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― 東京魔人学園外法帖 闇在閑話 陰四話――


一見兄弟のようなふたりが、浅草寺に続く道をてくてくと歩いていた。
彼らが、ともに道着を纏っていたことが、兄弟との印象を強くしている。
色彩・紋様など、細部は全く似ていないというのに、不思議なことに、どこか統一感のある道着であった。

「くそッ、よりによってお前と二人でかよ」
「仕方なかろう、文句は天戒に言え」

御屋形様を呼び捨てにすんなッ――と、叫ぶ小柄な少年には構わずに、青年は眼下の浅草寺境内を眺める。
浅草寺の全景が視界に収まる小高い場にて、彼は足を止めた。

「どこをどう見て回っても、まったくただの寺だ。まったく《鬼門》なら《鬼門》ってわかるようにどっかに書いとけよなァ。あァ、龍斗。お前、鬼門って何だかわかるか?」

一通り無茶な言葉にてぼやいてから、やっと己の任務の内容を思い出したのか、少年は得意げな瞳で、踏ん反りかえった。

「聞きかじり程度の知識ならあるが」
「何でそんな事知ってんだよ。フツー知らないだろ?くそッ、俺なんて九桐に何度説明してもらったかわからねェのによ」

知らぬ相手に、説明したかったようだ。途端に拗ねだす少年に対し、龍斗は肩を竦める。彼にとって、知識が多いことは、誇れることではない。
……悪しき思い出に直結することであるから。幾らでも時間があり、他にすることがなかったがゆえなのだから。

「紙の上での知識だ。間違ってるかもしれんのだから、説明してみろ。聞いてやろう」
「なんでそんなに偉そうなんだよ……。まぁ仕方ねェ。特別に説明してやるから、よく聞いとけよ。
鬼門っていうのはだな――その……風水が……魔の入口で……北東の………」

ええと…何だったかな―――段々と声が小さくなり、頭を抱えて悩みだした少年に、龍斗は聞こえないように、小さくため息をついた。


「風祭……分かった、もういい」
「と、とにかく、江戸にとって汚されちゃヤバイ場所だって事だよッ」

風祭と呼ばれた少年は、強引に結論付けた。
龍斗の認識にあった『鬼門』と、そうずれた所は無かったため、それ以上の追求は控えることにした。―――気の毒であったために。

「はァ〜、面倒臭ェなあ。こんなの九桐にやらせりゃいいのに。仕方ねェ。もうちょっと周りも歩いてみようぜ―――」

とことん嫌そうに、風祭は歩き出した。命令でさえなければ、今すぐにでも帰りたいのであろう。
だが、彼はその退屈を紛らわせそうなものを見つけてしまった。浅草芝居町に並んだ小屋の中で、『真珠の涙を流す人魚』などと書かれた見世物小屋の看板をしげしげと眺めていた。

「お前、興味あるか?」


望む答えが分かった上で、龍斗はわざと素っ気無く応じた。

「いや、全くないな」
「そうだな。金払うだけ馬鹿馬鹿しいぜ。……でも、ここまできて素通りってのもなんだよな。バレないように、こっそりのぞいてみるか……」

矢張り興味はあったらしく、なんのかんのと理由を付けながら覗けそうな箇所を探し出す。待っているのも暇な為、風祭の隣にあった穴から覗いた龍斗は苦笑した。
異国の血が混じっているのか、金の髪の半裸の少女が、明らかに偽物の魚の尾をつけているだけのもの。どちらかというと、異色の美しい少女自体が、見世物として受けているのかもしれない。

「俺んとこからじゃ何も見えねえな……。おい、龍斗、俺にも見せろよッ!!」

突き飛ばさんばかりの形相で近付いてきた風祭に、素直に場所を明渡す。馬鹿馬鹿しいとかほざいていたのは誰だったのやらと、背を眺めていた龍斗は、すっ転ぶかと思った。

「うおぉぉぉぉぉッ!! さ……魚だッ!!」

大絶叫。あの偽物くさい尾に感動。
彼の中では、無銭にて、こっそりと覗いているという認識は、存在しないらしい。

「おいッ、龍斗。本当に魚だぜッ!! すげーッ!!」
「名を口にするなッ!! というか阿呆かお前は」

首根っこを引っつかまれて持ち上げられ、風祭は気付いた。今の状況を。

「誰かそこに、いるのか……!?」
「やべェッ!! 逃げるぞ、龍斗!!」
「だから名を呼ぶな!!」

ひょっとして嫌がらせとして、わざとやっているのかとも思ったが、必死に逃げている状況から察するに、素で抜けているらしい。

「もう、あの場所は使えねェな……。仕方ねェ」

未練がましく振り返り、風祭は呟いた。
仕方無しに、浅草寺内をうろうろしては、調べていたが、ついには風祭が癇癪をおこした。

「結局、大した物はナシか……。ああもう、やめだやめッ!! 何も見つからねェって。こんな、ちょっと《氣》の流れが濃いだけの寺が何だってんだよ」

それを探らせたかったんだろうに、と龍斗には分かっていたが、面倒なので放って置くことにした。そもそも人選を考えれば、何を探らせたかったのかくらい理解できそうなものだがなとも龍斗は思う。こんなにも相性の悪いふたりだけに行かせたことからも、察するべきだ。


