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―― 東京魔人学園外法帖 終章 ――

水の流れる音。
それはぴちゃぴちゃといった少量の流れる音ではなく、ごうごうと降り注ぐ酷い雨の日のような音。

地下牢か座敷牢か、とにかくその類であろう格子に限られた空間にて、鎖等が散らばる中に、それは在った。

元は人間であったろう塊。血の池に浮かぶように、中央に位置していた。

無感動にそれを眺めるのは、まだ少年と呼ぶべき領域にある者。驚くほどに白い肌に、薄い茶の髪に薄い茶の瞳。整った顔立ちながら、表情は無い。

「嬲る相手の状態くらい、観察すべきであったな。馬鹿親が」

吐き捨てる勢いに、荒い語調。典雅ともいえる気品を湛えた顔立ちに、それは似合わない。

だが仕方のないこと。彼の血筋は、ある藩の御典医として続く名家のもの。その現当主の長男であるがゆえに、気品はある。
しかし、彼は生まれてから十四年の間、殆どをこの空間で過ごした。次期当主としての教育など受けていない。いや、まともな教育すら受けていない。彼には、稀に与えられる書物等を、繰り返し読んだ知識しかない。ただ独りで、師も存在しない、薄暗い牢の中で。

「……今更――」


今日も当主はいつもと同じように、少年を鍛えに訪れた。
――鎖に繋がれたままの少年を殴ることが、鍛錬といえるのかは不明だが。

いつもと異なっていたのは、鎖が外されていたこと。

身動きできぬ我が子を嬲ることは可能でも、自由に動く天才に対抗することなど、半分狂った男にできる筈もなかった。

いつも通り近付き、いつも通り殴りかかろうとした所で、当主は気付いた。
振り上げた己の右腕が存在しないことに。

遅れて襲い掛かってきた痛みに、悲鳴を上げる事もできなかった。
なぜなら、次いで喉を潰されたから。

這いずり、血の海の中で声にならない悲鳴を洩らす。
涙すら滲ませながら救いを求めるように許しをこう男は、己を見下ろす瞳の冷たさに身震いした。自分もこうだったのだろうか。まだ幼き子を、殴り続けた己も、震えるしか出来なかったこの子を、こんな瞳で見下ろしていたのだろうか。

息子に情など教えていない。優しさなど与えていない。
己が振るったのは、暴力だけ。与えたものは、憎しみと怒りのみ。

ならば、彼から返されるものは、考えるまでもない。

恨みの言葉さえも掛けず、手を振り上げた息子の姿に、男は、初めて後悔の念を抱いた。
十四年間苛み続けて、初めてのこと。命が惜しいからではない。息子が恐ろしいからではない。

自分が作り上げてしまったのは、感情を表すことさえできない子供。
怒りも憎しみも恨みも罵倒も。こんな場面でさえ、死ねとの言葉すらかけてもらえない。ただ凍りきった瞳のままで、笑みも怒りも口元に浮かべずに、死の鎌を振り下ろそうとしている。

彼からの言葉など、ここ十年以上、聞いたことがなかった。

確か初めて聞いた言葉は、助けてとか止めてとか、そういった類のものだった。当然聞き入れなかった。彼からの言葉に応じた事はなかった。

ゆえに、少年は男に対し、一言たりとも発さなくなった。


男は、今更に思い出した。もうどうしようもない場面で。
妻と約束したのだった。たとえ運命により彼女が失われようとも、生まれた子を慈しみ、時を経て、いつかあの世とやらで会おうと。

彼女に、どう言い訳をすればいいのだろう。愛すると、幸せに暮らすと誓った我が子を、虐げ続けたこの事実を。


「――今更、『すまなかった』か。遅すぎるな、父上」



―― 緋勇 龍貴 ――


ろくに光の射さぬ座敷牢。
そこだけが兄の居場所だった。

見かけた事は何度かだけあった。自分がそこに立ち入ることは許されていなかったが、とうに狂っている父の目から逃れることなど造作もなかったから。

今まで何度か見かけた時と同じように、今日も兄は眠っていた。

顔立ちは同じ。違うのは色彩だけ。
自分も相当に白いが、兄の肌の色はさらに白い。殆ど光に当たらず育ってきた為か、髪の色さえも薄茶であった。

幽閉と虐待を受ける兄。次期当主の待遇と溺愛を与えられる自分。
同時に産み落とされ、同時に母の命を奪ったはずの双子の運命を分けたのは髪の色であった。

ほぼ同じながらも、自分の容姿の方が、母の面影を残しているらしい。尤も赤子の時点で判っていたのは、この漆黒の髪くらい。兄は不幸にも緋勇の家特有の、薄い色素の特徴を強く有していた。

