい声。蓬莱寺がその挑発を引き取った為、浪人たちの敵意は、再度蓬莱寺へと向かう。

「―――っしょっと。ここで見物させてもらうかな。いやいや、いい眺めだ」
「確かにな」

とすんと、九桐の横に、緋勇が腰を下ろす。
おや良いのか?――と首を傾げる嘗ての友に、緋勇は問題なかろうと、あっさりと応じた。

「ひ……緋勇?」
「頑張れ。危なくなったら助けてやろう。だが、見たところ、その連中相手ならば、お前だけで充分だ。ああ、美里も一応こっちにきておけ」

戸惑いながらも素直に緋勇へと近寄っていく美里の背を見送り、蓬莱寺は、上等だと吼えた。やや自棄になったようなところも否めないが、本音であった。

「ああ、そこで見物でもしてな。こいつらは、俺ひとりで十分だ」

真実でもあった。
三人を敵に廻し、同時に繰り出される攻撃を避ける。

防御はまだ見られたものではない。勘を頼りに動物的にかわすことが関の山。特筆すべきは攻撃面。最短の距離で動き、一太刀で反撃を断ち切る。緋勇と九桐は、呑気に歓談しながらそう結論付ける。


「こうなれば……貴様だけでもッ!!」

比較的無事であった男が、憤怒の表情で緋勇を睨みつける。
先を予想し、小さく溜息を吐きながらも、緋勇は立とうともしない。

「死ねッ!!」
「緋勇ッ、逃げ……」

振り下ろされる刀が、頭に届く寸前で、彼はやっと立ち上がった。
ただそれだけに見えるのに、浪人は白目を剥き倒れる。間近に居た九桐には、どうにか見ることができた。無造作に男の首に手刀を打ち込んだ緋勇の流れるような動きを。




「これからは、相手を見て喧嘩を売んだな」
「このまま、おめおめと帰ったとあっては御屋形様に会わす顔がないわッ」

ずたぼろの様で、気丈にも余計な事を言い返す浪人たちに、溜息が重なった。緋勇と九桐のものが。

「いいぜ。掛かって来な。その代わり、腕の一本や二本失くしても文句いうなよッ」
「恥を晒すぐらいなら、このまま死んだ方がマシだわッ!!」

再び加熱していく空気に、緋勇はどうしたもんかと悩んでいた。九桐さえいなければ、鬼道衆も蓬莱寺も気絶させてしまい、蓬莱寺を抱え、美里を連れてこの場を去ってしまえばいいのだが。

いっそ九桐も――などと物騒な考えに傾き、間合を測ろうとさえしていた緋勇であったが、その前に、九桐が立ち上がった。

「いやいや、お見事。若い身空で、大した剣才だ。それに、ずいぶんと、面白い技を使う」

拍手しながら呑気に楽しげに。だが彼のこの表情は、色々と謀っているときのものだと、緋勇はよく知っていた。これで穏便に事が運ぶのならば、任せようと、あっさりと考えを放棄する。

「君、師の名は?」
「そんなもんはいねェさ。我流だよ」

突然間に入られ、興を削がれたらしく、蓬莱寺は戸惑いながら答える。そんな彼に対し、九桐はなおも楽しげに誉め続ける。その賞賛は、緋勇にも向けられた。

「以前、古武道で、そういう型を見た事があるが、君のは、そのどれにも似ているようでいて、似ていない。いやはや、不可思議な技だ。はっはっはっ」

よく廻る口だと、緋勇は感心した。何故なら、九桐の語る内容は、嘘なのだから。
彼は今、気になっている筈である。身近に居る古武道遣いと酷似した技を、緋勇は行使したのだから。なのに、そんな動揺は微塵も感じさせずに、一般論で煙に巻く。上手い方法であろう。

「気が削がれちまった。やめだ、やめだ。おい、おまえらッ。見逃してやるからもう、追って来んじゃねェぞ」

案の定というべきか。これほど陽気に出られては、やる気をなくすのが普通。
吐き捨て踵を返した蓬莱寺に、それでも追い縋ろうとした浪人たちの肩を、九桐があくまで陽気に掴む。


