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― 東京魔人学園外法帖 第六章 ――

晴れ渡る空の下、船にゆられながら寝そべっていた緋勇は、日差しを遮る影に目を開けた。

「眠そうだな」
「眠いからな」

僧形の大男――雄慶のからかいを含んだ声に、彼はぶっきらぼうに応じる。
確かに眠かった。そして、これから確実に遭遇するであろう連中のことを考えると、気が晴れるはずもなかった。

「皆は?」
「積み荷の確認だけでもしてくると、船倉に行ったぞ」

船倉に――と呟き、気だるそうに半身を起こした緋勇に、雄慶は剛毅に笑いながら続ける。

「まァ、こんな洋上で、そうそう鬼道衆の襲撃はないと思うがな。お主は、行かぬのか?」
「ん? まあ――平気だろう」

確か鉢合わせはしなかったはずだと、緋勇は内心で続けた。自分がいない以上、今船倉に忍ぶのは桔梗と風祭。臨機応変という点では、かなり優れる。武器を持たないということは、それだけ身軽なのである。

緋勇の言葉に、安心したように頷いて見せた雄慶は、目を細めると、不意に軽く伸びをしながら、呟いた。
しかし気持ちの良い風だな――と。

「修行の為に、いろいろな場所を歩いているが、海というのも良いものだな。僧侶のいる処といえば、山の上。海は、景色でしか知らなかった。だが、本物を見るとどうだ? こんなにも大きく、こんなにも力強い。命に満ち溢れ、この現世に息づいている」

穏やかに、心底しみじみと口にする雄慶に、緋勇はわずかに身を竦めた。
この反応を知っていた。嘗ての仲間が、事件の後に、また最中に、心から告げてくれた言葉。

「この歳にして、この様な気分を味わうとは思わなかったよ。龍斗殿と会わなければ、こういう事もなかったのだろうな。礼をいわせて貰うよ。ありがとう」

微かに、だが確かに、緋勇の能面のような無表情にひびが入る。礼を言われる資格などないことを、誰よりも知っているのは、本人であったから。ここに居るのは、偽りなのだから。

「俺は……礼を言われるほどのことなどしていない。新たな感動を知ったのは……お前の心が豊かだからだろう」
「ははは、ただ言いたかっただけだ。これからもよろしくな」

咄嗟に頷くことすら敵わなかった緋勇を救うかのように、絶妙な頃合にて、声が掛けられる。

「いやあ、いい風だな。潮の香りが、鼻をくすぐるねえ。海を見ていたのかい?」
「これは、風々斎殿」

やってきた気楽そうな男を見る緋勇の瞳が、微かに細められた。
損山 風々斎だと名乗った男を、自称通りの幕府の下っ端だと信じるほど、彼は素直ではなかった。

「海はいいねえ。海は、何処までも続いてる。いつもそこにある。俺はな。何か悩み事なんかがあると海を見に行くのさ。昔、無くしたものが、そこにあるんじゃないかと思ってね」
「昔、無くしたもの?」

もうこれかと、微かな苦笑を浮かべ、緋勇は一歩引いた。
気楽なだけの男であるはずがない。乗船前に口にされた名から、緋勇には男の正体の見当がついていた。

「人はいつでも何かを無くしてるもんさ。何かを無くさねえと何も得られねえ時代―――。夢も希望も……全ては、海の藻屑と消えていくだけ。嫌な時代だよ」

そうは思わねえかい?

首を傾げられ、緋勇の瞳が曇る。
何かをなくさなければ何も得られない。
想い出全てを引き換えにしなければ、助ける機会すら与えられなかった己の境遇を思い出し、固く拳を握った。

「……そうだな」

洩れたのは、微かな呟き。おそらく無意識であろう感情の吐露。

彼らとの想い出を失い、彼らからは敵視されて。
それでも――忘却されることさえも、彼らを助ける為の対価ならば、耐えてみせる。

「ほう? お前さんは若いのに人の話を聞けるんだな」
「風々斎殿のいう通り、そういう人間を増やさない為にも、我らは、何かをしなければならぬでしょうな」

ちらりと緋勇を見遣ってから、雄慶が続けた。
礼節を『技能』としては有している緋勇が、目上であろう年上の人間に対して、ぶっきらぼうに応じた。それは本物の反応ということ。彼は――何かを得る為に、何かを無くしたのだろうか。

「そうかもしれねえな。まあ、そんな深刻な顔をしなさんな。おかしな話をしちまったみてえだが、ちょいと、口が滑っちまっただけだ。久しぶりに若い連中と会えたもんでね。つい、昔の癖が出ちまった」

男の言葉に、緋勇と雄慶の瞳が微かに光る。反応に気付いたのか、男は冗談で済まそうというかのように、軽い調子で笑い飛ばす。『まあ、イカれたおっさんの独り言だと思って、聞かなかった事にしてくれ』などと言いながらも、続いた言葉は日本を愚痴り、米国を羨み、それでも日本を思いやる真摯な想い。

照れ臭くなったのか笑いながら立ち去ろうとした男は、不意に何かを思い出したようで、くるりと振り向いた。

「―――あっと。そういや、いい忘れた事がある。お前さんたちは聞いた事があるかい? 幕府が、新たな兵を育成してるって話をさ」

――兵?

首を傾げた雄慶と、顔を顰めた緋勇の被った問いに対し、男は笑いを消して頷いた。

「あァ、そうだよ。佐幕派のお偉いさんが中心になり、反幕組織を壊滅させる為の計画が発動した。長州征伐も雲行きが怪しいからな。佐幕派にとっちゃ、これ以上負けるこた許されねェんだろうよ」

人間を超えた人間を創り出すための計画。人間の身体を強化して、飛躍的に能力を上昇させる。
江戸城の地下に様々な薬やからくりが運び込まれている。

半ば怪談に近い、その話は、緋勇にとっては笑い飛ばせるものではなかった。思い当たる存在がいる。

「先頃もな、その研究用の物資を運ぶ荷車が山道で地元の賊に襲われたって事件があった」

辺りは血の海。荷を運んでいた護衛の者だけでなく、荷を奪おうとした山賊であろう輩までも四肢を千切られたバラバラの状態でその場に散乱していた。一体、そこで何があったのか。誰がその場にいた全員をそうしたのか。真相は、未だに不明。

ますますもって怪談じみてきた話に、緋勇は内心にて、ぽんと手を叩いた。
あの時、鬼哭村に現れた兵の正体が、初めて正確に理解できた。外法によって強化された人間で、幕府の手玉らしいとはわかっていても、鬼道衆を襲うつもりにしては、あれほどに少ない手勢でというのが得心がいかなかった。その後に襲撃が続かなかったことも不可解であった。

搬送途中での不慮の出来事によって解放された連中が、まさか『偶然』に鬼の隠れ里に辿り着いたのだとは、推測できるはずもなかった。

「何れにせよ、人間の体をそんな風にするなんて、とても人の仕業じゃねえやな。仮に人がやったとしたら、そいつは、とても正気じゃねェってこった」

そう、確かに人の仕業ではなかった。だが、人を『それ』に変えたのは、紛れもなく人。それも幕府の重臣たちの一部。

皮肉な話に、緋勇が微かに口元を吊り上げたのと同時に、船そのものが揺れた。

「なッ、何だこの揺れはッ!?」
「船倉の方からだなッ」

ああ、今ごろあれが海に落ちた頃か――と。小さく頷いた緋勇を、同意したと見たのか、雄慶は叫び、駆け出した。

「船倉ッ!? まさか、鬼道衆―――、行くぞッ、龍斗殿ッ!!」


船倉では、恐慌をきたした船乗りが、喧騒を巻き起こしていた。恐怖が恐怖を呼び、連鎖的に過剰に感情が暴発し、事態の収拾などつきそうもない。
ただ口々に叫ばれる、化け物、鬼といった単語だけが、理解できた。