だからこう判断された。
兄は母の命を奪った忌まわしき黄龍と。
自分は、母の忘れ形見であり菩薩眼の力を宿すものだと。

魂を分け同時に生まれた双子が、兄だけが黄龍の力を持つと断定するなど、本来は不可能。
龍脈が乱れない限り、黄龍の力は完全には覚醒しない。それまでは、緋勇の家系に多く顕現する強い氣の力と区別などつかない。

自分に菩薩眼の力が宿るなど、有り得ない。
菩薩眼は、確かに多くの場合は血によって継承される力。だが、それは女のみに限られるもの。

なのにあの狂った男は、何の決め手もなくとも、決めつけた。
ただ単に怒りの矛先が欲しかった。それだけで、生まれたばかりの我が子を幽閉した。
ただ妻を喪ったことを認めたくなかった。だから力を継ぐはずのない息子を、溺愛した。



「あいつが亜矢迦を殺したのだぞッ!!」

忠臣に諌められ、正気を失った声音で甲高く叫ぶ父親に、内心にて深く溜息を吐く。

見苦しいにも程がある。
それでも子を産むと、死を予想しながらも選んだのは、顔も知らない母なのだろうに。それを了承したのは、この父なのだろうに。

勝手に死した女の責も、認めた己の責も棚に上げ、妄執だけを抱え、直接の因である己の息子に当り散らす。愚鈍だ。

そこまで彼女が恋しいのならば、子など孕ませなければ良かったのだ。後継ぎは側室に任せ、彼女は正室として大事に大事に飾っておけば良かった。どうしても貴方の子が生みたいなどと、お前がそんなにも望むのならばと、勝手にふたりの中で、悲劇の恋に盛り上がっておいて、いざ死してしまったら、この様とは。


「亜矢迦……なぜ、私を置いて……」

無様な……。

母の名を、何度も繰り返し呼ぶ父に、嫌悪しか抱けない。この無様な男の血を引いていることが、恥ずかしい。

もう、要らぬかもしれない。

少々早い気もする。できることなら、元服し、その上で数年は待ちたかった。

だが、最早、鬱陶しさは限界を超えている。
城内の掌握はほぼ終わっている。皆がこの病んだ当主を厭い、その反動もあり聡明な若き次男に多大な希望を抱き、そして、何割かは哀れな幽閉された長男に同情の念を持つ。


ならば、簡単な手段をとる。



鍵を、鎖を解きにきた。
自分の兄であるのならば、あの狂った男など容易に殺せるであろうから。

兄がその手段を取らない可能性もある。自由であることを知った彼は、一目散に逃げ出すかもしれない。だが、その場合も同じこと。いくらかは面倒になるが、証拠を捏造した上で、我が手で殺せば良い話だ。

そういった思惑の下で、この座敷牢を訪れたのに。

静かに眠る兄の、思いのほか安らかな寝顔に、躊躇を覚えた。

彼の手を汚させることに。

この人は、地獄でしか有り得ない環境でなお、穢れない。憎しみだけに感情を埋め尽くされても何ら不思議で無い扱いの中、平穏という感情を保っている。

己には、もうあの父は、存在する事さえも赦せないというのに。一刻も早く、あれの命を消したいというのに。

奇矯癖により、当主自らの手で幼き頃より幽閉されている、哀れな恐ろしい兄。穏やかで聡明な当主を継ぐであろう頼もしき弟。

それが、皆の持つ認識であろう。だが……。

異常な環境の中で、正常であり続ける兄と。
恵まれた環境の中、父を耐え難いほどに疎む弟と。

果たしてどちらが狂っているといえるのだろうか。



屋敷中が騒がしかった。
原因は、無論のこと、当主の死。座敷牢で無残な姿で発見された当主。そして、それを為したと思われる兄の姿は消えていた。完璧といえる。

適切な指示を臣下たちに与え、悲壮な顔で休ませてくれと告げた。
彼らからのまだ幼い主君への痛ましげな眼差しと、それでも冷静に振舞う名君としての片鱗への賞賛をしかと確認し、部屋に戻った。

