「ここが、先生のいっていた金王八幡神社ね」
「立派な神社だね……アレ? どうしたの、雄慶クン」
不思議そうに桜井は首を傾げた。
元より雄慶はそれほど口数が多くは無いが、今日は無口というよりも、上の空という方が正しかった。
「ん? ちょっと、気になっている事があってな。先生の様子が、いつもと違うように思ったんだが」
どう思う――と話を振られた緋勇は、それはそうだなと頷いた。
朝早くから呼び出され、神社を訪ねろという任務の他に、長々と夢を語られたのは、緋勇ひとり。
身分や貧富に関係なく、誰もが学べる場所を創りたい――と。
『若い連中がさ―――明日のために語り合い、希望を胸に生きていける。無益な争いもなく、理不尽な法もない。そんな世の中にするために、皆がいろんな事を学べる園って奴をね』
微笑みは儚すぎた。
気丈な彼女とは思えないほどに――まるで、何かを予見しているかのように。
「う〜ん……ボクも心配だなァ。このまま何事もなく、用事が済めばいいけど」
境内に入るでもなく、結構な大声で会話する一行が気になったのだろう。
ゆらりと――大きな人影が現れる。
「まったく……人ん家の庭で、うるさい奴らだ」
「わ〜、大きな人。雄慶クンより大きいよ」
随分と大柄な老人は、金剛と名乗った。
似合わぬ事に、この神社の神主だという。
飾りだけの立場ではないらしく、緋勇に目を留めた彼は、真剣な表情となった。
「儂も長い事、色々な者に会ってきたが―――、お前さんのような《氣》の持ち主は初めてだ。――まるで、この大地を流れる氣の様な。お主、本当に人の子か?」
「さて。河童の化身かもしれませんな。いや、狸かも」
この種の問いに飽きている緋勇は、肩を竦め適当に答える。
言外に、関係なかろうとの意思を込めて。
「うわっははははははッ!! なるほど。お主が、人であろうとなかろうと、確かに儂には関係ないな」
とぼけた返答が気に入ったのか、金剛は豪快に笑ってから、表情を引き締めた。
百合嬢ちゃん――時諏佐より話は聞いていると、彼は率直に語るべきことを語り出す。
天海僧正により、江戸に敷かれた風水の陣。
寺社による核、四神相応の吉相、幾重にも描かれた曼荼羅の如き、強固な結界。
だが、いかに強力であろうとも、内側から壊す事は可能なのだという。
「人心の乱れは龍脈の乱れ。鬼共が、乱れに乗じて、この地の護りを破ろうとしているのは確かだろう」
今時分、そんな話をしていたなと、緋勇は記憶を辿った。
人の念が強く集う場所を乱しているのに、一向に結界が壊れる気配がないと悩んでいた。
「鬼道衆は意図的に、怨念の澱む場所を荒らして、江戸の結界を壊そうとしているという訳だ」
天海僧正の張った結界は、そう簡単には壊れぬ。
それゆえ、鬼の考えが次の段階に進むかもしれないと、金剛は唸った。
「結界を破る方法は、結界を張った人間に聞くのが一番よ」
とうに死していようとも、方法はある。
力ある巫女による《口寄せ》であれば、不可能ではない。
「鬼道衆の次の目的は、天海殿を現世に喚び寄せる事かもしれぬ―――、神主殿の話をまとめると、そういう事になるだろう」
「後は、相手が、どれだけ外法というものに通じているか―――それ次第よ」
確かに――思いっきり、彼らの推察通りの展開により、口寄せの巫女を探していた頃合であったはず。
そろそろ桧神の資質を知ったころであったか。
「神主さん。ありがとうございます」
「えへへッ、それじゃ、またねッ」
見送りに来た神主に頭を下げ、明るく手を振る少女らと違い、緋勇と雄慶は、やたらと悩んだ顔で物思いに耽っていた。
緋勇は記憶を辿る為、雄慶は説明内容を深く考察する為と、理由は異なっていたが。
「まッ、ここでこうしてても仕様がねェ。団子でも食いながら考えようぜ」
どちら側にも入れない蓬莱寺は、敢えて軽く会話を切り出した。
尤も、元気に乗ってきたのは、桜井であったが。
「ボクも京梧の意見にさんせ〜ッ!! お団子屋サン探しに行こうよッ!!」
「見渡す限り、草、草、草ッ!! どこに団子屋があんだよッ!!」
「そんな事をいっても仕方ないだろう。この辺りに店が見当たらないのだから」
当然のことであった。
店はおろか、民家すらない。
だから田舎はいやだなどと駄々をこねだした蓬莱寺を、呆れたように眺めていた雄慶が、不意に口を開く。
「そうだ。団子よりも、いいものがあるぞ、蓬莱寺」
彼が示したものは、とある花。
秋口に咲く、千振という花。
「千振は、薬草の一種で、とても健康に良いのだぞ」
「健康に良いったって、草だろが。俺は、もっと旨いもんがな―――」
人の食せる物というのは、何も店で食えるものばかりではない。
山には山の、海には海の幸というものがある。
自然の中で、自然の物をそのまま食す。
それを、贅沢といわず何といおうか。
蓬莱寺の抗議は、すらすらと続く雄慶の演説に流された。
説得されそうな蓬莱寺の様子に、さすが坊主は口が上手いと、緋勇は感心した。
「ちッ、仕方ねェ。草で、口寂しさを紛らわすとすっか」
「ああ、この近くのものより、あの辺の花の方が、活きが良いぞ」
素直に向かう蓬莱寺の背を眺め、緋勇は奇妙に静かな声で口を開いた。
「……なあ、雄慶」
「なんだ?」
千振とは『千度振り出しても、まだ苦い』といわれる程の苦い薬草だったはず。
