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― 東京魔人学園外法帖 第七章 ――

例の物は?
積み荷は、ここに。表向きはただの樽ですが――――
底が二重になっておりまして、中は、この通り。

くっくっくっ、お主も悪よのォ。
いえいえ、お奉行様こそ。

あーはっはっはっはっ。
ひーひっひっひっひっ。ん……? なッ、何だ、この口笛はッ!?

堪えられないとばかりに哄笑していたふたりの男たちが、辺りを見回す。
うろたえる彼らを嘲笑うかのように、堂々とした声が応じる。


天の裁きは待ってはおれぬ――――、
この世の正義も当てにはならぬ――――。
町から町に泣く人の――――、涙背負って、影に舞う。
欲に潜みし浮世の悪を――――、闇に裁いて仕置きする。

なッ、何者だッ!!

誰何に応じた者がいた。


ふんッ。やかましいッ!!
市民の金を着服しやがって、勘定奉行が聞いて呆れるぜッ!!
その金は、俺たち大宇宙党が貰い受けるッ!!

紅い忍び装束という、忍び装束の定義の根本から間違っている人物が現れ、威勢良く宣言する。

おおぞらとう……だと?
おうよッ!! てめェらの様な腐った悪を天に代わって成敗してくれるッ!!

ふん。馬鹿め。最近は、鬼道衆だ何だと物騒だからな。何の用意もせずにいたと思うか?
早く、あいつらを斬り捨てろッ!!
くっくっくっ、この盗人が。返り討ちにしてくれるわ。



こいつは、ラッキーだぜ。獲物に困らなくて済む。
久々に、大暴れできるわね。

唯一まともと言える黒の装束を纏った男と、やはり間違っている桃色の忍び装束の女が笑いながら現れる。彼らを両脇に従え、元よりいた紅の男が叫ぶ。

大宇宙党は、狙った獲物は逃がさねェ。覚悟すんだな、悪党どもッ!!


「というような事件が、先日起きたようです」

真面目な顔で結論付けた涼浬に、緋勇は眉を顰めて首を振った。

「涼浬……真顔で嘘はいかん。奈涸が草葉の陰から泣いているぞ」
「兄は生きております。それに……確かな筋からの情報です」

不吉なことをと、睨む少女の頭を撫でながら、緋勇は笑う。

「嘘をつけ。どこの世界にそんな馬鹿が」

呆れと苦笑とを等分して面にのせていた緋勇は硬直する。
涼浬もまた同様。

彼らの鋭敏な感覚が察知したのは喧騒。しかも闘いに近い激しさの中で、堂々と名乗りを挙げている者たちが居た。

「欲に潜みし浮世の悪を、闇に裁いて仕置きする―――義賊・大宇宙党!!!」

後に響いたのは歓声。どうやら噂の義賊の、金のばら撒き場に遭遇したらしい。

「忍び装束というのは……忍ぶ為のもの……ですよね?」

消え入りそうな声で、首を傾げた涼浬に、緋勇は俺の記憶が確かならばそのはずだと同意する。
彼らが自信なさげなのも、仕方のないこと。
忍びとは忍ぶ者だよなと、そもそもの定義について思いを馳せる緋勇がおかしくないほどに、全く忍んでいない忍び装束を纏ったものたちが、大見得を切っていた。


とうッ!!


気合と共に去っていった彼らの背を眺める涼浬と緋勇の間に、気まずいほどの沈黙が降臨する。先に破ったのは、先刻まで欠片も信じていなかった緋勇の方であった。

「……すまなかった。土下座すべきか?」
「いえ……あそこまでとは。私も流石に驚きました。信じていただけてなによりです」

あれならば信じられずとも仕方なかったと。
小さく続けた涼浬に、緋勇は全くだと頷いた。

何だろうあれは――というのが素直な感想であった。
酔狂で行うには、義賊というのは危険極まりない立場。民衆に称えられ、幕府の威信を傷付ける彼らは、ただの犯罪者より余程厳しく追われる。なのに、この脳天気な態度。

首を捻る緋勇と忍びの本懐について想いを馳せる涼浬。
歩みながらも、なんとなく口数が少なくなっていた彼らは、響いた威勢の良い声に、同時に顔を上げた。

「鬼だ怨霊だと、転がってるのは暗い話ばかりじゃァない。夏の名物、蓮見、虫聴き、蛍狩り。忘れちゃいけない両国花火」

あれは、綺傳讀賣の杏花殿――でしたか。

呟く涼浬の言葉通りに、既に人だかりのできた中で瓦版を売るのは、見慣れた女。

「その両国界隈に現れた一陣の影。陽炎か、はたまたか幻か。義賊・大宇宙党の活躍が書かれたこの杏花姉さんの瓦版―――、今なら、一部たったの二十文ときた。さァさ、買わなきゃ損だよッ!!」

情報の早い彼女による瓦版は、相変わらずの人気のようで、飛ぶように売れていた。

こちらに気付き笑いかける彼女に、緋勇は一部くれと金を手渡す。

「毎度ありッ!! それにしても、こんな処で何やってんの? ひょっとして、何か面白い事件の情報でもつかんでたりして……」

きらきらと輝く目で、鎌を掛ける彼女に対し、涼浬は素っ気無く首を横に振る。

「事件とはまた物騒ですね。私と龍斗殿はこれから骨董品店の方へ向かおうとしていたところです」
「本当にー?」

疑わしそうに、じとーっと睨む遠野をなんだか哀れに思った緋勇は、知っている『事件』のことを話してやった。

「まあ、ちょっとした事件ならつい先刻に遭遇したがな。例の義賊が金を撒いていたぞ」

途端に、いいないいなと騒ぎ出した彼女に、緋勇は苦笑を漏らす。
随分と興味があるのだなと尋ねれば、遠野は当然だと頷いた。

弱きを助け、強きを挫く。いわば、慶応の鼠小僧次郎吉には、江戸中が注目しているのだと、熱く語る。

「風の様に現れ、風の様に去って行く。その素性も行方も、誰も知らないの。一体、正体は誰なのか……。知りたいと思うでしょ?」

半ば断定じみた質問に、緋勇と涼浬は、揃って首を傾げた。
風というか、むしろ暴風だよなという認識がある。

「珍しい性格してるわね。知りたいと思うのは、自然な事でしょ?」
「いや……なんだか厄介そうでもあるしなあ」

幕府に賞金を懸けらているお尋ね者。確かに厄介だけれどね――と笑った彼女は、荷を片付けだした。

「ま、いいわ。じゃ、あたしは残りの版を長屋にとりに行かなくちゃならないから」

それこそ風の様に去って行く姿を見送った涼浬が、ふと思い出したかのように傍らの男を見上げる。

「そういえば―――、先ほど龍泉寺へ伺った際に、他の皆さんとお会いしました」

両国に出たという送り提灯とやらの怪異を調べるらしいですよと語る涼浬に、緋勇は、そうなのか――と首を傾げた。

「……三日後の大川の川開きには、どうやら将軍、家茂様がいらっしゃるという噂が飛び交っています。それらの関連の任務へ向かうところだったのではなかったのですか?」

段々と、眼差しがきつくなる少女相手に、緋勇は肩を竦める。

「全く知らず、なんとなく出歩いていただけなのだが。……まずかったか」
「すぐに龍泉寺へ戻った方が……おや―――」

途中で言葉を切った涼浬に、緋勇も気付いた。

「あッ……、緋勇さん。涼浬さんと一緒だったのね」
「もー、どこ行ってたの? みんなで捜しちゃったよ」

向こうも同時に気付く。
どうやら見当たらぬ緋勇を捜していたようであった。

「たまたま向こうでお会いしたんですよ」

言い訳じみた言葉に聞こえてしまう。
どうも美里と桜井は、緋勇と涼浬の仲を邪推しているらしく、涼浬が困った様子で説明している姿を幾度か見かけたことがあった。

「皆さんが両国へ出発される前に合流できてよかったですね」
「……まあな」

緋勇は溜息を飲み込んでから応じた。大切ではあるが妹に近いのだと抗弁しても、無駄であろうし、面倒でもあった。

「くれぐれも、お気をつけて。私の助けが必要ならすぐにでも駆けつけましょう」
「ああ。任せた」

緋勇は、いや彼らは気付いていなかった。
常に一線引いたような緋勇が、戦闘中ならまだしも、普段よりさらりと、頼むだの任せるだの口にする相手は涼浬だけなのである。

ゆえに、皆が勘ぐるのだ。

「さて、これでようやく全員揃ったことだしさっそく両国へ出かけるとするか」
「そうだな。行こうぜ、緋勇ッ」


「一対三ってのは、卑怯じゃねェか? 闘んなら、正々堂々と闘れよ」
「なッ、何だてめェは!?」

なんでこうなっているのだか。

緋勇は目を細め、嘆息した。
両国に着き、ふと気付けば、いつしか蓬莱寺が喧嘩を売っていた。尤も蓬莱寺の行動が間違っているとはいえない。少年一人が職人風の若者たちに囲まれ、暴力を振るわれつつあるところだったのだから。