なにもかもが計画通り。唯一の問題は、自室で待っていた者の存在だろうか。

「あ、兄上!?」

幾許かの真の驚愕と、演出した恐怖とを乗せた声で、小さく叫ぶ。
不思議そうに首を傾げ、それから薄く笑った兄は、酷いことを口にした。

「もう現われないから、ある程度の金子を寄越せ。お前の期待通りに、あれを殺してやったのだから」

ああ、自分の兄なのだなと、心から思った。

彼は信じていない、穏やかな弟の評判など。
偶然などとは考えない。己の鎖が外されていたことを。

「期待とは失礼な。願望くらいに、弱くして頂けませんかね」

心外だと、笑いながら憤慨してみせた。
それもまた真実なのだ。

兄が逃げてくれるだけでも良かった。そうすれば、恐慌をきたし騒いだであろう父を、人目の無い場所で殺せばよい。

だが、兄は鼻で笑った。
言葉遊びをする気はない――と。

「上には奇矯癖を持つ跡取りによって、当主が殺されたと報告しておけ。廃嫡し幽閉していたが、父親を殺した後、自害したので、『穏やかで聡明』な次男が家を継いだことにするのだな」

それは全く自分が思い描いていた通り。
金を受け取った兄は、立ち去りかけ、歩みを止めた。

――ああ龍貴、言っておくことがあった。

忘れていたことを、ふと思い出したように。
兄は前を向いたまま、振り返ることもなく付け加える。

「俺が母を殺したことは、紛れもない真実なのだから、あの境遇のまま生を終えるのも、ありかと思っていた。だが、死にたかったわけではない――礼を言う。じゃあな」

立ち去り際に告げた言葉に、笑みを返す。

「貴方は私の策略に踊らされただけ。罪は私にあります。ありがとう、兄上」

届いたかどうかは判らない。
彼には、自由に生きて欲しい。今まで、自由もなく、劣悪な環境の中で生きてきたのだから。

自分はこの恵まれた檻の中で、決められたように期待されるままに生きていく。緋勇の家も、正常に戻し、次代へと継いでいく。

それが、貴方を捨て置いた自分の罪。
貴方に罪を犯させた罰。



「幕府の直属……」
「はッ、この半年程足取りが掴めなかったのは、その為です。何らかの任が終わり、情報の規制が解除されたのだと予測されます」

安否確認程度の意図で、常に兄の居場所を調べさせていた。
大体の居場所は、この六年掴めていた。

兄が段々と放浪に慣れるにつれて、今現在の居場所を知ることは困難になっていたが、足取り程度は調べられた。
だが、ここ最近は、全く――僅かな痕跡すら残していなかった。
かと言って、死体が発見されるでもない。

