TOPへ

― 東京魔人学園外法帖 第弐章 ――

「やれやれ、ようやっと、着いたな。ここが内藤新宿か―――」
「もう日も暮れているから、日中ほど活気はないけど、普段は、甲州街道と青梅街道を行き来する人たちで賑わっているのよ」

きょろきょろと、物珍しげに辺りを見回す蓬莱寺に、美里がくすくすと笑みながら、丁寧に内藤新宿の概略を説明する。
浅草阿部川町の高松喜兵衛の嘆願によって元禄十一年に開かれただの、高遠藩内藤大和守の屋敷跡に作られた宿場だの、そこまで必要なさそうな所まで逐一説明するあたり、根から真面目なのであろう。

「どいたどいたどいたァァァ!!」

割に友好的に歓談していた美里と蓬莱寺の間に割り込むかのように、軽そうな若い男が走ってきた。美里に突き当たる形になり、小さな悲鳴を上げた彼女の方へ、大袈裟な動作で視線を向ける。

「おォっと、御免よ、お嬢さん。おいらのこの―――正義の脚が急に止まってくれなくってねェ。それに加えて、この二つの眼も事件の事以外、目に入らねェときてるまったく、天職とはいえ、岡引になんざなるもんじゃねェぜ。勘弁しておくんな」

すらすらと続く意味の浅い言葉と騒がしい声。男に割く記憶力はあまり有していない緋勇ではあったが、彼は騒がしさとその立場ゆえに、覚えがあった。火附盗賊改 御厨 惣洲の腰巾着。確か与助とか言ったか。桔梗にご執心のようであったというのに、あまり見境はないようだ。

「おい……。何だ、こいつ?」
「ほっといてやれ。ちょっと気の毒なのだろう」

苛立ちの眼差しで問うてきた蓬莱寺に、緋勇は素っ気無く答える。別に、今度は彼と知り合う必要はないだろうから。己も幕府直属となるのなら、彼らと同じ情報を得られるはずなのだから。

「おいッ!!」
「ん?呼んだ―――あうッ!!なッ、何すんだよッ!!いきなり、蹴り入れやがってッ!!」

どこかで聞いたような台詞で、与助がいきり立つ。放って置いても構わないというのに、蓬莱寺はどうも忍耐が足りないのか、強い口調で吐き捨てる。

「まったく、べらべらとよく喋る野郎だぜ。何だ?最近、江戸にゃ、悪い病いでも流行ってんのか?」

流石にそこまで言われれば、鼻白む方が道理。憤怒に顔を赤くした与助であったが、蓬莱寺はもう興味を失ったとばかりに踵を返し、緋勇らへ手招きする。

「おい二人とも、行こうぜ。伝染されでもしたら敵わねェ。腹減った、腹減った―――っと」
「く―――ッ。おうおうッ!!この十手が目に入らねェかッ!!」

往来で振り回すものでもあるまいに、怒りのあまりか、十手を抜いた与助に対し、蓬莱寺は焦る素振りもなく言い返す。但し、餓鬼の喧嘩のような言葉を。

「馬鹿野郎ッ!!そんな長いモンが目に入る訳ねェだろッ阿呆か」
「まァ、確かにこんなモンが目に入る訳―――、って、ちが〜うッ!!」

こういう詰まらん漫才のりは好きではないのだが――と、助けを求めるように周囲を見渡していた緋勇は、事態を収拾してくれそうな人物を見つけ、安堵の息を吐いた。

「どうした、与助。何をやっている?」

確か緋勇と同じ年であったはずではあるが、とてもそうは見えない落ち着いた……有体に言えば、老けた風貌の十手をさした男が険しい顔で近付いてくる。彼こそが、火附盗賊改 御厨 惣洲。
流石の手腕で、彼は諍いを収めていく。その際に彼が洩らした言葉が、緋勇には少し気になった。

『吉原で仏が見つかった』

一瞬考えた後、緋勇は小さく首を振った。『今』はまだ鬼哭村に着いたかどうか。

『こんな間抜けな顔した奴が鬼をねェ……。たまたま、山の氣が薄かったんじゃねェの?どう見たって、大した腕を持ってそうにも見えないじゃん』

そんなことをほざいた小僧を、蹴っ飛ばしていた辺りであろう。まだ、哀しい女郎や隻腕の面打ち師とは知り合ってはいない。ただの吉原の事件の筈だ。

「お前らも気をつける事だ」
「あッ、ちょっと、待って下さいよ、親分ッ!!」

緋勇が思いを巡らせている間に、別れの言葉を告げて同心たちは去っていった。
その背をどこか忌々しそうに眺めながら、蓬莱寺が拗ねた口調で口を開く。

「ちッ。着いて早々、あんな連中に出くわすなんてついてねェぜ。おいッ、緋勇。河岸変えようぜ。腹ごしらえするか、先に旅籠を探すか―――。どうだ?お前は、どっちがいいと思う?」

緋勇は、特に深い考えを持たずに、旅籠を選んだ。先に宿を確保した方が良いだろうと、ただそれだけの理由。
だが、それすらも宿命か。
旅籠の前にて、ふと視線を感じ振り向いた緋勇は、しばしの間硬直した。

白い着物の女に、目を奪われた。確かに美人ではある。とはいえ歳の頃は、三十四・五。彼にとっては大年増にも程がある。それでも、女の鋭い目と物腰と、漂わせていた氣の感じから目を離せなかった。

