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― 東京魔人学園外法帖 第四章 ――


「ふァ〜あ……ッと、よお、緋勇。もう起きてたのかい。おはようさん」

とうに昼に達した時間に、蓬莱寺が欠伸交じりにて、本堂へ姿を現した。

「入ってくるなり欠伸とはこれはまた御挨拶だな。もう昼になるぞ。お前も少しは緋勇殿を見習ってだな――」

しかめっ面の雄慶の説教を、蓬莱寺は耳を塞いでやり過ごし、寝転び書物に目を通す、昨晩の『お楽しみ』に連れて行った人物へと目を遣った。

「ふんッ。ふァ〜あ、眠ィ……。そういや、緋勇。どうだったよ、昨日の吉原は? 楽しかったか?」
「まあ、それなりには楽しめたな」

答える声は平坦なもの。緋勇の脳裏には残っている。吉原で哀しい死を迎えた儚げな遊女のことが。碌に顔など見ていなかった。死の間際に、桔梗に礼を言ったことだけが、声を聞いた唯一の箇所。それでも、彼女の哀しみを汲めないほどに、鈍い感性は持っていなかった。

「淡白な奴だなァ。俺なんかは余韻に浸るあまり、満足に寝つけなかったくらいだぜ?」

雄慶と蓬莱寺の小競り合いが、またいつものように始まりかけた。止める気など欠片も有さない緋勇は、書物を抱えたまま、ひとり害の及ばぬ場所へ避難しようとして、訪問者に気付いた。


その男は、文遣いだと名乗った。彼が、御坊の居る場では文は渡し難いと渋るうちに、雄慶の眦が段々と吊り上っていった。蓬莱寺たちが、なんらかの如何わしいことにでも関わっていると考えたらしい。

非難の目で睨まれた蓬莱寺の怒りは、文遣いへと向かう。

「てめェ……誤解招く様な態度しやがって。俺に何か恨みでもあんのかッ!!」
「ぐッ、苦しい……。おッ、お二人宛に文を届けに来ただけです」

襟を絞められ、咳き込む若い男の言葉に、やっと蓬莱寺は手を離した。男はほうほうの体で逃げ出していく。
首を傾げながら文を開けた蓬莱寺が、驚愕の表情で叫んだ。

「見ろよ、緋勇ッ!! お葉ちゃんからだッ。俺だけじゃなく、お前にも来てんのが、引っ掛かるが……。なになに―――」

読み進める蓬莱寺よりも驚愕したのは――緋勇。
彼は昨日抱いた女の名すら聞いていなかった。当然、蓬莱寺の相手の方など、顔も見ていなかった。だが、その名だけはよく知っていた。

「『吉原、萩原屋の遊女、お葉で御座います。昨晩のあなたのお言葉、心に染みて消えようとしません。今まで殿方のお相手は何遍もしてきました。でも、あんなに暖かい言葉をかけてくれたのはあなただけ……』」

何度も『あなただけ』の箇所を繰り返し読んだ蓬莱寺に、雄慶が苛立った様子で口を開く。

「先に進め、先にッ」
「おっと、つい、ホントの事をいわれたもんでな。はははッ」

蓬莱寺はにやにやと笑いながら、やっと視線を文の先へ進める。

「『どうか―――どうか、お葉にもう一度そのお顔を見せてください。三味線の弦の切れぬうちに―――』。くっくっくっ。もてる男はつらいねェッ」

どうだかと肩を竦める雄慶と、それに食って掛かる蓬莱寺。だが、その遣り取りに注視する余裕は、緋勇にはなかった。必死に記憶の中の日付を辿るが、やがて諦めたように、小さく首を振った。

「よし、緋勇ッ。昼飯を食ったら行ってみるとするか――って、なんだよ、その面は?」

緋勇は、あからさまに浮かない顔で、考え込んでいる。誘いの文に応える表情とは思えない。
問いに顔を上げた緋勇は、とんでもない事を口にする。

「……蓬莱寺、昨日の店は萩原屋なのか?」
「お前、そんなことも聞いてなかったのかよ」

呆れた顔で、蓬莱寺はそうだと肯定した。

別れ際に緋勇は、蓬莱寺担当の女と、少しだけ言葉を交わした。蓬莱寺は鈍いのか気付きもしないようであったが、明らかに労咳を患っていた女であった。

存在の違和感に緋勇が気付かなかったのは――それだけ桔梗の術が高等なのか、それとも、まだ『あの悲劇』より、前なのか。

「そしてお前の担当の女は、……お葉という名なのか」
「てめェは……本ッ当に、人の話を聞いてねェんだな。ん……どうしたよ?」

さすがに蓬莱寺は怪訝な表情をありありと浮かべて、押し黙った緋勇を眺めた。今は何日なのだろうな――と、彼は口の中で、小さく呟いていた。

彼の記憶には残っている。萩原屋のお葉とは、紛れもなくあの哀れな遊女。幕府重臣の息子とやらの理不尽な行いによって、元より病んでいた身体を荒く扱われ死した女。

「蓬莱寺。是非にでも――共に行かせて貰おう。すまんな、雄慶」

いくら記憶を巡らせようと、正確な日時は覚えていなかった。
当然の話であった。まさか時を遡り、同じ経験を違う立場からするなど、考えた事も無いのだから、日記をつける習慣が有るわけでもなし。全ての出来事を、完璧に細かい日付に至るまで覚えている筈が無い。


「あ、……ああ」
「そんな顔をされては仕方ない。ちゃんと、早くに戻って来いよ」


手ぶらもなんだからと、お葉に手土産でも買って行こうとはしゃぐ蓬莱寺に、緋勇は生返事で応じた。何しろ手土産を買ったとしても、相手に手渡せるかすら、定かではないのだから。

蓬莱寺も、そろそろ不審を抱いたのであろう。緋勇の態度は、遊女から誘いの文を貰った男のものとは思えなかった。

「おい、緋勇。一体何だってん――ッ」
「どいた、どいたァァッ!!」
「う、うおォッ!? いッ、痛てて……。くッ。何なんだ一体」

反射的に避けた緋勇とは異なり、蓬莱寺は凄まじい速度にて駆け下りてきた黒の人物に、見事に――撥ねられた。

「こいつは、ソーリィ。街道からそのまま駆け降りちまったんで上手く減速できなくてなッ」

与助と同じ人種なのか、躁病か。どうにも騒がしく言葉を並べ立てる。一応謝っているつもりらしかった。

「そりい?」
「ソーリィってのは、異国の言葉で、『悪かった』て意味さッ」

聞き慣れぬ言葉に首を傾げた蓬莱寺に対し、派手な青年は得意げに説明をした。
緋勇は小さく頷いた。確か、本物の異国人であるクリスという青年も、頻繁にそんな言葉を発していたような記憶があった。

大江戸を駆ける黒き稲妻―――十郎太だと名乗った青年は、忙しなく、さっさと駆け出した。今現在も飛脚の仕事の途中らしかった。

「やれやれ、忙しねェなァ。飛脚ってのは、皆、あァなのかね」

そんなわけはないだろうと緋勇は思ったが、元々、問いかけではなく独り言であったらしい。蓬莱寺は軽く頭を振ると話を戻した。どうやら、まだお葉への手土産で悩んでいたらしい。

そこに、弾んだ声が掛けられた。
てけてけと駆け寄ってくる小柄なそばかすの少女には、ふたりとも見覚えがあった。

「花音だよ。店のお客さんには、お花って呼ばれてただども」

にこにこと微笑むのは、確かに甲州街道の茶屋で遭った娘。厚い前髪にて瞳を隠してしまっているが、それでも楽しそうに笑っていることは分かる。

峠の茶屋を畳み、内藤新宿へ店を出すことになったと話す花音に、蓬莱寺が良い事に気付いたとばかりに、豪快に笑って尋ねた。

「実はな、お花ちゃん。女が喜ぶ手土産っていったら、どんなものが思い付く? お花ちゃんの欲しいものとか、客の話とかでよ―――何かねェかい?」

生真面目な性質なのか、花音は、う〜んと唸り、真剣に悩みだした。
やがて顔を上げた彼女は、緋勇の方に問いを投げる。

「そのお葉さんって女の人さ、京梧さのいい人なのけ?」
「どう……だろうな」

遊女と客。一般的にいい人とは言えるかもしれないが、あの文からはもっと切実な声が聞こえた。そもそもお葉が、今現在、正しく人間であるのかも不明なのだから、断言はできなかった。

