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― 東京魔人学園外法帖 第拾章 ――


「ふむ……、まさしく、陰氣の塊のような珠じゃな」

雹たちが残していった三色の珠を眺め、円空は頷いた。
黄・青・黒という組み合わせから、残りはおそらく赤と白の二つだろうと推測する。

「おそらくこの珠は《五色の摩尼》を模したものであろう」

ゆえに封じの場として、最適な場所が存在するという。

天海僧正が、江戸守護の為の結界の一環として、五色に対応する五色不動を置いた。正確には、普通の不動尊であったものたちに、目『赤』目『黒』など、《言霊》により名に縛り付け、結界を形成する重要な要素とした

「この珠は、儂が封印を施し五色不動へと納めておこう。五色の珠を五色の不動で封じる。これ以上の呪法はないじゃろう」

何かあれば遠慮なく訪ねてくるがよい――と笑う好々爺に、珠の始末は任せ、龍閃組は、長屋を後にした。


「さて――――っと。見廻りは、こんなもんか。これといって、鬼道衆の動きもねェみたいだしな。――なあ、お仲間さんよ?」
「そのようだな」

嫌味ったらしく笑う蓬莱寺に頷きながら、緋勇は少々感動していた。
これほどに、蓬莱寺が素直な性格だとは思っていなかった。

こいつをひとりになどできないと主張し、見廻りにも自分と共についてくるように命じた蓬莱寺の言葉には、いちいち刺があった。
どうにも緋勇を信用しきれぬ以上、しかと監視し、憎まれ役は単身で引き受けると決めたのだろう。

だが、正直なところ――この敵愾心をごんごんぶつけてくる蓬莱寺の方が、緋勇にとっては付き合いやすかった。

敵意を見せようと、懸命に考えた上での言動である為に、常の彼が行う悪気のない無神経な行動が、激減しているからであろう。


「杏花の奴も円空の爺もいねェから、一応来てはみたが……、そもそも、犬神なんかに話を訊こうとする方が間違ってるよな」
「……わざわざ俺への嫌がらせで来たのではないのか?」

さて帰るかというときに出会ってしまった八丁堀たち。
彼らから聞いた、怪奇について、もう少しその辺で噂でも集めてみるかという結論になるのは分かる。

だが、なぜよりによって――犬神の家へ来るのか。
蓬莱寺が答えるより先に、緋勇は顔を顰めた。もう慣れた――極薄の気配を察した為に。

「どけ。人の家の戸口に立つな」

相変わらずに偉そうに。
それでも少しは進歩しているのか、犬神は、何の用だと聞いた。

話す気がないなら、そこを退け――とも続いたが。

「先刻、そこで八丁堀に出くわしてな。ここんとこ、からからに干からびた妙な死体が、よく見つかるって話だ。近所でも見つかったみてェだし、あんたは何か知らねェか? 悲鳴が聞こえたとか、誰かいなくなったとか――――」

いつものようにすっかり黙り込んだ緋勇に、ちらちらと視線を遣りながらも、蓬莱寺は説明した。雄慶や美里がいれば、こんな気遣いをする必要はなかっただろうが、あいにくここには居ない。
犬神と緋勇の間では、彼でさえも気遣う。

「人が死ぬのは当然の事だろう。死を知らぬものは人ではあるまい。その死が意志ある者の手によるものか、自然の法則に従ったものかの差だけだ」

何かと思えばそんな事か――と、犬神は、表情をなくして呟いた。

「自分と何の関わりもない者の死に、関心を寄せるお前の方がよほど奇怪に見えるがな。餓鬼の同心ごっこに付き合うぐらいなら、家で寝ていた方がまだ有益だ」

すたすたと家へと入ろうとする犬神の背に、蓬莱寺は叫んでいた。

「待てよッ!! 聞き捨てならねェなッ」

蓬莱寺は、今完全に理解した。
全てにおいて無関心に見える緋勇と犬神が、互いにだけは険悪な訳を。

彼らは似過ぎている。
表情をなくした犬神の顔は、時折見せる緋勇と同じだった。

無関心に、無感動に振る舞い――途轍もない苦しみを抱えながら、全て覆い隠す。

誰のことも信じずに。

「実際に、人が何人も死んでんだぜ? しかも、この近くでだ」

犬神は、緋勇に傷を負わせた。それだけの力がある。
だが、自ら動く気は、欠片もないのだろう。

「俺たちが動けば、何とかそれを食い止める事もできるかもしれねェ。力があるのに使おうとしねェ奴は、力がない奴より尚、救えねェだろ。犬神、あんたは一体、どっちなんだ?」
「それが人にものを尋ねる言葉か?」

詰問にも、微かに口元を吊り上げて、犬神は混ぜっ返した。
その表情が、余計に緋勇と重なる。

「てめェは好きなだけ飲んだくれて、勝手にぶっ倒れてな。ついでにからからの干物にでも何でもなっちまえッ。じゃあなッ」

蓬莱寺としては、捨て台詞のつもりであった。犬神と――緋勇、双方への。
なのに、どうしてこういう反応になるのか。

長めの沈黙。
緋勇と犬神は、どちらからともなく視線を合わせ、同時に吹き出した。

「ふッ……、はははははッ」
「くくく……」

犬神が、確かに笑っていた。
緋勇は口元を抑え、それでも時折咳き込むほどに、大うけしていた。

「な、何がおかしいんだよッ!?」

なんでもないと、彼らはまたも同時に、首を横に振った。ほんの少しだけ優しくなった眼差しで。

「全く、節介が過ぎる奴だな。俺が死のうが生きようが、お前には関係あるまい」
「確かに俺にゃ関係ねェ。けどな――――、あんたに何かありゃ、確実に悲しむ奴を一人知ってる」