まるで神隠しのように、一切消えてしまっていた。

「より上から、隠蔽されていたということですか」
「はい。隠密がゆえに、完全に秘匿されていたようで。現在は、こちらの村に滞在中だとか」

緋勇の家は、あくまで御典医。大名お抱えの医師の調査網に、幕府の組織が掛かるはずもない。
報告者を下がらせて、書類に目を通す。

意外だったのは、兄が半年以上、同じ場所に留まっていたこと。
そして、何よりも――――笑顔を見せていたこと。


大して似てもいない影武者は、すっかり青ざめていたが、季節の変わり目に負けて伏せっているという理由で、自室に引きこもらせた上で置いてきた。

医者の不養生と謗られるかもしれないが、軽い眩暈を訴える程度ならば大した問題になるまい。


嘗ては隠れ里であった村。
今ではある程度開かれていた為、辿り着くことは、それほど難しくはなかった。

明らかに兄を知っているらしい――私を見て、驚いた少年と青年の二人組へ近づいていく。


「て、てめェッ!! いつの間に帰ってきやがったッ!?」
「ああ、申し訳ないのですが、私は――」

叫び、構えた少年に、軽く頭を下げる。
兄そのものと、間違えられたようだ。

「『申し訳ない』!? び……病気か、龍斗!!」

兄はいつもどんな言動を取っているのだろうかと、疑問に思った。
少年の面に浮かんだ色は、驚愕よりも恐怖に近い。

「妙なもんでも食ったのかッ!? それとも転んで頭を――」

それにしても、普通は、別人だと気付かないものだろうか。
いくら顔が同じだとしても、髪と目の色が違うのだが。

「落ち着け、澳継。……龍の双子の弟か。話には――よく聞いている」

村の――鬼たちの長だという、九角と名乗った青年が、狼狽する少年を抑える。

「話に――ですか?」

意外だった。
あの人が、過去を――あの、意味のなかった時間を、他者に語るとは思えなかった。

「ああ。すれ違いになってしまったな。奴は相模に行った。父親の墓参りだそうだ」
「……あの人が父の?」

信じられない言葉を耳にして、愕然としてしまう。



九角鬼修の墓の前で佇んでいた天戒は、微かな音に振り返った。

「よう、龍。よく、俺がここにいると分かったな」

何を今更と、龍斗は鼻で笑った。考え事があるとこの場に篭る、頭目の癖を知らぬ者は、この村にはいないだろう。

「ふむ、少々挨拶をしに来た」

予想していなかったわけではない。
それでも胸が締め付けられる想いで、天戒は弱々しく呟いた。

「お前もか。……いや、止める権利など、俺にはないか」

やたらと悲壮な様子の友に、龍斗は首を傾げた。

「どういう意味だ……なんの話だ?」
「お前も、この村を出るのではないのか?」

皆が、一歩を踏み出す。
隠れ、震えていた、この村を出て、己の為すべきことを為すために。

庇護していた村の長としては、嬉しくもあり。
残り続ける組の長としては、寂しくもあり。

旅立ちを祝福しなければならない。だから笑わなければならない。
縛ることなどできない。だから顔を顰めてはならない。

天戒のそんな心の動きが、龍斗には、手に取るように分かった。

「……少しばかり里帰りするだけだ」

溜息と共に、龍斗は呆れ声で吐き出す。

自分に関しては、純然たる勘違いなのだから構わない。

だが、他の皆――先へ進んで行く者たちに対しては、泣きそうな顔で無理に笑むくらいならば、寂しく思うということも、素直に告げれば良いだろうに。

門出を祝福してやること。
別れを寂しく思うこと。

何も矛盾していないのだから。

「去る連中には、思った通りに心を伝えておけ。で、俺はただ、用があるのだ」

一度、父の墓参りに行こうと思ったのだ。
己が殺した者の墓参り。お笑い草かも知れんが、それでも行ってみようと。

今でも、あれの事は憎い。おそらく、それは一生変わらない。
だが、少しは変わったかもしれない。


そう静かに語ってから、龍斗は苦笑した。
いかに皆が新しき道を進もうとも、彼だけは、この村を出る筈がないのに。

「まったく……俺の帰る場所とは、雹が居てお前が居る――この村だ」



そんな惚気を残して、兄は村を出たのだという。

惚気の対象であった女性に会ってみたかった。
そう告げると、九角は気さくにも、案内をかってでてくれた。