「大体、こんな仕事を俺に任す御屋形様が悪いよな?」

そして半ば責任転嫁。だが、お前だからこそ任せたのだろうなどという優しい言葉は、龍斗は口にする気も無い。

「ああ、その通りだな。お前に任せた天戒が悪いな」
「そういうわれると、なんか妙に引っかかるな。俺には暴れる以外に取り柄がないと思ってんだろッ。……くそッ」

ぷりぷりと怒りを露に歩き出す風祭の背を、龍斗は尊敬の眼差しで眺めていた。ああまでも鈍いのも才能であろう。とっくに任務を果たしながら、苛々と不満を口にしているのだから。
念の為の確認にと、もう一度振り返り、意識を集中して氣の流れを視ていた龍斗は、甲高い怒声を聞いて頭を抑えた。

「こうなりゃ奥山まで行って、屋台で何か旨い物でも―――、痛ッ――。てめェ、どこ見て歩いてんだッ!!」

ほんの少しの間。
ただ目を離しただけだというのに、どうして彼は面倒事を起こすのだろう。

哀しく眺めてはみたが、もう止められない事が龍斗には分かっていた。

なにしろ――――

「な、何だと、この餓鬼」
「ちッ、妙な格好しやがって、大道芸人かなんかか?」
「へへッ、何か芸でもして見せろよ。そうしたら今の非礼は許してやるぜ」
「どうした? ほら、見せてみろ。吉原で女が待ってんだからよ、さっさとしろよこの餓鬼―――」

――――相手も馬鹿な上に、さらには数を頼みにし、小柄な相手と見て図に乗る下衆だ。


予想は、現実となる。

辺りに響く打撃音。

餓鬼餓鬼と、口にしていた派手な羽織の侍が、風祭の蹴りを喰らい、吹き飛んでいった。

「うぎゃッ―――。き、き、貴様ッ、この俺にこんな事してただで済むと思ってんのか!?」
「へッ、てめェらこそ、タダで帰れると思うなよ!? 俺に、い〜い考えがあるからなッ。お前も付き合え、龍斗ッ!!」

だからこんな場にて名を呼ぶなとの突っ込みを入れることを、龍斗は諦めた。
面倒なことを――その感想は変わらぬが、とりあえずは向かってきた三人の男を、龍斗は伸した。この程度の輩ならば、風祭との連携も、その手助けも必要とは思えず、分担が終わった後は、ただ眺めていた。


「まったく、口ほどにもない奴らだぜ。弱い癖に調子に乗るからこういう事になるんだ――」

転がり呻く男達を見下ろしながら、風祭が嘲笑した。
ふと彼は、何かを思いついたようで、男達の懐を漁り出した。

「そうだ、お前らこれから吉原に行くんだってなァ? って事は―――、へッ、なんだよ……思ったよりシケてやがんなァ」

それはたかりと言うんだぞと、思わないでもない龍斗ではあったが、結局口にはしなかった。この類の男達を、彼とて勿論好きではないし、たまには痛い目に遭っておけとも思った為に。

「ぐううゥゥ……。き、貴様ッ、こんな事をしてどうなるかわかってるんだろうな!? 俺の親父は幕府重臣―――、ぬおおおッ!!」

あ、余計な事を――と、龍斗が眉を顰めた時には、もう風祭は男の腹を踏み、そのつま先に力を込めていた。

「幕府の何だって……? それ以上いってみろ。次は怪我程度じゃ済まねぇぜ」

本物の殺気くらいは、理解できるのだろう。息を呑み頷いた男を、風祭はもう一度蹴りつけてから踵を返す。


「ふん―――。行こうぜ、龍斗」

それでも名を口にするかと内心で溜息を吐いてから、龍斗は後を追った。下を向き、気分が悪いと吐き捨てる風祭は、よほどあの手の者が嫌いらしかった。

「何が幕府だ。何が親父だッ。ふざけやがって……。お前だって、ムカツクだろ? あんなクズみてェな奴ら―――、片っ端からブッ殺してやりゃあいいと思うだろ?」
「否定はせんな。まあ、生きている価値はなかろう」

冷たい口調に、風祭は顔を上げた。見上げた先の龍斗は、無表情。怒っているでもなく悲しんでるでもなく。倒れ伏す男達を振り返りもしない彼の瞳から、心底本音なのだろうと分かった。

「……冷静だな。もっと偽善者クサイ台詞でも聞かせてくれるのかと思ったよ」
「そちらこそ意外だな。それが望みならば、熱血的に否定するのも哀しそうに諭すのも――――演じてやっても良いが?」

首を傾げる龍斗に、風祭は黙ってかぶりを振った。
どうして自分だけがこの男を受け入れられないのかが、なんとなく理解できた気がしていた。

名を聞いた時にまさかとは思った。技を見て確信した。

この男が、陽の総帥を継ぐ家系の者だということを。

先代の男の傍若無人な振舞いを噂に聞いていた。それとは異なり、数年前に継いだ新たな後継者は、自身よりも五、六才上の青年で、至極まともだとも聞いた。

その青年とやらと、この男が等しいのかは知らない。少なくとも、彼を『至極まとも』だとは思わない。
彼が一族でどんな立場に在るにしろ、『緋勇』だから気に食わないのかと思っていた。