ましてや野にあるものを、そのまま食せば、どうなることか。
「気のせいでなければ、千振とは凄まじく苦くなかったか?」
「ふむ。気のせいではないぞ。ゆえに、遠くで食すように言ったのだ」
蓬莱寺のことを五月蝿いと思ったゆえの、雄慶なりの報復なのだろう。
緋勇は、蓬莱寺をかなり気の毒に思った。
あの甘党が、これから味わう苦しみを思うと、涙が零れそうだった。
実際に彼がとった行動は、すたすたと、雄慶から離れることであったが。
「いっただっきま〜すっと」
一気に口の中に放り込む蓬莱寺に、緋勇は信じても居ないのに神仏に祈ってやっていた。
まあ、これで、彼も野にあるものを、一挙に口にすることは危険だと学ぶだろう――実体験から、切実に。
劈く悲鳴。
七転八倒したのちに、根性で持ち直したのか、蓬莱寺は雄慶へと駆け寄ってきた。
「で、でべェ〜。じだが、いがでだらどぶずんだッ」
「ん? 何をいっておるのかわからぬな」
離れておいて良かったなと、緋勇は他人事のように眺めていた。
笑う雄慶を、蓬莱寺が蹴り飛ばす様まで。
「でりゃッ!!」
「ふんッ!!」
「おりゃッ!!」
続くかなり高度な闘いを、緋勇が眺めていると、花を見ていた桜井らが戻ってきた。
「……何やってんの? 二人とも」
「喧嘩だな。理由は忘れた」
自ら止める気は欠片もなさそうな緋勇の返答に、桜井は眦を吊り上げてから、間に入った。
「まったくもう、目を離すと、すぐ喧嘩すんだから」
まるで子供に対するかのように叱られ、ふたりとも、流石にばつが悪そうに俯いていた。
くくっと時折声を漏らしながら、笑いを噛み殺している緋勇を揃って睨みつけるも、ここで食って掛かれば更に桜井に叱られるであろうから、どうにか我慢していた。
「まったく……龍斗クンも見てないで止めなよッ」
腹立たしげに、飛び火で怒られた緋勇は、澄ました顔で肩を竦めた。
「努力をしようかと一瞬思ったが、面倒に思う心と高みの見物をしたがる心が圧勝した」
身も蓋もない答えに、桜井は大仰に溜息を吐く。
まァ、確かに、見てるとそこそこ飽きないけどさ――という、半ば同意する言葉に、楽しげな笑い声が被さった。
「ふぉふぉふぉ、若い内は、それぐらい元気があって結構、結構」
この先の泉岳寺に小用があったのだと笑うのは、円空であった。
彼はしばし談笑した後、笑いを消して、時諏佐は元気かと問うた。
やはり彼もまた、時諏佐の様子に不安を覚えていたのだという。
「実はな―――。城内の幕臣から聞いた話だと、幕府が、新たな兵を江戸に投入するらしい」
それが何かを考え込んでいた理由ではないかと、円空は語った。
兵の投入により、火盗改と龍閃組の存在意義も問われている――とも。
「江戸を護る組織は、幾つもいらぬ――か」
「ふざけんなッ!! 必要な時は使って必要なくなったら、乗り換えかよ」
皮肉に笑った緋勇に、蓬莱寺が怒鳴りつける。
あまりにも身勝手な理屈を――緋勇は予測していたかのようであったから。
まだ正式に決まったことではないと、取り成しながらも、円空の顔色は優れなかった。
「今は、あまり気にせん事じゃ。百合にも、そう伝えてくれ」
残念ながら、団子を食いに行っている場合ではない。
蓬莱寺と桜井も、そう認識し、鬼道に心当たりがありそうな人物――遠野 杏花を訊ねることとなった。
当然の成り行きとして、緋勇は仏頂面を晒しながら最後尾に居たのだが――、最初に顔を顰めた。
遠野は、どうやら留守らしく、その上、酒臭い男が現れた。
いつものように言葉さえ交わさず険悪となる緋勇と犬神に、皆が心を砕いていたところ、犬神は気になることを口にした。
「何か御存知でしたら、教えて頂けませんか?」
「ふんッ。別にお前らに話す話はない」
巫女について、明らかに何かを知っているであろうに、犬神は先へ進もうとした。
だが、いつの間に移動したのか、進路上に存在する青年を睨み、低い声で告げる。
「さっさと、そこをどけ」
「……乗り越えていったらどうだ?」
「……そうさせてもらうか」
双方の殺気に、空気が凍える。
犬神が手にしていた酒瓶を置こうとした瞬間に、無理矢理間に入った少女が居た。
「お願いしますッ!!」
ふたりの剣呑な目付きが揺らいだ。
前回、時諏佐を傷付けずに済んだのは、運の度合いが強かった。
流石に――もう一度運試しをするつもりはなかった。
「ちッ……。巫女には、二種類あってな。神社に仕える《神和》と、祈祷や占いを生業に町に住みついている《口寄せ》がそれだ」
不承不承ながらも、犬神は一歩引き、語りだした。
少なからず江戸に住みついていた口寄せ巫女が、急に姿を消すという事件が、近頃相次いでいるらしいのだと。
後は知らんと進む犬神に、緋勇は今度は抗せずに道を譲った。
「巫女が行方不明って、まさか……」
呟く桜井は、既に青褪めていた。
既に後手に回っているのならば、なおのこと猶予が無い。
「本気かよ。やつら、天海の霊を喚び出そうってのかよ」
目的地もなく、遮二無二駆け出そうとした蓬莱寺を、必死な声が呼び止めた。
「あッ、あれはッ!! もしや、緋勇殿ではッ!?」
「本当だッ、それに蓬莱寺殿もッ!!」
ばたばたと土煙を上げて走ってくるのは、顔だけは見覚えのある男たち。
「臥龍館の羽柴と申します。こっちは、東藤」
血相を変えた彼らが語る内容は、緋勇には想像通り。