「ん……?女?何を見てやがんだ」

緋勇の様子に気付いた蓬莱寺が、女に険のある目を向ける。彼は、止める間もなく、女に対し問い詰めるような口調で話し掛けた。

だが、女は気を悪くした風も臆した様子もなく、『江戸は初めての様子だが、ここの宿に泊まるつもりか』と逆に問う。部屋が空いてればと頷く蓬莱寺に、彼女は嬉しそうに笑んだ。

「この江戸も、将軍家茂様が、大坂へ行っちまってから、人も少なくなって、静かだったんだけどねェ。最近は、また、いろいろと人が集まり出して、賑やかになってきたなァ―――と思ってね」

蓬莱寺が応じた『鬼が出没る』という噂とやらに、女の瞳が、一段と鋭さを増した。
彼女は、鬼に興味があるならこいつを見てごらん――と呟きながら、瓦版とやらをごそごそと取り出し、緋勇に手渡した。

長屋に住み、瓦版を作って売っている杏花。同じく長屋の住人、どんな複雑な仕掛けの道具でも、触っただけで仕組みを当ててしまう《千手の支奴》などという美里の説明を聞きながら、ざっと瓦版に目を通す。

「なんでェ、これは。神隠しに、狐火に、呪いだと―――こりゃ、瓦版じゃなくて、御伽草子だぜ」

横から覗いていた蓬莱寺が、呆れたように首を振った。まあ、それは仕方のないことといえよう。確かにとてもじゃないが、信じ難い。――全てが真実なのだが。

「そうかもね。ただ、そこに書いてあるような噂が広まってるのも事実さ。それだけ、この江戸が―――この時代が病んでいるって事かもしれないね。
悪い事はいわないよ。あんたたちも、長生きしたければ、早く故郷に帰るんだね」

どこか哀しそうな声。心配の言葉。だが、緋勇には、笑うしかない言葉であった。

故郷に帰る?

戻れるわけがない。罪を犯し脱走したあの屋敷の記憶など、思い出したくもない。
むしろ戻りたいと思える先は、鬼の哭く村。

だが、今は居場所はない。まだ戻れない。
いつかあの村に戻るために――あの村を滅ぼさないために、今ここに居るのだから。

「それは難しいな」
「おやおや、人の忠告は、素直に聞くもんさ」

あんたは帰らないのかと、蓬莱寺から逆に尋ねられた女が『江戸を離れる訳にはいかない』と答えたのと同様に、緋勇には――目的がある。ゆえに忠告など聞けない。

「俺も似たようなもんかもな。俺も、自分の腕を試しに江戸に来たんだしよ」
「へェ。あんたたちも、幕府と倒幕派の戦に、ひと口乗ろうって腹かい?それとも、鬼退治の報奨金目当ての山師とか?」

色々と思い出してしまい、口数が少なくなった緋勇とは裏腹に、女と蓬莱寺の会話は続いていた。

「さて。どちらでもあり、どちらでもなし」

不意に振られた質問に、緋勇は答えにならない答えを返した。素直に目的を話しても、狂人としか思われないのだから。
そんな思惑は知らない女は、溜息をついた。

「そうかい。あたしは、下らないと思うけどね。同じ国の人間が争うなんざ、賢い奴のする事じゃないさ。このままじゃ、この国の夜明けもまだまだ遠いねェ」
「ずいぶんと、辛辣な意見だな。世情が世情なんだ、闘わなきゃ、仕方ねェだろ」

何気なく口にしただけであろう蓬莱寺の言葉に、女は柳眉を逆立てる。

「仕方ない?その仕方ないで、一体、どれだけの命が失われたと思ってんだい。そういう後先考えない大人たちの愚かな行いで―――、若い命がどれだけ失われたか」

突然、予想外の強烈な非難を浴びせられ、蓬莱寺は動転したのだろう。おそらくは、女が最も気に病んでいるであろうことを口にした。

「なッ、何だよいきなりッ。確かに、戦で死んでいった奴も多かっただろうさ。だけど、それは、そいつが弱かっただけの話だろ?なァ、緋勇?」

半ば助けを求めるような眼で同意を求められたが、それは緋勇にとっても頷ける内容ではなかった。

「何だよ、その顔は。俺のいってる事が間違ってるとでもいうのかよ?」

柳生の主張と同じ――弱いから死んだ。

間違ってはいない。むしろ、真実とさえ言えるであろう。だが認めたくない。彼らが弱かったから、仕方なかった。そんな風には考えられない。

思想が乖離しすぎて、反論する気力が沸かない。

親しい人間の死にも、蓬莱寺は同じことが言えるのか。
それとも彼には、今まで大切な人間というものが存在していなかったのだろうか。

――などと、緋勇は他人事のように、つらつらと考えていた。
だが、女は聞き流せなかったらしい。皮肉な笑みと共に、蓬莱寺に問うた。

「それなら聞くけど、強さってのがどういうものだか知ってるのかい?」
「あれだろ?剣術に長けていたり、腕っ節が強かったり―――」

くすりと――明らかに悪意の塗された嘲笑によって、蓬莱寺の言葉は遮られた。

「それは、強さとはいわないよ。その意味がわからないようじゃ、あんたたちは、あたしにだって勝てやしないだろうね」

憐憫すら込められた女の笑いに、蓬莱寺が憤然と反応する。

「冗談じゃねェぜ。俺が、女になんざ負けるかよ」
「ふふふ。そう思うかい?」
「当たりめェだろッ。それより、あんたの考えてる強さってもんを教えてもらおうじゃねェか」