「義賊・大宇宙党だッ」

にやりと笑い宣言する蓬莱寺を、その系統の騒ぎが好きなのだなと半ば感心しつつ眺めていた緋勇は、訝しげに少年を見つめた。
素直に驚いた若者たちの反応ならば理解できる。
だが、眼鏡に隠され表情の見えにくい少年の顔に浮かんだのは――微かな、だが、まぎれもない自嘲の色であった。

喧嘩は、雄慶の静かな恫喝によって収まった。
弁天堂という店の花火職人だという少年は、頭を下げつつも、事情は話せないと詫びた。

「関係ない皆さんを、これ以上巻き込む訳にはいきませんから」

彼らに刃向えない、弱い自分が悪いんですと、卑屈ですらある言葉を口にして、武流と名乗った少年は、最後まで頭を下げながら去っていった。

勝手の分からない自分たちが口を挟んだりして迷惑だったのかと、ひとしきり反省した後、桜井が表情を常に戻した。

「ところでさ、これからどうするの? ボク、お腹空いちゃったな」

本当に『ところで』な話題の転換ぶりだなと感心しつつ、緋勇は話が流れるのを黙って聞いていた。どうせ蓬莱寺と美里あたりで、決定するだろうと、その辺を眺めているうちに、先に昼ご飯に行くという結論に至った。

「広小路か……。んじゃどっかいい按配の―――」
「あ、蕎麦屋は却下だからねッ」

ぎゃいぎゃいと始まった漫才は、面白い方向へと転がった。

蕎麦が食いたくないとは罰当たりだと、蓬莱寺が拳を握り、力説する。

「考えても見ろよ。米の値段が馬鹿高くなってやがるこの江戸で、幾万人が蕎麦のおかげで飢え死にを免れてると思ってんだ。仏のくれた食いモンだぜ、ありゃあ」

目が輝いていた。
美里が満面の微笑みで、優しく見守っていた。おそらく気の毒な人だと思っているのであろう。

「……新説だな」
「……それが正しければ、僧が蕎麦しか食わなくなっても不思議はないがな」

呆れた様子で呟く緋勇と雄慶とは異なり、小鈴は素直に困惑した様子で応じる。

「そ、そりゃボクだって、お蕎麦が嫌いって訳じゃないけどさ」

仕方なしに蕎麦屋に決まりかけはしたが、結局、昼食をとることはなかった。
連続で騒動に襲われたがゆえに。

まず猫のような少女の喧騒に巻き込まれた。どうやら盗人らしい少女と追いかけてきた店主らしき男の遭遇は回避されたものの、騒がしさが他の男を招いた。

「ジャスタモ・メント、そこの坊さん。ちょいとあんたに訊きたい事があるんだが、いいかな?」

十郎太の質問自体は、別段何の問題もなかったが、彼の持っていた情報は貴重であった。飛脚の見聞の広さは伊達ではないということか、彼は王子で起きた送り提灯の事件を、相当詳しく知っていた。
一刻も早く――そう、昼食もとらずに王子へ向かうべきだという結論に達するほどに貴重であった。


「あッ―――。あそこにいるのって」
「おう、あん時の兄妹じゃねェか」

王子に着くや否や叫んだ小鈴に、蓬莱寺も頷いた。彼らの視線の先には、例の事件にて知った鍛冶屋の幼き子らが居た。

王子では、送り提灯はかなり頻発しているらしく、まだ幼き彼らであっても、事件の概要を知っていた。

酒屋の娘が出くわしたという話を、少年は平然と語った。

明かりを夜中に見かけたが、夢だと思い再び寝る。翌朝どうも気になってその場に行ってみれば、少し前に送り提灯に攫われたと騒ぎになった娘が倒れていたのだという。

「え〜っと。話がこんがらがってない? 送り提灯は人を攫うんじゃなかったっけ?」
「攫うだけじゃないっていっただろ? 送り提灯に攫われた人で、帰ってこなかった姉ちゃんは、今までひとりもいないって話だよ」

攫うだけではなく、数日の後に、娘たちは戻されるのだという。
怪我も乱暴の跡もなく、ただその間の記憶だけは消えているのだと。

まめなことだと、桔梗辺りの労苦に緋勇が想いを馳せている間に、雄慶と蓬莱寺は、『作為を感じる』という結論に達した。

「攫った女を帰すのは―――、それが捜している目的の者ではなかったから……か?」

まさにその通りと知る緋勇は、蓬莱寺の言葉に曖昧に頷いておいた。そもそもよく考えてみれば既に事件は解決しているのではなかったか。

送り提灯の糸を引く者――鬼道衆。彼らは、目的の者である菩薩眼の娘――美里藍を既に掌中に収め、その上で送り返したのだから。

同時期に鬼道衆の間で起きた事件の詳細を思い出そうと、熟考に入りかけた緋勇は、本日何度目かの大声に顔を上げた。

「何だとォ、このアマッ!! こっちが下手に出てりゃ、いい気になりやがってッ」

若い職人風の男の間で、人を襲うのが流行っているのだろうかと、間抜けた考えさえ浮かんだ。
此度は対象は少女であったが、またもや職人風の男ふたりが絡んでいた。
尤も少女は先の少年とは違いかなり気丈らしく、若者たちをやり込めつつあった。

「放しなさいっていってるでしょ!」

振り払った肘は、若者の鼻に決まった。

「ぐおッ!? は、鼻がァッ―――!!」
「こうなったら、ふん縛っちまうぞッ。おいッ、猿ぐつわに、縄ッ」

ねェよォと鼻を抑えながら情けなく応じる男に、拉致に来て縛る道具も持たぬとは感心しないなと、緋勇は論点が違うところで首を振った。

「なけりゃ、てめェの帯でも褌でも出しやがれってんだッ」
「ふ、褌!? いやッ、それだけは嫌ァァッ!! あッ、そ、そこのッ、そこの人ッ!! 助けてェェ!!」

本当に褌が嫌なのだろうなあと察せられるほどの必死の形相に、蓬莱寺が頷いて見せた。

「確かにあんな褌なんかで縛られちゃァ、嫁に行けなくなっちまうッ」

猿轡の方が更に嫌だがなと、更にずれていく論点を自覚しつつ、緋勇は肩を竦めた。
自分が入るまでもあるまいとも思う。

「霊験あらたかな関八州稲荷の総元締めの御前で、人攫いとは聞き捨てならぬッ」

助けに入った雄慶の図体に、息を呑んだ若者たちであったが、まだ懸命に威勢を張ってはいた。

この野郎も畳んじまえッという台詞に、緋勇は小さく吹き出してしまった。呑気すぎるかもしれないとも少々考えたが、矢張り若者たちの攻撃など、雄慶に通じるはずもなかった。