他の皆には驚愕の事実。
『鬼道衆に桧神が攫われた』
「けどよ……あいつをそう簡単に」
彼女の腕を知っている蓬莱寺が呟き、考え込んだ。
その言葉に、門下生たちは視線を交わし、決まり悪そうに俯いた。
「そ……それは」
「何だよ、なんかあったのかよ」
きつく問う蓬莱寺に、緋勇は僅かに溜息を吐いた。
まさか、お嬢さんは色々あって酒に溺れていたとは、門下生には口にできまい。
「……道中、俺が話す」
訝しげに見る蓬莱寺に、目だけでしばし待てと語り、緋勇は歩き出した。
明らかに安堵した表情の門下生たちは、同時に深々と頭を下げた。
「……すまぬ」
「お嬢さんを、よろしく御頼み申すッ」
「どういうことだよ」
「桧神は、お前に負けたあと、幕府の任務で例の屋形船の護衛につき――鬼道衆に敗れた」
問題はその後でな――と少しの間、緋勇は言いよどんだ。
あまり事情を知っているのはおかしいのだが、自分が疑われるのも今更な話だと思い直す。
「震えているだけであった幕府の屑どもに、所詮女か――との決め台詞を吐かれ、彼女はすっかり沈み込み、酒に溺れた」
「嘘……だろ?」
蓬莱寺の知る、毅然とした女剣士の姿とは違いすぎた。
だが、先程の門下生たちの、目を合わさず言いよどむ様が、事実だと裏付けてしまう。
「霊媒としての素質が酒で前後不覚になったことで最大に発揮されてな、夥しい怨霊を集めていた所を、鬼道衆に半ば保護されるように連れ去られた」
腕など関係ない。闘ったわけではない。
怨霊を散らし、気を失っていた彼女を――持ち帰っただけの話。
「しかし桧神を連れ去る段階まで話が進んだとなると、もう一刻の猶予もないな」
「でも、どうすればいいの? とりあえず、美冬サンが消えたっていう等々力に行ってみる?」
確か友人は等々力に篭ると言っていたはず。
緋勇が頷こうとしたときに、威勢の良い声が響いた。
「はっはっはっはっ!! いや、いいっていいって!!」
豪快な笑顔で、頭を下げようとする老女を留めるのは、顔見知りの戦巫女。
「お力って、単にとり憑いた四ツ足を手荒に叩き出しただけじゃないか。そんな、一日で百も二百もできるような事にお礼なんてよしとくれ」
普通はできぬであろう奇跡を為しながら、謙遜でなく笑う。
龍閃組に気付いた彼女は、為したことの説明をした。
外道憑きに対し、『ちょいとでっかい声を出して脅かしゃ、すぐに尻尾巻いて逃げてく』だのと言い切れる力量を持つ巫女など、そうそう居るはずがない。
だが、最近はそんな巫女もなかなか見つからないなどと、葛乃は嘆かわしいと言わんばかりの口調で平然と語る。
「そうだ、葛乃殿。お主に訊ねたい事があるのだが、お主―――鬼道という言葉について、何か思い当たる事はないか?」
雄慶の問いに考え込む葛乃を眺め、確かに彼女は訊ねるのに、最適な人物だなと、緋勇は納得した。
自身も優れた巫女であり、何より彼女の――織部の社が奉るのは九角。
「なるほどね……。天海の霊を喚ぼうってのかい。鬼道衆も考えたもんだね」
鬼道衆と口寄せと江戸の結界。最低限の情報のみで、彼女は納得した表情で頷いた。
「そういう事なら、話は早い。あたいと一緒に等々力渓谷に行ってみないかい?」
「等々力渓谷ッ!?」
先程も聞いた地名に、桜井が叫ぶ。
臥龍館の桧神 美冬が、等々力で行方不明になったとの話に、葛乃は表情を引き締めた。
「美冬が? そうかい……。等々力で鬼道衆らしき者の姿が目撃され―――、天海を《口寄せ》するための奸計がこの江戸の陰で進んでいる」
整理するように呟いた彼女は、等々力は、ただ九角家の終焉の地だというだけの縁ではないのだと続けた。
霊的な氣が濃密に流れているのだから、行ってみれば、何か手掛かりが掴めるかもしれないと結論付けると、力強く宣言した。
「じゃ、あたいについてきなッ。ぼやぼやしてると追いてくよッ」
「はッ、走んのかよ!?」
蓬莱寺が聞き返したが、葛乃は既に走りだし、全く聞いていなかった。
当然だと言い捨て、雄慶も、そして皆も後を追う。
鬱蒼とした渓谷に辿りつき、皆がある種の予感に足を止める。
ただひとり、美里だけは呟き、一歩踏み出した。
「こんな処にあったのね……。九角家が、かつて、幕府の手によって滅びた場所―――」
「待ちなッ。動くんじゃないよッ!!」
憑かれたように先へ歩みを進めようとした美里の衣を掴み、葛乃が鋭い目で呟く。
きな臭い――と。
「はッはッはッは!! 流石は、幕府の狗。鼻だけは、よく利きやがる。――あと三歩進めば、俺様自慢の連発砲で粉々にしてやろうと思ってたのによッ」
妙に上機嫌で現われたのは、見知った戦闘狂。
柄の悪い男に臆することもなく、葛乃は不敵に笑った。
「へェ、随分といい腕を持ってるじゃないか。文字通り、腕と一体とは、これ以上理に適ったもんはない」
「こいつは面白ェ。俺様の腕を見て怖がらねェばかりか、褒めたような口を利く。こいつは一体、どこの虎御前だ?」
男女間とは思えぬ、色気など欠片も無い心の繋がりが、またも出来上がった。
――新たな恋敵ができてしまったぞと、緋勇は九桐に忠告したくなった。
「もっと自分に正直になれよッ!! 一線を跳び越えて、頭ン中真っ白になって―――、そんな瞬間のために、てめェらも闘ってんじゃねェのか!?」