「ありゃりゃ、微妙〜なとこなのけ?」

困った顔で呟いた彼女に、緋勇は違和感を覚えた。蓬莱寺も同様であったらしく、彼の方は口に出して尋ねる。

「あれ、お花ちゃん? お葉ちゃんの事教えたっけ?」

彼女が来てから、名は出していなかった筈だった。
一瞬、花音はさらっと『そこに立ってる柳の木が教えてくれた』と答えてから、我に返ったようで、話し声が聞こえてきたからだなどと言い出した。

それは可笑しい。
照れからか、蓬莱寺の声は決して大きくなかった。その声が聞こえる範囲内に他者が存在したのならば、彼らが気付かないはずがなかった。

「そッ、そうだッ。浅草寺の奥山なんて、どうけ?」
「浅草寺?」

だが慌てた彼女が口にした単語に、蓬莱寺の興味が移る。緋勇としては、今更異能の力について、糾弾する気は無かった。彼女に悪意があるとも思えない。ならば得体の知れない力だろうと、構いはしなかった。

「どうするよ、緋勇? 他に当てがある訳でもねェし、行ってみるか」
「浅草寺か。……まあ、致し方あるまい」

少々嫌そうに、それでも緋勇は頷いた。おそらくは風祭と奥山の店を歩いたのは、数日前のはず。遭う可能性は低いであろうし、遭ったとしても、あの任ならば、鬼道衆として振舞う必要のないもの。問題はない。

「おう、決まりだなッ」

意気込み頷く蓬莱寺と共に、花音に礼を言って歩き出した。
尤も、前を行く男と異なり、緋勇の足取りは重い。あの哀しき遊女の悲劇を、もう一度目の当たりにする可能性が、非常に高いのだから。


奥山に着くや否や、香具師の男達が、次々に声を掛けていく。目が合うたびに勧められ閉口したのか、蓬莱寺が困ったように緋勇を振り返った。

「こいつは参った。何でもありやがらァ。簪に、三味線に、浅草海苔―――か。お前なら、どれがいいと思う?」

途中強く勧められた品を繰り返し、首を傾げる。
その選択肢では、緋勇としては悩むまでもなかった。

「簪――だろう。三味線は尤もな案だが、お前、買う金などあるのか?」
「……ねェよ」

そして、海苔は論外であった。生きていようと、死者であろうと、今の彼女は、満足に食べることなどできないであろうから。

「遊女は着飾るのが商売みてェなモンだからな。妥当っていや、妥当だな。よし、簪屋を探してみようぜッ」


「あの男―――、職人みてェだな。面を打ってんのか? 簪とかもねェかな? 見てみようぜ」

裏手に並ぶ店の中、簪を捜す蓬莱寺が、声を上げた。
面、そしてこの時期の浅草寺。緋勇が連想する人物はただひとりであり、そしてそれは正解であった。

「んッ? こいつはいい。簪も売ってるじゃねェか?」

確かに申し訳程度に置かれていた。勿論、中央に陣取るのは、面たちであったが。
興味を引かれたらしき蓬莱寺が、色々と面師――弥勒 万斎に尋ねていた。

「こっちは、何だ? 犬か何かみてェだが……」
「それは、鵺だ」
「ぬえ? 何だ、ぬえって?」

いかにも面倒そうに答えていた弥勒が、黙り込んださまに、緋勇は軽く頭を抑えた。腕を斬り落としたあの馬鹿侍どもが確かに悪いのだが、弥勒の態度も、もう少しどうにかできないのだろうか。

「仕事の邪魔だ。どいてくれ」
「なッ、何だとッ!? てッ、てめェ―――」

掴みかかろうとした蓬莱寺の首根っこを、緋勇は無造作に掴み、留めた。

「だけど、この野郎がッ」

なおも前に進もうとする蓬莱寺を、もう一度引き、静かに諭す。

「止めとけ。そもそも面ではなく簪を探しているのだろう。ちなみに鵺とは、嘗て京に現れたという妖獣。頭が猿、胴が狸、手足が虎、尾が蛇という妙な姿をしたものだ。この面も、そう意匠が凝らされているだろう? ゆえに、お前の犬という言は、少々酷いな」

やっと目的を思い出した蓬莱寺が、落ち着きを取り戻した。だが、続いた弥勒の言葉に、再度眦が上がっていく。

「簪が欲しければ好きな物を選べ。だが、俺の作品は人を選ぶ。その善し悪しが判らぬ様な輩に売るつもりはない」

挑発するつもりでもなく、悪気もなく、素でこういった言動を取るのだから、性質が悪いのだと、緋勇は激しく痛み出した額に、そっと手を置く。

「俺たちにゃ簪が必要なんだよ。ここに店を広げてるって事は、見たって別に構わねェって事だろ?」

勝手にしろとの言質を取り、蓬莱寺は屈んで何本かの簪を見比べていた。尤も、妙に目が高いのか、彼が気に入るのは両単位の上物ばかり。何十文かで買える品には、お葉には幼すぎると首を振る。

「ならば、他を当たるんだな。元来ここにある簪は、破損したり、持ち主のいなくなったものを引き受けて面を彫る片手間に俺が手をつけたに過ぎない」
「ちッ、簪は、簪屋を当たれって事か―――」

諦めて立ち上がった蓬莱寺に代わるように、緋勇が屈んだ。
売るつもりはないと弥勒が断じた由緒のある品とやらに、彼は一目見たときから惹かれていた。その銀の二又簪は、ただそこに在るだけで美しい。だが、その渋い光が、ある人物の髪に飾られれば、鮮烈に輝きを増すことが、容易に想像できた。

「では、俺はこれをくれ」
「君は話を聞いていなかったのか? 売るつもりはないし、参考までに値をつければ―――二両と」
「二両払う」

呆れの言葉を、途中にて遮り、緋勇は懐を探る。金には不自由していなかった。時を戻ってもなお、身に付けていたものはそのままであったゆえに。

「金の問題ではなく」
「漆黒の髪は腰まで流れ、高貴で玲瓏な眼差しが、不意に春のように融ける。美しく――可愛い女なんだ。この銀は、間違いなくあいつの夜の闇のような御髪の中、月のように映え、輝く。譲ってくれ」

静かに淡々と彼は語る。それでも溢れんばかりの想いは、容易に伝わってきた。
少々きついが端正な顔立ちの、色素の薄いこの青年と、そこまで称えられた漆黒の髪を有する女の並ぶ様を想像し、弥勒は頷いた。

簪は床の間に飾り、その美しさを観賞するものではない。あるべき場にて、輝くべきもの。

「おい、緋勇。そんな大金使っても」
「構わん。ああ、悪いが、お葉にはやれんぞ。これは俺の女に、―――いつかこの手で、渡すのだから。あとこの手毬の形の可愛いものもくれ」

慌てた蓬莱寺には素っ気無く応じ、それからもうひとつ、三十文で構わないと、先程弥勒が言った、愛らしいが高級ではないものも手にとる。

「併せて一両だ」
「おい、さっき二両でも売るつもりはないと言っていただろう。もっと吹っかけられることも覚悟の上だというのに、どうした?」

納得いかなそうな緋勇に、弥勒は笑みを見せた。
構わないのだと。望まれて使われるのが幸せなのだからと、笑う彼に、緋勇が顔を顰める。

「それでは――採算すら、とれまい。せめて採算に見合うだけは取ってくれ。というか、もう少し払いたいのだが」

珍しい値段交渉を、蓬莱寺は不思議そうに眺めていた。
客はもっと高くしろと、売り人は、もっと少なくて受け取れと互いに遣り合っている。商売の原則に逆らっている。

それでも、やがて互いに折り合いが着いたのか、商談は終わったようだ。
緋勇は、面師と更に何言か交わし、待っていた蓬莱寺の方へと、近付いてくる。

ぽんッと掌に投げ込まれたのは、軽く飾られた手毬の簪。

「お前から、礼として花音に渡しておけ。彼女ならまだ、下手に高級なものより、このくらいの方が似合うだろう」

彼女への礼など、蓬莱寺は考えてもいなかった。別れ際の言葉で、済ませたつもりでいた己を、小さく恥じる。
すらすらと、適切な言葉を続ける緋勇は表情に乏しく、とても同年代のものとは思えぬほどに、落ち着いて見えた。だからこそ、先程の静かな笑みが、印象に残っていた。