「ははは、何だ、その気の抜けた拳は。それでは木魚を鳴らす事も満足にできんぞ」

実際に痛くないらしく、避けもせずに哄笑する。
覚えてろという基本的な捨て台詞を残して、彼らは逃げていった。

ありがちな台詞の後に、付け加えられた最後の一言に、皆が反応した。彼らは、弁天堂と口にして少女を睨んでいった。

「そういえば武流くんのお店も、弁天堂という名前じゃなかったかしら」

今度は少女が武流という名に反応した。彼女は弁天堂の娘だという。

「あたしだけじゃなくてうちの職人まで助けられたとあっちゃ、これはあたしが頭を下げたくらいじゃ礼に欠けるってモンね。弁天堂に寄ってって頂戴よ。ね?」

神主に話を聞くという本来の目的を話すと、それは残念と、美弥と名乗った少女が首を振った。

「神主さんなら、さっき出かけられたばっかりよ。あたし、見たもの。恐らく明日までは帰ってこないんじゃない?」


誘われ、訪れた先で見たものは、少年の苦悩。
弟子と娘を助けてくれたお礼だという酒の席で、次々と注がれる酒を飲み干しながら、緋勇は先程の光景を思い出す。

ちらりとしか見えなかったが、武流が燃やしていたのは、矢鱈と派手な赤の布。縁が呼ぶのだろうか。

地理など殆ど把握していなかったが、九桐の趣味で龍閃組と戦闘になったのは、確かにこの辺り。その場には、美里以外の龍閃組と、加えて三色の忍び装束が居たはず。

だが、今はどうなるのだろうなと、半ば他人事のように、緋勇は首を傾げる。

卑屈なところのある武流だからこそ、おそらく大宇宙党となったときに『ああ』なる。そしてまた、その反動にて、武流に戻った時に落ち込んでいるのであろう。衣装まで燃やしてしまった今、続ける意思はあるのだろうか。

蓬莱寺が大宇宙党と口にしたときの暗い自嘲。
何が義賊だ、何が英雄だと吐き捨てながら燃やしていた衣装。
何もかも弱い自分が悪いのだと、殴られながらも卑下する心。

限界に近い――というより、燃やした時点で、既に超えている。

これから僅か後に、彼らが龍閃組と共に居たことから考えるに、何らかの劇的な契機でもあるのだろうか。

短期間で仲間となるからには、面子皆が、おそらく知人なのだろう。
黒影は、鉄板で十郎太であろう。他にああも異人の言葉を使いたがる人間を知らない。桃影は――信じ難いが、残された顔ぶれからすると、花音なのだろう。彼女も武流と同類だったのかと、豹変っぷりに、少々頭が痛んだ。


「美里――どうかしたか?」

気付けばかなりの時間が経過し、宴特有の騒がしさは、収まっていた。
その中で、周囲の酔い潰れた連中を心配そうに回る美里の姿に、緋勇は声を掛けた。

「酔っている人のためにお水を運んであげなくちゃと思って」

自身も少量とはいえ口にした為、酔っているようで、なおかつ鬼道衆の拉致から戻った直後に、王子まで出歩き、半端でなく疲労しているであろうに、この言動。
緋勇は苦笑しながら、立ち上がった。

「お前自身、あまり体調が良くはないのだろう。俺が行ってくる」
「え……、でも、ひとりじゃ」

口ごもる美里に、ゆっくりと首を振った。
蓬莱寺は酔い潰れている。雄慶は花火師たちと話し込んでいるのだし、桜井は――美里を気遣う人間が必要であろう。

「雄慶はどうやら話に興が乗っているようだし、桜井は食事に興が乗ってるだろう?」

桜井も美里の体調不良を察していたのだろう。
小声にて美里を頼むと告げた緋勇に、任せてと頷いたあとに、冗談めかして続ける。

「あはは、その通り。もうちょっと料理をご馳走になってるよ」


納得したのか腰を下ろした美里の、僅かに青い顔色に、出張って正解だったなと、小さく頷いて緋勇は座敷を後にした。
問題は、彼が方向音痴という才能を有していることだろうか。

幼き頃は、移動できる場所などなかった。方々を旅する間は、目的地というものが存在していなかった為に、『迷う』はずがなかった。

ゆえに、鬼たちの村に着いてから自覚した、数少ない――性格を除けばの話――欠点のひとつ。

元来た場所へ戻るという技能が乏しい。
角を曲がれば、左右を失う。

矢張り才能がないのだなと、人影を見つけた緋勇は思い知った。

「う〜ん……、やっぱりこの配列だと星が綺麗に散らないから、これはこーして」

武流が試行錯誤している姿を眺め、ここはやはり工房なのだろうなと、小さく溜息を吐いた。
邪魔をするのは心苦しいが、このままではいつまでも井戸に着けないだろう。

「武流、すまないのだが」
「緋勇さんッ!? ど、どうして、こんなとこに!?」

びょいんと飛び退いた凄まじい慌て様に、流石に良心が咎め緋勇は頭を下げた。

「邪魔してすまない。井戸に向かっていたのだが迷った。一向に辿り着かん」
「……逆方向ですよ」

結構な年上らしい、端正な顔立ちの落ち着いた青年の答えに、武流はしばし沈黙した。
あっさりとした答えから察するに、方向感覚が危ういという自覚を彼は有しているのであろう。

「気にするな、迷うのはいつものことだ。随分と割火薬が散らばっているのだな。花火を作っていたのか?」

存外に詳しい緋勇に対し、いつしか武流は色々と語りだしていた。飽きた素振りも不思議そうな顔もしない彼に、花火についてかなり詳しくまくし立てる。

「おいらには……その、夢があるんです。確かに、今の花火は綺麗ですけど、どれも、同じようなものばかりです」

普通の花火は、硝石・硫黄・木炭などの黒色火薬を原料とする為、赤い色だけになってしまう。だからこそ、彼は夢見るのだという。

「いろんな色の花火が上がったら、どんなに綺麗だろう―――って。青や緑や、色とりどりの花が夜空に咲いたら、すごいと思いませんか?」

なんだ――と緋勇は思った。
これならば大丈夫だと。武流は鬱屈しているのではない。ただ単に少々気が弱いだけ。これだけ明瞭に夢を語れ、手段と道を持っている彼ならば、心配など不要。大宇宙党に関する逡巡も、己で決着をつけるだろう。

「綺麗だろうな。笑われようとも、諦めなければ――可能性はあるのだろう?」
「え、ええ!! ありがとうございますッ。おいら、一生懸命頑張りますッ」

宣言を聞いたのか、美弥が現れる。
父が――弁天堂の親方が呼んでいたと聞いて、武流は硬直した。

「あ、あのッ、緋勇さん、お願いです。おいらと、一緒に来てくれませんか?」

縋るような目に負けて、緋勇は武流の後を歩いていった。
酔っ払い連中は平気なのかと、心の片隅で気には掛けていたのだが、そもそも単身で井戸へ着き、更に座敷へ戻るなどという離れ業が己に可能とは思えなかった。


今年の花火をお前に任せると告げた親方に、武流は感心するほどに狼狽した。
分不相応、勿体無い、御迷惑をかけると、次々に己を貶める発言を繰り出す武流の顔をじっと見つめた後に、親方は尋ねた。

「武流よ。花火師に必要なものは何だ?」

口篭もりながら、火薬の調合だの、玉の作り方だのを列挙する武流に、緋勇は小さく肩を竦めた。この文脈で求められているものは、精神論だろうにと呆れる彼の内心通りに、親方は首を横に振った。

「一番、大切なのはそれじゃねェ。そいつは、心だ」

作る人間の想いが詰まっている。一年に一度、そいつが、夜空に花を咲かせるのだと、彼は続ける。

「俺ァよ、見てみてェんだ。お前の心が咲かす《花火》をよッ」



本当に武流は恵まれているのだなと、緋勇は先程の杞憂を愚かしく思った。親方は、彼をあんなにも気に掛け、今もまた話を聞いていたという美弥が明るく励ましている。
話声が聞こえてきた――わけがない。心配でたまらず、立ち聞きしていたのだろう。

「この弁天堂がなけりゃ、おいらの人生、つまらないまま終わってました。誰からも必要とされず―――、誰からも見向きもされず―――、だた、道端で野垂れ死んでいくだけのつまらない人生のまま」

道端で座り込んでいた自分を拾ってくれた弁天堂を傷つけるような真似はしたくない。だから自分などで良いのか自身が持てないのだと、ぼそぼそと呟く武流を美弥はじっと見詰めて断言した。

「あたし、信じてるから」
「え……?」

絶句し、まじまじと己の顔を見詰める武流に、美弥の方も恥ずかしくなってきたのだろう。見る見る間に赤面する。

「ごッ、誤解しないでよねッ!! 下手な花火でも上げられたら、弁天堂が潰れかねないでしょッ? だから、頑張んなさいよ―――って事ッ」

慌てた様子で立ち去っていく美弥と、耳まで紅く染まった武流。

これはやってられん――と、緋勇は思った。


「あ、龍斗クンと武流クンだ。みんな帰っちゃったよ?」
「少々迷ってな。水はもう要らんか」

武流の案内の元、水を汲んできたのだが、遅かったらしく、宴はお開きとなっていた。尤も緋勇は道に迷った上に、武流の花火談義を聞き、親方との話にも付き合わされ、挙句、紅に染まった顔が落ち着くまで待たされたのだから仕方のない話である。