愛の三角関係に思いを馳せ、あまり真面目に聞いていなかった緋勇は、火邑の問いが自分に向けてのものらしいと知り、端的に応じた。
「五月蝿い。邪魔だからどいていろ」
相手をしている暇は無い――はっきりと告げる眼差しに、火邑は怒りを込めて叫ぶ。
「て、てめェ―――、俺様を、そういう目で見やがるかよッ!! 自分だけは違うってのかよ!?」
「違う……違うわ。私たちは、決して闘いを楽しんでいる訳じゃない。誰かが傷ついて、血を流すのを、見たい人なんているはずない」
憤怒の叫びに、よりによって、最も遠い位置に居るであろう聖女が応える。
日本の良き行く末を創るために闘っているという言葉に至っては、火邑は堪えきれないように笑い出した。
嘗ては、自分も同じように考えていた維新志士だった。
だが捨石とされ、悟った。
濁流のような歴史から見れば、自分など、いくら足掻こうと何も変えられない兵隊蟻に過ぎないと。
「何も変えられねェなら、せめて持ち合わせた力で命のやり取りを楽しんでやろうぜ? なァ?」
哄笑する火邑に、緋勇は自制心がぶち切れるのを自覚した。
火邑とて、救いたい友。大切な仲間。
それでも握る拳が震える。
彼は、緋勇の目的を――今ここに在る意義を、根底から否定した。
「哀れな盲信を押し付けるな。俺は歴史を変える為に、ここに居る。どけ――さもなくば、殺すぞ」
前に相対したときと比ではない怒りの氣に、火邑の口元が吊り上る。
「馬鹿が、哀れなのは、てめェのほうさ。てめェはいかに自分がちっぽけか分かっちゃいねェんだよッ」
兵隊蟻に、闘う以上の何ができるというのだ。
最初に会った時から、分かっていた――と、陰気を纏い、火邑は笑う。
「お前は俺様と同じ―――、闘うために生まれてきたケダモノなんだってなァ!!」
完璧に表情を失った緋勇が、無言で歩みを進めた。
出会った頃のような冷たい顔に、美里が蒼白になる。
無論、緋勇としては殺す気は無かった。
元から火邑は優れた攻撃力の反面、隙も多い。今現在の実力差から言えば、少々ではなく冷静さを失っていようとも、殺さずに倒せる。
「さァ、遠慮はいらねェ……。目一杯、楽しもうじゃねェかよッ!!」
だが、美里には、そんな僅かに残された計算は理解できない。
殺し合いの誘いに応じるかのような緋勇に耐え切れず、叫び、間に入った。
「何も変えられないだなんて、そんな事いわないでッ」
「ば……どけ、美里ッ!!」
火邑は犬神とは違う。
ある意味では、平等主義者。
向かってくるものは――敵は、女であろうとも、おそらく子供であろうとも、殺せる。
「思い出して、火邑さんッ」
なのに緋勇に従うどころか、美里は火邑にしがみついた。
「志士として、この国の行く末を憂いていた頃のあなたを……。あなたは忘れているだけなのよ」
だが、流石になんら武芸に長けぬ美里を手に掛けるのは、心が痛むのか。
火邑としては破格に温厚なことに、ただ振り払おうとした。
「思い出せ? そうしてどうなる? 俺様は俺様だ!!」
「ええ、そうよ。あなたはあなただわ。あなたが、あなたである以上は、まだ遅くはないの」
心の臓を鷲掴みにされたかのような火邑の表情に、緋勇は今更に思い出した。
火邑もまた『御屋形様より珠を授けられた』と信じる者のひとり。
変生させなければ、救うことはできなかったのだと。
「ぐううッ!? な……何なんだ、こ、コイツは……!?」
危うく、魂を殺しかねなかったことを、緋勇は心で詫びた。
そして――まともに相手をしてやれぬことにも、同じく。
獰猛な鬼に対し、緋勇は真っ直ぐに歩いてゆく。
雑霊を引き受けた者たちが、目を見開くほど無造作に。
豪腕を揮おうとした鬼は、目の前に居たはずの愚かな獲物の姿を見失い、引いた腕を途中で止めた。
「悪いな」
声は後ろから聞こえた。
振り向く猶予などなく、一呼吸の間に、連続で氣が叩き込まれる。
相克たる凍氣であったため、鬼の高い防御力も意味をなさなかった。
「うくッ……。な……何が起こった」
鬼に変じていた。
そう聞かされた火邑は、自分に相応しい姿だと自嘲した。
血と泥と硝煙でできた世界で生き延びるためには、闘わなければならないのだと、己に言い聞かせる火邑に、葛乃は首を振った。
あんたは、ただ怖かったのだ――と。
「欲望の赴くままに闘ってきた己を捨てて、陽の当たる道を選ぶのが怖かったんだ。忌まわしい記憶の呪縛から逃れる事もできず、闇に身を委ねていた」
怖かったから、闘った。
そうすれば、その弱い心を忘れられるから。
断罪ではなく慈悲ではなく、ただ真実を、彼女は告げる。
怖れてばかりじゃ、前に進む事なんてできやしない――葛乃は、いつしか優しく笑っていた。
「明日があるから、命を賭けられる。明日があるから、闘っていける。それが、人が生きるって事さ」
いつでも命を捨てる覚悟があるなら、できない事なんてひとつもない――と。
あんたになら、進む道を変える事だってできる――と。
呆気にとられていた火邑は、やがて笑い出した。
「ふんッ……。全く―――、大した女だぜ」
これからも、変わらず幕府を狙うと、火邑は言った。
途端に顔を曇らす美里の様子に、一言付け加えた。志士として――と。
「火邑さん……」
「だから、てめェらも、俺様たちに屈せずに自分の思った通りの世を創りてェなら―――、てめェらのやり方こそが良き世を創るってんなら、しっかり命を賭けやがれよッ」