「鬼だと?」
「緋勇、雄慶ッ!!」

呟いた雄慶に応じるように、京梧の声が響いた。
彼の後ろには、美里たちの姿もあった。どうやら騒ぎを聞きつけてところのようであった。

「何がどうなってんだよッ」
「船員たちは、鬼が出たと―――、気をつけろ。この妖氣、ただ事ではないぞッ!」

周囲に気を配ろうとした雄慶の背後に、音もなく人影が現れる。

「シャァァァァァァッ!!」
「雄慶、伏せろ」

反射的に従った雄慶の背を、氣塊が唸りを上げて通過する。
ただ一撃。鬼のようなものは、短い悲鳴とともに消滅した。

「救かったよ、龍斗」

ほっとした様子で、己を名のみで呼んだ雄慶に、緋勇は弱々しくかぶりを振った。


「……油断するな、敵はまだ大量に居る」

痛切ですらある表情。だが、雄慶にはその反応をゆっくりと訝しんでいる余裕はなかった。

「この鬼共は、一体」

呆気に取られた呟きが、常人を巻き込みかけていることを龍閃組たちに、認識させる。

「おっさん、甲板へ行ってろッ!! 怪我するぞッ!!」
「この床に散乱した木箱の破片。まさか―――」

京梧の乱暴な忠告の声も、男の耳には入っていないようで、熟考に入ってしまう。積み荷と目の前の鬼と『噂』と――全てを関連付けて考えているのであろう。

正しいのであろうが、正直邪魔だ。
そう考えた緋勇が忠告の言葉を発する前に、蓬莱寺が叫んだ。

「邪魔だってんだよッ!!」

さすがに慌てた様子で退いていく男の安全を横目で確認してから、緋勇は『兵』を観察する。
なんの意思も持たない。飢えや憎しみすらもない。

からの瞳で、映る生き物全てを解体しようとするこれらは、感情の迸りである『鬼』とは異なる。こんなにも空虚な存在を、外法により生み出そうとしている幕府の上層部の正気を疑うしかない。
容易く制御を外れる化け物によって、反乱分子を制圧したとしても、そんな連中に統治されることを誰が望むのか。

冷徹に敵を捌き、屠りながら、緋勇の瞳は、刻々と冷めていった。


「消えてくよッ!!」
「今までの鬼と同じだぜ。鬼道衆の野郎。こんな処まで、追って来やがるとはな」

蓬莱寺の吐き捨てた言葉に、同時に反応した者たちが居た。

ひとりは無論緋勇。だが、彼は諦めてもいた。己にとって絶対の前提――『鬼には事情がある』――が、皆にとっては希薄なのだから、僅かな差異に、気付かないのも仕方ない話だと。

だが、眉を顰める者は、もうひとり居た。

「何だよ、雄慶。どうかしたのかよ?」
「あ……うむ。あの鎧の兵が発していた氣―――、ただの鬼という訳でもない様に思えたのだが」

確信はないようであった。また、氣の質の違いという理由からであった。
それでも、緋勇にとっては、有難かった。

「確かに、どこか違ったような気がするな」

蓬莱寺は怪訝そうに首を傾げる。何かを感知する力はほとんど持たない彼にとっては、共感しがたかった。

「気のせいだろ? 船旅で疲れてんじゃねェのか」
「それなら良いのだがな。すまん、気にしないでくれ」

なおも訝しそうに、だが自信も無かったのか、雄慶はあっさりと引いた。緋勇は、抗弁も承知もすることなく、ただ散乱した現場を眺めていた。


「ようやく着いたか。おッ、あれが、堺の港だろうぜ。これで、俺たちの仕事も終わりだな。早いとこ終わらして、江戸に帰ろうぜ」

港が見え、心底嬉しそうな蓬莱寺に、緋勇は小さく首を振った。残念なことに、すぐに帰ることは出来ないであろうから。
京で仲間となった餓狼は、龍閃組と対峙したのだから。

「はっはっはっ!! ようやく着いたな。身体の節々が痛くて仕方ねえ」
「おォ、これは、風々斎殿」

何故こんなにも陽気なのだろうかと、不思議に思う緋勇をよそに、男と雄慶らは歓談を続けていた。助けてくれてありがとうと、若僧に対して素直に告げられる柔軟性は、なるほど『幕府のお偉いさん』には稀有なものだと、感心すらさせられる。

「中々、面白い船旅だったぜ。久々に、気持ちの良い若者に会えたしな。もう会う事もねえと思うが、くれぐれも命を粗末にすんじゃねえよ? この国の未来は、お前さんたちの様な連中の肩にかかってんだから」
「あの……。あなたは、もしかして……?」

美里にも察しがついたのだろう。男の正体が。
だが、それを口にする前に、遮られる。

「俺の名は、風々斎。風の様に生き、風の様に去る―――それだけの男さ」
「失礼致すッ。御免―――。その方ら、龍閃組に相違御座らぬか?」

あくまでも下っ端だと、そう告げる男へ助け舟をだすかのように、役人がやってくる。積み荷を引き取りにきたという役人は、そのうちの幾つかが行方知れずになっていると聞くと狼狽し、慌てた様子で、伝令を口にする。

『堺に着きし後、速やかに京へ移動せよ』

「京へだと〜ッ!? ふざけんじゃねェッ!! 着いた早々、休む間もなく京へ行け? 冗談じゃねェッ!!」

あまりの強行軍に、顔を顰めた蓬莱寺の怒気に怯んだのか、――それとも紛失の報告を急ぎたいのか。
ともかく強圧的な態度を常にする役人としては珍しく、自分はただの伝令役だからと言い訳をした上で、這々の体で去っていった。

せっかく西方まで来たんだから京の山を拝んで帰るのも悪くないだろう――と、人は江戸だけにあらず――と、笑いながら諭す男は、やはり色々と察しているようであった。

人事だと思いやがってと、まだ文句を言う蓬莱寺に笑いかけて、男は独り言のように伸びをしながら呟く。
自分も、そろそろ馬鹿な餓鬼共に説教をしに行くとするか――と

説教? ――と、素直に聞き返した蓬莱寺に、彼は応じる。

今や国内で相争う時じゃない。雄藩が協力して共和政治を行わなきゃならない。それを、佐幕だ薩長だのと一幕府一藩の面子にばかりこだわって、戦を起こそうとする馬鹿野郎がまだ多い。

その主張は、男の正体を余計に際立たせた。
緋勇は知っている。革新的過ぎるその考えから、両方を敵に回している幕府の重臣の名を。

「いいかい? 己の面子や体面ばかりを考えてちゃ、道は拓けねえよ?」

今更な説教であった。緋勇はとうに面子も体面も捨てた。
守りたいものを守るために、幕府の狗と呼ばれることも厭わない。

「真っ直ぐで、希望に満ち溢れて、明日を信じて止まねえ瞳だ。だからだろうよ。お前さんに惹き寄せられ、多くの仲間が集って来る。今までも―――、これからも、きっと。俺の知ってる男も、そういう男だったよ」


知っている男に似ていると持ち上げられ、緋勇は、苦笑しそうになった。

自分は希望に満ちてなどいない。絶望の中で、微かに見えた光明に、必死に縋り付いているだけだ。
明日など信じていない。いっそあの時が訪れなければ良いと――そうすれば、彼らは少なくとも死なずに済むのにと、震えながら、刑の執行を恐れている。

「買いかぶり過ぎでしょう。確かに名は少々似ているかもしれんが、私が望むのは――ごく少数の平穏のみ」

日本の夜明けも、民の安寧も、知ったことではない。
同じく龍の字を擁いていようとも、男の弟子として名高い、土佐の脱藩藩士のような気高い精神など有していない。

ただ――仲間を護りたいだけ。
首を横に振る緋勇に、それでも何かを見たのか、男は静かに微笑む。

「……仲間を大切にしな。護衛、御苦労さん――龍閃組の諸君。達者で暮らせよ。グッバイッ!!」

そのまま別れの挨拶を決めようとした彼は、皆から一斉に、怪訝そうに首を傾げられた。

「……何だ? ぐっばいって?」

端的なのは、剣士の青年。だが、活発な少女も、表情から同じ状態なのだと分かる。

「何だよ、そんな事も知らねえのかよ……。近頃の若え者は、全く」

ぶつぶつと呟く。これはどう考えても男の方が悪いのだが、彼はそうは思わないらしい。
答えは、彼よりも先に、緋勇から与えられた。

「『さようなら』だったか」

嘗ての仲間の青年が、すぐ口にしては、『えー、あー、サヨナラ』と言い直していた。彼の日本語はかなり達者であったが、短い言葉ほど、つい反射的にでてしまうらしく、『ぐっばい』『さんくす』『そーりぃ』はよく聞いた為、村の住人には通じるようになっていた。