巨躯の操り人形に乗った少女からは、その名に相応しく、冷たく毅然とした印象を受けた。

「貴女は兄を、愛してくれているのでしょうか」
「……愚問じゃな」

だが、兄について語ろうとした瞬間に、氷は融けた。
目を細め、微笑む彼女は、愛らしくさえあった。

「わらわを変えてくれた。もし、龍様がいなければ、たとえ今と同じ結果がもたらされたとしても、わらわの心は閉ざされたままであったろう」

人間とは決して愛し親しむべきものではなく、警戒するべきもの――。
ずっと、そう思い続けて生きてきたのだと、彼女は語った。

それが、人間を愛し、己が人間でいる事の喜びを感じるようになったのは、兄と出会ったからなのだと。

「わらわには、あの笑みが眩しく、頼もしく――とても愛しいのじゃ……。わらわは―――、わらわは龍様が……」

他者に愛していると、好きだと断じるのは恥ずかしいのか、顔を朱に染めながら、語尾を濁す。
なるほど、これは大層愛らしい。


邪まな念が漏れたのか、九角によって連れ出させられた。
咎めるような目をしているところから判断するに、彼女に対する感想が、顔に出てしまったのか。


他の仲間にも――と、村中を連れまわされた。


「いつもみんなの前に出てさ。どうしてああ――、痩せ我慢ばっかりするのかねェ。……本気じゃないときなら、平気で坊やを盾にするのに」


「若に――天戒に、友として手を差し伸べ、別の生き方を指し示してくれた。感謝している……あとは、あの意地の悪さがなければな」


「彼は、私の魂を救ってくれた。私にとって、輝ける光です……稀に、いや、そこそこ、黒く光っているときもありますが」


「彼という人間に興味を持った。これからも、楽しみに観させてもらう……あれ程、退屈しない男も珍しい」


「彼と出会えたからこそ、俺は今、こうして生きているんだろう。俺も、それから――、妹も。……ただどうにも、性質が悪いのが難点か」


「護るために、刀を振るう術がある事を、俺とこの刀に教えてくれた。あいつと共に闘う事ができたのは、俺の誇りだ……何度か後悔もしているが」


「おかげでわいは、大切な事を知る事ができた。何かを護るために、闘う事もできるんだって、な。……龍々本人は、よく色々なものを壊しとるけどな」


「龍どんが教えでぐれだ。おでには明日があると。……少し乱暴だが、いいやづだ」


「俺様の目を覚ましてくれた。復讐の血にまみれていた志士の魂を、あいつは清めてくれたんだッ。……まぁ、時々酷い目にも遭わされたがよ」


「I bless him,決して忘れる事のできない証をオレにくれた。遠くはなれても、もう、何も不安になる事はない……彼の騒動だけは不安だけれどね」


「わたしの闇を暖かく照らしてくれた人です。……もう少し、素直になった方がいいかとも思いますけど」


「奴と出逢えた事、生涯忘れはせぬ。……尤も、忘れたくとも無理だろうがな」



仲間――共に闘いを潜り抜けた戦友でもある鬼たちは、口々に語った。
感謝していると――、そして、性格はもう少しどうにかならないのかと。

……無理ではないかと。
私もこういう性格である以上、改善の見込みは、非常に薄い。


「あいつが俺を答へと導いてくれたのだと思っている。……あとは、ほんの少しでいいから、平穏にしてくれれば……」

九角までもが、妙に苦渋に満ちた様子で語る辺り、兄は、余程に騒々しいのだろう。
余程――幸せに暮らしているのだろう。

「案内までして頂き、感謝しています。……何もできませんでしたが、そろそろ失礼しようかと」
「ん? 龍を待たないのか?」

辞去を口にした所、鬼の頭目は目を丸くした。
構わないのだ――もう充分すぎるほど、兄の話を聞けた。

「ええ、皆様方から話を聞いて――兄が、まとも……ある意味で、まともに暮らせていると分かりました。流石に、いつまでも家を空けるわけには」
「……うむ、確かにな」

いかに若輩であっても、これでも一応は家長。
そう告げると、彼も同様の立場。納得してくれたのか、渋々ながら頷いた。

「そういえば、お前は……その、方向感覚に損傷はないのか?」

言い辛そうに、それでも念の為と、訊ねてきた。
もしもあれと同じならば――ここで別れてしまったら、一生何処にも戻れない気がすると、顔を雲らせる鬼の頭目に、兄は一体どんな方向感覚をしているのだと、不安になってきた。

