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「お前らには、希望も明日という日もない」

喜劇役者の出番は終わったのだと、演出家は嘲笑した。


折悪しく、皆が鬼哭村に居合わせた。

闘える者たちが、急ぎ集う。

彼らとしては、緋勇 龍斗を救う為に。
実際には――柳生に斬られるために。

「来るなッ、逃げてくれ!!」

悲鳴に近い願いは叶わなかった。

闘いにすらならない。
すれ違うたびに、人が倒れていく。溢れる血の量が、致命傷だと告げている。

致死の傷を負い、それでもまだ辛うじて生きていた者たちに、柳生は傲慢に命じた。

「黄泉より、この世が滅びる様を見ているがいい」



暗闇で跳ね起きた緋勇は、口元を抑えた。

せり上がってきた吐き気を、懸命に堪える。
ここしばらく、必ず同じ夢を見た。あの恐怖の日が近付いてきたと、脳が、身体が、全身が警告し、夢にて幾度も思い知らされる。

「また例の夢を視たのか?」
「ああ……」

すぐに身を起こし、心配そうに覗き込む雄慶に、緋勇は俯いたまま頷いた。

夜中に突然悲鳴を上げる者が同室に居て、安眠できる筈がない。
別室――それこそ座敷牢でも構わぬから他所で寝ると言い出した緋勇に、雄慶と京梧は揃って首を振った。

『気にすんな。雄慶の鼾の方が、余程うるせェ』
『ぬ……。それは少々認めがたいが……そういうことだ』

大したことではないと笑うだけではなく、彼らが交互に、夜起きていてくれることを知っていた。
京梧だけではなく、雄慶までもがよく昼寝をするようになったことが、気遣いを気付かせた。

「本当に……すまない」

日に日に憔悴していく緋勇に、雄慶は心中で歯噛みした。
うなされ始めると同時に起こそうと、幾度も試みたのだが、いつもいつも、小さい悲鳴と共に跳ね起きるまで、緋勇は悪夢から解放されなかった。

京梧に至っては水まで掛けたとのことだったが、それでも緋勇は、悪夢に浸かったままであった。

顔を洗ってくると、緋勇が部屋を出たところで、影がむくっと身を起こした。

「……またかよ?」
「起きていたのか。ああ、まただ。……段々間隔が短くなってきているな」

最初のうちは、数日に一度だったのだ。それが今では確実に毎日。
日に二度起きたこともあった。

「このままじゃ、龍斗の身体が保たねェだろうがッ!!」
「呪いからきているのならば、結界である程度は防げる。だが、あれはあいつ自身が見せていること。……その審判の日とやらが、訪れるまで収まらんだろう」

幾度も繰り返した結論の出ている言い争いに、京梧が腹立たしげに舌打ちした。
さっさと『その日』とやらが来ればいいと、心より思う。
今の緋勇は、見ていられなかった。

―― 東京魔人学園外法帖 第拾参章 ――


その日は、平凡な日であった。

見回りの帰りに、ふらりと長屋にでもよって、円空なり遠野なりの情報通に話でも聞きに行こうかという話になった。
特に抗弁する気も無く、最後尾を歩いていた緋勇は、小さな小さな溜息を吐いた。