素直でない言葉を残し、火邑は去った。
説得担当であった葛乃と美里が視線を交わし、同時に笑みを漏らす。
「全く、男ってのは敵も味方も関係なく子供だよね。図体ばかりでかくてもさ」
「ふんッ、図体のでけェお前にいわれたかねェぜ」
葛乃の笑いを含んだ感想に、蓬莱寺が混ぜっ返す。
気にする風もなく、今の時代、女だって強くなきゃねと豪快に笑う葛乃に対し、緋勇は頭を下げた。
「葛乃も美里も礼を言う。俺は腹が立ちすぎて、あいつのことを考えていなかった。志士であった頃に、酷く傷付いたことを知っていたのに」
それゆえに、戦場でこそ精神が安定するという、依存症も知っていたのに。
苛立ちのままに叩きのめそうとしていた。
彼女たちが居なければ、魂は救えなかった。
「あはははッ。あたいは何もしてないさ。それよりも、ぐずぐずしてる暇はないよ」
「ええ。早く、美冬さんを捜しましょう―――」
「待っていたぞ―――。そろそろ来る頃だと思っていた」
「やはり……てめェが」
紅蓮の髪の男を睨み、蓬莱寺は頷いた。
間違いなく、あの夜に、緋勇と会っていた男であった。
「我が名は、九角―――九角 天戒」
「では、お主が鬼道衆の頭目―――美冬殿を攫って、今度は何をするつもりだッ」
雄慶の詰問に、不敵な笑みを浮かべる九角を眺め、緋勇は似合わぬ表情だなと思った。
早く終わればいい――と心から願う。
「桧神 美冬―――、それこそ、江戸に憎き結界を巡らせし天海を、この世に再び降臨させるのに最も適した《器》の名よ」
この甘い男が、懸命に非情ぶらなければならぬ喜劇など。
「こ、ここは……どこじゃ」
桧神の口から、老人の声が洩れる。
緋勇にとっては、そう驚くことでもない。
地の霊位と、九角の鬼道の腕と、そして桧神の器としての資質と。
これだけ好条件が揃えば、口寄せ程度は成功しよう。
「我―――、長き忘却の果てより、我が名を取り戻したり。我は、南光坊天海なる」
ゆっくりと自我を取り戻していく天海らしき霊には注意を払わずに、緋勇は静かに拳を合わせた。
「お主らは、江戸の平穏を乱し、民衆を混乱に陥れようとしているッ。それを阻止するのが、俺たちの使命だッ」
雄慶の言う通り。
呪法の破壊など許さぬ。
但し民衆の為でなく、秩序の為でなく。
「ほう―――、至極真っ当な意見だな。だが、天海が護りたいと思った江戸という町、そして幕府の姿は、今も健在か?」
今とて心が悲鳴を上げているであろう友の為に。
「知らぬよ、そんなことは。俺は己が願いの為に――お前を止める」
「……何人たりとも俺の邪魔はさせん」
剣を抜いた九角に対し、静かに構えた緋勇を誰も止めなかった。
蓬莱寺さえも。
「邪魔するさ。その為にここまで来たのだからな」
「龍……なぜこうなったのだ」
間断なく近くを薙ぐ刃。
命の遣り取りをしながらも、話し掛けてこないで欲しいのだがと思いつつ、緋勇は律儀に応じた。
「さて……どこのどちら様だ?」
白々しく首を傾げ、風のように動く拳士に、容赦はせずに斬りつけながらも、九角は静かな面のまま告げた。
「夢でしか記憶に残らないのならば、記録に取る。目覚めた時に、少しでも記憶があったものには、覚えている限り記録するように徹底させた」
それこそ村中の者に。
結果、どう考えても同一人物の姿が浮かび上がったと、鬼の頭目は、敵に対して屈託無く笑った。
「四六時中、澳継を蹴飛ばし、何か面倒な事があれば書庫に逃げ込んでいた、根性悪の拳士の姿が」
手繰る糸が細いのならば、縒れば良い。
皆が微かな違和感しか持てぬのならば、徹底して集めれば良い。
友人の妙な所で発揮された冴えに、緋勇は大仰に哀しい顔で応じた。
「謂れ無き雑言に、とても傷ついたぞ。繊細な心を持つということも、追加してくれ」
「繊細とは、図太いと同義であったか?」
真顔で首を捻った鬼に、緋勇は、割と真面目に殺意を抱いた。
「失礼な。訂正しろ」
「嘘は好かぬ」
絶望を知った上での必死の鍛錬。
幾度も手合わせした記憶を持つ緋勇は、九角の太刀筋を知り、九角は緋勇を知らぬ。
実力としては、緋勇が幾段も勝るであろうに、九角は渡り合った。
「……やはりな。身体が覚えている。夢という朧な記憶ではない」
友から洩れた呟きに、緋勇は顔を顰めた。
懐かしさに気取られそうな己を叱咤し、意識を切り替える。
倒す為に。助ける為に。
そう難しいことではなかったはずだった。
緋勇は九角が夢に見た『根性悪の拳士』より、遥かに強くなっている。
一撃で決めようと氣を集中し、最速で動いた緋勇は、九角の笑みに気付いた。
躱される。
速度は明らかに九角の方が下だというのに、攻撃の軌道を読まれたかのように。
血飛沫があがった。
「……磨きが掛かっているな。完璧ゆえに、防御の構えから攻撃する場所が読める悪い癖が」
完全な演舞。
攻撃時に最も崩れるであろう部位を、正確に護る。
ゆえに、逆に言えば、防御の構えから、ある程度は攻撃する位置が読める。
尤も、そんな弱点に気付くには、洞察力に優れなければならず、幾度も手合わせをする必要がある。
尚且つ、攻撃に活かすには、技・速度共に、相当に高い実力を持たなければならない。
幾重の条件を乗り越えることは困難極まりなく、対象者は著しく制限される。