最早、これでは喧嘩である。町中で抜きかねない蓬莱寺の形相に、慌てた美里と呆れた緋勇が、流石に止めに入る。

「蓬莱寺さん―――」
「『女になんざ』などと口にするのならば、女相手に喧嘩を売るな」

渋々と怒りの矛先を収めた蓬莱寺に対し、油を注ぐかのように女は笑みながら去っていった。
『町の外れにある龍泉寺って古寺へ来たら、強さの意味を教えてあげる』と謎かけのような言葉を残して。

「強さの意味……」
「んなもん、決まってんじゃねェか。闘って、勝った奴が強ェんだよ」

感銘でも受けたのか、ほうと呟いた美里に、蓬莱寺は語気荒く吐き捨てた。

幾度か彼を見かけた際は、もっと落ち着いて見えたのだが、実体は結構な餓鬼なのだなと、緋勇は内心にて嘆息する。

只でさえ合わなさそうな美里に、直情的な蓬莱寺。この先、割と辛いものがあるかもしれないと、恋人の笑顔や気の合う寡黙な連中の顔を暗い空に浮かべて、哀しく思ったりもした。

「おいッ、緋勇。やっぱり、先に飯に行こうぜ。一杯ひっかけてから、宿を探しても遅かねェだろ。あんた、どっかいい店でも知ってるかい?」
「そうね……この先の四ッ辻を右に曲がった先に、久寿屋というお蕎麦屋さんがあるわ」

勝手に進んでいく話に、反応する気力を失っていた緋勇は、大人しく後をついていった。

そこで、再び、面倒そうな存在と出逢った。
適度に店主も交えて話しながら、食事に入ったところで、ひとりの男が店に入ってきた。

「へい、らっしゃい。どうぞ、そちらの空いている席にでも座って下せェ」
「いや……。酒を買いに来ただけだ。いつも使ってる酒問屋が閉まってたもんでな」

何処にでもいそうな陰気な酔っ払い。百人中九十九人がそう断言するであろう不精髭を生やした男から、緋勇は視線を移すことができなかった。慣れた魔の気配。濃密なそれが、男が強力な人外であることを示している。その力ゆえか、単なる観察力か、男は緋勇の視線に気付き、眉を顰めた。

「何だ……何を見ている?見世物じゃないぞ。それとも、俺に何か用か?」
「いや、特に用は無い。何故、このような所に居るのか不思議に思っただけだ。すまんな」

少しは真実。だが、大部分は嘘。緋勇が目を離せなかったのは、男が魔だからではなく。
世界との関わりを拒絶し、現在を拒み、未来を否定し――過去だけを見て生きる荒んだ瞳に、恐怖を覚えた。

「ふん……。こんな所に居るのは、貴様らのせいだろう。下らん」
「おい、あんた。何だよ、その態度は」

途端に、根が喧嘩好きらしい蓬莱寺が間に入ってくる。
この虚無そのもののような男が、どんな反応を示すかの方が興味深く、緋勇は一歩退いて彼らの遣り取りを眺めていた。

だが、結果は割と予想の範疇にて収まった。男に蓬莱寺があしらわれて終わり。酒臭い息を吐き、皮肉な笑みを湛えたまま、男は悠然と去っていった。

「親父―――。何者だ、あいつ?この辺りに住んでんのか?」
「あッ、えェ。たまに、うちに酒を買いに来ますけど。確か、この近くの長屋に住んでるって聞いたような。大変な人間嫌いで、有名でしてね。昼間は、いつも部屋に閉じこもってて、夜になると、ああやって、酒を買いに町に出て来るみたいなんでさ」

店主の答えに、緋勇は笑いそうになった。人間嫌い……それは当然だろう。何故こんな場所に居るのかの答えが、『貴様らのせい』なのだから。あれは貴様ら『人間』のせいだと言いたかったのだろう。人間の自然への侵略が過ぎてきたから、彼らのような魔は、闇と自然の中で潜むことすら難しくなってきたのだろう。
あの深すぎる厭世観と憎しみから考えれば、仲間はもう喪われているのかもしれない。

仕事、一体、何してんですかねェ――と呟いた店主に、蓬莱寺が忌々しげに応じる。

「まったく、江戸にゃ、あんな奴らしかいねェのかよ。さっきも、旅籠の前で、変な女に遭ったしな」
「まァ、江戸にゃ、いろんな人間が入って来てますからねェ。じき慣れますよ」

その後、話は流れ流れて、鬼の出没についてが話題となっていた。
この目で見たものしか信じないと、あくまでも言い張る蓬莱寺に挑戦するかのように、『鬼が出たぞォォッ!!』との悲鳴が外から聞こえてきた。

「おいッ!!行ってみようぜッ!!」

嬉々として立ち上がった蓬莱寺の表情から察するに、なんだかんだと存在を否定しながらも、期待はしていたようだ。危険だと諭す店主の言葉を、聞き入れる気は毛頭ないらしい。

「ますます、面白ェ。鬼だか妖怪だかに、俺の剣が効くかどうか試してみるのも一興さ」

お前はどうする――と尋ねてくる蓬莱寺の眼に、緋勇は頷いて、共に行くとの意思を示す。そう、行かなくてはならない。結成の瞬間に立ち会う為にも、消息が不明となった鬼道衆の下忍たちの行く末を見据える為にも。