「いや、丁度いい。蓬莱寺、水だぞ」

だが、無駄にはならなかったようだ。
具合悪そうに伏せっていた蓬莱寺がのそのそと起き上がる。

「おう、助かるぜェ。あァ、頭痛ェ」

確か己の半分も飲んでいなかったろうに酒に弱いのだなと、緋勇は呆れつつ水を渡した。ちなみに蓬莱寺は決して弱くはない。むしろどちらかといえば強めにあたる。緋勇が底抜けなざるなのである。

「あ、そうそう。武流クンに聞きたい事があってさ」

流石は両国の住人というべきか、桜井の問いに思い当たるものがあったようで、武流は頷いた。

「《送り提灯》―――? あ、あァ、そういえば、十郎太くんがそんな話をしてたような」
「十郎太っていうと、あの飛脚のか? へェ、お前があいつと知り合いとはね」

不思議そうに首を傾げた蓬莱寺に、武流はかなり慌てながら説明になってない説明を口にした。
やはりあいつが黒かと、緋勇の推測は、確信へと変じた。

だが、送り提灯自体については、噂の域をでていなかった。
ゆえに調査を続けなければならないなと、話していた所に、親方が顔を出し、言った。

「おう、そうだった。お前さんたち、新宿なんだってな。今晩はもう遅い。汚ェとこだが、泊まってくがいい」

娘と弟子を助けてもらった礼だと、剛毅に笑う彼に、皆が助かったと安堵した。
流石にこの時刻より、新宿まで戻るのは辛い。

「こんちまたまた〜」

そこに、また新たな闖入者が現れる。
道具箱を担いだ知人――支奴の姿に、雄慶と蓬莱寺が、どんな知り合いなのだと首を捻った。

以前、衣装を―――と素直に言いかけてから止めた武流に、支奴は微かに笑ってから、それらしい理由を口にした。

「弁天堂さんとは、以前から縁がありましてねェ。あちきが実験で使う火薬をこっそり分けてもらってるんですよ」

それもまた真実なのだろうが、あの面白い義賊の演出者か彼だというのなら納得できるなと、緋勇は苦笑した。どこで彼らが鬱屈を抱えていたことを見抜いたのかと、尊敬に近い念すら抱く。

「役人に興味を持たれたら一巻の終わりですからね。この間も、この箱の中に満載したまま土手で転んで……なんてのは、まだ序の口ですが」

明るく笑いながら、彼は親方と共に工房の方へと歩いていく。
緋勇らを客人用の部屋へと案内しながらも、武流の表情は一層翳っていた。工房――支奴の方へ、時折視線を向けながら。


相当の距離を歩き、疲れていた。酒も入っている。だが、それでも眠りは訪れなかった。

「だァッ!! もう我慢ならねェッ」

蓬莱寺が叫ぶ。緋勇も同感であった。
地鳴りの如き雄慶の鼾は、それだけの威力があった。

仕方なしに、散歩に出た緋勇と蓬莱寺は、剣呑な空気を感じ、そちらへと向かった。

「俺たちがここに来た事は、誰にもいうんじゃねェぞッ。いいやがったら―――、分かってるな!?」

花火職人の若者たちが武流を解放し、嘲笑していた。
武流を脅し、火薬を置く場を聞き出した彼らは、もう一度脅した上で、歩き出した。

懲りもせず、弁天堂への襲撃を考えているらしいと知り、連中の後を追おうとした蓬莱寺であったが、着物の裾を掴み引かれる。

行ったのは、震える武流。
何をされるかわかったもんじゃない、放っておいて下さいと、必死の形相で懇願した。

ぎりぎりと眦を上げ、蓬莱寺が押し殺した声で言う。

「武流―――、てめェ弁天堂がどうなってもいいってのかよッ」
「どうなってもいいなんて思っちゃいませんッ。けど、おいらに―――、おいらにどうしろってんです!? おいらに、あいつらと闘えってんですか!?」

蓬莱寺に凄まじい眼で睨まれ、硬直した武流は、懸命に声を振り絞り叫び返した。どうしろというのだと、自分には力などないのだと、己を卑下する彼を、緋勇は静かに見つめた。

「闘わないのか? 拾ってくれた店を、美弥が暮らす弁天堂を、護らなくて良いのか?」

力が有ろうと無かろうと。
恩を感じ、大切に想う弁天堂のことの危機にも、ただ震えているだけなのかと、静かに問う。

「許してください。……おいらは緋勇さんとは違うんですッ!!」

泣きそうな声で、震える拳で、下を向いたままの武流に、蓬莱寺は舌打ちする。

「ちッ、てめェは勝手にしなッ。緋勇ッ、俺は雄慶たちを叩き起こして工房へ直行するッ。お前はこのまま連中の後を追ってくれ。頼んだぞッ」
「承知した。だが、美里は止めてやれ。あれはどうも具合が悪いようだからな」

頷き駆け出した蓬莱寺の背を見送り、緋勇は視線を武流へ戻し、もう一度問う。

「……で、どうする? 答えが出ぬのならば置いていくぞ」
「おいらは……おいらはッ」

何度も何度も。俯いたり顔を上げたり。逡巡しているのは分かるが、いい加減連中を追わなければならないゆえ、置いていくしかないかとの結論を緋勇が出しかけた時であった。

「いつまでそこに突っ立ってるつもりです」

珍しくも真面目な表情で、支奴が立っていた。
もう嫌なのだと、先刻支奴より渡された箱を見つめ、誰とも戦いたくなどないのだと呟く武流に、支奴は大袈裟な溜息を吐いた。

「武流、あんた―――本当の腰抜けになりたいらしいですねェ。あちきは、刀や槍を担いで闘う事だけをいってるんじゃありませんよ。この世にはね、闘いたくても、闘う手段もない人間もいるんですよ」

闘うための手段を持ち、闘う事に迷っている。それは贅沢だと告げる支奴と箱とに、視線を往復させ、武流は震える。
流石に限界と見た緋勇は、歩き出し、言った。

「悩み中悪いが、もう時間が無い。強制も誘いもしない。俺は行くぞ」

弾かれたように武流は顔を上げた。ただ一言来いと言って貰えれば、彼は足を踏み出せた。だが緋勇はそれすら示唆してくれない。自分の意思で決めろと、その背が告げていた。

「行動する事で、見えてくる答えもあるんじゃないですか? 悩んでいるなら、まず行動してみる事です」

支奴の後押しに、武流は決心したのか、連れていってくださいと頭を下げた。


工房に辿り着いた緋勇らは見た。

花火の妨害の為に、他の工房を燃やす。それが目的と見えた若者たちであったが、実際は、もう一段階腐っていた。火を点けるだけでなく、美弥まで人質にして、親方をも脅そうと企んでいた。

蓬莱寺と雄慶とが工房へ到着するも、美弥という切り札を手にした彼らの増長は止まらなかった。
理由などなく、武流を殴りつける。

「ぺッ。殴らずにはいられねェようなツラしてんのが悪いんだぜ、武流よォ」

殴られた拍子に、武流が抱えていた箱が開く。静かに震えながら、中身に触れた彼を花火師の若者は更に嘲笑おうとした。

「すっ飛んだ拍子に、もらしちまったかァ? ひゃははは……ぶぎゃあッ!?」

武流を脅しつけていた男が悲鳴を上げる。対照的に、武流は堪えられないとばかりに笑い出した。

「どいつもこいつも、この世はどうしようもねェ悪人ばかりだ。まったく、正直者が生きづれェ世の中よ」

誰だよお前はと、緋勇は思った。そしていくらなんでも『ぎゃはははは』はどうかとも思った。

「なッ……何をいってやがる。うッ、動くんじゃねェ!! 動いたら、あの女が―――」
「やってみろよ、腰抜け。やれるもんならやってもらおうじゃねェかッ!! その代わり、てめェら、生きてここを出られると思うなよ?」