「どけ、邪魔だ」

協力してくれたことが幻であったかのように。
相も変わらず邪険に振舞う犬神に、緋勇は喧嘩する気力もないのか、反応しなかった。

「……こんな処にいないで、早く時諏佐の処へ戻ってやれ」

無反応な相手に拍子抜けしたのか、犬神の声は、冷たくはあったが、普段の毒気は存在しなかった。

「龍泉寺の氣が乱れている。何か強い邪氣を感じる」

忠告めいたその言葉を、緋勇は最後まで聞いていなかった。
風の如く、走り出す。剣士や大柄な僧侶を置き去りにしたままで。

「お、おい、龍斗!?」
「何かが、龍泉寺に近づいている証拠だ。少なくとも、お前らの味方という訳ではない様だぞ」

取り残されたふたりに、犬神が丁寧に説明を加える。

犬神が協力的という、非常に珍しいこと。
今までに、一度だけ似た状況があった――それは大変な緊急事態であった。

最近の緋勇の様子を加えるに、導かれる予測は、不穏なもの。

「行くぞッ!!蓬莱寺ッ!!」
「ちッ」

顔を見合わせた後、急ぎ走り去ったふたりの背を眺めながら、犬神は溜息を吐いた。

感知した邪氣は、強すぎた。人間の手におえる域を、超越している。
いかに足掻こうと、先は悲劇しか在りえない程に。

「それでも――奴ならば、もしかしたら……な」

僅かではあるが期待を寄せる。
傲岸不遜で傲慢な、人間の規格外である男に。



「何だよ、無事じゃねェか。戻って、寺が失くなってたらどうしようかと思ったけどよ」
「油断せぬ事だ。一先ず、本堂へ行こう」

平和な光景に居たのは、猿が一匹。
緋勇は、猿にも、後に現れた異国の少年にも反応せずに、周囲を警戒していた為に、京梧と雄慶だけが、少年の術を目の当たりにした。

異国の言葉を話していた彼が、何事かを唱えたあとは、日本語を発するようになった。
神仙道を使ったのだと説明する少年の声が聞こえたらしく、本堂にいたという、時諏佐以下集っていた龍閃組が顔を出した。

「ん? 誰、この子?」
「あァ、何か知らねェけど、俺たちが帰って来たら、丁度、境内にいてよ」
「劉という名前だそうだ」

京梧たちの答えに頷いて、よろしくと告げようとした桜井は、まだまだ小さな猿が妙にこわばっていることに気付いた。

「キキーキキッ!!」

甲高く鳴いた猿に対し、少年は分かっていると頷いた。

「隠れてないで、出て来いッ!! 閃ッ!!」

誰何の声などではない。強制力すら含んだ術式に、闇の一角が弾けた。


黒蝿翁と名乗った影のような男が現われ、途端に空が曇っていく。
滅びるのが人間の運命だと、高らかにうたう男に、京梧が最も早く反発した。

「へッ、勝手に抜かしてやがれ。てめェが這い出て来た闇の中へ、俺たちが送り返してやるぜッ」

恫喝にも影は、軋むように笑うのみ。
無限ノ命ヲ持ツ我ヲ斃ス術ハナイ――、まるで誰かのような言葉を口にした黒蝿翁に、緋勇はやっと顔を上げた。やはり奴の直下かと、睨みつける彼よりも先に、劉が挑発的に応じた。