だが、違った。

龍斗は徳川に関心などない。憎悪も嫌悪もない。

風祭も徳川に恨みはないからこそ分かる。勿論彼は、嫌いではあるが、他の者たちのように、深刻な憎悪はない。

ならば、龍斗はどうして鬼道衆として共に在るのか。その冷静な面の下で、何を考えているのか。それが不安で仕方が無かった。

初めに訝しんだように、幕府の手先だというのなら、事情は理解できる。だが、彼がそういう立場で命に従っている様など想像も出来ない。ならばどうして――――と、螺旋のように、疑問が尽きることがない。

「まァ、いいさ。ちょっと懐が温まった事だし、屋台なんてケチ臭い事いってねェでどっかの料亭で旨い飯でも―――、痛ェッ、またこれかッ―――」

不安を押し隠して歩き出した風祭は、再び人とぶつかった。
『小さいから見え難いんじゃないのか?』などと呟いた龍斗に食って掛かる前に、隣の男が落ち着いた声にて頭を下げた。


「ああ、すまなかった」
「なんだ、今度はちゃんと謝れるじゃ―――。驚かすなよ、そんなところにボーッと立ちやがっ――痛ェッ、何すんだよ」

風祭は後頭部を抑えて、語気も荒く振り返る。

「呼吸するかのように喧嘩を売る癖は直せ。すまなかったな」

龍斗は、叱り付けるように言うと、相手に頭を下げる。

「面白い奴だな。俺のような者を見ても平然としているとは……。俺の腕が、気味悪くはないのか?」

首を傾げた男は、隻腕であった。
彼にとっては、龍斗や風祭は珍しい相手のようであった。――怖れるでもなく、哀れむでもない彼らは。


「あのさァ。あんたが誰か知らねェけど、一本残ってるだけでもマシなんじゃねェの?」

凄まじい言い草だなとは思いながらも、龍斗はその考えに納得した。確かに両腕を失うに比べればマシではあるだろう。ましてや男の風貌から察するに、職人として生計がたっているようでもあるのだし。

「ふッ……ははは。それもそうだな。俺の名は、弥勒 万斎という。面を彫るかたわら、吉原などで細工物の仕事を引き受けている」
「俺は風祭 澳継。こいつは―――、えーと、何だったっけな。――痛ェッ!!」

名乗りに応じた風祭が、言葉に詰まった瞬間であった。
数秒の猶予すら与えずに、龍斗は風祭を蹴り飛ばしていた。痛みに悶絶する風祭をもう一度踏みながら、弥勒に名乗ろうとした龍斗であったが、跳ね除けられた。

「くそッ、本気で蹴りやがって……。てめェ、後で覚えてろよッ!! あァ、そうそう。この性格が悪いのが緋勇 龍斗だよッ」

一応人前という自制心を働かせたらしく、勢い良く起き上がり、龍斗を睨み怒鳴りながらも、風祭は弥勒に対して説明を続けた。

「ふッ……。本当におかしな奴らだな」

無表情であった男の面に、笑みが浮かんだ。

「奴らって何だよ。おかしいのはこいつだけだろ」

言い返した風祭に、もう一度龍斗の蹴り。そして再び睨み合い。堪らずに、弥勒が声をあげて笑い出した。

「ははは……不思議だな。こんな風に笑ったのは……久しぶりだ」

その言葉に、対象者二名は同時に首を傾げた。彼らにとって、そして村の連中にとっては、もう慣れた遣り取りであったがゆえに、こうも笑われることが、不思議であった。

「さて、名残惜しいが、俺はそろそろ行かねばならん。吉原に出来あがった簪を届けねばならんのでな」

いまだ笑いを消さぬままの男の言葉に、風祭が反応した。

「吉原か……。ひょっとしたら、桔梗がまだいるかもしれないし、俺たちも吉原へ行ってみるか」
「そうだな。姐さんだけだと、歩いているだけで男が煩そうではあるしな」

何しろ、三味線を手にした妖艶で美貌の女がひとりで吉原を歩いているのである。雲霞の如く男が集ってきてもおかしくない。男が共に歩いていれば、少しはそれを防げるであろう。

「あァ、そうすっか。あんたも一緒にどうだよ?」

気に入ったのか、風祭が弥勒に声を掛けた。幼い外見とは裏腹に、相当に捻くれかつ人見知りの傾向のある彼には、珍しいことと言えた。


「おッ、いたいたッ。おい、桔梗―――」
「おや―――、龍さんに坊やじゃないか。なんだい、ひょっとして、あたしの事心配して来てくれたのかい?」
「一応そうなるな。もしくは――惹き付けられた愚かな連中の心配かもしれぬ」

肩を竦めた龍斗に、桔梗は悪戯っぽく微笑んだ。残念だったね――と。

「ふふふ、ちょいと遅かったかもね。で、こっちの兄さんは?」
「弥勒 万斎という。お前も……、俺を見て眉をひそめはしないのだな」

紹介しようと口を開きかけた風祭を遮って、弥勒が静かに呟いた。哀しげでもなく卑下するでもなく―――しみじみとというのが、一番しっくりくる穏やかな口調で。今まで、余程、奇異の目にて眺められてきたのであろう。

「だってあんた、まだ一本残ってるじゃないか。それに格好からして職人だろう? 文字通り、腕一本で食ってるんだ。それで十分、立派じゃないか」

きょとんとした表情にて、桔梗は首を傾げた。
その言に、龍斗も首を傾げる。先程の風祭といい、彼らは一本すら残らなかった人間の知り合いでもいるのだろうか――と。

「俺は……お前たちのような者に出会ったのは初めてだ。俺の姿を恐れずも、嘲りもしない。ましてや同情すら、な……。お前たちのような者とこの吉原が縁で出会うなど、まったく現実味がないな。無力な者たちの悲しみでできたこの掃き溜めで出会うなど」