冬にして春。冷たくそして優しい眼差しの黒髪の女という人物像に、思い当たる存在はなかった。江戸にくるまでの恋人の話だろうか。

「すまねェ、正直考えてもいなかった。……なあ、緋勇。さっきの話だが……お前、女が居るのか?」
「ああ、いるよ。尤も、あいつの中で俺の存在は消えているのであろうが」

悩んだ末に口に出した疑問に、あっさりと答えが返ってくる。だが、その内容は可笑しい。消えているとは、どんな事象か。

「消えてって……なんだよ」
「分かりやすく言えば、忘れられている。あいつにとって、俺は見知らぬ男であろう」

相手に忘れられているのなら、なぜ、先程の淡い笑みを浮かべられるのか。どうして今、幸せそうに微笑めるのか。

「なんだよ、それ。忘れられて、自分の存在が消えて――悔しくねェのか? 許さねェとか思わねェのか?」
「許すも何も、彼女に責任はない。無論元凶は赦せぬし、悔しくはあるさ。だが――あれとなら、もう一度出逢い、最初から恋を始めるのも悪くはないかもしれんな」

遠い目で呟いた緋勇は、あまりに儚くて寂しくて、だが嬉しそうで、蓬莱寺は混乱した。今までの認識は間違っていたのだろうか。どこか一歩引いた位置にて冷静に振舞う彼は、非人間的なまでに感情などないかのようであったのに。

今の彼は、嬉しそうなのに――――泣きそうに見えた。

「どうした? 早く、お葉への土産を探した方が良いのではないのか。ん? ……ああ」

表情あるままに首を傾げていた緋勇であったが、聞こえてきた音に、そちらを向いた瞬間に、全てが抜け落ちた。冷たくさえあるその瞳が見つめていたのは、三味線を抱えた女。いや――三味線そのものか。

「そうだ。あの女なら、いい土産を知ってるかもしれねェな。三味線も持ってる事だしよ。聞いてみようぜッ」

今は誰かと話したかった。土産の参考にするという大義名分もあったが、とにかく他の誰かと話したかった。


「ちょいと邪魔するぜ。よく奥山には来んのかい?」
「ああ、そうだねえ。あたしに何か用かい?」

答えた女の笑みに、蓬莱寺は凍えていた身体が、融けるような錯覚を覚えた。

対して緋勇は出てしまった答えに、疲労を感じていた。見覚えなど当然ある美女が手にしている三味線は、普段の彼女のものではない。復讐させてあげようと、語りかけていた主を喪った三味線であった。

今は――『あれ』よりも後であるという事だ。

三味線弾きの女が喜びそうな物は何か――と、なんとも答えがたい質問に、彼女は真面目に考え込んだ。根は世話好きな彼女のこと。本気で心当たりを考えているのであろうが、やがて済まなさそうに首を振った。

「三味線弾き? ……そうさねえ、女の好みっていっても千差万別だからね」
「う〜ん……。まいったなァ。お葉ちゃんの好み、聞いておきゃ良かったぜ」

困ったように呟いた蓬莱寺の言葉に、女の肩がぴくっと反応した。知っているのかと尋ねる蓬莱寺に、彼女は、この三味線の名がお葉というのだと答えた。そして蓬莱寺の口にするお葉が吉原の遊女と知り、優しく問い掛ける。穏やかにたおやかに、そして凄惨な光を小さく瞳に宿して。

「ふふふッ。女のあたしにはよく分からないんだが、吉原ってのは、そんなにいいもんかい?」
「おう、そりゃもう、何もかもきらびやかで、華やかでよ―――、」

鼻の下すら伸ばして応じた蓬莱寺の言葉に、女の目には怒りではなく諦めが宿った。緋勇は知っている。彼女が吉原の存在そのものすら、疎んでいることを。だが、蓬莱寺には、そんなことは知る由もない。彼にとっては、吉原とは華やかな歓楽街。

「この世の辛い事も、苦しい事も、汚いものも―――あらゆる柵を全て忘れられる……。でも、あんたたちは考えた事はあるかい? どうして、そんな別世界が、この世にあり続ける事ができるか」
「ああ。……許さぬからだろう? 古くなったものの存在を」

嘗て、彼女自身から聞いた言葉を、緋勇は返した。
古くなったもの、汚れたものは、即座に切り捨て、新たなものを補充する。
捨てられ、すすり泣き、助けを求める多くの遊女の魂の上で、男たちは歓声をあげ、飲んだくれる。

それが吉原。夢の世界である為の代償は、遊女たちの苦痛と嘆き。

「あんたのような男も、たまにはいるんだって事だね」

しみじみと、緋勇の顔を見つめていた彼女は、立ち上がり頭を下げた。

「何か探してたんだろ? すまないね、邪魔しちまって。あたしもそろそろ行くよ」

答えが出ぬままに、参考にしようとした女に行かれてしまい、どうしたもんかと、蓬莱寺は真剣な表情で悩んでいた。
結局、緋勇が助け舟を出す。

「思ったのだが、三味線そのものには手が出ないならば、三味線に使う道具などはどうだ? あって困るということはなかろう?」
「いわれてみりゃ、三味線はお葉ちゃんの商売道具だな。よし、決めたッ」


三味線を並べた、いかにも『らしい』色白の男が、近付いてくる人の気配に気付き、顔を上げる。

「三味線を買う程の金は持ってねェが、何か粋な土産ってのはあるかい?」
「そうですねェ」

露骨に金はあまり出せないと宣言している客相手に、真剣な面持ちで考える辺り、この店主は商売の基本が出来ているなと、緋勇は感心した。先の職人気質と比べると、接客技術の差は歴然としている。そもそも弥勒は、作ることだけに専念し、売るのは奈涸辺りに任せた方がいいのかもしれないと、今考えても仕方のない方向へ、緋勇の思考は流れていた。

「それじゃ、三味線の弦なんてのは如何ですか? 『まだ、君の三味線の弦が 切れていなくて安心したよ。もし、君と僕とを繋ぐその弦が 切れてしまったら……。そう思い、代わりの弦を こうやって買って来たのさ』―――ってね」
「なるほどな。上手い文句だぜ。なァ、緋勇」

感心したのか、しきりに頷きながら蓬莱寺は、同意を求めてきた。

「この店主殿の口からに限定されるのならば――な」

緋勇は笑うしかなかった。言ってはなんだが、このなよなよした人物だからこそ、まともに聞ける歯の浮く台詞。蓬莱寺が口にしたら、それは妙なお笑い芸でしかない。

「気に入らねェのか? ちょいと気障な気もするが俺は嫌いじゃないぜ」

まあ、お前が実際に口にしたら、面白いから良いか――と、心の中にて呟きながらも、緋勇は黙っていた。蓬莱寺は、結局店主の勧めどおりに、三味線の弦に決めたらしく、金を払っていた。

「へへへッ、土産も買ったし。早いとこお葉ちゃんに逢いに行こうぜ。いざ出陣ッ、華の吉原へッ!!」

頷き立ち上がりながらも、緋勇の足取りは重かった。億劫に決まっていた。これから先の展開を、思い出してもなお、はしゃげるはずがなかった。


「流石の吉原も、昼は、長閑なもんだ。吉原に通う男連中も、今時分は貢ぐ金を稼がにゃなんねェって事か。逢わなきゃ目当ての遊女に袖にされ、逢うためにゃ、先立つもんが必要で、いや、実際、男ってのも、つれェよな」
「どうだかな」

本当に辛いのは、男なのだろうか。あんな悲劇を目の当たりにしてしまった以上、どうも緋勇としては、遊女の哀しみの方を強く感じてしまう。

「お前がどう思おうが勝手だがよ。小奇麗な遊女を隣において酒をちびりとやる―――。それも、男冥利に尽きるってなもんよ」

別に、蓬莱寺は身勝手ですらない。これが本来の男の意見なのだろう。吉原の哀しみなど、男たちは知る必要はない。彼らは裏など目を向けず、表の美しさだけを愛でれば良い。夢の時間を愉しめば良い。