『命拾いしたな……鬼道衆の名が泣くぞ』

僅かな囁きでしかなかったが、その低い声を聞き取り、緋勇は小さく笑む。これで良しと思っていた。ゆえに、続けて蓬莱寺に掛けられた言葉に呆気に取られる。

「そこで、ひとつ提案なんだが―――。俺と手合わせ願えないか?」
「はァ〜!?」

蓬莱寺の驚きも当然であった。死合いを中断して悪かったと謝る彼の口から、何故にそんな提案が出るのであろう。
緋勇には、大体の予想は可能であった。普段の九桐の振る舞いを思い起こせば……簡単なこと。

緋勇は頭を抱えたくなった。

九桐の闘い好きなど、百も承知ではあったが、それでも、こんな場面でさえも発揮されるとは思っていなかった。まだ蓬莱寺は龍閃組など、存在すら知らないはず。わざわざ因縁をつくることもなかろうに。

「あのなァ、止めとけよ。俺たちの腕を見てただろ?」

頷く九桐の満面の笑み。もう駄目だと思った。こんなにも楽しそうな彼を、止める術など存在しない。天戒の命でもなければ不可能だろう。

「なら、怪我しねェ内に止めとくんだな。当たり所が悪くて、坊主を死なせた日にゃ寝覚めが悪いしよ」

はははッ――と、へへへッ――と笑い合うふたりに、もうどうにでもなれとの捨て鉢な思いを抱いた。どうしようもない。

緋勇の危惧は当たった。朗らかな笑いを消し、九桐の纏う空気が変わる。

「いっておくが、君たちじゃ俺には勝てんよ」
「何だと……?」

冷ややかですらある口調で、九桐は淡々と告げる。蓬莱寺を挑発するには、十二分であろう言葉を。

「見た所、君の剣術は、押して砕く剛の剣。受けて流す俺の槍術には、分が悪い。そして、そっちの君も。いくら腕が立つといっても、所詮は、徒手空拳。俺の懐に入り込むには、この棒の間合いに入らなきゃならん。君たちふたりの勝機は万にひとつもないよ」

そして、それは効果を発揮した。
こちらも笑いを消し、蓬莱寺は剣の柄を握る手に、力を込めた。

「ほう。いってくれるねェ」
「冷静に、戦力を分析しただけの話さ」

もう我慢はできなかった。

「くっくくく、ははは。あーはははははは」

高まった緊迫感は、押し殺した笑い声によって破られた。
声の主は、一応口元を抑えてはいたが、身を折って笑っていた。そしてその笑い声は、次第に高まっていく。

「緋勇〜、この緊迫感を台無しにすんなよ」
「いや、すまん。なんというか『らしい』を思ってな。……そうか、尚雲の帰りが遅かった原因はこれか」

未だ苦しそうに腹を抑える緋勇であったが、九桐の表情が緊張に固まる。

「その名……名乗ったかな?」

穏やかであった声が、抑揚をなくす。目に剣呑な光が宿り、彼は静かに槍を構えた。

「君の名は?」
「緋勇 龍斗。お前の名の事は気にするな、九桐 尚雲。俺は千里眼の持ち主なのだよ」
「緋勇 龍斗?どこかで聞いたような気がするが……」

首を捻る九桐の様子に、緋勇は少し笑った。
時が戻ったのだから、彼が覚えているはずはない。それでも魂か記憶か……、片隅にでも己の存在を留めてくれたことが嬉しかった。だからこそ、今は知らぬふりをできる。彼らの敵にまわる事も厭わない。

この瞬間、嘗ての仲間と対峙することで、改めて決意した。

遠くない未来に、彼らを救うために、今は敵となろう。
敵として、龍閃組の者として憎まれたとしても、彼らだけは死なせはしない。

「まァいい。こちらが勝ったら、本当の理由を話してもらおうか。それでは―――。いざ、尋常に勝負ッ!!」

大見得とともに構えた九桐の姿に、小さく笑う。今の緋勇にとっては半年以上前の九桐の腕では、相手になる筈がない。

それゆえ大部分を蓬莱寺に任せる。尤も、九桐の分析はたいしたもので、剛剣であり、我流である蓬莱寺の剣筋は、速く強くはあるが、読みやすい。それは受け流すことを第一とする九桐の槍術とは、あまりに相性が悪い。剣は躱され、だが、その穂先は喰らう。このままでは、蓬莱寺が負ける。