あくまでも静謐な言葉が、今までの彼の哀しい境遇を物語っていた。
裏を返せば、彼は常に恐れられ、嘲られ、そして同情の眼差しで見られてきたということ。

「吉原は、何も弱いだけの町じゃないさ。こんなところでも精一杯生きてる者たちがいる。あんただって、そうじゃないのかい?」

それを理解したからこそ、桔梗は優しく尋ねた。
彼のような人たちを、知っていた。鬼哭村に住む大人たちは、誰もが似た瞳をしていた。傷付けられることに慣れ、痛みに鈍くなった瞳を。

「俺は……。お前たちも、そうして毎日を生きているのか?」
「精一杯というのなら、そうなのだろうな。少なくとも俺は、今までの人生の密度とは信じられないほどに、生きている実感があるぞ」

龍斗は素直に頷いた。
あの村へと連れられてから、何もかもが変わった。人と話し、触れ合い、必要とされる。それは今までなかったこと。

生まれてから十四年間――――何もしていなかった。幽閉され、月日が流れることすら、己の成長でしか知りえなかった。
逃がれてからの六年間も、ある意味何もしていなかった。諸国を放浪し、様々なものを見聞きしながらも、ただそれだけだった。何か得るでもなく、何かに必死になるでもなく。ただ生きていただけ。

極端な話、緋勇 龍斗のまともな人生というのは、九角と桔梗によって差し伸べられた手をとった瞬間から始まったのである。

「そうか……。緋勇 龍斗、といったか。お前はいい面差しをしているな。偽りのない、生気に溢れた力強い面だ。俺にもそんな面があればな」

龍斗の事情など、弥勒は知る由もない。それでも理解できた。彼が今、懸命に生きていることは。

お前たちとは是非、また会ってみたいものだ――とだけ言い残し、彼は去っていく。
男の背の寂寥に、何事かを言いかけた桔梗の口を塞ぐかのように、騒がしい男の声が響いた。


「やいやいやいッ!! 花のお江戸の吉原で―――、喧嘩だなんて抜かしてやがるのは一体、どこの田舎者―――おおおおッ!! 桔梗さんッ!? こんなところであなたに逢えるなんてああ、これぞ御仏のお導き」

ぶち壊しになった空気に、痛むこめかみを抑えた桔梗の疲れた表情には気付かないのか気にしないのか、軽そうな男は、すらすらと口上を続けた。

「いや、運命!! これぞ運命に違いないッ!! あァ、あなたを想い幾星霜―――、どれほどこの時を待ち焦がれた事か」

誰だ、この馬鹿は? ――と、同じ言葉を顔に貼り付けた龍斗と風祭に、桔梗は小声で伝えた。
なぜかよく遭う岡っ引の与助という者だと。


「与助、そんなところで何をしているッ!!」

続けて、こちらは随分とまともそうな男が現れる。桔梗が、八丁堀の旦那と声を掛けたところから考えるに、与助とやらの上の者であろう。

「桔梗か……。なるほどそれで、いつもの悪い癖が出たという訳か」
「わッ、悪い癖だなんて、親分―――」

ごにょごにょと抗弁しかかった与助をギンッと睨み黙らせ、先に行って現場を調べて来るよう、彼は命じた。

「まったく……。それにしても、お前もよくよくどこに現れるかわからぬ女だな。そもそも女の身で吉原などに、何の用があって来るというのだ」

走っていった背に向かって呆れたように呟いてから、視線を桔梗へと移す。その鋭い光から、そして桔梗の面から消えることの無い整えられた笑みより、龍斗は彼を油断のならない人物なのだと判断した。

「大した事じゃないですよ。あたしは連れとここで待ち合わせてただけ」
「ほう……。そっちにいるのがそうか。その方、名はなんと申す?」

浮かんだ対応策はいくつもあった。ふざけることも、名乗らぬ相手に教える名など無いと突っぱねることも、可能であった。

「緋勇 龍斗という。よろしく――というのも妙な話ではあるが」

だが、選択したのは、一番無難なもの。喧嘩腰でもなく、へりくだるでもなく。

「ふむ、緋勇 龍斗か。して、その方は―――、」

視線を向けられた風祭は、一瞬言葉に詰まった。だが、先に龍斗がまともに名乗ったこともあり、不満そうではあったが、一応は名乗った。

「……風祭 澳継」
「ふむ……。俺は、火附盗賊改の御厨 惣洲という」

己もきちんと名乗り返すあたり、性格は悪くないのだろうと、龍斗は認識した。そもそも、桔梗の親しげな様子は、全てが演技とは思えなかった。

「それで旦那。吉原で何かあったんですか?」

さり気ない様子にて尋ねた桔梗に、御厨が語った内容は、吉原での喧嘩沙汰。奇妙な事に同心も呆けていて、何も覚えていないという。

「おやおや、そいつは文字通り、狐にでも化かされたんじゃないですか?」
「茶化すな、桔梗。笑い事ではないのだぞ。昨今は吉原も物騒なようだ。お前たちも気をつけるようにな」