「その通り。グッバイってのはな、外国の言葉で、『さようなら』って意味なんだよ。外国じゃ、別れる時は、皆、『グッバイ』っていってるもんさ」
「へ〜」

ふんふんと、素直に頷いたのは桜井。
他は皆、不思議そうに緋勇をちらりと眺める。なぜそんなことを知っているのか――と。

「それじゃあな。グッバイ、諸君」

グッバイ、おじさんッ!! ――と、明るく応えたのは桜井。そしてもうひとり。

「Good-bye、『先生』。説教を宜しく頼みます」

妙に正しい発音で、その上先生と口にした緋勇を振り返り、しみじみと眺めてから、男は真剣な表情で、力強く頷いた。確かに説得してみせると。


「何だよ先生って。……妙なおっさんだったな」。
「やっぱり、あの人」
「ん? 龍斗も藍殿も、そう思ったか?」

確証などはない。だが、察することは可能であった。
雄慶の問いに頷いた緋勇と美里に、桜井と蓬莱寺は益々首を捻る。

「何だよ、何の事だよ?」
「幕府も腐り切ってはいないという事だ。それでは、俺たちも出発するとするか」

『出発』。前半のしみじみとした部分など忘れ、蓬莱寺の顔面は引きつった。まさか――という呟きに応えたのは、力強い宣言。

「うむ。いざ、京へッ」

公儀だ――と、離しやがれ、このクソ坊主ッ――と、例の如く始まった騒ぎを収めたのは、美里の取り成しでも桜井の呆れでもなく。

「では、行きたくなるよう、予言してやろう、蓬莱寺。京では、お前にとっては愉しいことがある。有名な剣士に会えるぞ」

じたばたと暴れていた蓬莱寺は、緋勇の言葉に、ぴたと動きを止める。

本当なんだなと念を押す蓬莱寺に、ああ誓うと、軽く手など挙げて適当に応じる緋勇。
そこには真摯さなど微塵も存在しなかったが、それでも緋勇の妙な先見性を頼りに、つまらぬであろう幕府のお偉いさんからの呼び出しに、一縷の望みを託す気にはなった。


「あのおっさんの口車に乗らねェで、さっさと江戸に帰りゃ良かったぜ。……腹も減ったしよ。どっか入って、飯にしようぜ。ん? そういや、美里は?」

文句たらたらながら、どうにか京へと辿り着いた蓬莱寺は、美里の姿が見えないことに気付いて、眉を顰める。さっきまで一緒にいたのにと、桜井が心配そうに辺りを見回していると、小走りにやってきた。

向こうに、具合の悪そうな男の人がいたから――と言葉を濁す美里に、蓬莱寺が呆れかえる。

「まったく、人がいいにも程があるぜ」
「でも、困っている人を見過ごす訳にはいかないでしょ?」

黙ってはいたが、緋勇もまた、蓬莱寺と同意見であった。

美里の精神は、全くもって正しく美しい。

だが、その治療が原因となって、美里は鬼道衆に菩薩眼の娘だと知られた。
しかもその『具合の悪そうな人』とは、本当に具合が悪かっただけのこと。命にかかわるようなものではなかったというのに。

「まァ、そうだがよ。じゃ、美里も戻って来た事だし、飯処でも探すか―――」
「その前に、旅籠を探した方が良くない? 砂と埃で汚れちゃったから、脚も洗いたいしさ」

見事なまでに男女の違いが出たなと、他人事として聞いていた緋勇に、美里が視線を向ける。

「そうね……。緋勇さん、あなたは、どっちがいいと思う?」

何故俺に聞く。

どちらに賛同しようとも角が立ちそうな質問に、緋勇はつい本音が出そうになったが、どうにか抑える。

「旅籠だろうな。汚れたまま飯を食うのもなんだろう」
「そうね。それじゃ、旅籠を先に探しましょうか」

嬉しそうに頷いた美里の笑顔に、緋勇は心底こちらを選んで良かったと思った。
どう考えても、蓬莱寺よりも美里と桜井の連合の方が怖い。

「まったく、女ってのは。いいじゃねェか、埃で死ぬ訳でもなし」
「何を言っているんだ。女は埃で死ねるぞ」

不満げに呟いたところ、妙に実感の込められた言葉で応じられた。
蓬莱寺の表情が憤怒に彩られる。

「けッ、そういやお前は女がいるんだったな。しみじみ言いやがって」

腹立たしげに吐き捨てると、強い反応が生じた。――緋勇本人からではなく。

「「えッ!!」」

驚愕の表情で己を凝視する美里と桜井に、緋勇は首を傾げる。

「……いると、可笑しいか?」

そんなことはないと、慌てた様子で首を振るふたりは、初めて緋勇の人間らしさを見た気がした。不思議そうに首を捻る彼に勇気付けられたかのように、美里は問いを放つ。

「私たちの……知っている人?」

彼女の脳裏に浮かんでいたのは、涼浬の儚げな笑顔であった。自分たちには、どこかまだ他人行儀な少女が、緋勇に対してだけは、笑みを見せることに気付いていたから。また、感情が乏しく見える緋勇も、彼女に対しては、優しかったから。

「……いや、知らぬだろうな」

緋勇は、しばしの間悩んでから、そう答えた。確かに今は、『知らない人』だった。きっとそのうちに、出会うことになるのだろうが。

「なんて名前の人? 綺麗?」
「名前は秘密だ。――綺麗だ」

からかうつもりの言葉に対して、ぬけぬけと応じた緋勇に、桜井は目を丸くする。手放しで惚気そうな人間とは思えなかったこともあり、そしてまた、穏やかに小さく笑んだ表情に驚かされたから。

宿までの道中、恐れを知らぬ桜井は、色々緋勇から聞き出そうと試みていたが、緋勇はやんわりとではあるが、はぐらかし、それ以上語ることはなかった。


池田屋という旅籠の前にて、幾分機嫌を持ち直した蓬莱寺と桜井が、これでゆっくり休めると、安心した様子で語り合う。だが、それを否定する者がいた。

「そうならいいのだがな。この京には、昔から天狗が出るといわれているのだ」

幽霊でも鬼でもなく天狗。呆気に取られる皆に、雄慶は高野山に居た頃の噂を語りだす。近くの山に棲む天狗が、京の浪士や幕臣たちを旋風に乗ってからかい、悪戯をするという。

「見た者の話だと、派手な着物を着て羽団扇を持った天狗でな。片目をこう―――眼帯で覆っていたそうだ」

あの馬鹿、目撃者は記憶を消しておけ――というのが、緋勇の正直な感想。雄慶が語った天狗の風体には、なんだか哀しくなるほど的確に、心当たりがあった。おそらく、いや、確実に、あの酒好き天狗だ。


噂だけでは、その人の真の姿は見えて来ない。
何か事情があるのかもしれない。

天狗にも、――鬼にも。

そう話し合う美里たちに、緋勇は少しだけ安堵した。理解までは願わない。ただ、全てを無下に否定することだけは避けて欲しかったから。

と、その時、好奇心を隠せない様子の町人たちの会話が聞こえてきた。興奮しているのか、当人たちに自覚はないようであったが、かなりの声高となっていたがゆえに、皆の意識がそちらに流れる。

三条河原の幽霊話。元新撰組局長芹沢鴨の亡霊。

怪談でしかありえない話と否定するには、彼らの経験が許さなかった。

「元新撰組の幽霊だって……。まさか、鬼の仕業って事はないよね?」

桜井の言葉を、誰も明確には否定できなかった。

「まッ、京の問題は、こっちで解決してもらおうぜ。新撰組もいるんだし、俺たちが動くまでもねェだろ」
「確かにな。無理に人の縄張りを荒らす事もない」

消極的ではあったが、同時に正しくもあった。京のことは新撰組に任せる。この結論を最後まで維持できるのであれば、『彼』とは会わなかったかもしれない。

ただ、運命はそうは運ばなかった。

新撰組の浪士狩りに出くわし、ひとりに対し多数で取り囲む冷酷さに、桜井が悲鳴をあげる。

「そんな……相手の人は、もう闘う気力なんてなさそうなのに。ねッ、何とか救けてあげられないかな?」
「放っておけよ。浪士らだって、こうなる事を覚悟で生きてんだしよ。漢の死に場所を邪魔するなんて、野暮ってもんだぜ? ……ぐはッ!!」

感情論に応じたのは、蓬莱寺。だが、その答えは桜井の納得のいくものではなかったらしく、見事な正拳が蓬莱寺の顔面に決まった。

「人が殺されようとしてるのに、その態度はないだろッ!! この馬鹿剣士ッ!!」

一旦火の点いた感情は留まることなく、その勢いのまま桜井は飛び出して叫んだ。

「こらァッ!! 弱い者いじめはやめろッ!!」
「こッ、小鈴殿ッ!!」

狼狽する雄慶の制止の声も耳に入らないようで、彼女は糾弾を続ける。

「どんな悪い事をしたか知らないけど、大勢で一人を囲むなんて卑怯だぞッ!!」

誰もが反応に困る中で、好機と見た浪士らしき色褪せた着物の男が、僅かな隙を突いて逃げ出す。

「逃げちまったぞ、あいつ。どうすんだよ」

妙に静かに呟いた蓬莱寺に、緋勇も同感であった。呆気に取られてすらいた。桜井が真っ直ぐな気性だとは知っていたが、――ここまで純真だとは、思っていなかった。

そして嫌な予感がした。あの男が、濡れ衣を着せられた哀れな男ならば、これは完璧な善行であろう。だが、ふと思い出した。現在京に潜伏していると言われ、物乞いに身をやつしながら情報を収集している、大物長州藩士のことを。