「澳継、念の為、江戸の近くまでお送りしろ」
「え……あ、はい」



「風祭殿」
「う……本当に、顔以外は違うんだな」

道中話しかけると、薄気味悪そうに少年は振り返った。
この顔が丁寧に話すということが、既に信じられないらしい。

「兄を――龍斗を」

彼だけは、兄について語らなかった。

皆が感謝していると――性格は褒められないがと。
苦笑じみてはいたが、紛れもなく笑顔を浮かべる中で、彼だけは、ずっと複雑そうな、僅かに苛立ったような顔をしていた。

「どう思っていますか?」

問いに、一瞬だけ息を呑み、それから彼は怒涛の勢いで、まくし立てた。


はじめて会った時から、気に入らなかった。
その時から、自分のカンが、危険さを告げていた。
張りつめた糸のような昔の鬼道衆が好きだったのに、皆を壊してしまった。


強く睨まれた。
きっと、彼は私に、兄を見ているのだろう。


「俺はあいつが嫌いだッ!! 大嫌いだッ!!」

癇癪を起こした子供のように、乱暴に髪を掻き毟りながら叫ぶ。

変わってしまった仲間に苛立って。
変えた兄に苛立って。

「どうして俺は、こんなに――、こんなに、あいつのことが嫌いなんだ!?」

そして、自分も変わったことを認めたくなくて。
全てが裏返しなのだろう。

「ありがとうございます」
「……何がだ? 俺はあんたの兄の悪口を」

礼を言うと、怪訝そうな顔になる。
自分では分かっていないようなので、彼の言葉を裏に返した。

「兄のことが好きなのでしょう?」
「なッ……」

絶句していた。
わなわな震えてもいた。

「……あんたはずっと会ってねェから、知らないかもしれないけどよ、龍斗ってのは、本当に我侭で、横暴で、乱暴で、根性が歪んでて、性根が腐れてて、性格が……」

しばし呼吸困難になるほどの硬直が解け、悪口がぼろぼろと零れ落ちる。
だが、不幸にも、聞いていた人物がいたらしい。

「陰口は感心しないな、澳継」

見事な蹴りが飛んできた。なんというか凄まじく美しい姿勢のとび蹴り。

ごろんごろんと転がっていく少年に同情しながら、新たに登場した人物に、苦笑と共に話し掛ける。

「随分と非道なことをなさいますね」
「龍……貴? なぜこんなところに? いや、確かに見かけなかったが」

村では、兄とは会えなかった。
それでも知る者の反応から、今の兄を想像できた。

そして、兄の実像は、想像の上をいった。

「でめえぇぇぇ――ぐぎゃあああぁぁぁぁぁぁ」
「まあ落ち着いて、その辺で転がっていろ」
「本当に……変わられましたね」

心から思った。
嘗てはまさに鏡に映したようにそっくりであった。表情を浮かべられない兄と――笑みしか浮かべられない自分とは、対照なのに同じであった。
けれど今、飛び掛ってきた少年を、問答無用に蹴り上げた兄に、その面影はなく。

……ああ、坂の下まで転がっている。草まみれだ。



「私は、美人でも不細工でもない、ごく普通の妻との間に、子をもうけました」

兄に会い、告げたかったこと。
世継ぎも生まれた。
家の方も安定している。

だから、もう、安心していのだと。

「だから貴方は自由にすると良い。あの少女は――子を産めないのでしょう」
「……ああ」

線の細さ、酷い身体の怪我、そして精神の傷。
医師として、理解してしまった。

「……俺はもう戻ってるからな」

本来ならば、蹴られた報復に掴み掛かりたかったのだろう。そんな顔をしている。

だが、久しぶりに会えた兄弟を邪魔するほど空気が読めなくはないらしく、また同時に、少女の傷にも関わることを盗み聞く趣味もないらしく、少年は怒りを抑え、先に戻ると言った。

「阿呆、その辺りで待っていろ。こんな遠くから、俺が独りで戻るには多大な苦労が必要だろう。思いやりの足りぬ奴だ」

ここに来るまでも、苦難の連続だったのだと威張る兄に、少年が怒鳴り返した。

「阿呆はお前だッ!! なんでそんなに偉そうに、情けないこと言ってんだよ」
「ふん、ならば戻るがいい。だが、どうせ天戒の指揮の元、総出で俺の捜索隊を出す羽目になるぞ」
「ぐッ……分かった、仕方ねェ」

言い負かされる少年も、そんな情けない主張で言い負かす兄も、どうかと思った。



「これを持っていけ」

ぽいと、掌に投げ込まれたものは、黒の数珠。

目を凝らすまでもない。
多大な力が込められていることが分かった。

「兄上……これは」
「御守りだ。高野山阿闍梨により、多大な守護の力が込められている。……お前の性格が多大に歪んでいようとも、所持していれば、平穏な人生程度はおくれよう」