くすくすと笑う桔梗を軽く睨んだのち、御厨は龍斗らの方へ話を振った。
おぼろげながら事態を悟った風祭は曖昧に頷き、龍斗の方は、少々の笑みを浮かべて口を開く。

「心得ておく。狐は怖いという噂であるし」
「うむ。遊興に来るのは勝手だが、騒ぎだけは起こさぬようにな」

では――と去っていった御厨が充分離れてから、風祭は桔梗を非難の目で見た。

「桔梗、お前、なんかしでかしただろ」
「さァてね。あたしゃ知らないよ。やれやれ、吉原ってのは本当に色んなのが来るもんだね」

白々しく答えると、桔梗はすたすたと歩き出した。

「絶対、あいつの仕業だよな」
「……だろうな」

後ろの男ふたりの声も聞こえているであろうに、桔梗は振り返りもしなかった。


夜九ツ刻を過ぎた頃、九角の屋敷にて、九角と九桐の前に、桔梗らは集められていた。定例とも言える報告会といったものである。

「さて―――、それでは各々の報告を聞こうか。澳継。浅草寺はどうだった?」
「あ、あァ……え〜っと」

視線を向けられた風祭は、一瞬言葉に詰まり、視線をそうっと逸らしながら、ごにょごにょと答える。

「まあ、その……普通の寺でした」
「おいおい、お前な……。本当にちゃんと調べてきたのか?」

呆れた様子で問う九桐に対し、風祭が声を荒げて言い返した。
そのまま言い争いに発展しかけた場の空気を、九角と龍斗の発言が戻した。

「俺はお前に調べて来いといったはずだぞ、澳継。本当に何も感じなかったのか?」
「あれの何処が普通の寺だ。お前とて気付いていたろう?」

呆れを隠さぬ龍斗の言葉に、風祭は深々と首を傾げ、それから思い出した。

「あ……、そういえば、《氣》が、ちょっと普通じゃなかったですよ。強すぎるっていうか、妙に濃いっていうか……。そう、ぐるぐる巻いてて、何かを押し止めてるみたいな―――」
「ふむ、やはりな。氣を練る古武道を遣うお前なら感じとってくるだろうと思っていた。龍斗、お前にもわかったのだな?」

納得した様子で天戒は頷き、視線を龍斗の方へと移す。

「ああ。密度が濃いというのと――あとは流れが異常だったな。外からは無限に流れ込み、それが出て行くことはないのに、増えすぎることはない。……まるで何かに消費しているかのようにな」

やはりお前たちに任せたのは正しかったようだな――と、九角はご満悦といった表情で頷いた。

その言葉に、風祭と龍斗が、揃って複雑な表情にて黙り込んだ。
最適者を選び出す判断は有能と言えようが、彼ら自身の相性の悪さは考慮に入れない辺りが、どこか九角の一本抜けた部分をよく表していた。


「浅草寺にそれだけの氣の流れがあるとすると……、それではやはり、鬼門は浅草寺と見ますか?」

なんだか広まった沈黙を振り払うかのように、九桐が口を開いた。
だが、寛永寺の護りの堅さから、ただの囮とも考え難い。結局のところ、判別はつかないとの結論に、風祭が不思議そうに首を傾げた。

「俺は手っ取り早く、両方焼いちまうのが早いと思うけどなァ」

過激というにはあまりに幼稚なその意見を、皆、なんとなしに黙殺した。
天戒さえもが、お前の方には何かあったか――と、桔梗へ話を振った。

「そうですねェ、特にこれといった情報は。ただちょいと―――、肺を病んだ、悲しい娘に遭ったくらいですよ。自分の事を壊れた三味線と同じだなんていう、ね」

哀しそうに、桔梗は目を落とした。
吉原で探し当てた彼女は、壊れた三味線を抱えていたことを、龍斗は思い出した。おそらく、肺を病んだ娘が、あの三味線の持ち主なのだろう。

「あァ、それから面白い男と遭いましたよ。弥勒という面打ち師で、なんでも隻腕で面を彫るとか」
「そうそう、ただの暗い奴かと思ったけど、なんていうか……」

桔梗の言葉に、風祭も頷きながら続けた。
彼らも弥勒に対し何かを感じていたのだと知り、龍斗は得心がいった。

「ちょいと素通りできない雰囲気を持ってましたね」

龍斗も桔梗と同じ意見であった。暗い空気と厭世的な瞳と、そして隻腕。充分に人目を引く外観ではあったが、それだけではない『何か』が気になった。

「片腕を無くした男と、病んだ遊女―――。どちらも徳川という世に虐げられる者たちだ」
「そのどちらも、我らと同じ念を抱いている可能性がありますね」

話の流れに、龍斗は軽く眉を顰めた。
彼は肺を病んだ遊女のことは知らない。だが、桔梗が気に入ったのだから、気立てが悪いはずがない。そして弥勒という男に関しては、悪い人間ではないと思った。

ゆえに復讐に巻き込んで欲しくはなかった。

彼ら自身がどうしても復讐したいというのならば、止める気などない。彼らが己から手段を探り、鬼との道が交わったのならば、協力すら惜しまない。
だが、目の前に復讐の力と策を投げ込んで、さあどうすると問うのは、違う気がした。

何より鬼たちも望むまい。意外にも甘い彼らは、不幸な人間に新たな苦しみを負わせることを厭うのだから。

「桔梗、龍斗を連れて明日もう一度、吉原へ出向け。お前が会ったという娘、何かの布石になるやもしれん。吉原という地は、その矛盾に呑み込まれ―――、死んでいった遊女たちの怨念が至るところに染み付いた場所だからな」