「ふんッ。本当に自分が斃されないと思っているのか? お前、仙道を使ったな? いや―――、もしくは、使われたか」

仙道士かと、初めてまともに反応を返した黒い影に、劉は名乗りを上げ、仙境より秘術を盗んで逃げた男を追っているのだと目的を告げ――そして、問うた。

「教えて貰おうか? 崑崙の居場所を―――。さァッ!!」
「竜攘虎搏 無幻泡影―――」

仙道士の詰問に対し、黒蝿翁は呪法で応じた。
彼の言葉と共に、世界が塗り潰されていく。現実が異界に侵食される。



「御主ラニ相応シイ死ニ場所ヲ用意シテヤッタ。闘イタイトイウ相手モ連レテ来タ」

一変した景色の中で、得意げに笑う黒蝿翁が示した先から、やはり影のような男が現われる。

「どうだ? 真の道は見えたか?」
「てめェは、神夷ッ!! こいつの仲間だったのか?」

神夷はただ静かに佇んでいた。
黒蝿翁が偉そうに、孤高の剣士に語りかける。

「クックックッ、神夷、コヤツラヲ始末セヨ。特ニ、アノ仙道士。何レハ我ラノ企テノ妨ゲニ―――」
「慣れなれしくするな……。別に、御主の仲間になった覚えはない」

だが鬼面の剣士は、素っ気無く肩を竦める。

剣を継ぐ者を捜す為に力を貸していたに過ぎないと。
興味があるのは、蓬莱寺 京梧―――ひとりだけだと。

「ならば、それの相手は京梧に任せるぞ」

緋勇は告げると剣士に背を向け、何時の間にやら周りを囲った夥しい影たちに向き直った。

嘗て神夷と対峙したときとは違っていた。
勝手にしろといった投げやりな放置ではなく、任せるという信頼。

滅びる為に彷徨う亡霊などに、最強を求めて歩み続けける剣士が負けるはずがないと、今は分かっているから。

「おうよッ!!」
「天下無双を目指すのなら、俺の剣を超えてみるがいい」

静かに剣を抜く神夷に、勢い良く抜き放つ京梧。

最早そちらには、注意すら碌に払わずに、緋勇は前方へ駈け、影を薙ぎ払った。
影の天敵たる彼には、一撃一殺。

早々に終了した後は、ただ眺めていた。
剣士たちの、真剣な――なのに、稽古のような闘いを。

いまだ純粋な技量ならば、神夷の方が上であろう。
見切り、攻撃を受け流す回数は、彼の方が多い。

それでも勝つのは京梧だと、緋勇は確信していた。
剣が手段となってしまった者と、目的そのものである者。剣に託した想いの分だけ、後者の方が強い。

ゆえに、この結末は必然。

「こいつが俺の答えだ。俺は、俺の信じる剣の道を貫く」

神夷はずっと捜していた。捜し続けた。
それゆえに、受け継いできたものを受け継ぐに相応しい者を捜すことこそが、目的となった。剣は、相応しき者を捜す手段へと変わった。