「あッ、ちょっと、お客さんッ!!」
「心配すんなッ!!鬼とやらの正体、暴いてやるぜッ!!」

慌てた店主を安心させるように、蓬莱寺は明るく断言する。但し、店主の心配事は、彼らの安全などではなかったようだ。

「いや、そうじゃなくて、お勘定ッ!!」

お約束ともいえる突っ込みは、最早耳に入っていないようで、蓬莱寺は駆け出していた。仕方なしに財布を取り出そうとした緋勇であったが、美里の方が素早かった。
彼女は、救けてもらったお礼もあるし、私がご馳走するわ――ときっぱりとした口調で告げ、手早く清算する。ここで押し問答する猶予はないようなので、緋勇は軽く頭を下げると、急いで外へ飛び出した。



「こっちだッ。確か、この辺りで声が聞こえたんだがな……」

きょろきょろと周辺を見回す蓬莱寺に追いついた緋勇が、目を細める。
微かな血の香りを、彼は感じていた。

「おそらく此方だ。……血の臭いがする。苦手ならそこで待っていろ」

己に向けられた言葉に、美里はかぶりを振った。勿論、得意な訳ではない。それでも、医術の心得を持つ者として、人の生死が関わるというのに躊躇することは出来なかった。

「たす……けて……くれ」

人の気配を感じたのか、まだ若い侍が、生命を搾り出すかのように助けを求める。だが、その声の苦しさから、彼の命の残量は一目瞭然――素人目にも、絶望的であった。

「しっかりッ!!しっかりしてッ!!」
「やべェな、傷が深い。こりゃ、もう……」

懸命に励ます美里と違い、蓬莱寺は言葉を濁した。緋勇としても同意見であった。傷は急所、出血量は甚大。手の施しようがない。
それでも美里は、着物が汚れることも構わずに、膝をついて侍に手をかざす。

「待ってて―――。今、救けてあげるわ」
「止めときな。いくら、医者の心得があるからって、もう救からねェ……。それより、まだ、この近くに賊がいるかもしれねェ。俺と緋勇で、ちょっとその辺を―――ッ!?」

蓬莱寺が、驚愕に動きを止める。
美里のかざした掌からは、暖かい白の光が放射され、更に彼女の全身を清浄な青の光が包んでいる。極度の集中にあるのか、表情を無くした彼女は、半眼にて呟いていた。

「『この川が流れて行くところはどこでも―――、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる』」

緋勇には微かに聞き覚えがあった。暗記しているわけではないが、聖書とかいうものに書かれた神の言葉とやらに似ている。
根本的には穏やかな、その実さりげなく根性悪な神父が、よく子供達に聞かせていた響きに。

「主よ……どうか、この者を救い給え。そして、どうか、その傷を癒し給え。がんばって。私の手を握って」

侍の傷口が、信じ難い速度で塞がっていく。確かに致命であったはずの傷が、夢のように消えていく。

「こ……こりゃァ、一体。傷が治っていく……。あんた、一体」

驚く蓬莱寺の反応は尤もなものだが、緋勇の方は頭を抱えたくなった。
この女は、兎角無用心過ぎる。昔も――というのも妙な話だが、周囲の警戒もせずに、その癒しの力を使い、鬼道衆に目撃され、拉致されることになった。今も力を行使したうえ、平然と『主』とやらに祈った。それは切支丹の神を指す言葉の筈。このご時世で、躊躇いも無く切支丹としての行動を取るのは、考えなしといわれても仕方ない。

案の定というべきか、緋勇の感覚は、既に不穏な気配を掴んでいた。
美里と怪我人を背に庇い、そちらに声を掛ける。

「そこの見学者。姿を現したらどうだ?」
「くっくっくっ……。その女の《力》」

屋根の上から、不気味な笑いと共に姿を現したのは、鬼面の男たち。緋勇の記憶によれば、その面は、下忍の地位を示していた筈。

「てめェらだな?巷で、鬼だの何だの騒がれている野郎は。御大層に、そんな面までつけやがって―――」
「女を渡せ。そうすれば、御主らの命だけは救けてやろう」

嬉しそうに剣を構える蓬莱寺に、好戦的に応じる鬼道衆。この展開では、帰って欲しいとの、緋勇の願いは叶わない。

力量差は、明らかであるが、御屋形様の探す女を見つけてしまった彼らは、退くことなどできない。こんなとき、頭目の人望の高さが裏目に出る。強者を怖れ、己が命を惜しみ、目的を前にして退いてくれるような下衆な配下が、彼には存在しない。

「ふんッ。渡して欲しけりゃ、ここまで降りてくんだな。その化けの皮、剥いでやるぜッ」
「我らは、鬼道衆―――。今は亡き同朋の慟哭に誘われ、常世の陰より這い出て来た者也」