ただ――九角は、条件を全て兼ね備えていた。
「お前……そういう欠点は、さっさと告げるのが相手の為だろう?」
結構な深手に、緋勇は眉を顰めて呟いた。
崩れた体勢からでも、咄嗟に身を捻ったがゆえの裂傷。あと少し反応が悪ければ、致命傷であったかもしれない。
「木刀で脳天を渾身の力で叩き、昏倒したお前が目を覚ました所を大笑いするという、ささやかな夢があったのだ」
くっく――と含み笑いを漏らす相手に、緋勇は肩に手をやり、溢れる血を押さえて言い返す。
「……木刀で渾身で脳天。それは目を覚まさぬよ――二度と」
今の時点だからこそ、身を捻れた。
嘗ての――柳生に殺されるまでの刻にて、九角にこの悪戯心が実行に移されなくて良かったと思う。
友人に頭をかち割られての死では、比良坂も時間を遡行してくれなかったであろうから。
「まあ礼を言っておこう。欠点を知ることは大切だ……とてもとてもとても――な」
押さえていた手を離し、何だか恨みがましく呟いて構えた相手の元気極まりない様子に、九角は目を見開いた。
「今の会話中に癒すのは、反則だろう。獣かお前は」
出血が止まっているなどという話ではない。
傷痕そのものが、消えている。
「能力は能力だ。では先程の礼に――欠点を教授してやろう」
先刻と同様、風の如き動き。但し、分かりやすい防御は此度はなく。
「まず左後方からの攻撃に、わずかだが反応が遅れる」
「くっ」
遠慮の無い蹴撃を、九角は飛び退くことでどうにか避けた。
だが、続いて消えた敵の速度に、予測なしでは対応できぬと悟り、もうひとつの能力を行使しようとした。
「より大きな欠点は――鬼道を使うときに、深く呼吸をすることだな」
上から降ってきた人影に、反応できなかった。
ほぼ同時に数箇所に痛みを覚え、九角は崩れ落ちた。
剣と鬼道を切り離して考えすぎなのだ――と、彼は続けた。
「別物と信じ込んでいるから、闘法を切り替えるかのような反応が必要なのだろう? 双方お前の力なのだから、咀嚼しろ」
偉そうに説教していた緋勇は、不意ににやりと笑む。
「勝者が正義なのだろう。ならば――俺が繊細だと認めるな?」
「……勝負の結果なんぞで、言葉の定義を……変えることはできん」
「……お前、性格が悪くなってないか?」
勝負はついたと見た蓬莱寺と美里が、桧神を助けようと、拘束された彼女の元へ、駆け寄ろうとした。
「待て」
だが、制止の声が重なる。
雄慶と葛乃と緋勇と――九角と。
僧侶が、巫女が、鬼道使いが、そして妙に造詣の深い者が、同じ見解を示す。
降霊の儀が発動しかけた今の状態で、被術者に下手に触れることは、危険すぎる。
「無理に動かそうとすれば、不測の事態を招かんとも限らん。この女を置いて立ち去れ」
懸命に悪役振ろうとも、緋勇にとってはお笑い種であった。
彼の甘さは熟知している。無関係の人間など、とても殺せまい。
三文芝居の目的は、桧神の安全を確保する為。
下手に動かせば、彼女の肉体と魂を繋いでいる糸が切れ、二度と戻れない。
「この女の安全を思えば、何が最良の選択であるか、すぐに判る筈だ」
語るに落ちていた。
危険だから離れろと、素直に言えばいいだろうに、と呆れながらも、緋勇は身を引こうとしていた。
「ううッ……」
誰かが近付いたわけでもなく、桧神が再び苦しげに身を捩った。
漏れた苦痛の声は、老人ではなく若い女のもの。だが、彼女自身のものでもない。
「Ou…… Ou ici?」
異国の言葉に、金色に変じた髪。
いち早く周囲の状況を理解した彼女――桧神に降りた新たな霊は、身体の言葉を借りて、語りだした。
「おのれ、雑霊めッ。天海を差し置き、器に居座るとはッ」
「……お前の失敗だろうに。そもそも雑霊どころか、彼女の方が霊格が上であろう。戻ったらクリス辺りに聞いてみろ」
聞いたことがあった。
『この村は――テンカイは、オルレアンの乙女を思い出してしまう』
珍しく沈んだ声で、金の髪の青年は語った。
宣教師の補足と併せれば、彼の拙い日本語でも、概要が理解できた。
民衆の為に立ち上がり、権力の為に殺された哀しい英雄。
桧神に宿った霊の語る内容は、彼女と綺麗に重なる。
「我が祖国は、宿敵イングランドとブルゴーニュに勝ち、平和を手に入れる事ができたのですか? 教えて下さい……」
「貴女の活躍で、祖国――仏蘭西が勝利した。ラ・ピュセルよ」
緋勇は、聞いた歴史を彼女に伝える。
確かに彼女の祖国は勝利したと。
「祖国が、勝ったと? ……そうですか」
桧神の顔立ちのまま、彼女は穏やかな笑みを浮かべた。
どこか美里と似た、聖女の笑みに、緋勇は皮肉な問いを投げてみたくなった。
「……貴女自身は、目立ちすぎた厄介な英雄ということで、処刑されたはず。それでも嬉しいものか?」
聖女に倒されたのでは、立場がない。ゆえに敵国は、彼女を、異端の力を得た者としたかった。
敵国との長い戦争を有利な立場で終わらせる為に、祖国は、彼女の処刑を認めた。
神の啓示を受けた普通の少女は、敵国と祖国双方から、異端とされた。
既に数百年が経過しているのに、彼女は未だ異端のままだと、宣教師も哀しんでいた。
「……私が護りたかったのは王権でも、国でもなく――市井に暮らす人々の笑顔」
邪なる者として、火あぶりにされ、二十に満たぬ生涯を終えた少女は、それでも笑った。
国の威信よりも己の名誉よりも。