「ふっふっふっ、遂に、俺は見い出せたのか」

致命の傷を負いながら、神夷は満足げに笑った。

強くなり過ぎたが故、継ぐ者が存在しなかった道。
やっと、託せる相手を見つけた。

「俺の技を御主に伝えよう。そして、できる事なら、俺の技を後世に伝えていって欲しい。俺の想いを……そして、この技を継いできた先代たちの想いを」

別れを告げ消えていく刹那の師匠に、受け継いだ弟子。
それを嘲笑ったのは、人でない黒の影。

「クックックッ……、ドンナニ腕ガ立トウト、所詮、ニンゲンカ」

先程までのは、創り出した影に過ぎないと笑っていた黒蝿翁は、不意に全ての感情を消失し、緋勇を睨んだ。

「シカシ、ソノ影ヲ打チ破ルトハナ。仙道士ダトバカリ思ッテオッタガ―――緋勇 龍斗。コノ強イ氣ハ御主ノ《力》カ」

返事もせず、ただ肩を竦めた緋勇に、黒蝿翁はわずかに怒気を見せる。

「ダガ所詮ハニンゲンヨ。ココデ死スベキ宿命。我ガ直ニ相手ヲシテヤロウ」
「まあ、待て。黒蝿翁よ―――」

制止する威圧的な男の声に、緋勇の身体は硬直した。
聞き覚えなど当然ある。脳裏から消えぬ、恐怖の声。憎悪の対象。

「お前が殺ってしまっては、簡単過ぎてつまらぬ。もう少し、こいつらの絶望する顔が見たい」
「コレハ、ワザワザ御出デ下サイマストハ」

配下の礼をとる黒蝿翁など、意識から消えうせた。

「柳生……宗崇?」

それはまるで恋慕。宿敵の、怨敵の名を呼ぶ声は焦がれていた。
想い続け、出逢えたことに歓喜する緋勇は、己が凄惨な笑みを浮かべていることに気付いていなかった。

「龍斗……」

彼の優しさを、皆知っている。彼の想いを皆が聞いた。
だから、そんな顔をさせてはいけないと、止めなくてはと思うのに――――誰もが止められなかった。


幕府に囲まれた龍泉寺へ、独り向かおうとした彼も恐ろしかった。
まるで心を凍らせた鬼。目的の為に、何処までも耐える鬼。


だが……今の彼は、その比ではない。
まるで心を持たぬ魔。目的の為ならば、何も省みない魔。

「俺の名を知っているとは。どこぞの滅ぼした村の生き残り辺りか?」

緋勇の口元が、更に嘲う。丸ごと滅ぼした村など、この男は腐るほどに溢れているのだろう。確かにその中の一つの生き残り――いや、死に損いか。

「……ああ。その面を忘れたことなど、一瞬たりともない。ずっと――ずっと会いたかった」

身に纏う氣は烈光。闇に染まった昏い瞳と対照的な苛烈な光。

「ほぅ……久しぶりに愉しめそうだな」

柳生は目を細めて呟いた。

腕は最高級。
孕んだ矛盾は極上。

殺すにしろ、甚振るにしろ、堕とし手に入れるにしろ、非常に興味深い玩具。

「宗崇様ガ出ルホドノ相手デハ……」
「構わん。手を出すなよ」

進言を遮り、柳生は剣を抜いた。
多くの血を吸ってきた妖刀の輝きを目にしても、緋勇は動揺することもなく構える。
静かに――但し、目には濃密度の殺気を湛えながら。

息詰まる空間で、先に動いたのは柳生。

全てを断つ刃を、振り上げる。
緋勇が腰を落とし、半身を引く。

だが、剣が振り下ろされる前に――始まる前に、業火が柳生に襲い掛かった。

「何!?」

もちろん柳生にとっては、大した障害にならない。だが、問題は術の出所。
龍閃組とは全く別の方向からなされた攻撃術。

「ひとりで何もかも背負い込むのは、良くないよ。たーさん」

緋勇にとっては、聞き慣れたもの。笑いを含んだ妖艶な声。
昔――いや、異なる時空で、毎日のように耳にしていた、半妖の美女のもの。

「桔梗姐さん」

呆然と呟いた直後に、緋勇は横手から飛び蹴りを食らった。