人格が変わってるぞと突っ込みを入れたい気持ちを、緋勇は懸命に抑えていた。正直な話、こんな連中が相手ならば、現在の位置からでも余裕で美弥を助けられるのだが、武流に任せるのが、筋であろう。
記憶にある気配がふたつ、近くに控えていることでもあるのだし。

「おッ、おい、その女、殺っちまえッ!!」

狼狽しながらの指令は届かない。花が舞い美弥を捕らえていた男の視界を塞ぐ。一瞬で充分であった。混乱し、必死に花びらを剥がそうとする男の腕から少女を奪還するには。

「女に手をかけようなんて、男の風上にもおけないわね。愛と正義の義賊―――、桃影、見参ッ!!」

此方も別人だなと、緋勇は感動すら覚えた。能力と人間関係から考えるに、彼女は、あの内気な少女なのだから。

「うッ、動くなッ!! うッ、動いたら、この小屋に火をつけるぞッ?」
「お、おいッ、やめろッ!!」

上擦った声で火を手にした男を、蓬莱寺が焦りを乗せて怒鳴る。

真面目だな蓬莱寺――と、緋勇は遠い目をして考えていた。この展開ならば、龍閃組はある意味で、必要なかったのだと、今理解した。
九桐と龍閃組が出会ったことも、これから彼と出会うであろうことも、意味はなかったのだ。

大宇宙党だけでも若者たちを撃退できただろうし、龍閃組がいなければ、九桐は姿を現さなかったであろう。

「へへへッ……。とんだ、邪魔が入ったが、この火を投げりゃ、どの道、この弁天堂は御仕舞だッ!!」

三下は、拳士の疲れた顔にも気付かず、一時の優位に意気高揚し、悪役振る。
だが、残念なことに、緋勇の予想通りに、一陣の風が火を消した。

「この世に正義の風が吹く限り、悪の炎が消えぬ例はない。人情と正義の義賊―――、黒影、ここにありッ!!」

さらに聞こえてきたのは口笛。

     天の裁きは待ってはおれぬ―――、
     この世の正義も当てにはならぬ―――。

何処からか響く力強い声。
もうどうにでもしてくれと、緋勇は思っていた。邪魔して悪かったなとさえ思う。

     町から町に泣く人の―――、涙背負って陰に舞う。
     欲に潜みし、この世の悪を―――、闇に裁いて仕置きする。


「どッ、何処だッ!!」
「ここだッ!! 勇気と正義の義賊、紅影見ッ参ッ!! とうッ―――!!」

気合と共に紅の衣装を纏った男が登場する。

「「「義賊・大宇宙党―――ここに参上ッ!!」」」

見事にというよりむしろ美事。一体幾度練習したのか聞きたくなる程に、一分の隙もなく三人が構えた。
噂の義賊を目の当たりにし、若者たちも浪人らしき連中を呼び寄せる。

「おもしれェッ!! 俺たちも助太刀しようぜ、緋勇ッ」

正座して眺めていようかと思わないでもない緋勇であったが、蓬莱寺の気合の入った声に、一応は頷いておいた。


何の力も持たない浪人たちが、彼らの相手になるはずもなく。
皆が伸されるまで、大した時刻を必要としなかった。

「さてっと火付けは重罪だ。こいつら、番所に突き出すか。どうするよ? 武……いや、紅影」

蓬莱寺の問いに、大宇宙党は、それぞれ、必要ないと答えた。お前たちが納得しているのならそれで良いと、蓬莱寺は存外穏やかに頷いた。それから一転して剣呑な目付きで若者たちを睨み、恫喝する。

「てめェら、ありがたく思うんだな。それと―――、今度、弁天堂に何かしやがったら、そん時ゃ二度と花火が作れると思うなよ?」

転がるように逃げていく若者たちを、少し哀しげに眺めていた紅影は、目線を美弥へと戻し、そっと呟いた。『普段通り』の口調にて。

「おいらが、耐えていけるのは、そこが弁天堂だからだけではありません。あなたがいる弁天堂だからです。そこにあなたがいるから、どんなに辛い事があっても、明日からまた頑張ろうと思えるんです。――――ッ!!」

気を失っていた美弥が身動ぎをし、紅影は息を呑んだ。途端に慌て、彼女を頼むと頭を下げて足早に去ろうとしてから、最後にもう一度振り向いた。

「俺たちで良ければ、いつでも力になる」

頼んだと笑った緋勇らに、彼らも笑顔で別れを告げる。

「どこかの町角で―――」
「新宿の茶屋で―――」
「弁天堂でッ―――」

正体を隠す気が薄いのかと首を捻る龍閃組を余所に、彼らの声は重なった。

「「「また、会おうッ!!」」」

正に、風の様な連中だったなと半ば呆れた様子で呟く雄慶に、緋勇はあれは暴風だと返す。
その通りだと頷く長閑な空気の中で、緋勇は微かな風切音を聞いた。

正確に頭を狙ってきたものを片手で掴み取る。試しであったのか、殺傷力は低そうなものであった。尤も勢いや狙いを考慮すれば、悪ふざけで済むような話ではない。

「団子の串……どこの誰だか知らねェが面白ェ真似してくれんじゃねェか。隠れてねェで、出てきやがれッ!!」

来たかと疲れと緊張とに襲われる緋勇とは違い、心底楽しそうな明るい笑い声が響いた。

「よォ、久しぶりだな」

まるで知己に話しかけるが如く、快活な笑顔の男が屋根の上に腰掛けていた。

「元気だったか?」
「まあな、そちらも壮健そうでなによりだ」

明るく訊ねる九桐に、緋勇は頷いてみせる。敵意のない暢気な言葉に、九桐もにこにこと頷き返す。但し、こちらにはたっぷりと敵意が塗されていた。

「それは、結構。そうでなければ、こちらも張り合いがないというものだ」

笑顔のまま、ぞわぞわと殺気の放出される様に、緋勇はうんざりした顔で首を振る。

「義賊の噂を聞いて、後を付けてみれば、見知った顔がいる。江戸というのも広い様で狭いな」

疲れ顔の緋勇を気にすることはなく、あくまで笑みのまま九桐は語る。
既に隠す気は欠片もないのだろう。

『嘗て』も、この場で、九桐は龍閃組と相見えた。
仕方ないかと、緋勇は微かにため息を吐く。

「徳川の人間に恨みを持ち、その命を狙っている義賊なら、あるいは使えるやもしれんと思っていたのだが、とんだ、見当違いだったようだ」
「何だと……?」

真顔になった蓬莱寺に対し、九桐は一層軽口を叩く。普通の人間が知る由もない組織の名とともに。

「ふッ。しかし、相変わらず、人を懐柔するのが上手いな。徳川の狗などではなく、物売りでもやった方が儲かるんじゃないか? 龍閃組の諸君―――」
「そうだな。勧誘でもするか」

肩を竦めて、適当に応じる緋勇とは異なり、蓬莱寺の周囲は一挙に温度を下げた。

「九桐、てめェ……。やはりそうなのか……?」

原因は放出された高濃度の殺気。
矢張りと口にした彼は、薄々気付いていたのだろう。

「―――だとしたら?」
「へッ、上等だぜ、この似非坊主がッ。ここで遭ったが百年目。今日こそ、引導を渡してやるぜッ」

笑みは獰猛。吼える蓬莱寺に、九桐は表情を消し、ゆっくりと立ち上がる。

「泳がせて様子を見ようとも思ったが、君たちをこのまま生かしておくと、俺たち―――鬼道衆の計画に支障をきたし兼ねない。悪いが、遊びは終わりだ。ここで、死んで貰うとしよう」