反応の理由が分からず、自棄になったかように蓬莱寺が告げた言葉に、犬神は笑いを消した。
緋勇の方は俯き、長屋の壁に寄りかかっていた。微かに洩れ聞こえる声が、まだ笑っているのだと語っていた。

「先刻、酒問屋で――――店主が干からびた幽霊が、歩き回ると話しているのを聞いたぞ」

大森の深い森の辺りで、最近では異国人が洋館を建てたために一層、人が寄りつかなくなったということまで、犬神は説明した。


「夜の闇は、お前たちが思っているよりずっと、無慈悲で昏い。血を欲するものには気を付ける事だ」
「お友達か?」

忠告めいたものまで発した犬神に、緋勇は端的に問うた。
友達――同類なのかと。

やっと口を利いた緋勇に対し、犬神は鼻で笑ってみせた。

「土着には、理性を持つ血吸いは希少だ。だが――海の向こうにならば、もう少し多かったかもしれんな」

それきり、振り返りもせずに長屋へと入っていった犬神の不器用すぎる助言に、緋勇は苦笑した。

大森では、干からびた幽霊の噂がある。
大森には、異国人の館がある。
海の向こうにならば、血を吸う魔がいる。

全てがこの上なく一直線に繋がるのだろう。
そういえば、火邑を届けて置いていった館が、大森にあったなとも思い出す。

依り代となれる人間を探すことが、緋勇の主たる任であり、翌日さっさと館を去った為、火邑の任務の内容などは、欠片も覚えていなかったが。


「何はともあれ、大森っていう手掛かりができたな。それじゃ、ちょいと遠いが、今から――――お?」

蓬莱寺が目に留めたのは、歩く大荷物。
正確には、身の丈ほどの荷物を抱えた少女。前も碌に見えていないのか、色々なものにぶつかり、その都度頭を――箱や壁に対しても――下げる彼女をみかねたのか、蓬莱寺はすたすたと歩み寄った。


「あの、説明するのは少し難しいのですが――少しでも、皆さんをお助けできればと思って。日々の暮らしで困っていらっしゃる方々の、お手伝いが目的なのです」

ほのかと名乗った少女が抱えていたものは、膨大な量の洗濯物。
井戸まで運んでやり、洗濯までをも手伝いながら、蓬莱寺は事情を尋ねた。

長屋に住む者たちの雑用をさせていただいているのだと説明した少女に、蓬莱寺が顔を曇らせた。

「お節介で仕事の邪魔しちまってかえって悪い事したな。俺たちのせいで、誰かに怒られたりしねェか?」
「え……? うふふ――――いいえ、これはお金をいただく仕事とは違うんです」
「金をもらわない? って事は、洗濯一回につき一食……とかいう感じか?」

噛み合っていない会話に、笑いをかみ殺しながら、緋勇は頷いた。
彼女には少しだけ見覚えがあった。例の洋館で会った切支丹の少女だったはず。

血相変えた異人の青年に、『ホノカが見当たらない』と探すのを手伝わされた結末は、確かに『町へ出掛けていた』だった。
町へといっても、目的は遊びではなく、無償の奉仕という行為だったのだろう。


やっと事情が理解でき、偉いことだと、自分には到底できないと唸った蓬莱寺に、ほのかは、そんなことはないと微笑んだ。

「だって、緋勇さんと蓬莱寺さんは私を手伝ってくれたじゃないですか」
「そりゃあ、あんたが大荷物を持って困ってたから……あ」

途中で気付いたらしく、蓬莱寺は言葉を切った。

「ふふっ、そういう事です。私のしている事も、同じ。ただそれだけの、小さな事なんです」


「い、いいえっ、そんな事をしてもらっては」
「見知らぬ相手にだって大変そうなら手を貸す事ができるのに、知り合いにできねェって道理はねェよな」

蓬莱寺は、ほのかのことが気に入ったのだろう。
洗濯が終わっても、まだかなりの荷物を抱えていた彼女に、手伝うと言い張った。

「でもっ、どこかへ行かれる途中だったのではないんですか?」
「まあ、行く途中だったといえばそうなるが……急いでる訳じゃねェし、あんたを手伝ってから行きゃいい事だしな。で、この荷物は結局、どこまで運べばいいんだ?」

ほのかの行き先は、大森であった。
しかも、件の異人の館で、世話になっているのだと話すほのかに、とうに知っている緋勇はともかく、蓬莱寺は顔色を変える。

好都合というべきか。
それとも、縁とやらは、やたらと繋がっているというべきか。

独り言のように小さく呟いた蓬莱寺は、立ち入った事を聞くようだがと前置きしてから、ほのかに、なぜ異国人の屋敷にいるのかと問うた。

孤児であった自分を拾ってくれた主への恩返しの為に、屋敷で働いているという彼女は健気であった。
ただし問題は、館にあった。

「こいつは怖いっていうよりは、悪寒――――っていえばいいか。とにかく、嫌な震えがきやがるぜ」

ちょっと暗くて怖い感じがするかもしれませんと、申し訳なさそうなほのかの言葉に、蓬莱寺は緋勇にだけ聞こえるように呟いた。

「感覚的にはそれほどでもないお前に分かるということは、相当――潜む者が強いということだ。本来ならば、一度報告に戻り、皆をつれてくるべきなのだが――この澱みではな」