本来の彼ならば、食らうことはなかっただろう。

ただ、今は驚きに硬直していた。
さらには、行った者は、鍛えに鍛え、単身で鬼岩窟の二百階までを突破していた。

「へへー、一度龍斗を蹴ってみたかったんだよな」

突っ伏した緋勇の背をぐりぐり踏みながら、風祭は笑った。

「坊や、坊や」
「ん? なんだよ、桔梗」

怪訝そうな顔の彼に、桔梗は笑いかけた。

「逃げたほうがいいよ、もう遅いかね?」
「何が……くぇ」

忠告は少し遅かった。
神速で起き上がった緋勇が、片腕で風祭の首を掴み、持ち上げる。

「澳継〜? 俺がお前を蹴るのは良いが、逆は天地がひっくり返らん限り、許さ――」

風祭の首をきゅうきゅうきゅうと絞め、やたらと笑顔になった緋勇の言葉は、途中で遮られた。


「龍よ。ならば許してやるべきだ。何しろ天地はひっくり返ったのだからな」
「師匠……そろそろ、危険ではないか? 風祭の顔色が黒いぞ」

新たに現れたふたりによって。いや、それだけではない。

「お前も人が悪いな。話してくれればよいものを」
「ああ本当に。……ところで涼浬に余計なことを言っていないだろうな?」

剣閃が影を穿つ。
清流が淀みを押し流すように、水が猛る。

龍閃組を囲った黒蝿翁の影たちを倒しながら、幾人もの――鬼たちが現れる。



「お前たち……記憶が?」

呆けたように呟く男に、鬼たちは頷いた。

「では――柳生に殺された所まで思い出してしまったのか?」

彼の気遣う眼差しに、皆は一斉に首を横に振る。

微かに安堵の色を浮かべた緋勇は、すぐに間違いに気付いた。
皆は、絶望を――死を知った者の目をしていた。

「その先。お前が屍の中で身を起こし、憎しみを込めて復讐を誓うまでだ。済まなかったな、あのような決心をさせてしまって」

代表として、沈痛な表情で答えた鬼の頭目とは異なり、非常に憤慨した表情の少女が居た。
ずしりと重い音をたて、彼女の繰り人形は、その多大なる攻撃力を揮った。

「ひょう、かにゃりいひゃい。ふぁんりゅうでほおをひっひゃるのはひどょい(雹、かなり痛い。巌琉で頬を引っ張るのは非道い)」

俯き、沈んでいた男に対して。
どう考えても、相当に痛いだろうが、少女の怒りは収まらなかった。

「そなたが悪いのじゃ。独りで意地を張って……苦しんで」

許せなかった。何もかも背負い込み、独りで苦しみ続けた愛しい男のことを。

冷徹な眼差しの男の頬を、むにーーっと引っ張る巨躯の操り人形。
結構伸びている。

絵的には凄まじいものがあったが、普段は冷然と気を張る少女が、泣きじゃくっている為に、誰も突っ込めなかった。

「わらわが居る、皆が居る。そなたはもう、独りではないのじゃ」

独りではない。自分にそう教えてくれたのは、彼自身であったはずなのに。
それなのに、彼は独りで奮闘した。

それは、京梧からも言われたこと。
緋勇は目を見張った。

皆を護りたくて、助けたくて、全てを背後に置いた。
嘗ては確かに、並んで闘っていたのに。

今は、まるで庇うかのように傲慢に。

「本当に……すまなかった。記憶は比良坂によるものなのか?」

正確には違います――と、応じたのは、一番後ろに居た、金の髪の少女。

逆なのだと。
自分が力を揮ったから、記憶が戻ったのではない。
皆が自力で記憶を取り戻したから――。

「だから、つながったんです。あなたが龍閃組である世界と鬼道衆であった世界とが」

誰かひとりの強大な異能によるものではなかった。
変革する為に消された世界に、逆行し、切れそうな細い糸を手繰り寄せたのは、皆の想い。

そういうことだ――と。