さり気ない悪口に、鉄壁のはずの笑顔が、僅かに引きつったことを自覚した。

「ぶっ飛ばしますよ? ……そうではなくて、仏式の結婚にて授与される、対になっているものでしょう?」

かなり物騒な目で兄を睨みながらも、疑問を投げかける。
守護の力だけではない。これは――婚礼の誓いの意味もあるはず。

「らしいな。だが、俺に信心は無い。護符として考えるのならば、ひとつは雹が持っている。これから生涯共に居るのだから、構わぬだろう」
「……貴方に惚気られるとは」

驚きに苦笑してしまう。
すると、兄は口元を歪め、勝利宣言に近いものを口にした。

「年に一度、惚気に行ってやろう。幸せ具合を語る。――――あの男の命日にな」

年に一度、会いに来てくれるということなのだろう。
報告も兼ねて。
父の墓前にて。

「……はい、お待ちしています」


―― 緋勇 龍麻 ――



幕末と後に呼ばれる時代は終わり、幕府という名の行政組織は消えた。

時は過ぎ、世は変わる。


未来の過去は既定であるが、過去の未来は未定である。

鬼の村に残った龍と、友を得た鬼が紡ぐ歴史は、龍閃組の中心人物と鬼道衆の頭目が相打ちで死したとある世界とは、異なる展開へと進む。


眠りを貪る漆黒の髪の青年の布団を、がばっと捲り上げた人物がいた。
彼と同じ漆黒の髪を長く伸ばしたその美しい女性は、せいぜい三十代に入ったかどうかに見える容姿であった。

「早く起きなさい。転校初日から遅刻する気なの?」
「あ゙〜。だいたい父さんが久しぶりに埋蔵金堀りに行くからって、父さんと母さんが揃って騒いでいたから眠いんだろうに。転校初日に遅刻ってのも、インパクトでかくて良くないかな?」

女性の若い外見からは信じ難いが、彼らは母子らしい。
確かに顔立ちが似ている。但し、見た目の年齢差からは、姉弟程度に見えるが。

「弦麻さんは、考古学者!! 埋蔵金堀はやってないわよ。馬鹿なこと言ってないで、早く目を覚ましなさい」


昭和末期と呼ばれる時代に、龍脈が乱れる事はなかった。
ゆえに菩薩眼の宿星を持った女は普通――というにはやや性格に難のある男児を産み、娘という宿星が継がれる存在ではなかったために、生き続けている。


「父さんがやっているのは、発掘って感じをうけないんだけどな」

遺跡に潜り、罠を解除し、時に守護者と闘うのも発掘というのだろうかと首を捻ってから、青年は、端正な顔にぼーっとした表情を浮かべたまま立ち上がる。



顔に傷を持つ、紅蓮の髪の剣鬼は暗躍しない。
ゆえに違う世界にて、命を賭して剣鬼を一時的に封じた拳士は、今は己の仕事にて世界を嬉々として飛び回っている。


「そういえば兄さんたちからお祝い預ってるわよ。ぬいぐるみ電報。プーさんじゃなくてキティちゃんの辺り、手が込んでるわね。エンジェルのピンクよ」
「ワーイ、お部屋に飾ろうっと。……で、本文は?」

愛らしい天使の羽を生やした、ピンクの衣装のキティちゃんを疲れた眼差しで眺めてから、青年は問うた。
女性は、キティちゃんがちょこんと可愛らしく抱えたピンクの筒から、電報を取り出し、しばらく黙ってから読み上げた。

「えーと、『都会の汚い空気で寿命を削るが良い』……ですって」
「……伯父さん、氷雨さん。鎌倉だって、もう緑の杜とかじゃないだろうに。前から思ってたんだけど、角倉の人たちって、人格に欠陥があるんじゃ」
「認めると、私にも問題があることになるから却下ね。あ、落ち着いたら等々力のお参りも行って欲しいそうよ。学校から近いんでしょ?」


どこかで義父であり義兄であった人たちは、ここでは伯父一家。


登校した青年は、転入初日から忙しかった。

「私、美里 葵っていいます。美里は、美しいにふる里の里。葵は、葵草の葵―――」

学園の最高人気らしき少女に母の面影を見たり。

「ちょっと、面貸せや」

やっかんだ不良たちに喧嘩を売られたり。

「今後も、こんな善良な人間に迷惑を掛けるのならば――生まれてきたことを後悔させますよ?」

彼らを父直伝による ―― 一族代々に伝わる古武術の腕にて完膚なきまで返り討ちにしたり。


それは、どこかの世界とよく似た話。


「龍斗? 緋勇……龍斗?」
「え? いえ、惜しい。緋勇 龍麻と申しますが」
「……すまない。人違いだったようだ」

転校先にて、白衣を纏った眼鏡の男性教師が、人違いだといいながらも、訝しげに己を見つめていたことに気付いても、面倒事は進んで回避する性質であるため、彼はあえて追及はしなかった。