不可能だと――それだけの時間的な猶予がないと分かっているからこそ、緋勇は億劫にぼやいた。

「あ、あの、せっかくこんなところまで重い荷物を運んでいただいたんですし、お茶くらい、召し上がっていってください」
「……そうさせてもらおうぜ、緋勇。このまま俺たちだけ帰っちまったら――――、どうにも寝覚めの悪い事になりそうだからな」

緋勇の言葉から、ほのかの逼迫した状況を察した蓬莱寺は、善意の誘いに頷いてから、小声で縁起でもないことを口にした。



「いらっしゃいませ、御客様。当屋敷へようこそ。私はこちらの御屋敷に仕えるメイドでサマエルと申します」
「いらっしゃいませえ〜!! ケムエルですぅ〜」

出迎えた少女たちは、快活な――なのに薄ら寒い笑みを浮かべていた。
メイドというのはお手伝いさんのようなものですとの、ほのかの説明に頷きながら、緋勇は軽く粟立った腕を擦った。

『やり直し』による能力の増大は、感覚にまで及んでいるのか、嘗て鬼として館を訪れたときよりも、寒気が酷かった。

「――――みかえる? そいつは何か、意味のある名前なのか?」
「ミカエルというのは、切支丹の天使の名前なのです。天使とは人と神をつなぐもの。清らかで美しく、至高なるものを表す言葉です」

少女らは、ほのかをミカエルと呼んだ。
《神に似たる者》。あらゆる天使の中で第一の序列にあるもの。最も美しく、気高く、公正たるもの。

続く過剰なほどの誉め言葉に、恥ずかしくなったのか、ほのかは着替えてきますと顔を紅く染めながら足早に去っていった。




「ま、俺もあんたらが何者なのかは知らねェが――――、あんたらとあの娘は明らかに異質のもんだって事くらいはわかるぜ」

喧嘩を売るかのような蓬莱寺の言葉に、緋勇は顔を上げた。
彼女らは怒る素振りも見せず、微笑んでいる。

緋勇は、蓬莱寺の着物を引っ張り、近くに寄せた。

「蓬莱寺、問題があるのだ。まだ喧嘩を売るな」
「あ? なんだよ」

こそこそと小声で囁く緋勇に、蓬莱寺も一応小声にて返す。
知人の神父から聞いた話だが――と前置きし、彼は一層声を潜めた。

「確かに双方、天使の名だが、ケムエルというのは破壊の天使で、サマエルというのは死を司る天使だ。普通の切支丹が付ける名ではない」
「……胡散臭いとは思ってたが、そこまでかよ」

渋い顔で蓬莱寺が黙り込むのを確認し、緋勇は話を替えた。

「ほのかは随分と遅いのだな」

ほのかがどこかに消えてから随分と経っていたが、戻ってくる気配もなかった。
心当たりがあるのでご案内しますと、少女たちは蓬莱寺の挑戦的な態度にも気を悪くした風もなく――――欠片も変わらぬ笑顔で応じた。


「ここは礼拝堂――――神に祈りを捧げる場所ですわ」

案内されたのは、屋敷の地下。鬼哭村の小さな教会よりも立派で――どこか虚ろな場。

何かが違う。
根本的には真摯な宣教師が、後に加わった金の髪の青年が、祈りを捧げていた、あの荘厳で優しい空間とは。

「ミカエル!! またその男を礼拝堂に入れたのですか? その男は入れてはいけないと、ヴラド様が――――」

初めて表情を変えたサマエルが、きつい調子で、ほのかを睨んだ。
素直に謝るほのかを庇い、ほのかの側にいた金の髪の青年が、頼んだ自分が悪いのだと頭を下げた。

「今日はもう帰るよ。彼女たちがいるからね。でも、忘れないで。オレはいつもホノカを見守ってる。ホノカが邪悪なものに捕われてしまわないように」

その割には、彼女を放って内藤新宿まで――挙句、鬼の村までついてきたよなと思った緋勇だが、名前さえ知らぬ筈の青年に突っ込むのは不躾すぎるだろうと考え、黙っていた。

「キミたちもここには余り長居をしないコトだ。気をつけて」

律儀に緋勇らにも小声で忠告してから、青年は去っていった。

まるで入れ代わるように――青年が消えるのを待っていたかのように、男が現れた。

「ミカエル――――。何処に行っていたのですか? 姿が見えないので心配しましたよ」
「ヴラド様!! あの、今日は町へ出て人々への奉仕を」

それは良い心懸けだと、表情だけは笑みの形をとった男だが、目は笑っていなかった。
ところでそちらの方々は――と、視線を向けられ、緋勇は寒気を感じた。ほのかを見たそのままの瞳には、食欲としかいいようのないものが宿っていたから。