案の定というべきか。
桔梗の答えには間があった。頷きはしたが、躊躇があった。



吉原にて、桔梗は幾度目かわからぬ溜息を吐いた。
気が重いと。この風流の町、浮世絵のように艶やかな別世界が、存在すること自体が辛すぎると、彼女は弱々しく首を振った。

「この町は、古くなって汚れたものを、何ひとつ認めないんだよ。江戸中の遊女を一箇所に閉じ込めた、治安を保つための必要悪。捨てられ、すすり泣き、助けを求める多くの魂の上で客どもは歓声をあげ、飲んだくれる……。ねェ、龍さん。あんたはこんな場所が―――、本当に必要だと思うかい?」

救いを求めるかのように、桔梗は龍斗を見上げる。
正直な所、どちらともいえないのではないかと、龍斗は思った。彼自身は不要であると思えた。次々と哀れな娘達が売られ、働き、心をすり減らし苦しむ世界など。だが必要な連中もいるのであろう。

別世界を夢見る者たち、己が憂さを晴らさねばやっていられない者たち、そして何よりも当の娘達に、必要な者も居るかもしれない。
そのまま家族の元にあれば、生きていくことすら出来なかった娘もいるかもしれない。口減らしとして、家族が積極的に売った娘すら、存在するのだから。
勿論、そんな貧しさを作り出している徳川が悪い――というところまで突き詰めるのならば、また話は違うのであろうが。

「必要悪という言葉が好きではない。それに、……俺は必要ないと思う」
「あァ、そうだよ。こんな場所、壊しちまえばいい。だけどそれは、虐げられた者たちの無念を思い知らせてからさ。こんなものを生み出した、徳川幕府にね」

今いる遊女たちには、危害を加えるような事はしたくないと哀しげに続けた桔梗は、不安そうに辺りを見回した。病んだ遊女との約束の時間は、過ぎているらしい。そして――そのような不義理を働く気性の娘では、断じてないようだ。

嫌な予感がするから――と立ち上がった彼女に、龍斗も続く。

「ここが萩原屋……。あの娘が―――、お葉がいる妓楼さ。―――ごめんよ」

出迎えた番頭女郎が、眉を顰める。当然の話ではある。女連れで妓楼を訪れる男など有り得ない。
どうにか煙に巻こうとしていた桔梗であったが、その柳眉は逆立っていく。原因は女の言動。女は、あからさまにお葉を邪魔者と――死に損ないだと扱い、それを非道とすら思っていない。

眠らせるかと、龍斗と桔梗が目で語り合ったその瞬間に、女の悲鳴が響いた。

「今のは……」
「ちょいと!! 勝手に上がらないどくれ。ここは妓楼だ。女の嬌声くらいいくらだって聞こえるよッ」

それで、桔梗の忍耐の限度を超えた。眠らせるつもりで三味線を手にしていた彼女は、一度手を離し、位置を替える。

桔梗は赦せなかった。あんな嬌声があるわけがない。あれは苦痛に満ちた、助けを求める声。

勿論番頭とて、そんなことは分かっているはず。暴力を振るわれているだけとでも思っているのだろうか。
それが肺を病んだ女に、どれほど苦しい事か、考えてもやらずに。

「じゃあ三味線の音だって、いくら聞こえてもおかしくないね」

静かな――昏い声。その凄みに気付いた女の狼狽は遅すぎた。
一つ、高い音が鳴る。桔梗や龍斗にとっては、ただの音色。だが、女には違った。

「え―――? ひッ―――!! あ、頭が、割れるッ……。ううッ―――」

急ぎ駆け出す桔梗は、悶え蹲る女を振り返りもしない。龍斗も同様。
その先にあったのは予想通りの―――外れて欲しかった光景。倒れ、喀血し咳き込む女と、にやにや笑いながらそれを見下ろす侍達。


「ふん、役に立たない女だ。まともに酌のひとつもできんとは」
「まァ、この咳じゃ、じきにくたばるだろうぜ」
「ちッ、まったく験の悪い」

中央の派手な羽織の侍を、龍斗は覚えていた。風祭に蹴られ、派手に悲鳴を上げていた情けない昨日の男。
むしろ奇妙に冷静になった心にて、龍斗は声には出さずに呟いた。

――本当に、お前の言う通りだったな。風祭。
――片っ端からブッ殺してやればよかった。なれば彼女の命は、もう少しは在った。


龍斗は彼女を知らない。どんな声で唄う、どんな遊女であったのかを。
だが、見れば分かる。

桔梗に差し出された古い三味線を、いとおしげに撫で、もう一度唄いたいと最期の場面ですら微笑めた彼女が、こんな最期を迎える必要などないこと程度は。

「おい、そこの女!! お前が代わりに酌をしな」
「あァ、それからこの死体、さっさと片付けてくれよ」

おいおい、まだ死んでねェだろ?
ははは、どっちだって一緒だろ

続けて嘲笑う男達は、考えもしないのだろう。吉原の女達の苦しみも悲しみも何もかも。
彼らにとっては、美しく着飾り、巧みに唄い、求めに応じて股を開くだけのただの人形と同じなのだろう。彼女らには、心が存在するというのに。