今の男が、もしも彼であったりしたら――新撰組の怒りは、こちらへ向くだろう。

「うッ……う〜。とッ、とにかくッ、キミたちはそれでも、幕府の人間なのッ? 徳川幕府っていうのは、人殺しの集団じゃないだろッ?」

さすがに少しはまずいことをしたと気付いたのか、焦りの色を見せた桜井であったが、それでもすべき主張をする。だが、残念なことに、相手はそれに感じ入る心は失っているようであった。

「さては、貴様、倒幕派だな?」
「女を引っ捕えろッ!! 男は、斬り捨てても構わんッ」
「くっくっくっ、馬鹿な奴らだ。新撰組に歯向かうとはな」

結局のところ、あの男が本物の桂であろうとなかろうと、他者を傷付けられるのならば、どうでも良かったのだなと、緋勇は少々呆れた。

尤も、いくら腐っていようと彼らも幕府の者。手酷く傷付ける訳にも、無論殺す訳にもいかない。
蓬莱寺と桜井は避けなくてはならない。また、美里の力を見せることもできない。自然、負担は緋勇と雄慶に集まる。

「蓬莱寺と桜井は、彼らが危険だから引いていろ。雄慶、やるぞ。但しあまり虐めるな」
「おうッ!!」

満面の笑みとともに応じた雄慶とは対照的に、緋勇は疲れた表情で構えようとした。

「ふふふッ、止めて置いた方がいいですよ」

聞き覚えのある声に、緋勇は安堵した。これで面倒ごとは避けられるであろう。もっとも新たな面倒を生ずるかもしれないが。

「その人たちは、貴方たちの手に負える相手ではありません」

立ち竦み、いくらかの恐怖を見せながらも、不審者を取り締まろうとしていただけだと主張する彼らを静かに眺めてから、『沖田さん』と呼ばれた男は口を開いた。

「我らの使命は、この京と幕府を護る事です。それを弁えずに、剣を振うその行為―――、貴方たちは、新撰組を無法の集団にするつもりですか?」

あくまでも静かに。ゆえに恐ろしく。

「消えなさい。それとも、ここで私に処罰されたいですか?」

途端に諤々と頷きながら従った男たちの態度から、彼の実力が伺える。

「あ……あの、ありがとう」

やっと事態を把握できた桜井の礼に、彼は穏やかに首を振る。

「いえ。隊士が非礼を働いたようで。お詫び致します。申し訳ありませんでした」
「邪魔をしてしまったのは、真実。こちらこそ失礼した」

貴方はいい人ですねなどと、微笑む沖田の態度から、新たな面倒事も回避できたかと、緋勇は安心しかけた。尤も直後に、諦めたが。

お前があの沖田か――と、どこか粘ついた声で問う蓬莱寺に、緋勇は小さく溜息をついた。頼むから、考え無しに強者に喧嘩を売らないでくれと。

その通りだと頷き、こちらを龍閃組だと一目で見抜いた沖田の眼力に、蓬莱寺の熱気は上昇していく。

強い奴と闘いたい。この世がどれだけ広いか知りたい。
俺の剣が天下無双に届くには、あと、どれぐらいなのか―――、あと、どれぐらい闘えば、その高みに手がかかるのか―――熱に浮かされた瞳で語る彼の姿を、緋勇は羨ましくすら思いながら眺めていた。

強くなりたいという目的。純粋な求道。自分の意思で求めたが故の純真。
恐らく、己や風祭のように、生まれたときから家より手段を与えられた者には、抱けない渇望。

「てめェと闘えば、それが判るだろうぜ。え? 沖田さんよ」

一途さに、沖田は僅かに逡巡する。おそらく、名声目当ての剣士などであれば、歯牙にもかけなかったであろうに。だが、彼は求道よりも大切なものの存在に思い当たったようで、瞳から迷いが消えた。

「抜けよ―――。不意打ちってのは性に合わねェ。正々堂々、真っ向勝負といこうじゃねェか」

感情の変化には気付かぬ様子で、蓬莱寺は柄に手を掛けながら挑発する。だが、沖田は、もう迷うことはなく、静かに首を横に振った。

「お断りします。貴方と私が闘う理由がありません」

てめェになくても、俺にはある――と、怒り燃え上がった蓬莱寺に、冷水を浴びせるかのように、沖田は応える。

「今、ある男を追っている途中なのです。申し訳ありませんが、貴方と闘っている暇が、私にはないのです」
「ふッ、ふざけんなッ!! 闘る気がねェなら、どうあっても闘らなきゃならねェ気にさせるまでよ」

暇がないとまで言われ、怒り心頭に達したのだろう。既に刀を抜きかけている蓬莱寺に、桜井が悲鳴とも怒声ともつかぬ声をあげる。

「ちょっと、京梧ッ。雄慶クン、龍斗クン、止めてよッ!!」
「はッ、離せ、ふたりともッ!!」

ふたり掛りで抑えられ、蓬莱寺はそれでもじたばたと身を捩る。

「よさんか、蓬莱寺ッ。こんな処で争ってどうするッ。同じ志を持つ者同士、闘っても意味がないだろうッ」

退去の言葉を口にする沖田に、雄慶が、迷惑をかけたなと、頭を下げる。
いえ――と、首を振って去ろうとしていた沖田は、咳き込みながら、思い出したように振り返り告げる。

今追っている人物の情報を、辛そうに語る。局抜けした隊士、壬生 霜葉のことを。

「壬生さんは、新撰組のその変わり様を一番、憂いていた。そして、誰よりも新撰組を愛していた」

お前は涼浬か――と、突っ込みたい気持ちを、緋勇は必死で抑えていた。どうしてこうも、慕う人間が、真面目に追うのだろうか。表だけ合わせておいて、放っておけばよいものを。

「尊敬していました。ですが、掟を破った者を処分する事は別の問題です。私と壬生さんは、違うのです」
「局中法度――か。黙ってへいへい頷いて、裏では放置しておけば良いのでは?」

大切なものの為ならば、体面など捨ててしまえば良い。緋勇ならば、そう考える。

「……それでも、私は引き返す事はできないのです」

掟もまた、彼の中では遵守すべき規律なのだろう。ゆえに、彼は己の決めた通りに行動する。掟を破った者を処分する為に。

もう一度、苦しげに咳き込んでから、去っていった沖田の背を、じっと眺めていたのは美里。

「どうしたの? 藍」
「以前、患者さんの中に沖田さんと同じような咳をする人がいたの。その人は、肺を患っていて、半年後に……」

語尾を濁した美里に、桜井が絶句する。

確かに沖田は病んでいる。安静にしていても、時折苦しむ程に。立ち回りの最中には、激しく咳き込むほどに。そして――魂を売ってでも、健康な、いや、まともに闘える身体を欲するほどに。

「おい、緋勇ッ!! 何が有名な剣士と……」

雄慶の抑えから、ようやっと抜け出した蓬莱寺が、怒鳴りかけ、それから思い出したように勢いを失う。京へ行くことを渋る自分に、緋勇が告げた言葉は『会える』であった。

「会えると言っただけだな? 闘えるとは、一切口にしていないな」
「てめェ……」

至極あっさりと。
平然と応じる緋勇の無表情に、中途半端に焚きつけられた火が、燃え上がりかけた。だが、見事に邪魔が入る。

「あの―――」
「あァッ!?」

殺気すら込めた眼差しで、勢い良く振り向かれて、硬直しない人間は少ない。
役人らしき男は、たっぷり凍りついた後、松平 容保からの言伝だと、祇園の茶屋を訪ねるように告げて、逃げるように去っていく。