「では、あなた方は私にとっても――――恩人だ。ミカエルを助けてくれたのですからね」

客室を用意するように告げるヴラドの粘着質な目付きに、緋勇は小さく溜息を吐いた。

ほのかに秘められた力――未だ目覚めぬ四神の力を見抜いたのだから、この男はかなりの魔であるはずなのだが、一つのことしか目に入らない単純馬鹿、もしくはただの女好きなのではないかとも少々の疲れと共に思う。

既に覚醒した、同じく四神である金の髪の青年にも、そして四神の主である緋勇にも、関心を示さないのだから。

礼が目当てに助けた訳じゃねェという蓬莱寺は渋ったが、ヴラドは張り付いた笑顔のままで、そうはいかないと妙に強引に語る。

「あなた方は、私の最も大切なものを困難より救ってくださったのだから。今宵は是非ここにお泊まりなさい」

あなた方にとっても、忘れられない夜となるかもしれませんから――――と、意味ありげに言い残し、彼は去っていった。


客室に案内され、少女たちが確かに立ち去ったことをわざわざ扉から顔を出して確認した蓬莱寺は、戻ってくるなり、真剣な顔で問うた。

「あのヴラドって野郎のいってた事、どう思う? ――あの、ほのかって娘も、関係があると思うか?」

話した時に身の毛がよだった――と続け、蓬莱寺は寒そうに腕を擦った。

「……あれを欠片の疑いもなく信じきってるほのかの将来が心配になるほどに、疑わしい――というより、奴が大森の怪異の原因だろう」
「ああ。あの《めいど》とかいう奴らの胡散臭さとは比べもんにならねェ、本物の――――陰の気配だ」

ほのかには、関わりはないだろうと断言する緋勇に、蓬莱寺は自分も同意見だと頷いた。
だが、ならば、彼女は、どんな理由で、ここに居るのか。


不吉な予想が、彼らの脳裏に浮かんでいた。
だが、それを言葉にする前に、遠慮がちに扉を叩く音が響いた。

「あの、遅くにごめんなさい。どうしても……、もう少し、お話がしたくて」

おずおずと入ってきたほのかは、蓬莱寺により、どうして切支丹になったのかと問われ、しばらく黙り込んだ。
きっとその為に――今も変わらず心に燻る炎の訳を聞いていただくために――ここに来たんですね、と、静かな瞳で頷いた。それは、今までの無邪気な少女の顔ではなく、深い哀しみを湛えていた。

「誰にも……ヴラド様にさえ、お話しした事のない過去の事です。その昔――――私が行くあてもなく、その日、その日を生きていた、ただ、それだけの存在だった頃の話」

秋の冷たい雨の中、ひとり震えていた彼女に与えられた温かみ。
怯える彼女に、自分の上着を掛けてくれた何の面識もない男性は、翌日、彼女の身代わりのなったかのように、寒さが原因で倒れ死した。

彼の無垢な心に気付けなかった己を恥じて。
《君は一人ぼっちではないよ》と――――囁いた男性の優しさが哀しすぎて。

泣き続けていたほのかは、不意に上着の懐に入っていた聖書の存在に気付いたという。
それが、ほのかの《主》との出会い。

こんな小さな私の存在でも、誰かの救いになる事があるかもしれない――――そう考えるようになった哀しく暖かい出来事。

「私を変えるために、その上着を差し出してくれたあの人のように。
決めたんです。私を主に引き合わせてくださったあの方に報いるためにも、私は決して、諦めないと」

穏やかな、それでも強い眼差しだった。

聞いて貰えてよかったと、嬉しそうに微笑んだほのかは、立ち上がり、ちょこんと頭を下げた。

「それでは、私はヴラド様と一緒に礼拝堂へ行ってきますね。おやすみなさい」



再び、どこにでも居そうな少女に戻ったほのかは、ぱたぱたと、早足で去っていった。
音が遠くなったのを確認した緋勇は、当然のように立ち上がり言った。

「では行くか」

一瞬呆気に取られた蓬莱寺であったが、すぐに納得する。
あんな話を聞いてしまったら、ますます、ほのかが疑わしいとは思えない。少女は、連中の仲間ではなく――贄。

「ああ。――――誰だッ!?」
「刀をおしまいなさいませ、お侍様――――」

嫣然と笑う女たちが、いつのまにか室内に居た。

「このような夜に、無粋な刀は不要でございますよ」

抜刀し、睨む蓬莱寺にも怯むことはなく、ヴラドの命令にて、仕事を――殿方の夜の慰みとして奉仕をしにきたのだと、凶った笑みで語る。

「さあ、そちらの御仁――――、わたくしとケムエル、どちらを御所望でしょうか?」
「その二択ならば、お前だな」

平然と答える緋勇に、サマエルの笑みは深まる。

「ふふッ、光栄ですわ」
「おい、本気か、緋勇ッ」

真剣に焦る蓬莱寺に、緋勇は苦笑した。
その二択ならば――だと言っただろうに。

「だが、屍肉を抱く趣味はない。今度はそちらが選べ。自ら消滅するか、滅ぼされるかを」

傲慢極まりない、問いの形をとっただけの宣言に、女たちの形相が歪む。

サマエルが何事かを呟くと、世界が一変した。

「なッ、何だ!? 先刻までいた部屋とは――――」
「こちらは、特別なお客様専用のお部屋ですのよ」

残念ですわと、彼女は微笑んだ。人にはあり得ない尖った長い牙を晒しながら。

「そうかい、どうも屋敷に入ってから妙な氣を感じると思ってたが、大森に出る化け物ってのは、みんなお前らの仕業か?」
「気付いていたのに、何で、逃げ出さないんですかあ? 馬鹿ですねえ〜……きゃうっ!!」