「あたしが甘かったんだねェ。あの時ちゃんと――、殺しておけば良かったんだ。そうすればこんな事にはッ」

押し殺した声にて、桔梗が呟く。
桔梗が術にて煙に巻いた吉原での喧嘩騒ぎとやらにも、この愚かな者たちは関わっていたらしい。

昨日はちと油断したが今日はそうはいかんぞ――無様にも騒ぐ彼らは、理解できていない。

自分達こそが、昨日は手加減してもらっていたというのに。風祭にも龍斗にも、桔梗にも、彼らをあの場で殺すことなど、造作も無かったというのに。

「そういやまだ、あんたたちには名乗ってなかったね」
「そうだな」

冷え切ったふたりの声音に、その身を包む空気の険しさに、心底鈍い侍達もやっと気付けたのだろう。今現在の己の身が、非常に危険な事が。

「くそッ、お、俺を誰だと思ってるんだ!? 俺の親父は幕府重臣の―――、」

懸命な言葉は、途中で勢いを失った。
彼は見てしまった。目の前の男の瞳から、感情の色が抜ける瞬間を。美しい女の形の良い唇が、嘲りの意思によって、弧を描いたさまを。


「それじゃあますますあたしらに、殺されても文句はいえないねェ」

女は悪戯っぽく笑み、男に対し視線を向ける。男は同意するように、小さく頷いた。

「我らは―――」

錆びた低い声と、澄んだ高い声が重なる。共に聴き心地の良い魅力的な声が、死を告げる。

「「鬼道衆」」

それだけで侍たちの中に狂乱の渦が生じる。彼らとて、噂には聞いている。何人もの幕府の人間が、鬼を名乗る者たちに殺されていることは。殺された者たちは、黒い噂の絶えなかったという話も。

それでも、根拠もなく信じていた。

自分だけは、大丈夫なのだと。危険な目になど遭わないと。

「あんたたちみたいな外道をね、地獄へと案内してあげるのが、あたしたち鬼の仕事さ」

今、安全は微塵に打ち砕かれた。
目の前にいる男女は、鬼。ただでさえ聡明といい難い男の頭脳に、妙案が浮かぶ筈もなく、浮き足立とうとした。


「ぎゃああァァッ!!」

だが、恐慌をきたす余裕すら与えられない。
取り巻きの男達が見たものは、頭役の侍の手に深々と突き刺さった鑿。

「大袈裟な……腕が斬り落とされるほどの痛みではあるまい」

淡々とした低い声。
言葉の内容と、その声と気配とが、龍斗を振り向かせた。

「弥勒か」
「まさかこんな形で、また会う事になろうとはな……。そこの男。俺の顔を覚えているか?」

あの場で弥勒と会ったのは偶然ではなかったのであろう。風祭との争いの喧騒にて羽織の侍に気付いたか、もしくはそもそも、男を尾けていたのかもしれない。

知らぬと必死に首を振る男の言葉は、弥勒の予想通りだったのだろう。激昂するでもなく、静かに彼は溜息を吐いた。

「やはりな。貴様等にとっては所詮、その程度の事なのだろう。その遊女が死んだのも、この俺の腕を―――、斬り落としたのも」

ゆらりと近付く弥勒の姿に、やっと自分達の職業を思い出せたのか、侍達が抜刀する。
だが、それは、笑えるほどにへっぴり腰。天下泰平の世の中で、彼らは闘いの中で刀を抜いた事はないのだろう。

無力な町民たちを傷つける為に暴力を振るうことはできても、己が命さえ掛けなければならない殺し合いの場に、己の身を置いたことはないのだろう。

いかに多数が居ようと意味など無かった。そもそも、狭い女郎部屋にて、日本刀をまともに機能させることなど、余程の腕利きでなければ不可能であった。

侍達は、無論、違う。

そして相手は修羅場を潜った一流の者たち。無手と三味線を媒体とした妖術と―――そして不可解な術。
隻腕の男が面を取り出すだけで、それを見た侍達が悲鳴を上げる。精神に響く痛み、そしてそれだけでなく、肉体にも傷が開き、血が流れる。

戦意を失い、惨めに命乞いを始めるまで、そう時間を必要としなかった。



「ひ……、ううッ、た、助けてくれッ……、い、命だけはァッ」

こいつが全て悪いのだと。自分達はその命に従っていただけなのだと。
今まで取り巻き世辞を述べる存在であった手下たちから小突かれ、鬼たちの目の前に突き出された羽織の侍は、泣きながら頭を下げた。

誇りなどなかった。助けてくれるのならば、なんでもすると思っていた。
汚れほつれた上等の羽織であったものを見下ろしながら、弥勒が感情のこもらぬ声にて呟く。

「こんなものか……。こんなものを俺は今まで」

遣る瀬無い想いの理由は、桔梗と龍斗には、想像がついた。
ひたすらに頭を下げ懇願する男達は、いまだ思い当たらないようであったが。

「こいつらが、お前の腕を?」

龍斗の問いに、愕然と侍達は顔を上げた。記憶を必死に辿り、どうにか思い出す。


嘗て、吉原の帰り道、ほろ酔い気分にて、面を売る職人らしき男に遭ったことを。
戯れ遊ぶ侍達を止めた男に、酔った勢いで何をしたのか、やっと思い出せた。

『ふん……。生意気な口を利きおって。二度と面など彫れぬようにしてくれるわッ―――!』

羽交い絞めにさせ、職人の命とも言える利き腕を斬り落とした。そしてすっかり忘れていた。なぜなら、そんなことは至る所で繰り返した遊びの一つに過ぎなかったから。

「貴様等にとっては路上を這う虫けらを踏んだに過ぎないのだろう。この娘の死も、それから―――、俺の片腕も」

恫喝でもなく憤怒でもなく。あくまで淡々と彼は語る。
その在りように、侍達は恐怖を覚えた。肌が理解できる。これが本物の憎悪なのだと。憎しみを突き詰めれば、怒りなどという勢いによるものは消えるのだと。