祇園と聞いて、ようやく機嫌を持ち直した蓬莱寺が、歩むうちに、再び憤怒の表情を浮かべる。原因は複数の女の嬌声と、その原因らしき酔っ払った若い男の声。

「いやァ、おもろかったで。ほな、次は何処に行こか―――」

遊女らしき女たちの乳を揉みしだきながら笑う男に、懐かしさが広がる。うわばみ連中幾人かで、よく延々と酒を飲んでは、他の皆に呆れられていた。

男がこちらに気付き、喜色を浮かべながら、歩み寄ってくる。尤も対象は、緋勇ではなかったが。

「えらい別嬪やな。今晩、わいの相手せェへんか? な? ええ思いさせたるで」

困惑するのは美里藍。

「何しとんじゃ」

それは条件反射的な突っ込みであった。
見慣れた男の聞き飽きた言動に対し、緋勇は気付けば、顔面に突きをかましていた。無論加減はしていたが。

「あいたたたた……。くォらァッ!! 何さらすねん、われェッ!!」
「よしよし、緋勇。良くやった。ふんッ、てめェが悪ィんだろうよ。このクソ野郎ッ」

しまった、今は見知らぬ他人を殴ってしまったと、緋勇が微かに青ざめる前に、蓬莱寺が勢い良く喧嘩を売る。どうやら、どちらにしろ彼も手を出す気満々であったようだ。

「們天丸殿といったか、連れが無礼を働いたようで、すまなかった。この通り―――」
「ちッ、坊さんに謝られたら、しゃーないわ。堪忍したるわ」

雄慶の執り成しにより、どうにか怒りを抑えたらしい們天丸は、しげしげと緋勇を眺める。わいの頬を張れる奴がおるとは――と、つくづく感心したように。

気に入ったのか、彼は珍しくも忠告めいたことを口にした。

最近の京は物騒だから気を付けろと。自然を壊す人間に、天狗はんもお怒りだと。

「天狗が現れるなんて、何か怖いね」
「阿呆いうんやないッ!! 天狗はなァ、自然と共に生き、自然と共に歩んどるんや。人の様に、岩を掘り起こしたり、山を揺さぶったりせェへん。水を犯し、風を撓め、火を歪めたりしとるんは、人間だけや」

思わずといった風に呟いた桜井に、們天丸は過剰なほどに反応する。彼にとっては譲れることではないのだろう。共に過ごす天狗の方が親しく、人間の方が余程恐ろしいのだろう。

その剣幕に固まってしまった桜井に対し、我に返った們天丸はおどけて謝る。

遊女らの焦れた呼び声に、満面の笑みで応じて、話を打ち切った。

「ほな、わいはこれで。京の夜を楽しむんやでェ」


ひらひらと手を振った彼の背を眺め、緋勇は小さく溜息を吐いた。
これからの気の進まぬ出来事について考えるうちに、一つ思い当たる。

「ふと思ったのだが、桜井と蓬莱寺は口を利かない方が良いのではないか? 松平とは尊大との評を聞く。若僧に『たいそうな口』をきかれて認めるほど、度量の大きい人物とも思えん」
「む……確かに」

緋勇の言葉の内容と、頷いた雄慶に桜井が僅かにむくれる。
蓬莱寺の対他者への礼とは、同列に扱ってほしくはないのであろう。

「京梧は判るけどボクも?」

確かに彼女は、無礼ではない。だが、礼儀正しいとは言い難い。

「形だけであろうとも、礼儀が必要な人間も存在する」

心など虚ろでも。外見だけの尊敬でも。
それでも、そういったものが心地よく、求める者は多い。

要職に就く者たちには、特に。


予想は正しかった。
知った顔を見て、懐かしさに僅かに和んでいた緋勇を待っていた者は、いつもの俗物。
典型的な幕府の高官である京都守護職 松平の言動に、緋勇は応じる気力すら失って、受け答えを雄慶に任せていた。

だが失敗だったと、途中で悟る。
言葉も態度も礼儀正しく、だがきっぱりと、雄慶は松平の言葉を否定した。
民衆を護ること。それを常に念頭に置いているのだと。

幕府を護る為だろうと、粘着に聞き返す松平に、止める間もなく蓬莱寺が言い返す。雄慶など比較にならぬほどに挑戦的に。

「俺たちは、自分が信じるもののために闘ってきた。ただ、それだけの話さ」

不興げに眉を上げながらも、松平は自制したらしく江戸の町について語りだす。
京のような風水に護られた都市にするために、呪法を施されたということ。結界を成した天海僧正。呪法を承知した上で、結界を壊そうと暗躍する鬼たちのこと。

「我らは、その謀略を阻止せねばならぬ。たとえ、戦になろうとも、鬼共を殲滅し、幕府を護らねばならぬ。それが、公儀隠密としての使命なのだからな」

こいつは何処で殺そうか――と。
緋勇は、さらりと考えた。躊躇いだの良心の呵責だのはなく。この小者は『彼ら』の害にしかならないと理解し、そのうち殺そうと、気負うことすらなく決める。

ただ静かに剣呑なことを考える緋勇と違って、不快の念を表した者がいた。

「いっとくがな―――、公儀だか何だか知らねェが、俺たちゃ、幕府の狗になるつもりはねェぜ」


あーあーあー。
というのが緋勇の感想。松平が求めていたのは、まさにその狗。
民衆などという、『いくらでも存在するもの』ではなく、将軍、ひいては幕府の利の為に動く駒。

「幕府なくして江戸もその町の人間も存在しねェとか何とかいってたが、そいつは、逆なんじゃねェか? 幕府があるから、江戸があるんじゃねェ。江戸があるから、幕府があるんじゃねェのかよ?」

蓬莱寺は、真っ向から否定した。
美里らの美しく澄んだ輝く瞳も、誇らしげに語っている。

自分たちは、江戸の町にて暮らす、民衆たちを護る。そのために闘うのだと。
裏を返せば、幕府を守らないと。


刻が過ぎ、使者にそろそろ戻る時分だと呼ばれた松平は、何かを含んだ顔で、立ち上がった。

「今宵は、中々に楽しい話を聞く事ができた。やはり、噂だけでは判らぬものだな。人の心の中というものは」

ご満悦、そんな表情の松平の目が語っていた。
油断のならない下賎な連中め――と。

彼に認識された。従属的に動かない、厄介な連中だと。
利用価値があるうちは、それでも良い。だが無くなれば――戦力が下がるか、幕府が新たな戦力を手に入れるか、または、鬼道衆のような反幕勢力を制圧出来たなら、彼は迷いも無く龍閃組を排斥するであろう。


「すっかりと人気もなくなってしまったな」

独り言のような松平の呟きに、緋勇は内心にて、全くだなと頷いた。

そう――人気がない。
自分たち以外、周辺に誰一人存在しない。常に控えているであろう、松平の従者に至るまで。


「む……おかしいの。護衛の者の姿が見えぬな。誰かッ、誰かおらぬかッ!!」

異変に気付いた松平が騒ぐや否や、湿り気を帯びた風が吹き、陰鬱な声が響いた。


     無念だ。無念だ……。滅びよ……。幕府よ滅びよ


亡霊とは思えぬ野太い声に巨躯。だが、紛れも無くこの世の者ではない、薄い色の男が現れる。

「貴様は、芹沢……。迷って出たか―――」

驚愕しながらも、取り乱すことはない松平の様子に、緋勇は小さく舌打ちする。この男は、下衆ではあるが無能ではないということだ。それは鬼道衆は無論のこと、龍閃組にとっても、不利益となる。


「退がってろ、おっさんッ!! へッ、京まで来て妖怪退治たァ休ませてもくれねェって訳かよ。上等だ。かかって来なッ!! あの世に送り返してやるぜッ!!」
「やる気だな、蓬莱寺」

呟いた緋勇は、全く別の方向を見ていた。亡霊には全く視線を向けずに、彼は続ける。

「ではそちらはお前たちに任せる。頼んだぞ」
「任せるって……お前は?!」


肩を竦め、彼は構える。
下っ端には見せない、本気の構えで、闇に対して。

「もうひとり、客がいらしている。……なあ」

笑いを含んだ呼びかけに答えたのは、感情を凍結した静かな声。

「京の闇には、鬼が棲む―――」

風の無い中に、浅葱色の羽織がひらめく。

「聴こえないか? この京に眠る魂の慟哭が? 新撰組に―――幕府に殺された者たちが怨みを晴らしたいと哭いているのだ」

日本刀を背負った男は、静かに佇む。音も気配もなしに現れた彼の視線の先は、松平ではなく緋勇であった。

「俺の名は、鬼道衆がひとり―――壬生 霜葉」
「ああ……そうですか」

奈涸といい、こいつといい図々しいことだと、緋勇は苦笑した。彼もまた、奈涸と同様、この時点では協力者であったはず。鬼に加わると頷いたのは、戻ってからの話。

ざっと観察し、壬生の背負う刀を封じるように、幾重にも巻かれた鎖に、少しだけ安堵する。
強敵と闘わねばならない己の為にも、命を削って妖刀を御する壬生の為にも。


未来である昔、緋勇は彼に訊ねたことがあった。
お前の腕ならば、普通の業物――下手をすれば鈍刀だろうとも、苦痛を感じない状態で使った方が余程楽に闘えるのではないか――と。