助けることも、九桐を倒すことも容易いが、どうすべきか。そんな悩みは要らぬことだと、緋勇は知った。九桐は――手を抜いている。今はまだ荒削りな才に、楽しみを見出したのだろう。敢えて隙を作っていた。

それは本当に微かなものであった。おそらく、気付かなければ、試験は落第だとばかりに無残に引導を渡すのであろう。だが、蓬莱寺は気付いた。


「暫くは目を覚まさねェだろうが、自業自得ってヤツだ。目が覚めたら、せいぜい、自分の無謀さを悔いるんだな」

蓬莱寺の言葉は、間違ってはいないだろう。普通ならば、目を覚ますはずがない。あれほど手加減なしに打ち込めば、昏倒するのが普通。だが、九桐の技量は、『普通』とは比較にならない。

「とんだ、時間をくっちまった。急がねェと陽が暮れちまう。行こうぜ―――」
「あッ。この人、このままに―――」

心配そうに駆け寄ろうとした美里に、蓬莱寺は、放っておいたって、別に死にゃしねェ――と軽く手を振る。それはその通り。死にはしないだろう。何故なら、九桐は、既に目を開けている。

「はっはっはっ!!よ―――っと。ふむ。世は広しいかなる 上手有りやせん自慢は怪我の基と知るべし―――だな」
「馬鹿な。効いてねェのかよ」

笑いながら、なんの痛手も感じさせずに、九桐は立ち上がった。ぱんぱんと服についた砂を払う彼の様子に、蓬莱寺が呆然と呟いた。

「いや、効いたよ。打ち込まれる瞬間、半身を反らさなければ、君のいうように昏倒していただろうね」

敢えて作った隙なのだから、狙う部位も当然予想がつく。その攻撃の威力を流すことなど、九桐には造作もないのだろう。

「さて―――っと。村へ戻る前に、いい土産話ができた。また、遭う事もあるだろうが、その時は今日の教訓を活かさせてもらうよ。それじゃ」
「おッ、おいッ、待てよッ!!てめェ、いったい―――ッ!」

追い縋ろうとした蓬莱寺が、硬直していた。彼の刀は、地に落とされていた。見ればその喉元には、小太刀が当てられていた。九桐は主たる武器が槍なだけで、基本的には武芸百般。その大きめの僧衣に、様々な武器が収められていると聞いた。転んだら大変だな――と真顔で言ったときに、そういう間抜けたことはしないと、呆れた顔で答えられたことがあった。

「ひとつ―――。忠告というか助言をあげよう」

大人げの無い九桐の振舞いを、緋勇は呆れて見ていた。
勝ったと思った相手が手を抜いていたのだと、喉元に刃を突きつけられた上で知るなど、屈辱以外の何物でもなかろう。ましてや蓬莱寺という負けず嫌いそうな人物が、それをどう思うか、想像しただけでも疲れるものがある。

「《菩薩眼》をもつといわれる女から目を離さない事だ」
「ぼさつ……がん?」

蓬莱寺は怪訝そうに聞き返す。予想外であったのだろうし、何より聞き馴染みの無い言葉だからであろう。緋勇が元々その言葉を知っていたのは、非常に馴染みの深い関係者に、それが居たからである。

「鬼は、その女を捜している」

そこまで教えるのは、緋勇にとっても意外であった。こんなこと嵐王辺りが知ったら、うるさいだろうに。わざわざ刃を当てたからには、勝ち誇って『油断大敵――だな』とでも告げるつもりだと思っていた。

はははッ、それじゃ、また遭おう―――笑い声だけを残して、九桐は消えた。憤怒に顔を紅くした蓬莱寺が、しばらく周辺を探し回っていたが、既に身を隠した忍びを、こんな自然の中で見つけられるはずがない。緋勇は手伝うでも邪魔するでもなく、蓬莱寺の戻りを待っていた。