同時にわらわらと現れた下忍たちに、緋勇は頭を抱えたくなった。

九桐と一対一ならば良い。だが、この人数を、殺さず、逃げやすく立ち回るには、どうすれば良いのか。

「ちょっと待て。元気だという前言を撤回する。疲労困憊の極地で指一本動かせん」
「あれくらいの闘いで疲弊するお前ではないと俺は見たがね」

嫌そうに首を横に振る緋勇の言葉を、九桐はあっさりと否定した。やれやれと疲れた表情で、緋勇は言い募る。

「心外だな。俺は心臓と肺と肝臓と腎臓と膵臓と脾臓が弱いのだぞ」
「戯言は結構。さあ、死合おう」

人を信じる心を持てないというのは哀しいことだな――などと肩を竦めた緋勇は、諦めの表情を浮かべて首を振った。美弥は未だ目を覚ます兆候はない。

ならば決心までは一瞬。

「仕方がないな」

ふわりと――微かな音すら立てずに、緋勇は屋根の上へと飛び乗った。
多数の下忍と、九桐の待つ中へ平然と降り立つ。

「龍斗!? 何考えてやがるッ!!」
「普通に考えただけだ。お前たちは足場の悪い際の闘いに向いていない。そこで待っていろ」

至極あっさりと言い捨てた緋勇は、既に前だけを見て、蓬莱寺たちを振り返ることもしなかった。

「だからって、お前ひとりじゃ――ッ!?」

言いようのない、理由の掴めない苛立ちを感じ、叫んだ蓬莱寺は別の存在に気付いた。

「ご安心を。ひとりではありません」

怒声に、静かに応じたのは、緋勇に影のように付添う忍び装束の女。突如として背後に現れた気配にも、緋勇は平然としたまま、彼女に背を任す。
信頼といっていいその関係に対し、蓬莱寺の内心は、より強くざわめいた。

まるで嫉妬しているようだと、己に潜在する女々しさに歯噛みし、拳を強く握りしめる。

理解している。
緋勇に最も近い場にいるのは涼浬。僅差に雄慶。かなり開いて小鈴。そして、自分と美里は、とてつもない距離がある。

嫌われているとは少し違う。冷たくされることもない。だが緋勇は、時折理解できないもの訝しむ目で、彼らを見る。

諦観すら漂わせ、考え方が違うのだなと、小さく小さく溜息を吐く。
言葉にすることはなく、諭すことも、反論することも、非難することもなく。ただ疲れた瞳で――諦める。

更なる苛立ちに、怒鳴ろうとした蓬莱寺を遮り、新たに現れた気配があった。

「極悪非道のこの世の鬼をッ!!」

普段とは全く違う、強い声で叫んだのは紅い影。

「退治てくれよう、大宇宙義賊!!」

此方は変わらず、比較的落ち着いた声が続く。黒い影の元から。

「愛と―――」
「勇気と―――」
「友情と―――」

ひとり一言唱えながら、構え、最後に桃色の影が決める。

「三つ集った心意気!!」

一分の隙もない彼らに、かなりの疲れを感じた緋勇が、頭痛に耐えながら問う。

「……お前ら、たった今戻らなかったか?」
「ああッ、この野郎!! まだ決めの台詞を言ってねェってのに!!」

おそらく、今こそ輝け、正義の星よッ!! ――とかが残っていたのであろう。中心の紅い影が、憤然と叫ぶ。そこに先程の殊勝な姿は、欠片も見当たらない。

「ホットな闘いの空気を感じ取ったからには、放っておけねェ。助太刀するぜッ!!」
「おーほほほッ!! あたしの華麗な技、見せてあげるわッ!!」

なんとなく犯人が分かり、緋勇は力なく呟いた。

「花……桃影、木々より伝えられたことを、すぐに話すな。全く」

それでも、助かったのかもしれないと思い直す。
一応、とてつもなく曲がりなりにも、忍びを名乗っているだけあって、身は軽いのであろう。確かに、適材適所ではあるのかもしれない。

「……涼浬、悪いが連中の保護を頼む。先程の闘いを見た限り、素質は、そう悪くない。気をつけてやってくれ」
「……はい。どの辺りを担当しましょうか」

比較的早く現状を認め、少量の諦めと共に、緋勇が涼浬に任せる。
一瞬だが、確かに引きつった後に、冷静な面持ちに戻った涼浬は問う。

「九桐とその周辺は、俺が受け持つ。横手側を頼もうか。……できるのならば、命は奪わないでやって欲しい」
「最善を尽くします」

頷いた涼浬に、もう一度、頼んだと伝えてから、緋勇は派手な三色へと顔を向ける。

「お前たち、基本的には涼浬の指示に従ってくれ。これは、本職の忍びだから、盗むところは多いぞ」

「アンタ本物の忍者なのか!? すげェ……」
「おおっ! グレイトだねェ!!」

途端に綺羅綺羅と輝いた瞳たちに、涼浬は軽い眩暈を感じた。今後を幻視し、少し頭も痛くなってきた。
全く余計なことをと緋勇を睨もうとしたが、彼は既に駆け出し――既に下忍たちを薙ぎ倒していた。

一太刀ならぬ一拳とでもいうのだろうか。
緋勇とすれ違った者たちは、呻き声すらあげずに、崩れ落ちる。


笑みが止まらない。止めるつもりもない。
九桐は、昂ぶりをそのまま言葉に乗せる。

「ふ、この場を――望んでいた」
「俺はそうでもないがな」

投げ遣りな言葉は、緋勇の心底からの本音であった。
なんだって、素手で槍と――と、軽く肩を竦める。

槍の間合いは、剣よりも長い。徒手とでは、著しく間合いが異なる。

それは必ずしも利点だけではなく――要は、互いの間合いでは、余程の腕の差がなければ、勝負にならないのだ。
懐に入ってしまえば徒手の勝ちであるし、入れなければ何もできない。

己の武器の間合いを保つことが、優位を得ることと同意となる。
間合いの取り合いに終始する闘いは、緋勇にとっては面白みに欠けるのである。

鋭い穂先を避け、退いた緋勇の到達先を予測し、呼気とともに、九桐の左手がしなった。

九桐の恐ろしいところがこれだ――と、緋勇は微かに笑う。
槍一本のような言葉を口にしながら、身に仕込んだ数々の武器を平然と用いる。

急所に迫る四本の小柄を、緋勇は手首を返す最低限の動きのみで、手甲に当て落とした。移動の勢いを殺すことなく、間合いを詰めようとした緋勇よりも先に、九桐は大きく跳び退った。



互いに傷を負うことはない膠着状態。
幾度か間合いの取り合いを繰り返した後に、不意に九桐は大きく跳び、距離を開いた。


これはないだろうと、緋勇ははっきりと苦笑した。

両手が僧衣の奥に隠れたのだから、小柄を取り出そうとしているのは察することができる。だが、この光景を想像できる者はいまい。

それは、さながら鳳仙花。裂けて種子を飛ばすかのように、軽く反った彼の身体から大量の刃が、一斉に飛来する。

幾本投じられたのか数える気にもならない。
そして――自らも鳳仙花の如く、血肉を弾け飛ばす気にはならない。

緋勇には軌道が見えている。だが手甲にて弾くには余りに多い。ゆえに、倒れた下忍の背に手を掛ける。

「借りるぞ」

日本刀よりやや短い忍者刀。それでも通常の間合いよりは遥かに広く対応可能。

緋勇は、剣に通じてなど居ない。奥義も極意も基本さえも知らぬ。
だが、頭が判断した通りに、動かすべき道通りに、なぞるように動かしただけの軌跡は、恐ろしく洗練されていて無駄がなく、全ての小柄が落ちた。

それだけではない。小柄を幕として、距離を詰めていた九桐より突き出された穂先をも、剣の腹で止める。

鍔迫り合いに近い状態から、次の行動に移ったのは同時であった。
だが、槍を引き構えるよりも、ただ剣から手を離し、拳を握れば良いだけの方が、先に技を実行できるのは道理であった。



倒れた九桐の位置に、緋勇は舌打ちした。
九桐は強すぎるのだ。
実戦に慣れすぎている。覚悟が深すぎる。

加減を十分にすることは不可能。脱出しやすい場で、頃合をみて倒すことなど、できようはずもなかった。

下忍に至っては、軒並み纏めて縛られていた。

緋勇は、涼浬にだけは、それとなく、鬼道衆を可能な限り殺したくないのだと伝えていた。ゆえに彼女は、緋勇の意思を汲む。だが、つい先刻加わったばかりの大宇宙党が、そんな事情を知る由もない。
全員生きていることが、僥倖といえるのかもしれない。