小さな平和を護れたことこそが嬉しいのだと。
下らぬ言いがかりだったなと反省した緋勇が謝ろうと思った瞬間に、彼女は苦痛に表情を歪めた。
直接の影響を受ける存在だからこそ、場に居る他の誰よりも早く察知した。
「この悪寒は……。あァ、外より……おぞましき、だッ、大軍勢が押し寄せてくる」
地鳴りの如く、周囲が震える。
圧倒的な霊圧に、空間が歪められた軋みによって。
「欲シイィ―――。身体ァァ―――」
「俺ニモ寄越セェェ―――」
虚ろな姿でありながら、確かな――ただひとつの欲望を抱いて、集結する。
「なッ、なんだ!?」
現われたのは、大量の怨霊
闘いの氣に誘われて、恨み持つ者が、闇より這い出してくる。
「この地に眠ってた無念仏どもが這い出て来たんだ。降霊の儀の影響で、目覚めたんだろう」
葛乃の言葉に、集う怨霊の凄まじい量に、皆が青褪める。
ただひとり平然としていた男が、わずかに移動する。
九角の側で、緋勇は小声にて命じた。
「すぐ側で尚雲たちが、《八門遁甲》の陣を張っている。今のうちに気配を辿って探し出せ」
敵の頭目を逃がす時機を計りながら。
無表情で、怨霊を睨んだまま、必要事項を教えておく。
「課題だ。方陣技を持たぬ五人以内で、鬼岩窟を二百階まで踏破せよ。期限は、三ヶ月後までだ。強くなっておけ。奴等は、おそらく鬼道衆も狙うからな」
「奴等だと?」
「お前が、ここから逃げたら、すぐに尚雲たちに会える。そこで、おそらくしゃがれた声の女に会うはずだ。そいつらが新たな敵となる――細かいことは、そのうちにな。さっさと行け」
告げると、かなり強く蹴り飛ばした。
「龍ッ、お前は、いつ戻――」
「さっさと行けといったろう、ぼけまぬけ」
氣で追撃し、更に遠ざける。
今の別れなど気にしない。とうとうここまで辿り着いたのだ。
鬼全員が、生きたまま終われた。
残るは――柳生の襲撃のみ。
溢れる怨霊など敵でもない。逃走する天戒への、格好の防御壁であった。
わざわざ派手に炎や氷を使い、更に目を晦ます。
「どうやら、鎮まったみたいだね……」
「馬鹿ッ、落ち着いてる場合じゃねェぞッ。あの野郎の姿がねェッ!!」
逃がす為に努力したのだからな――と、焦る者たちの中でひとり泰然としていた緋勇は、首根っこを掴まれた。
「手分けして捜すぞッ!! ……緋勇、お前は離れるな」
「京梧。どこにもいないよ」
「むう……しくじったな」
鬼たちの主力が近くに集結していたのだから、撤収も手早く済んだのだろう。
沈む空気の中で、暇そうにしていた緋勇は、胸騒ぎを覚えて顔を上げた。
「な……」
まだ宵五ツ半だというのに、赤々とした空。明けというより夕に近い不吉な赤は、江戸の方角にあった。
珍しい緋勇の驚きの声に、つられて顔を上げた面々も、同様に硬直する。
「江戸が……燃えている」
「内藤新宿の方だよッ!!」
探索など即刻打ち切り、急ぎ戻った江戸は、悲鳴と怒号に溢れていた。
よりによって顔見知りが多数暮らす長屋が燃えていると知り、懸命に走った先で、またも顔見知りを見かけ、美里は声を掛けた。
「御厨さんッ!! 長屋の人たちは無事ですか? 円空先生は」
円空翁や瓦版屋は、向こうに避難しているとの答えに、美里は胸を撫で下ろした。
御厨の歯切れ悪い態度には気付かずに。
「皆さんッ!! すいません、手を貸して下さいッ!!」
彼もまた、長屋の一員。
日頃は飄々としている支奴が、大声で助けを求める。
「向こうに、逃げ遅れた子供たちが閉じ込められちまっているんです」
当然だと頷いた蓬莱寺が、振り返り言った。
「八丁堀ッ。あんたも、手を貸してくれッ!!」
息を呑み、それでも頷こうとした御厨を、偉そうな男が怒鳴りつける。
「御厨ッ!! 儂の命令に背くつもりか?」
男が立ち去り、蓬莱寺が声を掛けても、御厨は押し黙っていた。
「おいッ、八丁堀。どうしたんだよ?」
答える言葉を失う御厨に代わり、決まり悪そうに与助が説明する。
先程の火附盗賊改長官より、厳命されたのだと。
火中にある市井の者の命を捨て置き、風上の幕臣の屋敷から財産を運び出せと。
「ちッ、あんたは、他の同心連中と違うと思ったんだがな。結局は、幕府の狗って訳か。見損なったぜッ」
真っ直ぐな目で吐き捨てる蓬莱寺に、緋勇は苦笑する。
これもまた、仕方の無い話だろう。
「無茶を抜かすな。愚劣とはいえ、上の命に逆らえば、後の立場も危うかろう。さっさと壷だの置物だのを助けてから、こちらを手伝ってくれ。では行くぞ」
駆け出そうとした緋勇らは、何かが落ちる音を聞いた。
「……貴方には立場がある。進められん道だ」
立ち止まり、静かに諭す緋勇に、御厨は激しく首を振った。
「構わん。この江戸を―――市民を護れず、何の同心だ。真の正義を行えず、何の幕府だッ!! こんな十手、ただの飾りではないかッ!!」
地に投げ捨てた十手を睨み、断言する。
「命令がどうであれ、俺は、俺の信じる正義を貫く」
先に走り出した御厨を見て、与助も笑顔で頷き従った。
それでこそだと嬉しそうに笑った蓬莱寺ほどに、緋勇は素直になれなかった。
『火盗改を続けたくば、儂の命に逆らわぬ事だ。早く行け』
厳命を破った御厨を、あれほどまでに念を押していた長官とやらが、許すものだろうか。
「やれやれ、ようやく収まったようだね」
騒ぎに心配になり、顔を出したのだろう。