忍び続けた鬼の一族の当主。
龍の血を秘めた一族の末裔。


「おっと済まねェな」
「あ、申し訳ない」


彼らは出会う。どこかの世界とは異なり、ある一族を祀った不動にて。
だが、どこかと同じく、桜の木々の下で。

どこかの世界では、共に薄茶の髪を持っていた彼らは、今は印象が違った。


「珍しいな、いい若いもんが不動巡りか?」
「まあ、先祖関連の場所なので」

不思議そうに首を傾げた赤毛の青年に、漆黒の髪の青年は、気を悪くした風もなく答える。
先祖という言葉に、赤毛の青年が反応した。
この不動が祀る一族は、彼の直系尊属。

「……先祖だと? 俺は九角っていうんだが、お前は?」
「ああ、御当主ですか。角倉の家系です。母方なので、私自身は緋勇という姓ですけどね」

九角と名乗った赤毛の青年は、僅かに目を見張った。
緋勇とは――先祖より確かに伝えられた、仲間であり大切な友人の姓。

「緋勇? ……ッ!?」

その時、九角の手首に在る数珠が微かに光った。先祖より継がれた強大なる護りが。

「あちッ……数珠が光ってる?」

訝しげに、鞄を探った緋勇という青年が取り出したのも同じく数珠。

「それは!!」
「うわ、ペア数珠ですね。野郎同士では、何だか寒いですが」

彼の言葉通り。
九角の腕の数珠と、緋勇の手にした数珠は明らかに揃い。一対の物。

「先祖から継がれている御守りです。厄介ごとに巻き込まれやすい緋勇の家系を、護っているそうです」
「……奇遇だな。俺も先祖からのもんだ。子供ができなかった――親友夫婦から、九角の家系に託されたそうだ」


人形姫は子を生めなかった。
龍の拳士の直系の血は絶えた。

けれど、その祈りは消えず。平穏という願いは、叶った。


「これも何かの縁だろう。呑みに行こうぜ」
「私はうわばみですよ」
「気にするな、俺もだ」

平然と答える相手に、緋勇は苦笑した。
緋勇は制服を着ている。つまりは、未成年だというのに、九角は気にしないらしい。

「そもそも未成年なのになあ」

彼自身、酒も煙草も嗜むが、悪事はばれないところで行えという家訓がある。
少し呆れた呟きに、返ってきたのは、意外な答え。

「気にするな。それも俺もだ」
「ぇ……え〜〜ッ!!」

常に、他人に対して被り続けている猫が、驚きすぎて逃走した。
緋勇自身、制服を脱げば、未成年には見えない。
だが、九角は、それどころではない。

緋勇が二十代前半とすれば、九角は二十代半ば――もしくはそれ以上。

「俺は、正真正銘の十七歳、高校三年だ」

憤然とした九角の言葉に、緋勇はさらに吹き出した。

「タメぇ〜!? それは嘘だ。絶対嘘だ」
「殺すか」

低く呟いた九角に、緋勇はまあまあと笑う。


その時、突風が吹いた。
桜の花びらが舞い、薄紅色が空間を埋めた。

「……ゴミでも入りましたか?」

乱暴に目を擦る九角に、緋勇が笑いを消して問う。

「……気にするな。よく分からねェが――凄まじく哀しくて」
「――嬉しかった? なら、俺も同じ感じを受けてます」

彼らは何も知らない。何も継いでいない。
異なる世界の悲劇など、関係ない。

それでも――哀しくて嬉しかった。

どこかで、悲劇が起きたことが哀しかった。
ここでは、悲劇を回避できたことが嬉しかった。

「そうか。なら俺たちは、どこかで出逢っていたのかもしれないな。ここではないどこか―――、遠い刻の向こうで」
「……ぽえまー? これだから春先は……」
「俺は真剣に言ってるんだよッ!!」



哀しき鬼たちは、珠より造られない。
鬼道を継ぐ一族の若き当主は、先祖の言を守り、平穏に暮らす。


ゆえに

龍は、目醒めない……

因果は、巡らない……


 東京魔人学園外法帖 完