だが、桔梗とは会話をさせられんなと、心から思った。

「おーっほっほっほッ。そこのあなたたち」

妙に甲高い男の声に、揃って振り向いた緋勇たちは、しばし硬直した。

「あら? 結構、いい男じゃないの。流石、吉原。男も色男が揃ってるわね。そうそう。こんな話をしている場合じゃないわ。この辺で、怪しい者を見なかった?」

彼らの顔をまじまじと眺めてから、首を傾げた男に、緋勇は見覚えがあった。冤罪で処刑されようとしていた鍛冶屋と会いたがる子供たちを、小傳馬町牢屋敷前にて留めていた男ではなかったか。確か、火附盗賊改方であったはずだ。

だが、そんなことは告げられるはずもなく、そして止める間もなく蓬莱寺が素直に内心を発露してしまった。


「怪しい奴なら、俺たちの目の前にいるじゃねェか」
「めッ、目の前ですって!? どこッ!? どいつなのッ!? あいつッ? それとも、あの男ッ?」

もう取り成す気力もない緋勇は、黙って遠くを眺めていた。どうでもなれと思っていた。
錯乱する男を、蔑むように見下ろして、蓬莱寺が告げる。

「何、振り返ってんだよ。てめェだよ、てめェ。」
「ぶッ、無礼なッ!! 私は、火附盗賊改の与力、榊 茂保衛門ですッ」

役職はあの際には聞いていなかった為、緋勇の表情に少々の驚きが宿る。蓬莱寺に至っては、それどころではなく、まざまざと驚愕の色を乗せて、問い返した。

「また、火盗改かよ。あの御厨の上司って事か?」
「あら嫌だ。御厨さんを知っているのですか、あなたたち?」

一瞬軟化するかと思われたが、続いて蓬莱寺がからかった為に、結局榊はぷりぷりとご立腹のまま立ち去っていった。

「何だ、ありゃ。あんなのでも、火盗改になれんだな。大丈夫なのかね。江戸の治安は」
「そこまで腐ってはいなさそうだがな」

態度はともかく、芯から歪んだ幕府の人間ではなさそうであった。昼間からの妓楼通いに眉を顰め、放蕩を否定するところなど、根は真面目なのではないかとさえ思わせる。

「そうかァ? ん―――? あっちから来んの、お葉ちゃんじゃねェか? おーいッ、お葉ちゃん」

懐疑的に首を傾げた蓬莱寺は、かなり遠くの人影に気付き、興味をそちらへ移した。相手も蓬莱寺に気付き、まるで――――すべるかのように、近寄ってくる。

「龍さんに京さん。来てくれたのね」

ああやはり駄目だと、緋勇は嘆息した。駄目押しであった。桔梗の抱える三味線を見ても、まだ認め難かった。『今』はまだ、『あの時』が訪れていないのかもしれぬという希望を、捨てていなかった。

だが、微塵に砕かれた。やはり既に『あれ』は起きてしまっていたのだ。

昨日は夜であったから、闇が在ったから、分かりにくかっただけのこと。無慈悲で眩しい光の中で見れば、彼女はこんなにも現世のものではない。

「龍さんと京さんが、もし、来てくれなかったら―――、そう思うと私、とても心細くて……。最近、あんなにやさしくされた事はなかったから」

それはそうだろうなと、緋勇は切なくなった。

番頭女郎は悪意をもって答えた。『どうせもう永くないんだし、たっぷり稼いでもらわないとねェ』と、客を取れなくなった彼女を蔑んで。

『へへッ、遊女の代えなんざ、いくらでもいるってもんだからな』と、血を吐き苦しむ彼女を見下ろして、男達は笑っていた。

怨嗟の念を増幅された今の彼女には、そんな記憶しか残っていないのだろう。もしかしたら、死した後にとった客は、皆殺されていたのかもしれない。蓬莱寺は、あまりに優しく接した為に、免れただけで。

「そりゃ、よっぽど、男に恵まれてなかったんだな。お葉ちゃん程の女を無下に扱うなんてよ。そうそう。浅草寺の奥山でよ、土産を買って来たんだがな―――、」
「龍さん、京さん」

蓬莱寺の言葉を、遮るかのように、お葉は彼らの名を呼んだ。先程までの、呆とした眼差しではなく、いくらか正気の戻った瞳にて。

「実は、私……二人に救けてもらいたくて……。二人なら、私を救ってくれる……そんな気がするの」

正気と狂気が鬩ぎ合うさまに、言葉の内容に、緋勇は納得した。
お葉とは、余程優しい娘だったのだ。外法により怨霊とされてもなお、彼女は憎しみだけに染まれなかった。あんな最期を迎えてもなお、今の行動を躊躇っている。

無論、憎悪もある。殺意もある。それは当然のこと。だが、迷っているのだ。

「話してみると良い。お前の願う方に、力を貸す。それは誓おう」

緋勇は頷き、促した。真に願うことを助けるつもりになった。それが復讐でも、成仏でも。

「そういってくれると嬉しい。ありがとう……。私……昨晩からずっと考えていたの。私って、何なんだろう……って」

彼女の語る身の上は、遊女としては取り立てて変哲はない。むしろありがちとさえ言えるであろう。

男も知らない内に吉原に売られ、遊女という商売をして生きてきた。悲しい事も辛い事も、吉原と共に過ごして来た。

「吉原は、私の人生そのものといえるかもしれない。私の想いが詰まった場所―――それが、この吉原」

大部分の遊女達も、そんな流れの上に生きてきた。ここしか知らない魂が、哀れすぎる人生が、ありふれてしまう、恐ろしい街。

「でも―――、もし、何かの拍子にその想いが消えてしまったら、私という存在は……。遊女だった私、女だった私、そういう私も消えてしまうんじゃないか―――、この吉原という場所に、お葉という女などいなかったかのように」

言葉の調子も、話し方も、不意に変じる。今現在の不安定な魂を表すかのように、その瞳は不確かだった。

「そう考えると、とても怖いの。ねェ……私の想いが消えてしまったら、私という存在も消えてしまうの?」
「そうはならないから、思い出という言葉があるのだろう。人は死しても、他の人の記憶に残る。誰かがきっと覚えている」

不安そうに、震える己が手を見つめるお葉に、緋勇は静かに答えた。
もう――死してしまった存在であっても、人は記憶に遺す。緩やかに薄れていくことはあっても、消え去る事はない。そう伝えたかった。哀しい想いを抱いたままに、逝ったこの娘に。

「ありがとう……。私はここに、確かにいる―――。龍さんは、それを認めてくれるのね」
「あァ。それに、こんな美人を忘れる様な男はいねェだろ? 何だって、そんな事を考える様になったんだい? 辛ェ事でもあったのか?」

お葉を安心させるように、優しく頷いた蓬莱寺が、続けて尋ねた。

「ううん。ただ、最近、自分が自分でなくなる気がして……。些細な事かもしれないけれど。たまに、昔あった事とかを想い出せない時があって。まるで、虫に食われたみたいに、所々、忘れてしまっているの」

それはおそらく――今の彼女が知らないこと。お葉とある物が、遠く離れていたときに、起きた出来事なのだろう。
疲れてんだよと慰める蓬莱寺とは異なり、大体読めた緋勇は、眉を顰めた。

桔梗が抱えていたお葉という名の三味線。彼女が最期に優しく撫でた楽器。
それが、おそらくは『この』お葉の元なのであろう。彼女は幾度も感情を込めて、三味線を弾いたはず。喜びもあったろう。微笑み楽しんだときもあったろう。

だが――嘆き、恨み、呪い、怨嗟の念を込めて弾いたこととてあるだろう。それは当然のこと。人である限り、陽だけでは生きられない。正しき心だけ抱いて生きることは不可能。