献身的に動いていた時諏佐と、緋勇と蓬莱寺が合流していた。
鬼の仕業だろうかと呟いた蓬莱寺に、そうだとしたら許せないと応じる声があった。
気を失った子供を抱えた支奴が、姿を現す。
「罪のない子供たちまで巻き込んで、あんな事をするなんて」
「その餓鬼は、俺たちが一緒にあの火事から救い出した―――」
命に別状はない。
だが、あの火事の恐怖は一生消える事はないだろうと、支奴はいつになく暗い顔で答えた。
「もっと、あちきに科学の力があれば―――、そうすれば、こんな火事、すぐに消す事ができた筈です」
相当に思い詰めた様子の彼が、心配になったのだろう。
子供に言い聞かすように、時諏佐は優しく否定する。
「でも、結局、科学の力を使いこなすのは、人じゃないのかい? 科学が発達しようとも、それを使う人間が成長しない事には、それは、いつまで経っても、絵に描いた餅でしかないんだよ」
いずれは、科学で、人の命を救う事さえできる様になるだろう。
だけど、人の心まで救う事はできやしない。
人の心を救えるのは、誰かを救おうっていう人の心だけ。
彼女の言葉を黙って聞いていた支奴は、しばらくしてから哀しい顔で首を振った。
「でも、心だけがあっても、力がなければ人を救う事なんてできませんよ」
「それも一概には否定できんがな」
「龍斗」
非難の目を向けた百合に対し、緋勇は肩を竦めてみせた。
彼は無力の悲しさを知っていた。
己の目の前で、愛する者たちを虐殺された彼には、心を万能とは思えなかった。
「『力なき正義は無力なり、正義なき力は暴力なり』書物か何かで読んで以来、俺が勝手に真実だと思っていることだ。前に、実感もしたしな」
力が無ければ、大切な場所を護ることすら叶わなかった。
力があっても心がなければ――ただの暴力。その実例を、心など失った死の化身を知っていた。
そうかもしれませんね――と、力なく頷いた支奴は、背を向け歩き出した。
「……それじゃ、あちきはこの子を医者に連れて行きます。今回は、どうもありがとうござんした」
気ィつけてな――との蓬莱寺の言葉にも、振り返らずに頭だけを下げる支奴の背中を見ていた時諏佐が、苦しそうに胸を押さえた。
「あのこ、もしかしたら……」
何かを言いかけた時諏佐を、敵意に満ちた声が遮った。
「時諏佐 百合だな?」
現れた火盗改同心たちは、周囲を取り囲んだ。
広い意味では同僚であるはずの彼らが、時諏佐に対し、罪状を述べる。
「甘言により幕府を誑かし、その資金を捻出し、それを以って、反幕の徒を育成せんと不穏なる集団を組織した罪、明白。神妙に御縄を頂戴するがいいッ」
「なッ、何だとォッ!!てめェ、俺たちを誰だと―――」
構える蓬莱寺の肩に手を置いて抑え、いつかこんな日が来るかもしれないと思っていたと、彼女は動揺する風もなく笑った。
命令を聞かぬ狗を――人斬り集団に育たなかった龍閃組を目障りとする意見が、幕府でも目立ってきたと知っていたのだと。
助けに入ろうとした蓬莱寺のことさえ、彼女は止めた。
龍閃組は、江戸の治安と民衆の動産を護るための組織だ―――と。
決して人殺しの組織にしちゃならない。
幕府と事を構えようなんて考えるな。
闘えば、きっと、多くの犠牲者が出る。戦は避けるんだ。どんな事があっても
「同じ国の人間が、闘って血を流すなんて、馬鹿げている。もし、そうする事で闘わないで済むなら」
常の毅然とした態度の中に、優しさが混じる。
穏やかに、時諏佐は不吉なことを告げる。
「あたしの命なんて、くれてやるさ。だから、あんたたちは生きるんだ。生きて、時代を見届けておくれ」
「馬鹿野郎ッ!! 何、今生の別れみてェな事いってんだよッ!!」
ひとりだけ先に降りるつもりかと叫ぶ蓬莱寺を、困ったような――駄々をこねる我が子を見るような優しい瞳でみつめ、微笑み、時諏佐は何も言わずに、同心たちに従った。
「くそッ、どうなってるんだよ!? なあ、緋勇!!」
「なるほどな」
連れ去られる時諏佐の姿を冷静に眺めていた龍斗は、独り言ちる。
――道理で、あれから、龍閃組のことを聞かなかった訳だ。
「予想できたことだ。鬼の力は削いだ。ならば強大な力を持ち、反抗的な龍閃組は、邪魔にしかなるまい。新兵の話もあったしな。……まさか信じていたのか? 幕府を」
「……信用していたわけじゃねェ。それでも、一応仲間なのだとおもっていた。まさかこんなにあっさりと」
なんのかんのと言っても、蓬莱寺は純情だなと、緋勇は感心した。
彼自身は勿論、幕府を仲間と思ったことなどない。そして幕府も、龍閃組を信じたことなどないだろう。
「手分けして皆を……お花の店にでも集合させてくれ。龍泉寺はもう――幕府の手が回ってるだろう」
「何だと――おいッ!!」
準備が整ったからこそ、時諏佐を――首謀者を捕らえに来たのだろう。
新兵――あの鬼もどきの実戦投入も兼ねて、あの下衆は嬉々として龍閃組の壊滅に訪れるだろう。
「包囲網だな。八丁堀も捕らえられた可能性が高い。十手を捨てた同心の姿――さぞ注視を浴びただろう」
まさにその通りに。
同時刻、京都守護職自らが火附盗賊改詰所を訪れ、御厨を牢に拘留していた。
「皆を死なさぬ為に、急いでくれ」
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