すっと彼らは地上へ降り立つ。遠間から飛具でも牽制に投げ、逃げに専念すれば、接近戦しかできない緋勇と蓬莱寺に追う事は難しいのに、わざわざ相手の間合いへと。

「へッ。上等だ。相手になってやるぜ。おいッ、ねェちゃん。俺たちの側を離れんなよッ!!」

無意識なのだろうが、笑顔で宣言する蓬莱寺。
対照的に浮かない顔の緋勇が、美里の傍に寄る。この状況では美里を護るしかない。たとえ彼ら鬼道衆が、どうなろうとも。


展開は、まるで先程の街道の繰り返し。せいぜい素早いこと程度しか優れたところのない下忍では、闘いに慣れた蓬莱寺の相手になるわけがない。

「鬼の名を語るにしちゃ、だらしねェな。それじゃ、その面、拝ませてもらうぜ」

あまりの手ごたえの無さに、気が抜けたのだろう。確かにそうそう九桐級の敵が居るわけはない。
明らかに油断の色が蓬莱寺の面にはあったが、彼は行動に移るまでが、矢鱈と早い。不用意に近付いた蓬莱寺を止める間は無かった。

彼ら鬼道衆は戦闘力が低かろうと、皆がれっきとした忍び。侮ることなど、できないというのに。

「どわッ!!何だ、こりゃッ!!くッ、待ちやがれッ!!ゲホッ、ゲホッ!!」

視界が曇る。特に刺激臭もしない以上、毒でもない様子。おそらくは退却用の煙球だろうと、緋勇は推測した。

これで彼らが逃れられるのならばいいと思いつつも、その可能性は限りなく低いと諦めてもいた。

鬼哭村で聞いた、行方不明となった者たち。美里という女の存在を掴んだのは、これよりも遥かに後に起きる出来事。

つまり彼らは――村へ帰れない。



「ちッ、こんな場所まで逃げて来やがって。見ろよ。血の痕が、あっちに続いてるぜ」

血止めもせず、ただ逃げようとする彼らの迂闊さに、緋勇は歯噛みしたくなった。生きる気力はあるのだろうに、最善の手段を取らない彼らを、腹立たしくさえ思う。

廃寺らしき場の入り口で、美里が不安そうに呟いた。

「このお寺……。旅籠の前で逢った女の人がいってたお寺って、このお寺じゃないかしら」

幽霊だか化け物だかが出ると噂の龍泉寺。蓬莱寺と美里、そしてあの白い着物の女。

龍泉寺 ―― りゅうせん ――龍閃組。繋がった。気付かなかったことが不思議なくらいの簡単な符号に、緋勇は笑い出しそうになった。

「そういわれてみりゃ、いかにもな寺だな。まッ、昔から、魑魅魍魎の出るのはボロ寺と相場が決まってらァ。それに、そういう噂のある場所なら尚更だな」

『尚更』の意味がわからず首を傾げる美里に、蓬莱寺は悪戯っぽく笑む。彼は、本質的には鋭いらしい。
確かに、彼の言う通り。人目を避けたいのならば、人が避ける場所に潜むことが原則。この廃寺は、この上なく条件に当てはまっている。

「悪人どもが、幕府の目を逃れて、潜伏するにゃもってこいって事さ。おいッ!!もう逃げられねェぞッ!!大人しく出てきやがれッ!!」

ここが彼らの始まり。彼らが鬼と、そして幕府に関わる始まりの地。
なにしろ、横手から当然現れた大柄な僧侶にも、見覚えがある。彼は周囲に注意を払いながら、重々しく警告の言葉を発する。


「気をつけろ。何かが出て来るぞ―――」
「坊主だと?まさか、あの九桐とかいう奴の仲間じゃねェだろうなッ!?」

途端に気色ばんだ蓬莱寺に、僧侶は不思議そうに首を傾げる。突然訳の分からぬ怒りをぶつけられれば、怒るより先に困惑する方が道理。そもそも、坊主だから九桐の仲間だという発想が、突飛である。

「くどう?知らんな。拙僧の名は、京の醍醐から来た雄慶と申す。昨日、この江戸に着いたばかりだ。よろしく頼む」
「そんな状況でもなさそうだが、まあ、こちらこそ――だな」

緋勇の素っ気無いともいえる挨拶にも、彼は鷹揚に頷く。ここで遭ったのも御仏の御導きだろう――などと本気の様子で続ける彼は、大物なのかもしれない。

「ふんッ、今日は、よっぽど、坊主に縁があるらしいぜ。だがな、てめェが、あの野郎の仲間じゃねェって証拠が―――」

一方、蓬莱寺は、依然として納得できないようであったが、糾弾の言葉は、当の雄慶に口を抑えられ封じられる。

「なッ、何しやがんだッ!!」
「見ろ―――」

もごもごと抗議の声を上げた蓬莱寺に、顰めた声にて雄慶が暗闇の一角を指し示す。
傷を負っただけとは思いがたいほどに、よろよろと弱りきった歩み方で、鬼面の男たちが現れる。

「やっと、出てきやがったか。大人しく観念しやがれッ」

威勢の良い蓬莱寺の言葉にも反応しない。ただ虚ろな様子で立ち尽くしている。

「辺りに立ち込めるこの妖氣はいったい……」

怪訝そうに周囲を探る雄慶に応じたかのように、昏い声が響いた。

―――変生せよ

途端に緋勇の肌が粟立つ。この声を忘れるわけがない。己の意思を押し付けることしか知らぬ、この倣岸不遜な声は、あの男のもの。

「うッ、何だ!?何だ、この声は」
「苦しい……。胸が締めつけられる」

高い耐性を持つ雄慶と緋勇だからこそ、引きずられない。蓬莱寺と美里さえ、苦しそうに胸を抑える。ましてや傷を負った通常人と変わらぬ下忍に抗ずる術などない。

「うゥ……。あ……頭が、割れる。うッ……、うォォォォォォッ!!」

ひとりひとり、姿が変じる。人としての入れ物は保てず、異形の存在へとその身を堕としていく。

こう来たかと、緋勇は苦々しく思った。彼らが戻れなかったのは、龍閃組に倒されたからではなく――――奴に変生させられたがゆえに。彼ら普通の下忍の魂に潜在する能力では、鬼になることに耐えられない。膨らみきった魂は、元の容量を遥かに越えているが為に、倒されたあとは消滅するのみ。