『お前の思い通りになどさせない』

彼らは勝ち誇ったように笑っていた。
独りで全てを背負い、解決しようなどと――許さぬと。

「ああ、そうだ。なによりも、お前に告げたい一言があったな」

天戒の言葉に、鬼たちが一歩引く。
その中で、たったひとり、前に進み出たのは人形に乗った少女。

雪は水へ、冬は春へ。
毅然とした表情が、ふわりと融ける。

「龍様」

歓喜に震える声で、懐かしさに滲む視界で、幸せに崩れ落ちそうな感覚の中で、彼女は巌琉の肩から、トンと離れる。
慌てて受け止めた男に、間近から――腕の中で告げた。

「お帰りなさい。会いたかった――触れたかった」

あれから幾度も夢に見た。その度に、懸命に記憶を留める為に、簪を強く握った。
少しずつ、少しずつ記憶を蓄積し、皆と語り合い、想いだせた。


傲慢な――優しい拳士のことを。


彼女を口切として、次々と彼らは笑み、言う。

――おかえり。


呆然としていた緋勇が、驚愕に表情をなくす。

それからゆっくりと、本当にゆるりと笑む。
慈悲のような優しさでなく、哀しみを含んだものではなく。

彼も思い出した。やっと思い出せた。

悲劇を回避する為に一心不乱に邁進するうちに、強迫観念のように、柳生を憎み続け、肝心の望みを見失いかけていた。

どうしてこんなにも、皆を助けたかったのか。

愛する女が居るから。大切な友が居るから。それだけではなかった。

村のひとりひとりが、自然に彼を受け入れてくれた。
生れ落ちた瞬間に母の命を奪い、父に憎まれ、人らしい生活など望めなかった彼を。

彼らは容易く迎え入れたのだ。

今もまた、拒むことなく彼らはその手を差し伸べる。

おかえり――と。

「ああ、本当に――随分と、待たせてしまったな」

嘗て浮かべていた表情で。心からの笑みで。
己が手に戻ってきた大切な宝物を、きつくかたく抱きしめながら、緋勇 龍斗は万感の思いを込めて応えた。

「ただいま」



「下らぬ余興だ。……興が削がれた」

不機嫌な声音で、柳生が呟いた。

操り人形を破棄しにきただけであったのに、思わぬ拾い物だと、久しく覚えの無い昂ぶりを感じた。

先程までの殺気は申し分なかった。
今までにこの男が成してきたことと併せるに、愉しめる相手だと、……己と同類だと思った。

なのに、あれほどの陰氣が――昏く、淀んでいた闇が、あっさりと晴れてしまった。

後から後からと現われた、取るに足りぬ有象無象の連中を見た瞬間に。
絶望と憎悪に塗り込めらていた瞳が、希望と歓喜で輝く。

今など――目を瞑り、女を抱きしめているのだ。
戦場で、殺し合いの舞台にて。最高の技量を持った役者でありながら、最悪の行動であった。

せめて少しでも面白くしようと、駒の名を呼ぶ。

「つまらん。後は、お前が相手をしろ――是怨」

双方の裏切り者の名を。

「止めたらどうだ、嵐王。それとも支奴と呼ぶのが正しいのか?」

振り返りもせずに、龍斗は背後に現われた気配に訊ねた。柳生が呼んだ、柳生の配下に対して。

「……あんたに、あちきの何が分かるっていうんです?」

鬼道衆の面をゆっくりと外しながら――支奴の声が応じる。

「そんな……、嘘だよ、そんなのッ」
「支奴、お主が」

狼狽する龍閃組を余所に、龍斗は振り返り首を振った。
見知った装束をまとい、見知った顔を晒した相手に対し、俺だから分かるのだ――と。

「人はそうそう割り切れない。目的の為に利用するだけだと、いくら言い聞かせたとしても、共にいれば情も移る、惹かれもする。ましてやお前が鬼道衆と共にいた時間は、俺が龍閃組と居た時間の比ではなかろう」