幼い嘲笑は掻き消えた。
原因は、自分より遥かに冷たい嘲笑。

「図に乗るなよ。魔に値しない雑霊が」
「どういうことだよ、緋勇」

剣に手を掛け、周囲を注視しながらも蓬莱寺は尋ねる。

対照的に、緋勇は構えることもなく、苦笑して応じる。
答えはお前が既に口にしていただろうと。

「《めいど》とかいう奴らの胡散臭さとは比べものにならい、本物の陰の気配がする――と。ヴラドが真の魔で、彼女らは力を与えられただけの従者だな」

嘗ては人であったもの。己の意思で、陰に堕ちた魂。

「この程度、普通に氣で消滅させられる。そちらは任せるぞ」



「そういえば、なぜ逃げ出さないのかと問うたな?」
「痛いです、痛いですう」

髪を掴んで、引き摺り起こす男に、少女の姿をしたものは、懸命に哀願した。
けれど効き目はない。冷酷な瞳は微塵も揺るがない。

「『力があるのに使おうとしねェ奴は、力がない奴より尚、救えねェ』からだ。道徳の先生の、有り難いお言葉だぞ」
「痛い、痛いのは嫌ですう」

どうしてこんな酷いことをされるのだろうと、少女は泣きたくなった。
崩れていく身体。信じられない激痛。光が身体を灼き、蹂躙する。

「お願いします、許してくださぁい」

己も同じ――いや、遥かに酷いことを、他者にしてきたというのに。
こんな酷い目に遭う己が哀れで、泣きそうだった。

「もう、あなたたちの血は吸いません。他のニンゲンからにしますからあ」

ゆえに、矜持もなく許しを乞うた。
余計なことを――許されないことを、口にしながら。

「……それが貴様の結論か?」
「あ……あぅ、やぁああ」

引きつった悲鳴が、少女の口から洩れた。
笑みさえ浮かべた青年の凶相は、恐ろしすぎた。

「ならば死ね。絶望的な苦痛の中で」



可能な限り純度を高めた陽の氣に、全身を灼かれのたうつ少女を、緋勇は顔色も変えず見下ろしていた。

「おい……やり過ぎじゃねェか?」

サマエルを倒した蓬莱寺が、咎めるように声を掛ける。
振り返った緋勇は、殺意も害意も消えた、ごく自然な表情で、心外だと応じた。

「目からうろこが落ちたのだぞ、膨大な量が。いつか己の大切なものを傷付けるかもしれん連中が跳梁している。ならば――力を持つ者が、止める努力をすべきだというのは、正しい」
「……道徳の先生とか言って馬鹿にしてたじゃねェか」

拗ねたように口を尖らせ、蓬莱寺は呟いた。

これはもしかしたら、からかわれているのだろうか。
だとしたら、敵対宣言をしてからの方が、まともに接されているというのだろうか。

「まるで茶化しているかのようだが、真面目にお前の言葉に感服したのだぞ。……犬も同様だろう」
「茶化しているとしか思えねェよ。……似た者同士だから、分かるってのか? 一番嫌い合ってるからこそ、相手の想いが理解できるのか?」

先刻感じたことを、言葉に出してみた。
まるで同じ反応。しばし呆気に取られてから、堪えきれずに笑い出した緋勇と犬神は、容貌はどこにも共通点がないのに、とてもとても似ていた。