今の彼女は、陰の想いを抱いたときのお葉を、象った存在なのだろう。

「あッ、私、そろそろ行かなくちゃ」

どこか狂った調子で、彼女は上空を仰ぐ。どこから呼ばれたのか、その瞳は虚ろであった。

「おう、もうそんな時分か。そういえば、見世の方も心なしか賑やかになってきたな」

そうやって、蓬莱寺の視線がわずかに見世の方を向いたのは一瞬のことであった。

「おいッ、そこの男二人。通行の邪魔だ。往来の真ん中に突っ立ってんじゃ―――、あァァァァァァァッ!! おッ、お前らはァァァッ!!」

騒がしい声が、更に注意をお葉から、逸らせた。

「おッ、お前たちこそ、野郎二人で真昼間から、何の話してやがんでい」
「へッ、お前と違って、俺たちゃここにいる美人とな―――、あれ、いねェ」

現れた与助と蓬莱寺の会話の間に、彼女の姿は消えていた。

「ふんッ。どこに美人がいるってんだ。全くお寒い連中だぜ。嘘つくんなら、もっと上手い嘘つくんだな」
「確かにな。お前が美人の存在に気付かぬはずがないのだから」

いや、そもそも、最初の与助の言葉から考えるに、彼が現れた時点で、お葉の姿はなかったか、もしくは彼には見えなかったのだろう。

「お、落ち着いてそういわれるのも、なんだか気味が悪ィな……」
「おや……? あんた、御厨の旦那んとこの若い者じゃないかい。こんな処で油売ってると、また親分に怒られるよ?」

あまりに淡々と頷いたからか、却って与助の不審の念をかってしまったようだが、妖艶な女の声が救いとなった。与助に本来の任を思い出させ、遠ざけてくれた女は、お凛と名乗った。

彼女は声を潜めて、最近吉原で流行っている噂話を緋勇たちに教えた。

「夜も更け、そろそろ妓楼を閉めようかという頃合い―――、使っていないはずの部屋から、ひそひそ話し声が聞こえてくる。怪訝に思って部屋を覗いて見ると、男客が、ひとりで話をしているんだそうだ。まるで、誰かがそこにいるかのように……」

ご丁寧に、その噂になる妓楼の名は、いつも同じだという。

「なるほどねェ。だが、そういう噂は何処にでも付きものだからな」
「確かに何処にでもある話さ。だけどね、あたしは、こう思うんだよ。死んだ人間が、再びこの現世に現れる―――、それには、相応の深い理由があるんじゃないか……ってね。そうは思わないかい?」

眉唾と顔に書いて笑った着流し姿の青年の方ではなく、深刻な表情で黙り込んだ道着の青年の方に、お凛は問い掛けた。

「確かに理由がなくば、敢えてこの苦界へ戻ってこないだろう。眠れぬ亡者か。……哀れだな」

彼には――緋勇には、妓楼の名が、予想できた。再び現世に現れる魂の、辛い想いを知っていた。

「そう―――、その通りさ。生前にやり遂げられなかった事や伝えられなかった想いを伝えるために、魂は死んで尚、その地にしがみついているんだろうさ……。特に、この吉原の女たちは、多かれ少なかれ、そういうもんを背負って、生きている。人一倍、この世への未練が強いってものさ」

寂しそうに笑み、己の居場所へ戻ろうとした彼女を、蓬莱寺が呼び止めた。嫌な顔ひとつせずに振り向いた彼女に、珍しくも歯切れが悪く蓬莱寺は尋ねる。

「その……噂の妓楼ってのは、何処にあんだ?」

返答は、緋勇の、そしておそらくは蓬莱寺の予想していた通りの名。――萩原屋。


嫌な予感に突き動かされ、急ぐ蓬莱寺の背を、緋勇は絶望的な気持ちで追った。

最早疑問を挟む余地もない。あの三味線を媒体とし、桔梗がお葉に復讐を遂げさせている。昼間は、稀に正気に戻るのであろう。そして、正気に戻ったからこそ、ああも胡乱な空気を漂わせている。夜は、操られているからこそ、確かに受け答えをする。


案の定、番頭女郎にお葉の名を告げた途端、狼狽しだした。そんな遊女はいないと答える彼女の言葉は、きっと嘘ではない。『今』は居ないのであろう。数日前までは――居たが。

「馬鹿いうんじゃねェよ。俺たちゃ、お葉ちゃんと会った事あんだぜ? いねェなんてこたねェだろよ」

呆れたように告げる蓬莱寺の言葉に、女は、かちかちと歯を鳴らした。震えが止まらないようであった。
筋の通らない受け答えに、埒があかないと思ったのか、蓬莱寺は女を押しのけて上がっていく。

「失礼。しばしの間、あの座敷で起きる事については、目を瞑っていろ」

幾らかの銭を渡し、緋勇もその後を追う。
震えながらもしっかりと懐に金を仕舞う女の姿をちらりと見、緋勇は苦笑を浮かべて、情報封鎖は為されるであろうことを確信した。


「ん……? 昼だってのに、何だって鎧戸を閉めてやがんだ? おいッ、緋勇。そっちの窓を―――、なッ、何だ、この震れはッ!?」

篭った空気に、その部屋に馴染んだ暗さに、緋勇は呆れた。信じられない話であった。おそらく、数日前からこの状態であったのだ。――昨日蓬莱寺がこの部屋に居た時も。

ただ、気付かなかっただけ。

こんなにも淀んだ空気にも。
こんなにも穢れた瘴気にも。

『恨めしいィィ―――。口惜しいィィ―――』
『温かい血が欲しい―――。温かい肉が欲しい―――』

囁き這い出てくる、怨霊たちの存在にも。


怨霊を蹴散らした後、緋勇たちは龍泉寺へ急ぎ戻り、推論の裏付けを行った。

材料は幾らでも出てきた。見回り中であった雄慶らが遭遇した、哀しげな顔をした、遊女のような衣を纏った女。吉原以外の場へ、在るはずもないその存在。
その影は、ある女衒の家へと入り、追った雄慶らが見つけたのは、女衒の死体と悪霊と化したその魂。

女衒の霊は、消え去る直前に、赦しを乞うていたという。『お葉』という名を口にしながら。


お葉の無実を晴らすのだと息巻く蓬莱寺であったが、まさか彼と緋勇だけで、舞い戻るわけにもいかない。

「美里たちは無理だとしても……、雄慶は僧衣を脱げば良い話だろう? 三人ならば、どうにかなるだろう」

女と坊主は吉原には入れない。それは確かに常識ではあるが、形を変えれば済む話ならば、それに越したことはあるまい。

あっさり提言された緋勇の言葉に、雄慶は唸った。

「確かにそうだが……。非常事態だ。致し方ない……か」

断腸の思い。苦渋の末に頷いた雄慶ではあったが、時諏佐が首を振る。

「安心おし。公儀隠密って立場は、こういう時の為にあるんだよ。あたしが、一筆書くから、それを奉行所へ持っていくといい。それで、吉原に入れる手形が下りる筈だ」

端からそう言え――と、大なり小なり顔に浮かべながらも、龍閃組の面々は仕度を急ぎ飛び出した。


「ふわ〜、すごいねェ〜」
「小鈴ッ。きょろきょろしてっと、人波に攫われっぞ」

きょろきょろと、周囲を珍しげに見回す桜井を急かし歩いていると、顔見知りに会ってしまった。

「おや? また来たのかい?」

お凛の瞳は、さもしくはない程度に、興味の色を乗せていた。当然ではあった。

「お嬢ちゃんにお坊様連れかい。あんた、一体何者だい?」

決して大きくはない声。だが、どこか迫力のある眼差しに、反射的に蓬莱寺が答えかける。

「実はな、大きな声じゃいえねェが―――、痛てッ!!」
「おォ、済まぬ。虫が止まっていたものでな」

後頭部を強く叩いた雄慶は涼しげに応じる。掴みかかろうとする蓬莱寺の襟を、緋勇が抑え、目で黙れと告げる。一応は納得したのか、不満顔ながら大人しくなった蓬莱寺を確認し、雄慶はもっともらしく声を潜める。