苦しそうな息の元、それでも毅然とした顔は崩さずに、九桐は言った。

「早く止めを刺せ。そうすれば、俺たち鬼道衆に確実に風穴を空ける事ができる」

戦闘中よりも余程明確な殺意が沸いてくるのを、緋勇は自覚した。
この禿、人の話を聞いてねェよ――とも思う。

大体鬼道衆の連中は諦めが早すぎるのだと、怒りすら覚える。
お前たちの命だけでも守ろうと、人がどれほど苦労していると思っているのだと、比良坂により戻されたあの瞬間からの経緯を、正座させた上で、くどくど説教したくなった。

だが、九桐と目が合った瞬間に、苛立ちと憤怒とは消え失せた。
彼の瞳は、今までの鬼道衆たちのような、戸惑い不安に揺れる瞳とは異なっていた。

本物の殺意。本物の憎悪。

「緋勇 龍斗など知らない。そんな男が村を訪れたことはない。だが、それでも―――」

言葉を切り、九桐は緋勇を睨みつける。飄々とした笑顔は消え失せ、闘いの最中ですら表さなかった憎悪を隠すことなく面に浮かべて。

「確かに言った筈だ。お前が若を裏切ったら、俺はお前を殺さなければならない――と」

緋勇は息を呑んだ。
鬼たちは、皆常人ではない。鋭い感性が、見えぬものを見る目が、術を紡ぐ心が、嘗てあったはずのことを脳に垣間見せ、既視感を覚えることがあっても不思議ではない。それは予想の範疇であった。

だが、所詮、印象に残った夢とさして変わらぬ、砂上の楼閣だと思っていた。
微かな違和感があろうとも、時と共にさらさらと崩れ、永く残ることはないと思っていた。

こうまで正確に、『過去』を覚えている者が存在するなどとは、考えていなかったのだ。

能面のように整った顔に、確かに狼狽の色が表れたのを見て、九桐は拳を強く握りしめた。

彼も他の村の者と同じく、居るはずの誰かが居ない感覚に襲われた。
数度か顔を会わせただけの龍閃組の男が、その誰かを思い出させることも感じた。

だが、彼ひとりだけ、他の村の者とは違った。
皆、不思議なことに奇妙な懐かしさと、深い哀しみとを抱いたという。新たに仲間になった隻腕の面師も、黒衣の忍びも、京で会った剣士も修験者も。古くから居た神父も、側近である妖艶な女に至っても。

九桐も、全くそれらの感情がなかったわけではない。甲州街道で会った時点では、懐かしく哀しかっただけであった。
だが、不動で龍閃組と共に居る彼を見たときには、既に火がついていた。

今は燃え上がっている。

憎悪に近いほどの、憤りの焔が。

あの光景は夢なのかもしれない。
お前に罪などないのかもしれない。

理不尽だとの自覚を有しながらも、九桐の糾弾は止まらなかった。

それでも確かに伝えたはずだ。確かにお前も頷いた。


若を裏切らないでやってくれ。もしお前が若を裏切れば、俺はお前を殺さなくてはならなくなる。例え、お前を地の果てまで追い詰めたとしても、力が足りなかったとしても、それでも――。


「なのに、何故、貴様はそこに在る?」

狼狽どころではなく――緋勇の表情は、痛切に翳った。

頼りにされる、皆の拠り所と慕われる友の、悩みを、苦しみを、逡巡を思い出す。
なくてはならない村の支柱。だが、柱を支えるものはなく。寄りかかる存在すらなく。

彼はたったひとり。

総てを支え、迷いを見せず、決然と笑む。

耐えがたい苦痛に苛まれ、惑う心を、覆い隠して。


「何故あの人の傍に居ない?」

九桐の中で、徐々に強くなっていく違和感。

夢見る程に思い出す。
時を経る程に、鮮明に夢を留める。

九桐は、彼をよく眺めていた。
己の届かぬ立場への苛立ちと憧憬ともに。
誰よりも敬愛する主が、安息を得たことへの安堵と感謝とともに。

なのに、それは夢だと嘲笑わんばかりに消えた。主君は変わらず、多くのものを背負い、苦しみ、悩み、それを表すことすらしない。

そして酷似した者が、敵として立ちはだかる。唾棄すべき幕府の狗として、悲願の成就を阻む。

何が夢で、何が現なのかなど、理解できない。それゆえに、何よりも的確に、緋勇の痛みを喚起するとも知らず。

「答えろ……」

ただ、憤りのままに九桐は叫んでいた。

「答えろッ! 龍斗ッ!!」


限界であった。
高く築いた障壁が崩れる。
幾重にも張り巡らせた、心を守る鎧が砕けた。


――るな。

搾り出されたような乾いた声に、皆が驚愕の眼差しで振り向いた。

ふざけるなよ――もう一度静かに、錆付いた声にて呟くと、緋勇は一歩踏み出して、強く握った拳で、九桐の頬を殴った。

それは迅く強かった。だが、それだけ。洗練も正しき構えもなく、ただ叩きつけるように。

さすがによろめいたものの、ザッと音を立てて踏みとどまった九桐は、勢いをつけて、お返しとばかりに、緋勇に殴りかかる。

退くことも避けることも考えず、ただ力と想いだけが込められた拳を、緋勇も避けなかった。

鈍い音が響く。
それでも緋勇は揺らぎもせず、また同様に殴り返す。


そこには武芸百般の僧も、徒手空拳の達人もいなかった。
技巧もない、ただの殴り合い。――子供の喧嘩と同じであった。

「ふざけてなどいるものかッ!!」

緋勇の襟を締め上げながら、怒鳴りつけた九桐は、相手の目に更に怒りが灯るのを感じた。
同時に、頭蓋が揺さぶられるような衝撃を受ける。

至近距離から、頭突きを食らったのだと理解するのに、かなりの時間を要した。ぬるりとした感触に、切れたのかと額に手をあてたが、己に傷は見当たらず。

少量とはいえ、出血しているのは、緋勇の方であった。
色彩に乏しい面の中で、一筋流れる血の紅さが、まるで整然とした仮面から溢れる激情の象徴のようであった。

「ふざけてるッ!! お前だけが不幸か。お前が全て正しくて、俺が全て悪いのか!? 俺が楽しくてこんな立場に居るとでも思っているのかッ!!」

激昂しきった表情。冷徹かつ凄腕の拳士には似合わぬこの顔を、九桐はよく知っていた。
寡黙で落ち着いた端正な外面を取ってしまえば、本質は天然俺様気質にすぎない青年が確かに仲間にいたのだ。

彼は、平然と頭目の横に立った。
たったひとり違ったのだ。頭目を背に守る兵ではなく、主君の背に守られる民でなく。

肩を並べ、背を守り合う青年のことが羨ましく妬ましくて――有難く思っていた。

「あいつを信じるしかないんだ! 命ごと失われる前に、総てが終わるまでの間、狂わずに保ってくれることを祈るしかないんだ!!」

九桐は『彼』を失った若のことしか考えていなかった。
確かに居たはずの友を喪い、ひとり苦しむ主の抑えた無表情に、消えた男を怒り憎んだ

けれど、では『彼』はどんな気持ちなのだろうと、今更に思った。

傲岸不遜で傍若無人。無謀で無茶で無鉄砲。性格の良悪を問うたらば、九割超が悪いと答えるであろうに。
なのに――他人の心の痛みだけには敏感で、叱り飛ばすでなく同情するでなく、ただ話を聞いてくれた彼が、苦しむであろう友たちを置き去りにして、何を想うのか。

怒りに塗れ、考えたことなどなかった。確かに『彼』のことも、大事な友と思っていたはずなのに。



辛くないわけがないだろうと。
怨念の解放をした御神槌、男たちへの怒りにより主義を曲げてまで他者の魂を操った桔梗、幕府への憎しみと餓鬼らへの想いとに苦しむ天戒。
自責の念に苛まれる奴らのそばに居てやれないことが、どれだけ苦しいと思ってるんだと、言葉にしてしまいそうになる衝動を、緋勇は懸命に抑えた。

ぎり――と、血が出るほどに唇を噛み締め、言葉を、想いを呑み込む。

まだだ。
まだ運命は熟していない。奇跡を成した女と『再会』していない。
暗躍しているであろう黒幕の動きを掴むにも至っていない。

繰り手と演出者と舞台とを正確に理解しなければ、糸を断った操り人形に許されるは、動きを止めることのみ。
己が意思で歩めるほどに識るまでは、想いを明かすことは許されない。