彼はしばらく黙った後に、ぼそりと呟いた。
村正が嫉妬するのだと。

己を護る武士を認めた気位の高いお姫様が、町娘ごときと口をきくと不機嫌になるかのように、この銘刀かつ妖刀は、遣い手が他の刀に触れることを好まない。

実際、奈涸の悲鳴をよそに、そこそこの刀を使わせたところ、ぽっきりと刀身が折れた。鈍刀に至っては、粉々に砕けた。
どの程度の刀まで影響を及ぼすのか興味を覚えた緋勇が、九角家の宝刀を取り出してきたところで、蛸のように赤くなった九桐が待っていたのだった。

表情そのものは、満面の笑みであっただけに、あれは流石に怖かったと緋勇が述懐したほどに、怒っていた。


姫君の我儘に、こうして対峙する今は、感謝したいと、緋勇は微かに口元を綻ばせた。

この男に剣を使われれば、相当苦戦したであろう。
相手を退却しやすいように倒すことに留意しながらでは。


壬生はそもそも体術の素質があったのか、剣を使えぬ剣士が、苦し紛れに習得したとは思えぬほどに、素手でも強かった。

しかし、壬生は素手にて闘う場合、投げを主体とする。
当然接近戦となり、それは緋勇の間合いと等しい。才能が高かろうと、本分ではない彼が、渡り合えるはずがない。


だが、その認識すら誤っていたと緋勇は思い知らされた。

やや加減されていたとはいえ、意識を刈るはずの一撃を受けながらも壬生は倒れなかった。


「失礼をした」

口元の血を拭い、静かな口調で続ける壬生の瞳に、緋勇は後悔の念を抱いた。

手加減など不要であったと。
殺すつもりで攻撃すれば、彼ならば勝手に致命傷は避けられた。なのに手加減などすれば、痛打は痛打足りえない。

「お前を相手に、手習いの体術など、役にも立たぬようだ」

いや、お前のは手習いなどという生ぬるいものではないから、それは抜くな。
そんな緋勇の願いは叶うことはなく。

しゃらんと音を立てて、封じの鎖が外れる。左の腰の位置に刀を横にして、一分の隙もない居合の構えをとる。
二重の意味で、背筋が冷える。

この腕を持つ相手を、上手い場所で倒さなければならない。
だが、機会を窺い長引けば長引くほど――壬生の身体を、苦しみが襲う。


兆候は一瞬。
その微かな動きを頼りに、喉元すれすれを通った刃の軌跡から、身を躱す。その瞬間、ほんの僅かではあったが、壬生の無表情を走った苦痛を、緋勇は見逃さなかった。

緋勇の表情が、僅かに曇る。最も利口な攻略法は、相手が消耗するまで避け続けることだと理解はしていたが、無論その戦法は選ばない。意を決し、構えなおす。


壬生の背に、冷気が走った。原因は対峙する相手の瞳。
その色が、深みを増すと共に、彼を包む氣の質、量ともに変化する。
研ぎ澄まされた刃のような鋭さに、熱すぎて凍えてみえる白い炎のような苛烈さに、突き動かされたのか、気付けば、壬生は必殺の一撃を繰り出していた。

容赦の無い軌跡に、緋勇は僅かに口元を綻ばせた。面白がるかのように、瞳すら煌く。

「……勝負ッ!!」

小さな呟きを聞いたのは壬生のみ。

半ば恐怖による衝動は消え、正気に戻る。その上で――笑む。
愉しげに頷いた彼は、緋勇と同種の笑みを浮かべて、致死の一撃を躊躇うことなく、己の意思で振りぬいた。

壬生の腕と村正の切れ味と。
並みの相手であれば、首ごと斬り飛ばしたであろう技の冴えは、血の霧を作るに留まった。傷は深くはない。なのに血飛沫となったのは、当人が凄まじい速度で動いたがゆえ。

壬生の視界から消えた者の殺気は、上から降ってきた。顔は空を見上げながらも、身体が勝手にその場から逃れる。体重の乗った踵が着地するとほぼ同時に、壬生は一歩踏み込みつつ、もう一度刃を薙いだが、此度の成果は、衣を僅かに裂いたのみ。

信じがたいことに、緋勇は素手で刀の背を流れる方向に押し、壬生の身体を開かせる。

驚愕に動じる暇もなく。
一瞬で距離を零とした緋勇に対し、壬生は手首の返しのみで、流れた刀を引き戻し、貫こうとする。

咄嗟に飛び退いた緋勇は、距離を取った上で、眉を顰めて呟く。

「無茶な奴だ。あの状態で、普通太刀を戻すか?」
「お前に言われたくはない」

呆れた声に、強く言い返し、壬生は手首にちらりと視線を遣り、状態を確認する。
無茶な動きの代償に、ずきずきと鈍く痛む。だが、鍛えた身体と鋼の精神には、大した痛手とはならないと結論付ける。

微かな目の動きと、固く結んだ口元から、緋勇には、壬生の診断が読めた。村正からの苦痛と、手首の痛み。それらをとりあえず無視できる彼の精神に呆れつつ、更に心を研ぎ澄ます。少しでも早く終わらせる為に。

たんっと低い音を残し、一足で距離を詰めた壬生の剣に、確かに手ごたえが残る。
だが緋勇の姿は、微かな血を残して、また視界から消えた。
反射的に見上げた壬生の目に映ったものは、月の無い夜空。聞こえてきたのは、僅かに笑いを含んだ言葉。

「外れだ」

在り得ないほどに低い位置からの声に視線を向けると同時に、足を払われ、袖口を引かれ、瞬時に身体が宙に浮く。常人であれば何も出来ずに後頭部を打ち付け、命を失っていたであろう高等技に、壬生はどうにか受身の姿勢を取る。

それでも固い地面に、相当の勢いで背を叩きつけられ、一瞬動きが止まる。その隙に緋勇は流れるような動作で馬乗りの姿勢になった。

血塗れでありながら不敵に笑う緋勇の姿に強烈な既視感を覚えて、壬生は硬直した。



「壬生ッ!! 避けろ!!」

焦った声が掛けられ、顔を上げたのとほぼ同時に、小柄な道着姿の少年が飛んできた。一瞬避けてしまおうか悩んだ後に、結局は受け止める。

「てめェ」
「待て。礼は?」

己を踏みつけて、再び挑もうとした少年の首根っこを掴む。激突するところを助けてやってこの返礼は酷すぎるだろう。

「う……わるかったよ。ありがとな」
「ははは、怒られてやんの」
「てめェなあッ!!」

仁王立ちで笑うのは、頬から血を流したままの緋勇。見れば、少年も額から血を流していた。

「またか……お前たち。今度はどうしたのだ」
「ふッ……理由など、とうに忘れた!」
「無意味に格好つけてんじゃねェッ!!」

いつもの光景。確かに喧嘩を売るのはいつも少年からなのだが、必ず買う緋勇にも問題があるだろう。
彼らに対しては、前に破戒僧も溜息をついていた。

『町中で血まみれの喧嘩をされても困るからな』

そう告げたとき、ふたりして不思議そうに首を傾げたそうだ。どうやら彼らは血塗れになってまで闘っているという自覚はないらしい。
たかが素手での喧嘩とはいえ、熟練した徒手空拳の遣い手同士による高度な闘いは、凄まじい喧騒と破壊を招いているというのに、彼らの認識の中では、あくまでも喧嘩なのである。

一度など、目撃した村の少女が恐慌をきたし泣き喚き、頭目が剣を抜く事態にまでなったこともある。己がこの村を訪れたのは、そう昔ではない。
だがその間ですら数々の騒動を見聞きしたことを思い出し、溜息を吐きながら、緋勇を睨みつけ、問う。

「龍……お前、今何歳だ。風祭のいくつ年上だ?」
「そうやって年上だからと責めるつもりだな。酷い話だ」

煙に巻こうというのか、拗ねたように呟く。だか、それは怒りに火を注いだだけであった。

幾つだ?