「似ているか……否定はせんが、我らの最も嫌う者は、互いではない」

面にあるのは、確かな自嘲。普通の生を歩んできた者には到底不可能な昏い瞳で、緋勇は肩を竦めた。
息を呑んだ蓬莱寺に、緋勇は静かに訊ねる。

「たとえ話だが――大切なものたちを皆殺しにされ、自分は生き残ったとき、お前は何を最も憎む?」
「何をって……皆殺しにした奴に決まってるじゃねェか」

不思議そうに首を傾げた蓬莱寺に、緋勇は苦く笑う。

そこが違うのだ。前を向いて生きるか、後ろを向いて悔やむか。

無論、緋勇とて、皆を殺した柳生を、強く強く憎んだ。だが、一番許せなかったのは、防げなかった己。のうのうと生き残った自分自身。

「それはお前が前向き派だからだ。後ろ向きな俺は、最も憎んだのは己だった。おそらくあいつもな」
「……緋勇?」

たとえ話に、なぜ過去形を使うのか。
仮定に対し、なぜ痛切な表情となるのか。


「……大丈夫か? 龍斗、蓬莱寺――――」
「お前ら……。よくここがわかったな」

だが、蓬莱寺が緋勇を問いただす前に、突然現れた雄慶によって遮られた。

犬神から話を聞いて、急いで来たのだと桜井が続ける。
詳しい場所は知らなかったが、近くまで来たら、美里が嫌な気配を感じとったのだと。

犬も随分と進歩したものだと感心する緋勇をよそに、龍閃組は崩れていく少女たちを悲壮な眼差しで見つめる。

「ミカエルの聖なる氣を使って、いつか我らを真なる夜魔族にと――――そうおっしゃったのにッ。今ごろ、あの化け物は、ひとりで――」

言葉すら発せずに消えたケムエルと違い、サマエルは最期までヴラドに対し恨み言を残して、消えていった。

「消えちゃった……」

呆然とした桜井の呟きに、美里は瞳を閉じ、十字を切った。

「彼女たちは、そのヴラドという人に、利用されていただけなのかも……。せめて、彼女たちの魂が救われるように、祈ってあげましょう」

聖女のお優しい言葉に、緋勇は見えぬ程度に口元を歪めた。
利用も何もない。確かに彼女たちは騙されていた。紛い物のままだった。

だが、己が不老不死と成る為に、他者の命を喰らっていたのは、彼女たち自身の意思。
同情する余地があるとは思えなかった。

「そうだッ、あの娘たちがいってたのって――――《儀式》とか《ミカエル》とかって、何の事?」
「《儀式》とかいうのは何の事かわからねェ……。けど、ミカエルってのは――」

ミカエルと呼ばれていたのは、ほのか。
無垢な少女と、邪なる化け物と《儀式》。予想可能な展開の内に、楽しいものは一切ない。

「儀式の内容も、大体想像がつく。地下の礼拝堂へ急ぐぞ」


「よくぞいらした、龍閃組の諸君!! 私の可愛いメイドたちを退けてここまでやって来るとは……なるほど確かに、ニンゲンにしてはやるようですね」

最早隠す気はないのだろう。人ならざる紅い眼を煌々と輝かせ、ヴラドは笑っていた。
そして、龍閃組の名を知る以上、敵は彼だけではない。

「俺の名は、鬼道衆が一人、火邑――――てめェらを地獄の業火で焼き尽くす者の名よ。しっかり頭に叩きこんどきなッ」

じごくのごうか。

もうひとり現れた――見知った男の宣言に、緋勇は正直恥ずかしいと思った。
流石は、妙に詩的なところのある男だとも思った。梅月と詩人対決をしたら、中々見物かもしれないとさえ、呑気に構えていた。

だが、目つきが、一挙に剣呑に変わる。

「そこで見ているがよい。これより我が眷属により、この世は闇に包まれるであろう。再び、我ら夜魔族が、万物の頂点に君臨する刻が来たのだ。見よ――――」

ヴラドが芝居がかって示したのは、十字架に磔にされたほのか。
御神槌の礼拝堂にて見た《主》の姿の如く。

「この娘の汚れ無き魂とその身体は、我ら夜魔族が、長年、捜し求めてきた《器》――――」

続く長ったらしいヴラドの高説には耳を貸すことなく、緋勇は目を閉じた少女だけを見ていた。

「ほのかッ!!」
「意識が混濁しているようだな。ここからでは声は届かんか」

蓬莱寺の呼び声にも反応はない。
雄慶が冷静に、悔しげに呟く。

拘束は、術によるものなのだろう。
身じろぐことさえない彼女に、蓬莱寺が懸命に呼びかける。

「お前はいってたじゃねェか、雨の中で変わったと――――、上着をかけてくれた男に変えてもらったんだと……。そいつはお前を信じて、託したんじゃねェのか!?」
「フフフ、無駄な事を。ミカエルはもう、我が術の虜だ。その心はもう、決して、この世界に戻る事はない――――ぶふッ」

勝ち誇っていたヴラドの顔面に投げつけられたものは、客室にあった聖書。
無論投じたのは緋勇。

聖書の神性と、純粋な重みと勢いとに、顔を抑え苦しむヴラドは完璧なまでに無視し、緋勇は静かに告げた。

「まるで己の代わりになるかのように、男は死んだと言ったな?」
「緋勇さん、蓬莱寺さん……私」

欠片も動揺しない『客人』の態度は、理解できなかった。
だが、うわごとのように力なく呟くほのかの弱々しさに、ヴラドはどうに虚勢を取り戻した。

「生きる――それが他者の代わりに残った者の義務だ。……目を覚ませ」
「無駄だといって――――ッ!?」

だが、折角気を取り直したヴラドが、もう一度踏ん反りかえる前に、異変が生じた。

「な、何だ、この光は」

ほのかより溢れた光が、彼女を拘束するものを断ち切った。いや、焼き切った。
美里が癒しを行使するときに近い、だが、それよりも苛烈な光が――炎が、彼女を包む。

「馬鹿なッ、聖なる火だとでもいうつもりか!?」

ヴラドの驚愕と――恐怖さえ混じった叫びも耳に入らないのか、ほのかは己の周りに浮かぶ炎を眺め、呆然と呟く。

「私……私にこんな《力》が? 炎が、まるで私を護ってくれるみたいに」

ふと、間近にいる緋勇に気付いた。
慌てて、ほのかは身を引こうとした。炎が彼を傷付けないように。

「危ない……え?」

護るように囲う炎に臆することもなく、緋勇はほのかの頭を無造作に撫でた。
別に無謀ではない。彼女の炎が、緋勇に害為すことなどありえない。彼女の力――四神が一角、朱雀の力は、彼を護る為に在るのだから。