「拙僧たちは、この吉原で亡くなった者の霊を慰めに呼ばれた者でな。この先の妓楼に用がある」

その重々しい言葉には、真実味があった。また、嘘とも言い切れない。どうか祈ってやってくれと、頭を下げたお凛の神妙な面持ちに、緋勇は、これで話がついたと思った。

「これは、また妙な場所に、妙な面々が揃っているな。よォ。吉原遊びとは、優雅なものだな」

だが、安堵するには早かったようで、また面倒な男が現れる。

笑顔で、しかし瞳は油断ならない鋭い光を宿し、御厨は『妙な面々』を見竦める。挨拶を交わし、お凛が去っていったことを確認してから、彼は問う。

「さて―――、お前らに聞きたい事がある。どうやって、この吉原に入った? 手形がなければ、女や僧侶は入れぬ筈だ。それに、その手形も、そう簡単に下りるものではない。手形を見せて貰おうか。事と次第によっては、一緒に来て貰う。いっておくが、妙な素振りをして、煙に巻こうとしても無駄だぞ」

有能な上に、まともなのだなと、緋勇は感心した。あちらに居たときは、とりわけ愚かな幕府の人間ばかりを見る羽目になり疲れたのであったが、少数とはいえこういう人物も存在するらしい。

「別に誤魔化す必要はない。正式に手続きによって下された手形だ。疑うのは自由だが、―――脅すつもりではないが、お前にとって面倒なことにしかならんぞ」

渡された手形に、わずかな偽装もないかと、御厨は具に調べる。疑われることに腹を立てたのか、蓬莱寺は、ふんッと鼻を鳴らし、余計な事を口にした。

「文句があんなら、龍泉寺に来て、時諏佐って女に話を聞くんだな」
「ほう。古寺に住み、吉原の禁をも破る力を持つ―――。お前ら、一体」

更に興味を引いてしまったらしい。
蓬莱寺は吉原の禁を――ひいては幕府の則を曲げる為には、どれほどの力が必要か知らないのだろうかと、緋勇は少々の疲れを感じた。お上の御威光に、興味がなかったのかもしれないが、これは酷い。隠密として、最低限の自覚は有するべきであろう。

「ところで八丁堀。与助が凄まじい形相で走っているが、放っておいていいのか?」

それでも、この場は誰かが誤魔化すべきであったから、緋勇は手形を奪い取るように取り、話題を変えた。もっとも、それは嘘ではなく。遊女殺しの検分の手筈が整ったと、駆け寄ってきた彼は、弾んだ息で報告した。

遊女殺し。その言葉にあからさまに反応した蓬莱寺に対し、御厨は、何か知っているのであれば協力をして欲しいと頼む。それは決して横暴な言い方ではなかったが、蓬莱寺は何か思うところがあるのか、首を横に振った。

「悪いが、俺は同心なんかとつるむ気はねェぜ。あんたらが、俺たちの味方だって決まった訳でもねェんだしよ。俺は、ただお葉ちゃんの無実が証明できりゃ、それでいいんでな」

おそらくは心からの言葉。だが、それは御厨には聞き逃せぬことであったようだ。お葉だと――と、どこの見世の女だ――と、尋ね、そして蓬莱寺の返答に顔を顰める。

「……与助。数日前のあの遊女の名―――確か、お葉といわなかったか?」
「あッ、そういや、そうっすね」

お葉と会った事があると、気立ての良さそうな娘だったと、沈鬱な表情にて語る御厨に、蓬莱寺はほれみろと、勝ち誇った表情になる。彼女が人を恨んでどうこうなんてする訳ねェと、主張する彼に、御厨は頷いた。

「確かに、恨む事はできぬだろう。もう、死んでおるのだからな……」

絶句した蓬莱寺に、御厨は説明を続ける。

数日前、お葉という遊女が部屋で倒れているのが発見された。
新造が見つけた時には、すでに事切れてた。

「やはり――か」

冗談じゃねェと否定する蓬莱寺とは異なり、緋勇は静かに頷いた。答えはとうに出ていたが、こうやって断言されると、あの娘が哀れで仕方なかった。

「やはりって何だよッ!! 昨日も、今日の昼間も会ったばかりだぞ? 何かの間違いだぜッ」
「今日――新造の女は震えていたよな。お葉なんて遊女は、うちにはいないと。
与助も言っただろう。『そこの男二人』と、お葉が居たときに。我らにしか見えていなかったのだ。そもそも、お前は違和感を感じなかったのか? 日の光の下で彼女を見ても」

信じられず叫ぶ蓬莱寺に、残酷な証拠を緋勇は挙げていく。彼は、座敷で死したお葉を見た。それは、確かに今よりも数日前であったはず。筋は――通ってしまっている。

「ここ数日、吉原でお葉の姿を見たのはお前らだけではないのだ。妓楼で働く遊女たち―――、事に、生前、病の為に客もとれずにいたお葉を虐めた遊女たちが、その姿を多く目撃している。三味線が聞こえると半狂乱になる者も現れている程だ。変死を遂げた者も一人や二人ではない。生前のお葉の有り様を知る者は皆、こういっているそうだ。お葉の祟りだ―――とな」

顔馴染のようだが、もうこの件には関わるなと忠告し、御厨らは検分先へと向かった。
信じられないと呟く蓬莱寺であったが、緋勇からの同意はない。

「くそッ……信じられるかってんだよ―――ッ」
「あッ、おいッ!! 蓬莱寺ッ!!」

雄慶の制止の言葉も聞かず、蓬莱寺は、ひとり周りも見ずに駆け出した。
幾人とぶつかり怒号を浴びながらも、一目散に走り続けるその背に、緋勇は溜息を吐き、気乗りしなそうに口を開く。

「美里と桜井は、幽霊は平気か?」

不安そうに、それでも気丈に頷いた彼女らに、緋勇は頼むと、一言告げた。

「雄慶。主に任せるぞ、専門家」
「……ああ、任された。蓬莱寺を追うぞ」



半狂乱にて、蓬莱寺は萩原屋の入り口で騒いでいた。昼間訪れたときとは異なり、静寂に満ちたそこは、人影がない。音がない。

「誰かいねェのかッ?」

一切の気配の存在しない中、三味線の音が響いた。

「上だッ!! お葉ちゃんッ!!」

無用心に進む蓬莱寺の姿よりも、三味線の音に対し、緋勇は表情を曇らせる。

この先待っているのは、彼女しかあるまい。
鬼と対峙する立場に就くことは、とうに決めた事。だが、それでも避けたいことに変わりない。彼らの笑顔も優しさも苦悩も哀切も、長い間見聞きしたのだから。


「妓楼の階段を、そんな大きな音を立てて上るもんじゃないよ」

くすくすと。笑みすら含んだ余裕のある声。

「おッ、お前は……。何でこんなとこに?」
「ふふふッ、また遭うとは奇遇だねえ」

嫣然と笑むのは、三味線を優雅に弾く桔梗。
店の人間は、全て眠らせるか――始末したのであろう。

「ほう……桔梗とやら、久しぶりだな。この様な場所で再会するとは。何時ぞやの山小屋以来か。あの時、小屋にいた者たちはどうしたのだ?」
「あ……あんたは」

狼狽する桔梗と、睨む雄慶と。その遣り取りから、緋勇は思い出せた。そういえば、彼女と出逢った山小屋には、嵐の音にも話し声にも反応せず、眠り続ける大男がいた。雄慶に見覚えがあったのは、龍閃組として会ったからだと思っていたが、その前に、姿を見てはいたのだ。

「内藤新宿へ向かう途中で、道に迷った事がある。その時、辿り着いた山小屋で偶然、一緒になってな。いや―――偶然ではなかったのかもしれぬ。如何なる理由か知らぬが……、この女、山に入り込んだ者をかどわかしてた様子だった」

そうか、俺はかどわかされたのか――と、緋勇は笑いそうになるのを、どうにか堪えた。
それにしても、雄慶は中々良い性格をしているのだなと、緋勇は寧ろ好感を持った。他の者達が消えていくのを認識しつつ、寝たふりを決め込んでいたということになるのだから。

「あの山が何処であったのか、今では、もう判らぬがな。一体、あの山には何があるのだ? 鬼共の棲み家か?」

おまけに鋭い。
迷い込んだ先であるのなら、あの入り組んだ山にもう一度偶然辿り着くことなど有り得ない。が、それでも彼を近隣にすら寄せないように、注意しなくてはならないと、緋勇は決心した。