――もう一度低い声で尋ねると、やっと危険なものを感じ取ったのか、緋勇は目を逸らして答えた。

「二十……だったか?」
「なんだ、その疑問符は。誤魔化す気なのか? とうに元服を過ぎた人間が、子供相手に本気になっているということを」

子供というんじゃねェ!! ――と叫びだした少年よりも、緋勇の表情の方が、気に掛かった。一瞬で抜け落ちた感情。近くを映さぬ瞳で、彼は呟いた。本当に知らないんだ――と。

「双子の弟が、二十になる計算なのだから、俺もおそらく同じなのだろう」



抜かれたままの刀に、飯だと告げながら血を垂らし、鞘に収める。微かに不満げに震えた姫君に、我慢しろと言い聞かせて、鎖を巻いて壬生の身体の上に無造作に投げる。

「思いっきり……入ってしまったな」

反撃を予想して鳩尾に強めに肘を落とした緋勇が、首を傾げて呟いた。

壬生の投げに関する体術の技量は、凄まじいことになっている。
だからこそ、この優位な体勢であっても本気であったし、事実壬生は寸前まで抵抗の姿勢を見せていた。なのに彼は、突然驚愕に目を見開いて硬直した。尤も流石に一瞬で我に返ったらしく、腹筋を締めた為に致命とはなっていないはずだが、かなりの痛手だったはず。

気を失った壬生など初めて見たため、しげしげと見下ろしている緋勇の元へ、青ざめた美里が走り寄ってくる。彼らの方も、無事に亡霊を祓ったようであった。

癒しを行使しようとする彼女に、松平の目があるうちは止めておけと、緋勇は首を縦に振らない。でもと言い募る彼女に、己の能力の特異性について言い聞かせようとする緋勇は、起き上がろうとする壬生に気付いて美里を背後へ追いやった。


壬生は軽く頭を振り、今見た夢について考えた。あの光景は知らない。深い木々の中に、澄んだ空気の修練場のような空間で。

小柄な少年は、鬼道衆の拳士。
『ま、あいつらはあれで楽しんでいるのだから』と、どこか羨ましそうに笑った僧形の青年も、『だが、村人は本気で怖がっていたぞ』と、疲れた様子で溜息を吐いた赤髪の青年も、先程会ったばかり。
なのに、自分はくだけた表情で、全く困った奴らだと頷いていた。

少年と、目の前に居る青年に対して。

闘いの最中に浮かべていた不敵な笑みは、夢で見た彼そのもの。今の、面を被ったかのような無表情は、己の年齢を知らないと答えた際の表情を喪失した彼に似ていた。

「何故……」

お前は何故そこにと、喉元まで出掛かった問いを、壬生は飲み込んだ。
あの表情が普段のものだと知ってしまえば、今の彼の無表情は、痛切にしか見えなかった。表情が無いのではない。表情を――感情を、殺しているのだ。

「今日―――、新撰組に囲まれた浪士を救けたな」

問いたいのはそんなことではなかった。だが聞けなかった。

自分でも事態がよく理解できないから。
緋勇は鬼道衆の間者なのかもしれないから。

理屈はいくらでも挙げられた。
だが、本音は一つ。

――苦しめたくなかった。事情は知らず、それでも彼が現在、歯を食いしばっていることは分かってしまったがゆえに。

「何故だ? 反幕の浪士の命など、お前たちにとっては、どうでも良い筈だ。何故、間に入った? 己の力を誇示したいが為か?」

誤魔化す為の問いとはいえ、それもまた、疑問に思ったことのひとつ。彼ら幕府の人間が、何故浪士を助けたのか。

「そんなやる気は有してない」

ご冗談をとばかりに、微かな笑みすら浮かべて首を振る緋勇に、壬生の表情は険しくなる。

「違うというのか? だが、一歩間違えば、お前たちも、幕府から追われる立場になっていた。それでも、お前は、あの男を救ったというのか?」

だろうな――と緋勇は頷く。
納得する様子の無い壬生に肩を竦めて見せ、視線をある人物の方へと向ける。

「俺にとってはどうでもいい話であったが、桜井が望んだからだ。ほれ考えを言ってみろ」
「え、ボクそんな」

不意に話を振られ、戸惑う桜井に、存外穏やかな口調で続ける。助け舟を出すかのように。

「無理に纏めんでいい。思ったことをそのまま言え」

かなり悩んだ様子を見せてから、彼女は、ぽつぽつと語りだした。

「困っている人がいて、その人が善い人か悪い人か判断してから救ける人なんていないだろ? 悪い人なら、殺されてもいいなんて、間違ってるよ。そんな事を考えていたら、人なんて護れないんじゃないの?」

口に出すうちに考えがまとまったのか、桜井は顔を上げ、はっきりと宣言する。

だから、これからも、ボクは迷わない――と。

「皆が仲良く暮らせる時代を創るために精一杯やれる事をやろう―――って、そう、龍閃組に入った時に決めたから」

「なるほど……それが、お前たちの信念という訳か」

覚悟を決めた表情で、彼は静かに笑みを浮かべる。

「止めを刺すがいい。最後に、お前たちのような者と闘えて良かった」

ふざけるなというのが、緋勇の心。

何の為に、こんな苦労をしているのかと。
お前らただのひとりとて、欠かしてなるものかと。
だいたいお前なら、隙を突けば、その位置からならば逃れられるのだから、さっさとやれと。

壬生にとっては理不尽な怒りを抱く。尤も発露の先は、壬生ではなかったが。

「ふんッ、格好をつけおって。馬鹿な奴よ。斬れッ。この者を斬り捨ていッ!! 逆賊風情に語る言葉などないわッ。早く、斬れいッ!!」

折悪しく、業火に景気良くじゃんじゃんと油を注ぐ者が居た。
愚かな男は気付かない。僧侶と剣士と拳士の目が『黙れ』と言っていることに。

「何をしておるのだッ!!」

きっと皆が同じ行動に出たであろう。
実際に行ったのは、最も近くにいた、最も素早く、最も苛立っていた者であったが。

「早く、斬らぬかッ。おいッ!! うおッ!!」

腕の動きなど碌に見えなかった。
それほどに躊躇いの無い一閃は、容易に松平の意識を奪った。苦痛は残り、痕は残らない。徒手格闘の達人だからこそ可能な、完璧な一撃。

おそらく前後の記憶すら危うくなるであろうに。

「やるねェ、まァ、お前がやんなきゃ、俺がやってたけどな」

うんうん唸るだけになった松平を見下ろし、蓬莱寺も笑う。

「何のことだか。突然空から石が飛んできて、不幸なことに松平殿に当たってしまっただけだろう?」
「へへッ、よく言うぜ」

いけしゃあしゃあと、涼やかですらある表情で、緋勇は肩を竦める。

「お前ら、容保にそんな事をしてただで済むと思っているのか?」

仕方ないと、呆れながらも笑む龍閃組と違い、呆気に取られた様子で壬生が呟く。

「何とかなんじゃねェの? いったろ? 俺たちは俺たちの信ずる道を行く―――ってよ」
「蓬莱寺。それを話したのは、ここに倒れている松平殿にだろ」

不敵な面構えで肩を竦める蓬莱寺に、雄慶が即座に突っ込む。
だが、その顔にも笑みが浮かんでいた。

「ふッ。つくづく変わった連中だ」

呆れが笑みに変わる。
そのしみじみとした呟きに同意したのは、闇からの声。

「本当だよねえ。何で徳川が、こんな連中雇ったのか理解に苦しむよ」

幾度か聞いたその妖艶な声に、緩んでいた蓬莱寺の表情が引き締まる。

「まあ、面白い事がわかったんで良しとするさ」

本当は積み荷を狙っていたのだけどと、悪びれる様子もなく答えた彼女は、色々と含んだ表情で、独り言のように結んだ。

「面白い事?」

訝しがる雄慶には応じず、彼女は視線を壬生へと向け、告げる。

一旦退けと。
あんたはこんな場所で死ぬ男じゃないだろうと。

「俺が負けたのは、偶然ではない。全ては、運命の導くままだ」
「それなら尚更さ。あんたの命はまだ燃え尽きていない筈だろ? 男ってのはね、何事も、そう簡単に諦めるもんじゃないよ」

渋く暗く答えた壬生に、その背を叩かんばかりの勢いで、桔梗は命じる。
死に美学を求めてしまう男と、あくまで現実的な女の違いだなと、緋勇はもはや暢気に眺めていた。

壬生は助かるだろうから。
あの時も、桔梗が壬生を連れてきてくれたのだから。

壬生の迷っていた瞳が、確かに意思を持つ。それを確認した桔梗は符を取り出し一言気合を発した。

「はッ!!」

生じたのは白い煙。
単なる煙玉などではなく、妖術の類らしく、視覚だけを惑わすものではなかった。蓬莱寺や雄慶にも、気配を掴ませない。

「ゴホッ、ゴホッ!! 待ちやがれッ!!」

見当違いの方向を涙の滲んだ眼で睨みつける蓬莱寺に、桔梗は悪戯っぽく笑い、手を振った。

「ふふふッ、じゃあね」

踵を返しかけたその身体は、次の瞬間止まった。

「ああ、そうだ。姐さん、壬生、頼みがあるんだが」

彼はただひとり、白くけぶる視界に狼狽することもなく。
逃亡する敵に対し、本当にただ頼む用件を思い出しただけといった風に、気さくに話し掛ける。

緋勇の視線が確かに自分たちを向いていると知り、桔梗は緊張に身体を固くする。だが、彼には追撃する意思は、存在しないようで、穏やかなまま言を継ぐ。

「京から戻ったあたりに、弥勒が倒れる。何人かが京に居たんで、ひとり小屋に篭り、飲まず食わず寝ずで、面を彫っていたらしくてな、鑿を持ったまま昏睡しかけていた。戻ったら、気遣ってやってほしい」