緋勇は、彼女の中に、涼浬を見ていた。
妹のような少女。懸命に護ると言ってくれた眷属のことを。

ゆえに、緋勇は、ほのかの頭を笑みながら優しく撫でた。

「よく頑張った」
「緋勇さん……」

邪魔者を排除する筈の罠は、機能せず。
絶対の闇の拘束は、贄に破られた。

更には、この上なく存在を無視されて。

「こんな……、こんな小さな島国で、たかがニンゲン如きにこの私が遅れを取るなど――――」

高位の夜魔族は、屈辱に震えながら呟いた。

「化け物にゃわからねェだろうが、その、たかがニンゲンってのはよ、ここぞって時にすげェ《力》を発揮したりするもんよ。てめェも惨めに死にたくなけりゃ本性見せて、俺様に力を貸すんだなッ」

どちらの味方か分からぬ台詞にて、ヴラドを叱咤する火邑に対し、言うべきことがあったことを緋勇は思い出した。

「我が《血》よ、我が《力》よ――――今こそ、ニンゲンなど歯牙にもかけぬ力をッ!!」

それゆえ、懸命に存在を主張しようと、姿を禍々しく変えるヴラドのことなど、視界の片隅にさえ入れず、火邑を睨みつけた。

「お前な……『ホムラがいるからホノカは大丈夫だ』と言って、クリスはこの館を出たのだぞ? なのに、その馬鹿が彼女を犠牲にしようとしてるのを、愚鈍に眺めていたというのか?」
「……全ては御屋形様の大義の為に」

感情を押し殺した声で応じた火邑の言葉と同時に、轟音を立てて、礼拝堂の椅子がいくつか吹き飛んだ。
憤怒の表情で――単なる腹いせで、緋勇が蹴っ飛ばしたが為に。

「一度死ね、単純馬鹿。そんな風に思考停止しているから、お前は心の炎閉じ込めた箱を埋めたり、鴉の名前を忘れたりするのだ。この痴呆が」
「なななな……なんでてめェがそんなこと知ってるんだよ」

星神の導きが語ったのだと、仲間の星詠みの青年のような台詞を口にした後、緋勇は口元を歪め、悪人の笑いを浮かべた。

「どうせ場所忘れただろう? 後で掘り出して、皆の前で朗読してやるからな」
「て、てめェッ!! 大体、辿り着けねェだろうが!! 方向音痴のてめェがひとりで……あ?」

勢いのまま怒鳴り散らしていた火邑は、己が発言内容に首を傾げた。
まるで当然のように、常識以前のように思ったのだ。緋勇龍斗は方向音痴だと。

「欠点を責めるなど、人間がなってないな」

散々馬鹿だの単純だの口にした緋勇は、自分のことをこの上なく棚に上げて憤然とした。
火邑が何事か言い返す前に、緋勇はもう一度椅子を蹴飛ばし、火邑との間にあるものをすっかり退かした。