「お、お前は……、あの時の、面師―――」

歯の根も合わないほどに、ガチガチと音を鳴らして侍は震えていた。こんな目を向けられた事など無い。恐怖の目を、哀願の眼差しを向けられたことはあっても、こんな混じりの無い純粋な害意をもって見られたことはない。

「そうだ。お前たちが虫けらのように踏みにじってきたものだ。だが、その虫にも命はある。その中には心を持ち―――、刃を持つものもいるのだという事を覚えておけ―――」


静かに、断罪の言葉とともに、弥勒は面を懐から取り出した。
それは般若と呼ばれる、子を失った女の魂の慟哭を表した面。哀しくて哀しすぎて、その嘆きがいつしか呪いと化した面。その鬼神となりし魂は、泣き声を邪悪な呪いの言葉へと変える。

「ひ……。わああああああッ!!」

どれほどの苦痛なのか。絶望的な悲鳴を上げて、侍たちは、動かなくなった。

痛い程の沈黙を破ったのは、桔梗の問い。


「あんたは一体……」
「いつの頃からか俺の面には強い念が宿るようになった」

元より、面や人形等、人間の形を写したものには、心が宿りやすいという。それは製作者の想いであったり、見たものたちの感想であったり、ともかく強き感情が、人の形をとったものに篭りやすいと。

「それで、あんな力を」

ましてや、己が命であった利き腕を斬り落とされた腕の良い職人が、憤怒と憎悪と、そして残された意欲を込めれば、不可思議な力が宿ることすら道理かもしれない。

「何れにせよ、今の俺は、ただ面を彫り、その面の行方を案ずるだけの者だ」
「あんた……良かったら、あたしたちのところへ来ないかい? あいつが番所へ駆けこんだら、色々と厄介な事になる。たとえあんたが何も悪くなくて、ただ―――、己の誇りを取り戻すために刃を振るったのだとしても、ね」

復讐を果たし、もはや全てがどうでもいいと言わんばかりの弥勒の虚ろな瞳に、桔梗は知らずの内に、手を差し伸べていた。

戦力になるからだとか、徳川に恨みを持つからだとか、納得のいく理由を並べはしたが、分かっていた。結局、こんな哀しい人物を、どこかでひっそりと野垂れ死にしそうな男を、放って置けないだけだということは。

「それは俺に、鬼になれという事か……?」
「月明かりの下を歩くのも、悪いもんじゃないだろう?」

ねッ――と同意を求めてきた桔梗に、龍斗は頷いた。

「太陽ほど眩しく責め立てることもなく、穏やかに降り注ぐ。俺は個人的には、そちらの方が好きだな」

狭い部屋の小さな窓の隙間より注ぐ光を見上げ、彼は静かに呟いた。光の中だけではなく、闇と共に生きることもできると。あの村の中では、眩しい光の中では生きられなくなった者たちが、何人も暮らしている。

「ふッ……そうだな。月は優しい」

笑み、弥勒は頷いた。彼も知っている。闇は恐ろしいだけではなく、安らぎすら与えてくれる。その中にて万人に降り注ぐ月の光が、柔らかいということは。
ゆえに、結論はあっさりと出た。元々、他にやりたい事など無かった。ならば、興味深い彼らと共に、生きてみるのも一興であった。

「俺にできるのは面を彫る事だけだぞ。それでも構わんというならば、しばらく厄介になるとしよう」

よろしくなと差し出された龍斗の手を、弥勒がああと頷き握った。初対面の際の、風祭と名乗った少年を蹴り飛ばした龍斗の姿から考えると、さり気なく左の手を差し出せる優しさは意外であった。

彼らの遣り取りを見守っていた桔梗は、不意に視線をある点へ向けて、表情を哀しみに曇らせた。お葉の骸へ近付き、まだ微かに暖かい身体に触れ、そっと瞳を閉じてやり呟く。

「お葉……辛かったろう? 今まで散々、物のように扱われて、最後まで物のように打ち捨てられて。だけどあたしはね、ちゃんと知ってるよ。物にだって、ちゃんと心がある事を……」

主に二度と弾かれることのなかった三味線をそっと手に取り、かき鳴らした。

「ほら―――、あんたが大事にしていた三味線が、哭いてる―――。あんたを悼んで―――、復讐したいと哭いてるよ。お葉―――」

この座敷にも、明日の晩には新しい遊女が入るのだろう。座敷でひとり死していたお葉が発見されたあとも、この妓楼の者たちは、当然のように彼女の身体を片付け、新たな手配をする。古びたモノはすぐに捨てられ、新しいモノに取って代わられる。吉原では、それが当たり前。

でも、それを認めるつもりなど、桔梗にはなかった。

お葉が浮かばれない。
思い知らせるつもりであった。

病の為に客を取れずにいた彼女を、疎んじ虐めた店の者や遊女たちを――――赦さない。

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