「図体が大きいだけの坊さんかと思ったけど、中々、鋭い所を突くじゃないか。寝てて、あたしたちの話なんて聞こえてないと思ったんだけどね」
「生憎と、妖氣には敏感な方なのでな」

もう一度三味線を鳴らし、桔梗は名乗った。鬼道衆――と。

「それにしても、そうかい。あんたたちとは縁があるのかもしれないね」
「桔梗……お前、まさか、お葉ちゃんを―――、」

抑揚のない声で呟き、蓬莱寺は剣に手を掛ける。その本物の殺気にも臆することなく、桔梗は笑う。お葉なら目の前にいるじゃないか――と。

「あんたたちの知っている遊女の名も、お葉。この三味線の名も、お葉。その意味が判るかい?」
「付喪か。生前の彼女の使っていた三味線に、同じ名を勧請する事で、魂を宿したのだろう。わざわざ言霊まで使うとは、完璧主義なのだな」

緋勇の答えに、桔梗の瞳が細まる。坊主ならまだしも、手甲を嵌めた道着姿の男に、そこまで看破されるとは、予想外であった。

「ほう、そこまで分かってるとは、大したもんだねえ」

《もののけ》とは《物の怪》―――物に宿った怪異の事。物々が放置され、念を吸い込み《付喪神》という妖になる。付喪とは、《九十九》。百にひとつ足りない九十九―――、完全な妖になるのに一歩足りない《物》の怪異。

それを年を経るのを待たず、法術により人為的に為したものが、桔梗の手に在る三味線であった。

「この三味線は、お葉の物だった三味線さ。吉原に売られ、こき使われた挙句、病に冒され、死んでいった主人の―――その無念の想いを吸い込み、復讐したいと泣いているのさ」
「そんな事を、お葉ちゃんが望んだってのかよッ。そんな復讐なんて事をよッ」

怒りに震え、叫ぶ蓬莱寺の真っ直ぐな瞳に、桔梗の口元が吊り上る。奇麗事でなにができるというのだろう。吉原を、きらびやかで、華やかな街だと答えたこの男に、売られた遊女たちが味わう苦界―――、お葉が責め苛まれた吉原という地獄を理解できる筈がない。

桔梗は嘲笑を浮かべ、三味線を一際高く鳴らし、お葉の姿を現出させた。
力による取り繕いをなくしたお葉の姿は、まさに幽鬼そのもので。儚く哀れな壮絶美であった。

「おッ、お葉ちゃん……。何だって、そんな姿に……。桔梗、てめェッ!!」
「勘違いするんじゃないよ。あたしはねえ、お葉の心にある《陰》に力を貸しただけさ」

蓬莱寺は、懸命に首を振る。まるで、そうすることで、吉原が自分の居場所だと微笑んだお葉を、取り戻せるかのように。

「お葉ちゃんが、そんな事を望む訳ねェだろッ!! そうだろ? お葉ちゃん」
「この世に陽が射し、そこに陰ができるように、心の奥底に宿る陰を消す事なんてできやしないんだからねえ。恨み、憎しみ、怒り―――、この復讐は紛れもなく、心の陰を抱えたまま死んじまった哀れなお葉の意志さ」

お葉が吉原を肯定などするはずがない。吉原の浮世離れした栄華の裏には、現世の地獄がある。無残に打ち捨てられた彼女の姿は、桔梗の眼に未だ焼き付いていた。正しく美しい綺麗な――世迷い言ばかりほざく連中など、消えてしまえと思った。

「その人間の心の中を、他の人間が理解する事なんてできやしない。そいつを理解したと思い込んでるのは、傲慢というものさ。さあ、お葉―――。あんたの邪魔をする奴らを、片付けるんだ。その怨みを晴らすがいいさ」

力なき哀しい霊に、外法による増強を施そうとした桔梗は、吐き捨てるような呆れた声を聞いた。

「進歩がねえな……いや、あれよりも前の事なのだからか」
「なんだって」

復讐する権利があると。虐げられ続けたのだから、傷付け返せという桔梗。
そんなことは望んでいないはずだと。吉原を好きだと言ったではないかと叫ぶ蓬莱寺。

「今の貴女の言葉を、そのまま返そう。人の心は、誰も理解する事なんてできない。彼女が復讐を望んでいないとは、蓬莱寺には断言できない。同様に望んでいるか、貴女にだって判らない」

桔梗は侍達の非道を、塵のように打ち捨てられ殺されるお葉を目の当たりにしたのだから。
蓬莱寺は、この吉原が居場所だと微笑んだお葉を信じているのだから。

もはや、これは水掛け論にしかならない。

「お葉、あの下衆共が、お前を事実上殺したことは知っている。番頭やら店の者達が、お前をどう扱ったかも聞いた。呪うのは理解できる。だから選べ。但し、お前自身の意思で」

ゆえに、緋勇はどちらの言も聞かない。
本人に単刀直入に尋ねる。

「吉原を呪ったのも愛したのも、真実だろう? どちらにしろ協力してやる。復讐を望むのなら、彼らをしばし留める。その間に、残った憎む連中を殺すといい。元の魂に戻りたいのなら、彼女から解放してやろう」

――お前はどちらを望む?

彼はただ静かに問うた。
そこには桔梗に対する怒りもなく、吉原に対する憎悪もなく。

強制するのではなく、道理を説かれるでなく、ただ尋ねられて、お葉は自問した。
本当はどうしたいのか。何を望んでいたのか。この状態になってから、初めて考えた。

「もう止めて下さい。私はこんな事を望んではいない」

動きを止め、かぶりを振ったお葉に、桔梗が目を剥いた。

「何をいい出すんだいッ!? あんたを、こんな目に遭わせた人間に復讐したいんじゃなかったのかいッ!?」

きつい言葉に隠された彼女の優しさを、お葉はよく覚えていた。
肺を病み、弦の切れた三味線を後生大事に抱えていた自分に、薬を渡し、弦を張り直してくれた女。

あんたの気持ち次第だろう――と。
はなから諦めてちゃ、治る病も治りゃしない――と、音の壊れた三味線を、預ってくれた。お礼など、この三味線であんたが唄ってくれりゃいいと、笑ってくれた彼女に、唄を聞かせることはできなかった。

翌日に会う約束をしていたのに、侍達に殺されてしまった。

あの日会うまでは、顔も名も知らなかった他人の死を、桔梗は認めなかった。いかな不条理な死も、ここには溢れているのに。

「もう……いいんです。復讐したからって、どうなるものでもないのは判っていたんです。怨んで復讐して―――そんな事をしたらそれこそ、私の想いが嘘になる。私は、この吉原が好き。そこに生きる人たちが好き。どんな事があっても、私は吉原を怨む事なんてできない。だって、この吉原が―――江戸が私の居場所なんですから」

本当に、もういいとお葉は思った。

最後の最期であったけれど、優しい女と会えた。
死した後――死霊と化してからであったけれど、優しい男に会えた。

共に、こんなに自分を想ってくれるのだから、自分は不幸ではなかったと信じることができる。

「こんな奴らに騙されんじゃないよッ!! 復讐するんだよッ、あんたの恨みを晴らすのさッ!!」

けれど、桔梗は信じられなかった。
あんな目に遭って、好きでいられるわけがない。

妓楼にはもう私の居場所すらありはしない。
今の私は、弦の切れた三味線と同じ……。何の役にも立たないもの。この吉原には必要のない―――、いえ、あってはならない汚れたものなんでしょう。

そう嘆く彼女に、予備の薬を手渡し、励まし、もう一度笑ってもらえた。

この吉原でもう一度、自分の力で何かを掴みたいと、ここが私の生きる場所だからと、笑顔を取り戻した彼女の新たな門出として、きちんと調整するからと、三味線を預った。

翌日見た光景は、喀血し苦しむお葉と、それを酒を呑みながら、下卑た笑いで眺め愉しむ侍達。

「ちッ。さあ、怨念よ、こいつらを喰い殺すがいい」

惑わす者たちが、余計な事を言うから優しいお葉が迷ってしまうのだと、桔梗は考えた。
それは正しくもあり、誤りであり。

だが、そんなことには気付けない桔梗は、怨霊たちを呼び覚ます。闖入者たちを、追い払う為に。



「蓬莱寺、雄慶 鬼火を頼むぞ」

そう指示すると、龍斗は無造作に踏み出した。
一瞬怯み、直後に一斉に襲い掛かってきた鬼たちを、氣で振り払う。
障子を突き破り、窓の近くへと叩きつけられた男たちは、ただ力なくうめいていた。