「まだ、手が痺れてやがる。あの坊主、今度遭ったら、タダじゃおかねェぜ」

ぶつぶつと文句を言いながらも、蓬莱寺の口元には笑みがあった。愉しくて仕方がないのだろう。ある意味で、蓬莱寺と九桐は同類なのであろう。

「あッ、見えたわッ」

面白くなってきやがった―――などと、いまだ呟いている蓬莱寺の事は気にも掛けないようで、美里が弾んだ声で指差した。
第一印象から、そう感じていた。美里と蓬莱寺の相性は、良くはなさそうだなとの思いを、緋勇はますます強くした。どちらもあまり他人の話を聞かないとみた――などと、考えているうちに、この場は彼らの会話はかみ合ったようだ。

「ようやく着いたか。いろいろあったが、どうやら、日没ぐらいにゃ着けそうだな」
「そうね。町に着いたらどうするの?」

とりあえずは飯だとおどける蓬莱寺の言葉に、彼らは笑い合っていた。だが、何故こんなに薄ら寒いのだろうと首を捻る緋勇に、蓬莱寺が手招きをする。

「ほら、早く行こうぜッ!!飯は、最後のヤツの奢りだぞ。ははははッ!!」
「もう……。うふふ。緋勇さん―――。それじゃ、わたしたちも行きましょう」

内藤新宿へと駆け出した蓬莱寺と、微笑み後を静かに歩き出した美里の背を見ながら、違う空間での同じ刻に思いを馳せる。あの時も同じように一組の男女の後を歩いていた。

『あの鬼は、この山の氣を集めて、俺が創り出したものだ。実像無きようで、実像があり、虚像のようで、虚像ではない虚実同体―――生半可な技では斃す事はできぬ代物だ。生かしておけば、この先、我らの妨げになるかもしれぬ。ここで、死んでもらおう―――』

あの時、そう言って剣を取り出した男は、今はどうしているのだろう。

『何か目的があるのだろう?止めておいた方が賢明だぞ、お前の為に忠告しておくが』
『残念だ。そういう性格は嫌いではない。ましてやこれだけの腕の持ち主を――殺さなくてはならぬとは』

緋勇には、本当に鬼の棲家など興味はなかった。
だが、眼前の紅蓮の髪の男が、それを信じるわけにもいかないことも理解していた。ゆえに、仕方ないと――殺す気でいた。せっかくの自由を得て、まだ六年。見知らぬ相手の事情の為に、目を閉じて殺される気分にはなれなかった。

焦った様子で間に入った女の言葉がなければ、そのまま殺し合いが開始されたであろう。

『この男、あたしたちの仲間にしちゃどうかな?あの幻の鬼どもを斃した腕、そして、それを怖れぬ胆力。仲間にすれば、きっと、いい戦力になるよ』

彼女とのいくつかの遣り取りの後、紅蓮の髪の男は緋勇に尋ねた。

『どうだ?俺と一緒に来る気はあるか?』

それは、ただの好奇心だったのか。
それとも、初めて差し伸べられた腕を、取ってみたくなったのか。

緋勇は、もうその時の理由は覚えていなかった。今判っているのは、彼らは大切な護りたい仲間だということだけ。

『変わった男だ。お前の素性は詮索せぬ。知った所で、意味なき事―――。それに、我らに仇なせば、どの道、只の骸となるだけだ』

あの時は考えもしなかった。問答無用で鬼を嗾けてきた男が、あんなにも甘いなどと。精一杯、非情に振舞っていたのだろうと思うと、微笑ましくさえあった。妖艶に見えた女が、その実精神面が幼いことも気付かなかった。

長い間共にいて、ようやく知った彼らの素顔。築いた絆。
それら全てが無へと帰したことが、哀しくない筈はなかった。だが、構わない。今、この時、どこかで彼らは生きている。彼らを救う術がある。

比良坂の力がなければ為しえなかったこと。彼女の因果さえ歪め、時間をも操る強大な力がなければ、時逆の扉は開けなかった。

そして、その強大な力を受けてもなお壊れない、無限の容量を持つ器という身でなければ、その扉は潜ることはできなかった。

緋勇は初めて感謝した。己の力。父に厭われ続けた、母を殺したこの能力に。

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