彼がこまめに小屋を訪れるようになる契機。それまでも、料理が上手いということもあり、弥勒のことは気に掛け、訪ねていたのだが、流石に倒れるまで彫りつづける職人馬鹿だとは考えていなかった。

「馬鹿……職人馬鹿だね」

なるほど、あの職人馬鹿なら有り得る。状況が鮮明に想像が出来て、桔梗は頭を抑えた。

「ああ、馬鹿職人だろう。だが、頼む」

うんうんと、妙に実感を込めながら、緋勇が頷く。職人馬鹿と馬鹿職人。順序を逆にするだけで、なんだか酷いなと、桔梗は何処かずれた感想を持った。

「で……なんで、あんたが知っているんだい。あいつが加わったのは最近の話。それに闘いの場には出ていないってのに」

弥勒の行動に納得がいくのと、緋勇がそれを知っているのは、また別の話。不思議な力を有していても、彼は闘いの場には出ていない。――あの哀しい遊女が殺された場を除いては。

「気にするな、千里眼だ。で、壬生の方は、陰気寡黙同士で気が合うと思うから、たまには小屋を覗くようにしてやってくれ。あいつは放って置くと、本当にいつまでも面を彫っているから」

急に話を振られた壬生は、戸惑いつつも、少々気分を害したのか、更にむすっとしながら首を傾げる。

「陰気……なのか、俺は」
「なんだ、自覚がないのか? まあ、己の暗具合は、これから馬鹿のように陽気な天狗に会うからわかるだろう」

自覚していなかったことこそが意外だと言外に告げながら、緋勇は小さく笑う。
やがて悪戯っぽい笑みを消して、彼は呟いた。

「――鬼道衆の皆によろしくな」


桔梗は小さく息を呑んだ。

普通に考えれば、それはただの皮肉。
なのに、どうしてこの男は――――龍閃組の腕利きの拳士は、こんなにも優しく微笑んでいるのだろうか。

「伝えとくよ」

気付けば、桔梗は素直に、こくんと頷いていた。
伝えておこうと思った。
龍閃組と既に会った者にも、会っていない者にも。緋勇龍斗という男が、優しく笑っていたと。

壬生は思う。
やはり彼を知っている。今日初めて会った敵だというのに、彼の笑顔を知っている。


壬生の無事な様子を見て、安堵した鬼たちは、紛れもなく先程の夢のような幻視に存在していた者たちであった。途端に溢れた奇妙な懐かしさに、壬生は胸を衝かれた気がした。

そんな痛みを知る由もない頭目は、屈託無く問う。

「どうだ、壬生? 俺たちと共に、江戸に来る気はないか? お前の《力》が加われば、この時代を動かす日も近くなろう」

襲撃は失敗と同義であったのに。咎めることなく、口を封じようともせずに。
甘いと危惧しつつも、それもまた指導者の資質かもしれないと、好ましく思っていた――気がする。今よりも昔に。

「時代を動かすか―――何やおもろそうな話しとるやんか」

突然割り込んできた男を見て、壬生は眉を顰めた。別に彼が気に食わない訳ではない。ただ、緋勇の言葉を思い出したからだ。見れば桔梗も同じ表情をしていた。

何やその反応は――と気分を害した様子の男に、お前に対してではないと、首を振る。続いて桔梗が補足する。
馬鹿のように陽気な天狗と会うことを、緋勇が予見していたのだと。
その事実を訝しみながらも、隻眼の男の申し出に対して快諾した頭目は、ではお前はどうするつもりだ――と壬生へ視線を向けた。

「答える前に一つ聞かせてもらいたい」

真剣な表情で壬生は問う。今感じている違和感や喪失感が理解できず。立っている大地すら、不確かな気がして。

「緋勇龍斗というのは――お前たちが潜ませた間者なのか?」

ならば良いのだがと、苦々しく首を振ったのは僧形の男。
あれだけこちらの内情を知る、敵組織の人間の正体を、彼らは知らないのだと。

「お前もそいつに既視感を覚えたのか?」

赤髪の青年の言葉に、壬生は語った。先刻見た、白昼夢の内容を。

「その景色は――夜氏之杜だな」
「緋勇は――名乗る前から我が名を知っていました」

唸った頭目に、困惑した様子の側近が報告する。
漆黒の忍びも首を捻っていた。己と妹と里の間で起こった事情を緋勇は知っていたと。神父は悩んでいた。誰かに語った説教を、緋勇が口にしたことを。


黙って聞いていた天狗が不意に口を開く。

「龍閃組っちゅうのは、別嬪の姉さんと可愛い嬢ちゃんとでかい坊さんと短気な剣士と――綺麗な面した冷たい兄ちゃんのことか?」

首肯し、お前もかと問う鬼たちに、彼は頷き返した。

夢だと思う。
《打ち壊し》の話題で持ちきりの時に、話した。

こういう時は、笑おうやないか――と。
笑う門にはなんとやら。笑っていた方が良い事も寄って来やすいから笑おうと言ったら、相手は笑うのは苦手だと戸惑った表情で答えた。

なにを言っているのかと思った。
どういう生き方して来たんや――と。全く、難儀なやっちゃなあ――と。

『おなかに力いれて―――、こうや!! わはははははッ!!
わかったかあ? 村に帰ったらまた練習しいや。わいがいつでも付き合うてやるさかいになッ』

コツいうのんを教えてやると笑いながら、肩をバンバンと叩くと、照れたような笑みにまでは至らぬ表情で、彼は頷いた。どこか嬉しそうに、不器用な様子で。

それは確かに、あの表情を凍結させたような青年と、同じ顔立ちだった。

「今度は双羅山か。だが、我らがここでいくら悩もうと答は出まい」

無理に結論付けたのは頭目。もう一度壬生に問い、是との返答を得た彼は宣言する。
江戸に戻ろうと。目的を見つけたのだから、忙しくなると。


「ん? どうした、龍斗?」

今まさに出港しようとする船から、堺の町を見つめる緋勇の背に、雄慶は問い掛けた。風も強く、快適な状況とは言い難い中で、身じろぎもせずに立ち尽くす彼の様子が不思議であったから。

「なんとなく――この光景を覚えておこうと思ってな」

抑揚無く呟く声は、静かで。
その背が無性に儚く思えた雄慶は、数歩踏み出し、緋勇の隣に並んだ。

「壬生のことを考えていたのか?」
「まあ色々だな――――なッ!?」

どこかぼんやりと出航を見送る群衆を眺めていた緋勇が、不意に目を見開いて、硬直する。

「て……ッ!!」
「お、おい、龍斗!! 飛び降りる気か!?」

身を乗り出して叫ぼうとする緋勇の肩を、雄慶は咄嗟に掴む。

「離せッ!!」

凄まじい眼光で振り向いた緋勇に、雄慶の身体が竦んだ。まるで絶対の命を下されたかのように、身体そのものが動かない。

「すまない」

恥じたように視線を下げられ、やっと自由が戻る。

「どうしたんだ……一体」
「騒がしくてすまん。……知人がいたような気がしてな」

緋勇と同じように視線を群集に向けたところで、かなりの速度で港を離れる船上からでは、最早個人の識別など不可能であった。ただ、鮮やかな赤の髪の人物がいたような気がした。

「た、龍斗?」
「ああ、目にごみが入ったようだ。潮風が強いな」

目を片手で覆いながら、くぐもった声で応じる緋勇は、泣いているように見えて、雄慶は酷く戸惑った。そのうろたえる様が可笑しいのか、やがて緋勇は顔を伏せたまま、くっくと声を押し殺しながらも笑い出す。

「む……、なにが可笑しいというのだ」
「それはお前、こんな大男に困った顔で、おろおろされてもな」

振り返った緋勇の目には、涙の跡は見られなかった。それと同時に、雄慶はしばし見惚れた。
相変わらず意地悪く――笑う緋勇に。

「いや、本当にすまぬ。無事だとは思っていたんだが、実際に目にして安心できた」

よく意味の通らない言葉に首を捻る雄慶の背を叩きながら、緋勇は船内へと向かう。
今見たふたりを思い出しながら。

龍閃組と、まみえていないふたり――ということは偵察のつもりなのであろう。天戒と風祭のふたりでは、目立つことこの上ないというのに。

先を行く雄慶を確認した上で、緋勇は振り返り、口の中だけで呟いた。


また――そのうちにな

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