「そんな……、人が鬼に変わるなんて……」
「外法か」

悲壮な美里の叫びに、存外落ち着いた様子の雄慶が答える。
人を鬼に変える呪法があると話には聞いた事があると、冷静なままに鬼たちを観察する。

「おいッ!!坊主なら、早く、あの化け物を何とかしやがれッ!!」
「ふむ……。本来は、心毒―――人の心に溜まった陰の氣が年月を重ねて、人を人ならざるモノへと変生させるといわれている。先刻の、妖氣といい、聴こえてきた不気味な声といい―――、どうも、ただの妖異という訳でもなさそうだ」

理不尽ですらある蓬莱寺の要求に対し、雄慶はあくまでも静かに呟く。だが、蓬莱寺は現象の理屈を求めているわけではなく、解決方法だけを欲している。ゆえに苛立たしく叫ぶ。

「冷静に解説してんじゃねェよ!早く、祈祷でも御祓いでもしやがれッ!!」
「悪いが、俺はまだ、修行中の身でな。期待に添う事はできかねる」

だが、返ってくる言葉は、期待とは異なる。
この飄々とした答えに、緋勇は彼となら気が合うかもしれないなどと呑気なことを考えていた。蓬莱寺と美里だけでは、相当に辛いことを察し始めていたため、助かった――と。

「くッ……このクソ坊主がッ!!こうなりゃ、闘るしかねェ!!」

自棄になったように、蓬莱寺は構えた。

変生とは、元の身体の能力に応じて強力になる。所詮、元が彼らでは高が知れている。
緋勇は、そう告げようかと悩んだ末に止めておいた。蓬莱寺の戦い振りには無茶なところが多いため、警戒が過ぎるくらいで丁度良いのかもしれないと考えて。


その考えは、正解と言えた。少々時間は掛かったが、蓬莱寺は殆ど無傷で鬼を倒した。街道で浪人姿の鬼道衆と闘ったときでさえ、勝負を急ぐばかりに不要な傷を負っていたというのに、今は距離をとり、攻撃を喰らわないよう心掛けたがゆえに、避けられる筈の攻撃は、全て避けていた。

雄慶は、何の問題もなかった。法力、武芸ともにかなりの腕のようだ。
武芸が面白く、たまに法力の修行をしようと試みては、『真言だの小難しい事を繰り返してると、俺の場合、得られるのは功徳じゃなくて安眠だ』とぼやいていたどこかの破戒僧とは対照的といえるかもしれない。


「ふんッ、鬼は鬼らしく、大人しく地獄へ還りやがれ」

止めの剣を振り上げた蓬莱寺と鬼の間に、美里が両手を広げて入った。
訝しげに眉を顰めながらも、剣先を止めた蓬莱寺に、彼女は切々と訴える。

「もう……もう、いいじゃないッ。勝負はついたわッ。こんなに傷ついているんですもの。これ以上、闘う事はできないわ」
「だから?」

応じたのは感情すら消失した静かな声。今の蓬莱寺は、心の底から呆れているのだろう。だが、美里はそれには気付かずに、必死に続ける。

「だから―――だから、もう、逃がしてあげましょう?きっと、この人たちだって、もう二度と悪い事をしようとは―――」

だが、途中で勢いを失った。やっと気付いたのだろう。今の蓬莱寺の表情に。蔑みすら含んだ冷たい眼差しが、彼女を見下ろしていた。

「あんた、自分が何いってるか、わかってんのかッ?こいつらは、鬼なんだぞッ!?こいつらに殺されかかった先刻の侍を見ただろッ!?こんな化け物を野放しにしておきゃ、また、犠牲者が出るかもしれねェ」

正論であった。強い口調に、明らかにたじろぎながらも、美里は、必死に『でも―――』と抗弁しようとする。

「でももへちまもねェ。どけよ―――邪魔すると怪我するぜ」

だが、あっさりと断ち切られる。蓬莱寺の眼は本気であった。さすがに斬られることはないだろうが、このまま前に彼女が立ちはだかり続けるのならば、突き飛ばす程度は躊躇わずに行うだろう。

「すでに闘えない者の命を奪うような行いは、人の道とは違うわッ。それは……鬼の道。鬼の行いと何ら違いはないわッ」

それでも、震えながらも動かない美里は見上げたものではあったが、緋勇には、彼女はどこかずれていると感じてしまった。闘えないならば、その命は助けなければならないのだろうか。どんな境遇でも、どんな罪を彼らが犯していても。