その手際は凄まじい。だが、己にも無用心に近付いてくる男に、桔梗は嗤った。緩やかな足取りで真っ直ぐに。それは術の的にしかならない。

「凶爪」

術により作り出された針の如き爪が、腹部を刺し貫かんとばかりに、緋勇へと迫る。不可視の爪を、技を知らぬ拳士に躱す術などない。
なのに、不意に歩調が豹変する。襲いくる術に対し、緋勇は低い音だけを残し消えた。

「くッ、馬鹿な」

足を屈し、床を蹴る。それだけの動作で、この狭い部屋にて、緋勇は桔梗の視界から、完璧に消失した。

見えぬ敵ならばと、桔梗は呼吸を整える。極度の精神集中により、より高度な術を展開する。

「天狐炎元」

虚空に灯した火を、炎の檻と化して己を中心として形成する。囚われし者は、逃げ道もなく焼け死ぬのみ。やっと余裕を取り戻しかけた桔梗であったが、その笑みは凍りついた。

音を立てて、弾けた襖。それが炎に包まれると同時に、僅かにできた檻の隙間を見逃すことなく、緋勇がその身を捻じ込む。

パンッと乾いた音が響く。
桔梗は打たれた頬を、信じられない様子で抑えていた。

術を躱し、敵の間合いに入って、彼が成したことは軽く頬を叩くだけ。

「まったく馬鹿者が。相手の望まぬ力まで押し付けるな。お葉が真に復讐を望んだなら、無理にでも止める権利は我らにはない。だが、貴女にも、望まぬ相手に復讐を無理強いする権利はない」

呆然と座り込む桔梗を優しく立たせてやってから、軽く窓へと突き飛ばし、倒れている下忍たちには、無情にも蹴りにて、起こす。

「柔いな。さあ、お前等もさっさと姐さんを連れて戻……いや、姐さんは今式神か?」

こくんと素直に頷いた桔梗に対して、苦笑しながら緋勇は小声で告げる。

「では、お前たちだけはさっさと戻れ。で、姐さん、符に戻る前にひとつだけ。覚えていて欲しい。いつか邪魅を作る機会が―――猫を連れた哀しい女に会ったら、外法を施す前に今日の事を思い出してくれ。復讐など望まなかったお葉のことを。これは忠告というよりも願いだな」

実力差は理解できた。そして不可解なことに、敵は己たちを逃そうとしている。
それを悟り、桔梗の式は、下忍たちに従うよう促した。
一瞬にも満たぬ躊躇の後に、彼らは窓を突き破り逃げ出した。たかが二階。彼らにとって大した高さではない。

逃げる下っ端たちの姿に、せめて首謀者だけはと思ったのであろう。
気合の入った蓬莱寺が、叫んだ。

「逃がすかよッ!!」

蓬莱寺の到着の前に、緋勇はその凶器に等しい腕を薙いだ。
桔梗の肩から胸に掛けて大きな裂傷が生じ、夥しい血が流れる。だが、息を呑んだ龍閃組の目の前にて、それは一枚の紙へと変じる。

「残念ながら、はなから人形であったようだぞ」
「クソッ!!」

みなさん――と呼ぶ声に、蓬莱寺は振り向いた。
お葉の姿も声も、薄まってはいたが、弱々しくはなかった。

「身体を壊して、誰もが私の事を邪魔者扱いして―――、想い出せるのは、そんな事ばかり。辛く苦しい想い出ばかり……。だから、どんどん吉原が憎くなって、自分を止められなくなっていた」
「俺たちが、もっと早く気付いてやりゃ、こんな事にならなかったのによ。つらい思いをさせちまって、すまなかったな」

申し訳無さそうに頭を下げるお葉の霊に、蓬莱寺は先に謝った。その言葉に、お葉は、そんな事をいわないで――と慌てて否定する。

「あなたたちがいなければ、私はもっと取り返しのつかない事をしていた。この吉原を怨み、江戸を怨み、全てを呪っていたかもしれない。そう考えると、とても怖い……」
「たとえ、それを選択していても、お前は責められる謂れはない。それだけの扱いを受けてきた。なのに、お前は己の意志で、止める事を選択したんだ。誉められるほどのことだぞ?」

一応誉めているらしい。緋勇にしては珍しいこと――というよりも慣れぬことなのだろうなと、分かってしまい、お葉は嬉しくなった。

「ありがとう。あなたたちのお蔭で、私は吉原の遊女のまま逝く事ができる」

薄らと消えながら、それでも彼女は笑っていた。
吉原を愛し、居場所とし、最期まで生きられたのだと、嬉しそうに微笑んで、その痕跡は一切消失した。

「お葉ちゃん―――ッ!!」
「外法から解放されたのだ。死者の魂さえも利用する鬼道衆―――、その所行、許す事はできぬ。お葉殿の様な者を出さぬ為にも俺たちは闘わねばならん」

違うのだと。本当は教えたかった。桔梗はそもそも彼女を巻き込むことに、乗り気ではなかったのだと。ただ、耐えがたいほどに外道な者たちへの怒りが、人の魂を操りたくはないという想いすら上回ってしまったのだと。

だが、それは、緋勇には許されない。知るはずないのだから。鬼たちの哀しみも苦しみも煩悶も悩みも。

「鬼道衆……てめェらの野望は、俺が、必ず潰してやる。この愛刀に賭けてな……。せいぜい首を洗って待ってるがいいぜ」

鬼は徳川転覆という野望の為に、手段を選ばず暴虐の限りを尽くしている。
そう判断する蓬莱寺と雄慶は正しい。知っている己こそが可笑しい。ゆえに蓬莱寺の宣言に、緋勇は下を向いて、唇を強く噛んだ。

覚悟していた。彼らの行動が、幕府の人間に、どう映るのかなど。
分かっていた。彼らが非難されるべき危険な者たちであること位。

それでも、辛かった。
緋勇は知っている。今いる遊女たちには危害を加えるような事はしたくないと、沈んでいた桔梗のことも。子らの未来は子らのものであって―――、復讐の念を親から子へと脈々と受け継がすなど許されないのではないかと、ふたりだけの折にぽつりと洩らした天戒の迷いも。己の目的の為に、無関係なものを犠牲にするようなやり方はしたくないと、あの甘い男は苦しんでいた。

「緋勇さん!? 口元から血が……」
「ああ……少し切っていたようだな」

乱暴に拭い、歩き出そうとした緋勇を美里が止める。
癒すから少し待っていてと微笑む彼女に、無感動に頷きながらも、緋勇の思考は別の場所にあった。

これから先もそうだろう。鬼道衆の非道に、龍閃組はきっと憤り、糾弾する。分かった上で、苦渋の末に選択したことすら、まるで欲を満たす為に嬉々として実行しているかのように、彼らは怒る。

間違ってなどいない。どんな葛藤があろうとも、どんな哀しみがあろうとも、鬼道衆の行う事は非道と言われるべきことであり、治安を乱すことであり、責められて然るべきもの。己が傷付けられたのならば、他者を傷付けて良いなどということはない。

龍閃組が正しく、鬼道衆が間違っている。

それでも自分の立場は、想いは完全に鬼道衆にあって。彼らがもう一度、哀しみ苦しみ悩むときに、傍に居てやれないことが―――悔しかった。

「もう大丈夫よ」
「そのようだな、感謝する」

機械的に返し、緋勇はもう一度座敷に残された一枚の紙を振り返る。

強い瞳で、何を今更と、己を叱咤するように首を振った。
迷いは消す。全ては彼らの未来の為だけに。彼らを救う為だけに行動する。幕府の人間として、彼らの目的の成就を阻むことが、最適の手段となるのだから、歯を食いしばってでも、彼らの前に立ち塞がる。

対峙し敵意を持たれ、憎まれたとしても――――あの朱色の景色を見るよりは、遥かにましなのだから。

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