「お前は、人を傷つけて、苦しむ性質ではない。ゆえに幕府の連中相手ならば、いくら暴れようともどうでもいいと思っていたが――対象が彼女となるのなら話は別だ」

両の拳を合わせ、冷たく告げる。

「九割ほど死ね。その面白い巨大蝙蝠は、お前たちに任せるぞ」

背後で雄慶が頷いたことを確認し、緋勇は、意識を火邑に集中した。



「馬鹿がッ!! 遮蔽物を自分から無くしやがって」

鉤爪と炎と――砲弾が彼の武器。
無策にて、一歩踏み出した龍閃組の拳士に狙いをつけて、火邑は叫んだ。

「完全に避けるから、無問題だ。それより訂正しろ。お前に馬鹿と言われると、とても傷付く」

返答は、横から聞こえた。
確かに前方に居たはずの拳士が、間近より、乱暴に殴りかかってくる。

「――ッ!? 無礼な野郎だなッ!!」

咄嗟に鉤爪で受け、怒鳴り返した火邑に、緋勇は顔を顰めた。
それもお前に言われたくないと呟き、氣を練る。

「炎よ――――ッ!!」

この至近距離にて、大砲を使えば、己も巻き込まれる。
ゆえに炎氣を放った火邑は、緋勇の笑みに気付いた。

思い切り勝ち誇っていた。馬鹿め――と顔に書いてあった。

「秘拳 玄武」

体内で練った膨大な凍氣を、緋勇は一気に放射した。
炎氣と凍氣。水克火。水は火に勝つ。

「がッ」

炎はかき消され、まるで全身が凍りついたかのように固まる。特にからくりである両腕は酷い。持ち上げることさえできぬ火邑は、勝利宣言を聞いた。

「たこ殴りッ!!」

叫んだ技の名前が通常と違ってはいたが、それは息もつかせぬ連撃。本来であれば八雲という名の、緋勇の純然たる打撃技の極意。

薄れる意識の中で、火邑は歯噛みした。
命すら刈り取る氣を使わずに、わざわざ殴る蹴るを選択するあたりに、この男の性質の悪さが現れていると思った。



「……ぼろ衣のようになっているぞ」
「頑丈だから平気だろう」

心配そうに火邑を覗き込む雄慶に、下手人は平然と応じた。
そちらも終わったのかと、緋勇が僅かに離れると同時に、旋風が吹いた。

「火邑がここまでやられるとはな……」

現れた鳥面の男の姿を認め、緋勇はああ良かったと、胸を撫で下ろした。

苛立ったあまり、やりすぎた自覚があった。
いくら頑丈な火邑とはいえ、この状態から単身で退くことは困難だったろう。

「嵐王。……何でここに」

意識を取り戻し、呟く火邑に、嵐王は苦笑と共に告げる。

「深入りするであろう御主を連れ戻すよう―、若の命だったのだが……まさか、こうなるとはな」

敗れる可能性は考えていた。退き時を誤る彼も予想していた。
だが、こうまで良いようにやられているとは、想定外であった。

「……御屋形様の命令じゃ仕方ねェ」

この状況においても、まだ不満そうな火邑を抱え上げ、嵐王は指示を出した。
頷いた火邑が放った炎に、風を送る。


「くそッ!! 待ちやがれッ!!」
「待て、蓬莱寺ッ!! 焼け死ぬぞッ!!」

風が炎を巻き上げる。
凄まじい速度で、一帯を炎を舐めていく様に、飛び出していこうとする蓬莱寺の首根っこを引っ掴み、雄慶は怒鳴った。

「あーッはッはッはッ!! あばよ、龍閃組ッ!!」
「では、また会おうぞ」

遠ざかっていく声の方向を眺めていた緋勇は、微かに苦笑してから、視線をほのかへと向けた。

「ほのか……この炎を消せぬか?」

最適である涼浬は、この場には居ない。だが、力の方向性が同種の彼女ならば、もしかしたらと思った。

「は、はい、試してみます」

青い光がほのかを包む。半眼となった少女の祈りに従うように、炎は幾分か勢いを失ったが――全てではなかった。
すぐに新たな炎が生じ、変わらぬ勢いを取り戻す。

悄然とする少女に、力の種類が異なるのかもしれんから気にするなと、緋勇は軽い調子で告げた。

「こんな場所などどうなっても構わんが……お前の居場所でもあったところゆえ、少しでも残ればと思ったのだがな」
「あ……」

緋勇の言葉に、ほのかは思わず声を上げた。

全てが偽りだった。大切にされていたのは、生贄だったから。
それでも、確かにここは、己の家――故郷だった。

「早く、地下礼拝堂から出ましょうッ」
「うむ。急げ――――」

心配する人たちに頷いたほのかは、最後にもう一度だけ振り返った。

魔により偽装された場。邪悪な儀式の為の空間。
けれど、捧げた祈りは真実。

兄のような優しい青年と共に幾度も祈った心の拠り所に、深々と頭を下げ、ほのかは礼拝堂を後にした。

「別れは済んだか?」

待ってくれていた緋勇の問いに、ほのかは頷いた。

「はい、お別れと――お礼を言ってきました」


「お屋敷……、誰もいなくなっちゃったね」

すっかり焼け落ちた屋敷を眺め、桜井は呟いた。
寂しそうに頷いたほのかは、あの方のために何もできなかった――と、目を閉じ、祈りの言葉を口にした。

「あの方の苦しみを理解する事もなく、あの方の理想を解する事もなく――――ただ傍にいる事で、何かを成しているような気になっていた。あの館で、ただのうのうと暮らしていただけ」
「少なくとも――クリスはお前に救いを見ていたろう? 過ぎた謙遜は、お前に好意を持った者への侮辱になるぞ」

表面上は乱暴な、だが優しい言葉に、ほのかは、思わず目を開けた。
綺麗な――感情の薄そうな青年が、今は確かに笑いながら、『俺や蓬莱寺とかにな』と続けた。

「緋勇さん……ありがとうございます」

ほのかの頭を優しく撫で、緋勇は命じる。

「泣いても悔やんでも良い。だが――顔は上げていろ」
「……はい」

涙は零したまま。
それでも笑えたほのかに、緋勇はそれでよしと頷いた。

「……龍斗クン、意外に女たらしだ」
「桜井は酷いことを言うのだな。女たらしではない――女の方が可愛いだけだ」

桜井の呆れたような感想に応じたのは、真顔だった。
人の道でも説いてそうなほどに、真摯な表情であった。

「龍斗クン……天誅!!」
「弓は危ないだろう、弓は」

さすがに射ってはまずいと思ったのか――それでも充分に危険なのだが、弓をぶんぶんと振り回しながら、桜井は緋勇を追いかけた。

「ふふ――」

ほのかは涙を拭い、微笑んだ。
呆れたように緋勇と桜井を眺める人々へと向き直り、しっかりとした様子で宣言した。

「私、あなた方について行きたいと思います」
「本当にいいのか? 俺たちと来るって事は――――時には闘わなきゃならねェって事だぜ?」

わかっています。
ゆっくりと頷くほのかの意思は、固いようであった。

「真弓白弦取り!」
「聞いたことないよッ、そんなの!!」

ひょいひょい躱していた緋勇が、やがて疲れたのか、はしッと両掌で弓をはさみ止めていた。
確かに、それは、真剣白刃取りといわれるものに酷似した体勢ではあったが、何かが妙だった。

間抜けた構図の片割れに、ほのかは優しい眼差しで頭を下げてから続ける。

「だけどそれこそが……主が私に指し示してくださった、新しい道だと思うんです。それに、何より私自身の心が、あなた方とともにありたいと、そう、望んでいるから」


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