「それじゃ、その鬼によって殺された奴の恨みは誰が晴らす?闘いってのは、キレイ事じゃねェんだぜ?」

苛立ちを隠さず、蓬莱寺は告げる。退く気が欠片もないと、その冷たい瞳が語っていた。

「それは……。緋勇さん……、あなたも蓬莱寺さんと同じ考えですか?」
「基本的には同意だが、そもそも先程からのお前らの議論は、無意味だ」

助けを求めるような視線を遣られても、緋勇としては肩を竦めることしかできない。彼女の理想論に同意できるほどに清らかな人生を送ってはいなかった。

無意味と、双方を切り捨てるかのような言葉に、美里は息を呑み、蓬莱寺は眦を上げた。憤怒の言葉を発そうかという彼に、緋勇はある方向を指すことで応じる。
示す先は鬼たち。だが、先程までの悄然とした様子とは異なり、彼らは苦しげに身を捩っていた。

「グアァァァァァッ!!」
「ちッ、いわんこっちゃねェ!!」

暴れだした鬼に、蓬莱寺が舌打ちして剣を抜く。だが、その手を雄慶が抑える。

「なッ、何だよッ!?てめェも殺すなとかいうんじゃねェだろうなッ!?」
「いや―――見てみろ」

ゆっくりと消えていく。
まるで最初から存在しなかったかのように、巨体がさらさらと光となり消滅する。

「人の肉体が膨大な陰の氣に耐えられなくなって、消滅したのだ」
「陰氣によって膨らみ破裂した人の魂という風船は、陰氣が消えたとしても戻れない。元々容量が膨大なゆえに風船が破れることなく変生した者なら、陰氣さえ抜ければ、人に戻れようが、極稀であろうな。そんな奴は」

重々しい醍醐の言葉を、緋勇が補足する。
そう、止めを刺すもなにもない。多大な力を有するのならば、人に戻れる可能性はある。だが、普通の人間が外法によって堕とされたのならば、人の形を保てない。どちらにしろ、彼らの運命は、鬼に堕ちたその瞬間から、消滅以外は有り得なかった。

緋勇は、消えていく鬼達の姿を痛ましげに見つめ、必死に彼らの人間時の顔を記憶に留めた。いつかあの村に帰ったときに、家族の者達に、消息を話してやるために。乏しい記憶力を総動員して。

「そんな……」
「万物は、陰と陽の氣の均衡により、この現世に存在している。陰の氣によって、鬼に変じ、その均衡が崩れた者が―――、もはや、この世に留まる術はない」

項垂れる美里を慰めるつもりなのか、雄慶が説く。それを女の声が引き継いだ。

「氣は風に乗ずれば散じ、水に界てられれば即ち止まる―――」

それは旅籠の前で遭った、白い着物の女。当然の展開かもしれない。彼女は龍泉寺という古寺を訪れれば、強さの意味を教えてあげると笑ったのだから。

「古人はこれを聚めて散ぜしめず、これを行いて止めるあり。ゆえに、これを風水という―――。この辺りの氣脈も乱れてきてる……。どうやら、急いで事を進める必要がありそうだね」

ひとり納得した様子で呟く彼女に、雄慶が話し掛ける。時諏佐先生ですね?――と、彼女の名らしきものを。
やっと視線を周囲へと向けた彼女に、雄慶は自己紹介を続ける。高野山から円空という名の人物より、江戸は内藤新宿の龍泉寺にいる時諏佐という女性に助力するよう命を受けたのだと。

「円空の爺さんが?あァ、そういや、数日前に届いた文にそんなような事が書いてあったねェ。ふむ……。わざわざ、京から御苦労だった。この寺が、龍泉寺さ。そして、あたしが、時諏佐 百合だよ」

彼らの遣り取りを聞いていた蓬莱寺が、雄慶の衣の裾を引っ張って、小声で尋ねる。

「何だ、お前。この女と知り合いだったのか?」
「ん?お主らは違うのか?てっきり、俺と同じ目的でこの寺に来たのだと思ってたが」

道理で何の迷いも無く、闘いに参加したわけだと、緋勇は納得した。彼は緋勇らを最初から同類だと考えていたということだ。少々、確認が甘いかもしれない。

「まァ、だが、丁度いい。時諏佐とかいったか?あんたにゃ、聞きてェ事があんだ」

あの化け物が何なのか―――鋭い眼差しで詰問する蓬莱寺にも、女は微塵も動揺しなかった。まるで世間話のように軽く説明する。

人間の心の闇が産み出したモノだと。森羅万象の形を留め、そう存在せしめているのは、氣の流れだと。その均衡を崩せたなら、この世界を滅ぼす事とて可能だと。

本来ならば信じ難いことを。そして紛れも無く真実である重大なことを、気負いもなくあっさりと。

「馬鹿な……、そんな戯言誰が信じるってんだよ」
「信じるさ。信じるしかないだろ?あんなものを見たあんたたちなら。この江戸で何が起ころうとしているのか―――、真実を知りたきゃ、龍泉寺に残るといい。そうすりゃ、あたしが旅籠の前でいった事の意味もわかるだろうさ」

呆然と、否定しようとした蓬莱寺の言葉に、彼女は容赦なく応じる。
確かに彼は信じるしかないだろう。夢でなく噂でなく――――実際に鬼と闘ったのだから。

既にこの寺で暮らす事が確定している雄慶と、彼女は事務的な会話に移っていた。裏手の祠がどうとか、寺の氣の密度がどうとかの話の最中、蓬莱寺は躊躇う様子もなく遮った。

「あんた―――いってェ、何者だ?」

真剣な問いに、時諏佐は悪戯っぽく、知りたいかい?――と笑む。
聞いてしまったらもう後戻りはできない―――それでも良いのかと冗談めかしながら、眼だけは真剣なままで。