双方の協力者として、双方の裏切り者として。
嵐王は、支奴は、最も龍斗に近い立場であった。

支奴が内通者であると気付くのに時間は掛からなかったし、顔を隠す嵐王を疑うのは必然であった。
なにより『彼ら』は同じ技術を有していた。

「全てが偽りではなかっただろう? 天戒の甘さを不安に思う嵐王も、躊躇う武流の背を押した支奴も。人を救いたいという、お前自身の願いから為したことだろう?」

今頃、己の想いに気付いたのか。
驚愕に硬直する彼に、ふたりの赤い人物が語りかけた。

「……感謝しています。あなたがいなければ、おいらはいつまでも突っ立っているままでした」

闘う手段を与えられた――おそらくは利用されていた紅の義賊は、承知の上で頭を下げた。

「古くから仕えたお前は、誰よりも九角の家を案じていた。俺が惑い、悩んだ為に、心配をかけたな。だが、もう――迷わぬよ」

すまなかったと、鬼の頭領は、裏切った臣下に頭を下げた。

「若、武流……。あちきは、あちきは……」

科学で人が幸せになれると思っていた。
全てを救うには、今の鬼道衆では足りないと判断した。龍閃組の甘い考えは、論外だと思っていた。
けれど、そうではなかった。

時代を変えるのは、人の想い。それを教えてくれたのは――。

「あんたたちだった」

鬼だけではなく龍だけではなく。双方見てきたからこそ、教えられた。

「あちきも、あんたたちと一緒に闘いたい。これ以上、不幸な人間を増やさないために」

ぽつりと呟いた支奴に、歓喜に顔を輝かせたのは、天戒と武流。
口元を歪めたのは――柳生。

「ふんッ……愚かな。俺がお前が裏切るのを予測していなかったと思うか?」

常の通りに、霊珠を取り出す。
宿主の陰氣を増幅し、際限なく成長し、陰氣が解放された時には、宿主を、人ならざる者へと変生させる、鬼たちに渡した珠を。

「感謝するがいい。絶望の淵から救い出し、強靭なる肉体を授けた俺の《力》に」
「初めから……、あちきを利用するつもりで」

内よりの命に、胸を押さえ苦しみながらも睨む支奴に、柳生は利用などしていないと、不思議そうに応じた。

「道に転がっていた石を拾い上げたに過ぎん。その石を、再び放り投げたところで、誰が責められようか」

嘲笑し、陰気を完全に解放する。

「逃げて……逃げて下さい」

懸命に耐える者ですら、抵抗できぬほどに。

「……苦しむことはない。すぐに助けるから、今は抵抗を止めろ」

淡々と告げる龍斗に、支奴は苦悶しながらも拒んだ。
これは自分の罪だから、裏切り続けた罰だからと。

「……そうなると、俺も罰を受けねばならないのだがな。……雄慶、雹を頼む」

懸命に抗し、それでも段々と、輪郭が歪んでいく支奴に溜息を吐きながら、龍斗は間近にいた僧侶に少女を手渡した。

「な……突然何を」
「京梧では、良からぬことをするかもしれん」

何せ雹は美人だからなと、平然と告げて、彼は歩み出す。
殆ど鬼と化し、鋭い刃のような風を幾重にも纏う者へ。

「龍様ッ!!」

悲鳴を上げて、雹は手を伸ばした。
恋人は風刃へ躊躇いもなく歩み続け、血飛沫が舞う。

「ずっと煩悶していたのだろう? お前の苦しみを助長したのは、気付いていたのに、面倒だから最後に解決すればよいと捨て置いた俺だ。罰は受けよう」

同時に癒しながらも、攻撃は一切避けることなく最短距離を進み、塞がるそばから新たな傷を受け、血に塗れつつ、龍斗は鬼の前に着いた。

「だからお前はさっさと解放されろ」

ただの一撃。
瞳の色を変えることもなく、呼気と共に膨大な氣が溢れ、鬼に吸い込まれる。
溢れていた陰気を相殺し、駆逐し、暴風が呆気ないほど簡単に消える。


「まったく痛かっ……痛い、いひゃい」
「どうしてそなたは、こうも無謀なのじゃッ!!」

元に戻った支奴を抱えながら、龍斗は帰還した。
出血は既に止まっていたが、血で濡れそぼった衣服が、どれほどの傷を負ったのかを雄弁に物語っていた。

それは皆にとっては許せるものではなく、雹を筆頭に幾人もが、ぎりぎりと、龍斗の頬を引っ張った。


「どうやら、あんたたちの《力》もここまでのようだねェ」

むにょんむにょんと頬を伸ばされながら皆に囲まれる龍斗を頼もしく見詰め、正気を取り戻した支奴に微笑みかけ、時諏佐は柳生を臆することなく真っ直ぐに見返した。

「人の心ってのは、そう簡単に闇に染まるもんじゃない。あんたのいうように、人間は弱いさ。だけどね。その弱い人間でも、誰かを救う事ができる」

心を殺していた龍斗が、龍閃組を変えたように。
支奴が闇に惹かれながらも、武流を導いたように。惑いながらも鬼道衆を支えていたように。

人は、誰もが誰かを救うことができる。

「気にいらんな……。どいつもこいつも希望に満ち溢れた瞳をしおって」

柳生は吐き捨てた。

特に許しがたいのは、龍と鬼、双方の中心に立つ男。

憎悪一色に塗りつぶされていたのに。
人としては在りえない虚無の瞳をしていたのに。

今は詰まらぬ人間のひとりにすぎない。

「あんたには判らないだろうね。限りある生を生きるからこそ、人間は、明日を信じて生きていける。仲間を信じていける」

まるで哀れむように、白い衣の女は言った。

柳生の口元が歪んだ。

折角の良質な玩具の消失。詰まらぬ不快な連中。
絶望の淵に叩き落さなければ、気がすまなかった。

「そんなに希望とやらに縋り付きたいなら、そこで、永遠に縋り付いているがいい」

拳士とは、また違った意味での龍閃組の支柱たる女。
視ることしかできない非力な身で、吼えた報いを受けるといい。

「石となってな――」

術の詠唱する気配すらなく。
ただ命じられただけで、一瞬で、時諏佐の身体は動かぬ彫像と化した。

「はっはっはっ。人間の命など儚いものよ。そして、その愚かな希望とやらも、死ねば、ただの幻よ」


怒りを湛え、一斉に身構えた人間共を、さっさと滅ぼそうと剣に手を掛けた柳生を止めたのは、黒い影の男であった。

「ココハ、ヒトマズ御退キ下サイ」
「何だ? 黒蝿翁」

不機嫌に見返す主に、黒蝿翁は遜りながら、少々、気かかる事があると答えた。

「アノ者―――、緋勇 龍斗トイウ男ノ氣ガ。我ガ《力》ヲ持チマシテモ、アノ者ノ器ガ量レマセヌ」

下らぬと、龍斗は思っていた。
器が量れぬなど当然のこと。無限こそが彼の器。ただの性質に過ぎぬ。
だが、過大に評価し退いてくれるのは、石化した時諏佐という弱みを抱えた現状では望ましい。