『俺にできるのは、側にいてやることだけ。奴らが苦しみ悩むときに、奴らをひとりにしない』

嘗て美里に対して、偉そうに語った己を殴ってやりたかった。
側になど居てやれなかった。彼らが最も苦しむときに、説教を垂れる側で、ただ否定することしかできなかった。

既に傷付きすぎた彼らを、更に傷付けることなど、望むはずがないのに。
なのに正しき断罪の剣を揮う側で、彼らが正論に傷つけれらるのを、ただ見ていた。

それでも、己で決めたことだった。

誓ったのだ。怨霊や魔へ変じようともあの男を殺すのだと。
皆が喪われた中で、ひたすらに祈った。

だから今の立場など、気にもならない。人を止めることさえ決意したのだから、たかが幕府の狗如き、傷付きはしない。ましてや今は――皆が生きているのだから。



「また目の前で……お前たちを殺されるくらいなら」

声は掠れていた。
呟きというにも弱い――泣きそうな声で、緋勇は微かに口を開いた。

幕府の走狗であろうとも。
お前たちの敵になろうとも。
憎まれようと蔑まれようとも。

二度と死なせない――と。


呟きが契機となった。

それは誓約。
それが刻を登った目的。
それだけが彼の存在する理由。

ゆえに激情は不意に消失する。
訓練したのか、慣れた事なのか、ほんの一瞬前の激白が嘘のごとく、緋勇の表情は失われた。

「……お前が寝惚けて夢の話などするから、俺も寝惚けてしまっただろう」
「緋勇……」

彼の笑顔も、激情も――知っているはずだった。
前も――この屋根の上で、龍閃組と闘ったはずだった。

「止めをさせだと? 愚かなことをお前は口にした。それは皆を愚弄している。村で待つ連中のことも、率いてきたこいつらのことも」

だが面子が違ったはずだ。龍閃組に誰かが居なくて――誰かが助けにきたのだった。
敗れた九桐を救いにきた仲間は、死合の間に入ったことを責めると、鼻で笑いとばし、言った。

「前にも夢で言ったはずだがな――」

九桐の視界が揺らいだ。
夢と現の境界が歪み、鋭い頭痛が苛む。『誰か』の幻視が、世界を危うくする。

「『どうしても殺されたいのならば止めはしないが、あいつの事を遺して逝っていいのか?』」

声は完璧なまでに重なった。
知らぬ過去に。在り得ぬ現在に。見知らぬ見知った『誰か』に。


痛みが限度を超す。
吐き気すら感じ、九桐は口元を抑える。

気分が悪い。耐えがたい悪寒に苛まれる。

何かを――大切な何かを忘れている己に。
裏で蠢く忌まわしき力に。思い出したくない――悪夢に。

「う……」

時折見る悪夢が、頭を過ぎる。いつか訪れるかもしれない最悪の結末が。幕府と闘う以上、起こりうる悲劇が。

一面の朱。
到底敵わぬ敵に絶望し、せめて主だけは護ろうと手を伸ばそうとも届かず――彼さえも殺される、救いのない最期。

霞む眼には、屍だけが映り、自身も死に逝く直前に、ある青年の呪いを聞く。
累々と横たわる屍の中で、ただひとり半身を起こした彼ですら、もう長くはない。深く裂かれた肩口に、臓物のはみ出かけた腹。致命の傷を負った彼は、溢れる血に咽ながらも、祈るように呪う。

『やぎゅ……ッ、……ろす』

額には深い傷。
白い肌に薄茶の髪に薄茶の瞳。幻想的なまでに薄い色素を纏う彼は、今は己が身体から溢れた、毒々しい程に強い赤に塗れて。

『命あるなかで叶わぬのなら……魔物に変じようと、……怨霊に堕ちようとも』

殺してやる――と、それだけを繰り返しながら、今にも死の淵に落ちようという状態で、彼は真紅の光に包まれる。
胸が締め付けられるほどに哀しく、純粋すぎるほどに鮮烈な、おぞましいほどに美しい陰氣の奔流の中で。

『柳生宗崇……貴様を……必ず殺し……て……やる』


「おい禿、正気か?」

同じ声で、だが全く調子の違う響きで語りかけられる。

緋勇にぺちぺちと軽く頬を叩かれ、意識が現実へと戻る。
今見た白昼夢の陰惨さに、眉を顰め、そして気付いた。

あまりに不吉な為、この夢を見たときは、可能な限り速やかに記憶から追い出していた。ゆえに、これほど内容を覚えているのは初めてのこと。

誓った青年の顔は確かに――。

「緋勇!! 額を見せろ!!」
「何する気だ。衆道か、お前は。離せ変態ッ!!」

じたばたと、先程までの緊迫感は微塵も存在しない様子で暴れる男の前髪を、九桐は悶着の後に掴むことに成功した。

長めの淡い茶の髪に隠された額には、傷があった。打撃によるものではなく、刀傷。
先程の頭突きによる出血は、その傷痕が開いたもの。

夢の青年と同じ位置の刀傷。

「何故……、致死に近い傷すら癒す美里の力ならば――そんなものは塞がるだろう?」

呆然とした九桐の呟きに、彼が何かを思い出したことを緋勇は悟った。
乱暴に血を拭い、髪を戻して自嘲気味に呟く。

「美里も何も、普通にしていたとて、本来ならば、とうに治っている」

癒しの力など必要ない。今はもう夏。『あの時』からかなりの時が経っている。
ましてや緋勇は常人を遥かに超えた回復能力を元々有している。なのに、塞がりきることさえない傷。

理由は明白。

「身体が、心が、俺の意思が残している。あの無念を、痛みを、想いを――決して忘れることがないように」

闘いは続く。ゆえに、身体に障る腹の傷でもなく、致命となった裂かれた肩でもなく。
鈍い痛みを宿す額の傷を残した。

「そんな事よりも……お前には貸しがあった筈だな」

『夢』で――と付け加えた彼の勝ち誇った表情は、九桐にとっては、飽きるほどに見たはずのもの。

総ては『夢』で。

船上で逡巡する泳げぬ少年を、情け容赦なく海へと蹴落としながら。
価値ある骨董を、骨董の店主たる青年の前で壊しながら。
口喧嘩の後に、潔癖症の剣士の眼前で、わざと砂をぶちまけながら。

「今返してもらう」

夢での借りを、今返せと彼は言う。
理不尽極まりない話。だが、先刻九桐も、夢を材料として彼を責めた。

「死合の誇りも何もかも知った事か。生きて戻れ。あの村へ。……奴の元へ。それで貸しは消える」

ならば頷くのが道理というもの。だが、九桐は確かに鬼道衆の要であり、緋勇らは幕府の者。それで良いのかと、助けを求めるような目で、蓬莱寺と雄慶とを見てしまう。

「九桐―――。俺はまだ、お前にゃ借りがあるからな。甲州街道で、愛刀を弾き飛ばされた借りは、まだ、返しちゃいねェ。そいつを返すまで、死んで貰っちゃ困るんだよ」

倒したのは緋勇であって己ではない。だから今は生きて戻れと蓬莱寺は言い切った。

「こちらは承認だな。雄慶は?」

話を振られた雄慶は、肩を竦めた。
お前たち双方がそういう結論だというのならば、異議は無いと。

そして、忍びたちは元より異議などないと頷いた。

しばらくの間呆気に取られていた九桐は、やがて苦笑と共に起き上がる。

「今度会う時が楽しみだ。それまで、斃れるなよ―――龍閃組」
「ふんッ。てめェも下らねェ奴に斃されんじゃねェぞ?」

微かに笑った蓬莱寺に、同種の笑みを返し、九桐はもう一度緋勇へ視線を戻す。

先程までの激情など痕跡もなく。無表情に近い能面のように整った顔の中で、瞳に微かな苦渋の色が滲んでいるように見えた。
夢の彼を思い起こせば、今の彼は無理を重ねているようにしか見えなかった。

「では、また会おうッ!!」

声はなく。だが緋勇の口が、僅かに『ああ』と動いたのを確かに見てから、九桐は下忍らと共に駆けた。

確かに前もあったことだと、強く感じながら。
その時は――足止めしていた誰かが、後を追ってきたのだと、思い出しながら。

合流した彼は笑いながら言ったのだ。

これで貸し一つだ――と。

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