「へッ、脅しかよ。だが生憎と、俺は、そういわれると、ますます聞いてみたくなる性質でね。聞かせてもらおうか。あんたが何者なのか―――。緋勇、お前も知りたいだろ?」

意気込んで頷き、緋勇にも同意を求める蓬莱寺の言葉に、緋勇は素っ気無く首を横に振った。彼女の事情も正体も心情にも興味など無い。必要なのは龍閃組という組織の力だけ。その発足の理由など、無用であった。

「ふんッ。知りたくなきゃ別に構わねェけどよ。俺は、どうにも、この女が怪しくてな」

挑戦的な蓬莱寺の態度に、時諏佐は気に入ったと笑う。あんたたちの様な連中を捜してた所だと。
他言無用だと、一応の忠告だけはしてから、彼女は平然と語りだす。本来は機密事項であろうことを。末端であり実行部隊である者たちに、知らせる必要はないことを。

「江戸の町は、数々の妖異に包まれている。原因を探り、幕府の名の下、腕の立つ志士・浪士を集め、この国を転覆させんとする邪なる者の手から、江戸八百八町の治安と民衆の動産を護る公儀隠密としての組織を編成する。そいつが―――これからあたしのやろうとしている仕事さ」

龍閃組が、幕府の下という立場にあることは、当然知っていた。だが、まさかこうもあからさまに、構成員に明言されていたのは意外であった。

『こいつの素性もわからないのに仲間にするのは危険だと思いますよ。もしかしたら、幕府の密偵かもしれないし』

そんな少年の頭目への抗議を思い出し、緋勇は笑いを必死でかみ殺した。まさに嘘から出た真だなと、苦笑をどうにか誤魔化す。

「こッ、公儀隠密だとッ!?」
「そうさ……。どうだい?聞かなきゃ良かっただろ?」

裏返った声で、時諏佐の言葉を繰り返した蓬莱寺とは異なり、緋勇は彼女の問いにも、平然と首を横に振る。生憎と、既知の事実に驚く趣味は持っていなかった。

「そうかい。見かけに寄らず、肝が据わってんだね。いずれにせよ、聞いたからにゃ、協力してもらうよ?いっただろ?後戻りはできない―――って」

この強要と脅しは、むしろ彼女なりの優しさなのかもしれない。己の意思でなく、巻き込まれたゆえに闘いの道を歩く事になったのだと、自分自身に言い訳できるように。
だが、元よりどれほど脅されようとも、退くつもりなどない。決心はとうにできている。幕府の配下という彼らに最も厭われる立場になろうとも、彼らを救うためには、躊躇うつもりはない。

「あッ……あのッ!!その仕事―――私にも手伝わせてください。私、知りたいんですッ。私のこの《力》が何の役に立つのか。私の……この《力》が何のためにあるのか。お願いしますッ」

寧ろ緋勇にとって意外だったのは、意気込んだ様子で言葉を搾り出した美里のこと。当然、彼女も『後戻りできない』面子に含まれているのだと思っていたが、彼女の中では、己は別枠らしい。

「もしかしたら、それを知る事によって、あんたは、並々ならぬ覚悟を強いられる時が来るかもしれないよ。そうなったとしても、それを受け止めると約束できるかい?」

時諏佐の中でも別枠であったのか、確認するように問い掛ける。意思も聞かれぬ自分や蓬莱寺とは、随分と扱いが違うのだなと、緋勇は他人事のように、緊張した顔で頷く美里や鷹揚に説明を始める時諏佐の姿を眺めていた。

「雄慶といったかい。あんたにも働いてもらうよ?先刻の鬼―――鬼道衆と名乗っている一党も、この江戸を狙っている。仕事は、山ほどあるだろうさ。これからは、そこの男連中二人とこの寺を塒とするがいい」

頭を下げた雄慶とは異なり、蓬莱寺はこの期に及んで『俺は、まだやるとは―――』などと抗議しようとする。だが、それは無駄な抵抗。遠い目をした時諏佐の宿星論に、気圧されたように黙り込む。

「人は、誰しも星を宿してこの世に生を受ける。貧しい者も豊かな者も。弱き者も強き者も―――。《宿星》と呼ばれるその星がここにいる全員を巡り遭わせたのなら、誰ひとりとして、その流れから逃れる事はできない」

冷静に考えれば、何の説明にもなっていないというのに、勢いというものは恐ろしいと、緋勇はひとり肩を竦める。

彼にとって、宿命やら宿星やらは、煩わしいものでしかない。
恋の華咲き、愛の炎が燃え上がった両親が、彼に残してくれたものは、厄介な能力と宿星。夫婦が話し合った上で、命が喪われる可能性を知りながら子を生し、実際に彼が母親の命を奪った結果に、父が与えてくれたものは憎悪と嫌悪。

「そいつが、宿命というものさ。覚えておくがいい。その刃、閃く龍の牙の如き。輝く双眸以って、邪を照らす。その名を龍閃組―――。それが、これからのあたしたちの名さ」

ゆえに、時諏佐の宣言に、意気込んだ表情で力強く頷く皆を、緋勇は冷めた瞳で見ていた。
精々、その力を存分に利用させてもらおうと、割り切っていた。



――――この時点では。

戻る