「ニンゲン共よ。今日の所は見逃してやる。この世が滅びるその日まで、束の間の生を楽しむが良い」

崑崙山で待っていると告げ、敵の姿は掻き消えた。
慌てて時諏佐に駆け寄り、解呪を行使しようとした美里やほのかが悲鳴を上げる。

事態を理解している桔梗が――最高の陰陽師の娘が、辛そうに首を振った。
彼女自身、懸命に呪いを消そうとした。だが、叶わなかったのだ。

「こいつは、ただの呪いじゃない。氣が殺されてるんだよ」

氣脈の流れが止まっているのだ。
このままなら、いずれ、朽ち果てる運命だろう――彼女も、鬼哭村も。

「方法は、ひとつ。術者を―――柳生 宗崇を斃す事だよ」

あの柳生を倒すこと。
容易ではない解決手段に、皆が黙り込む中で、ひとりが焦ったように呟いた。

「……あ、まずい」
「龍様ッ!?」

妙にとぼけた声と悲痛な声に、視線が集中する。
出血が多すぎたのだろう。柳生が去ったという緊張感の消失後では、いかな彼とて耐えられぬほどに。



「……雹?」
「目が覚めたかえ? この浮気症が」

いまだ朦朧とする意識が、ぎりぎりと頬を抓られることで急速に回復する。

「痛たたたたた、ちょっとまて、落ち着け」
「奈涸の妹と炎の娘と弓使いの娘が、泣きそうな顔で、倒れたそなたに縋り付いていたぞ」

寝かされていた龍斗の枕元に座っていた雹は、握る力をより強め、目に冷たい炎を宿しながら微笑んだ。
やがて落ち着いたのか、手を離した彼女に、龍斗は苦笑しながら、呼びかけた。

「なあ、雹」

優しい声にも、少女はぷいっと顔を背ける。
別に、本当に浮気されていたなどとは思わない。そもそも本当に、彼女たちと関係があったとしても、雹には何もいう資格はない。

彼を忘却していたのは雹であり、彼とともに居たのは、彼女たちなのだから。

ただ、頭では理解していても、本心から案じて駆け寄った彼女たちの存在に、胸が痛んだ。

「愛している。……お前は?」

雪のように白い肌が、羞恥に紅く染まる。
臆面も無く口にする男だと知ってはいたが、慣れるわけではない。

「決まっておろう、わらわもじゃッ!!」

寝かされていた布団から起き上がり、龍斗は背を見せたままの雹の髪を一房手に取り、口付ける。
懐かしい仕草に震える身体を抑え、雹は、どうしても気になっていたことを尋ねた。

「……炎の娘は、優しい笑顔をしていた。奈涸の妹は、足が綺麗じゃった。弓使いの娘は、胸が大きかった」
「雹? 突然何を?」

消え入りそうな掠れた声に、龍斗は首を傾げる。

「わらわなどで――」

三人とも美しく、雹の劣等感をいたく刺激した。
胸は小さく、動かぬ足は細すぎ、笑顔など碌に浮かべられない。雹は、自分自身のことを、そう思っていた。

「……わらわ『で』よいのか?」

とうとう嗚咽が漏れる。
涙を零す彼女の泣き顔に、龍斗は何を言っているのかと、呆気に取られた。

桜井も涼浬もほのかも確かに大切だ。だが、それは、雹が口にしたような、外観からの理由ではなく。
不審極まりない彼を信じてくれた、心優しい人たちだから。

「わらわ『が』良いんだ。お前を愛している」

やっと、本当に会えたのだ。
意地っ張りで素直で高潔で可愛らしい最愛の女と。

振り向かせ、涙を拭う。
本当に――と、声にならない言葉で呟く彼女に、想いを理解させる為に。

不安に震えるその唇を、龍斗は、己の唇で塞いだ。



襖の向こうより洩れる阿呆な会話を、奇妙な沈黙でもって聞いていた一行は一斉に溜息を吐いた。
やってられんとしか言い様が無かった。

こほんと一つ咳をして、どうにか話す契機を作ったのは、鬼の頭領であった。

「……まあ、奴らは放っておくとして、勝負は、ひと先ず預けで良いか? 龍閃組」

やはり呆れきった顔をしていた京梧は、表情を引き締めて頷き、手を組もうが組むまいが、今までと同じ様に闘うだけだと、応じた。

「俺たちは、この江戸を護るために闘う。お前たちは、村の人間を護るために闘う。闘う理由なんて、それで十分だろ?」

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