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― 東京魔人学園外法帖 闇在閑話 陰七話――

面倒だと顔に貼り付けながら、緋勇龍斗は離れの屋敷へと足を運んだ。
求めていた能力の持ち主かつ敵組織の人間を捕らえ、監禁しているというのに、鬼の頭目に、心配だから様子を見てきてくれないかと頼まれた為に。

「これは、緋勇殿―――。見廻り御苦労様です」
「どうぞ、中に御入り下さい」

律儀に頭を下げる見張りに対して鷹揚に頷き、龍斗は屋敷へ足を踏み入れる。
眠れるはずもないのだろう。夜着に着替えることもなく、硬い表情で座していた美里は、すぐに彼の姿に気付いた。

「あなたは……。ここへ、何をしに来たのです? 私に……何か訊く事でもあるのですか?」

気丈にも震えを抑えて、問いただした女へ、龍斗は笑みを見せる。

それは皮肉でも冷笑でもなく。

戸惑う美里に、彼は穏やかに語る

「訊く事といえば、訊くことだ。当然のことだろうが、気分が優れなかったようだから、見に来ただけだ。その元気な様子ならば、無用な心配だったようだな。邪魔をした」
「ま、待って」

踵を返すその背に、美里は気付けば声を掛けていた。緩慢に振り向く龍斗に、懸命な様子で言い募る。

「確かに、私は龍閃組のひとりです。あなたたちに幕府の為に闘っていると思われても仕方ないでしょう」

どのような目に遭わされようとも主張はする――との覚悟を決めた瞳に、緋勇は嘆息する。
自分に言っても仕方がないだろうと、呆れながら。

彼らは信じないかもしれない。
鬼たちも、とうに忘れている気がする。

だが、龍斗の立場は客分。より正確に述べるのならば虜囚なのだ。

「だけど、これだけは信じてください。龍閃組の目的は、幕敵を斃すためではないと。誰もが平和に穏やかに過ごせる世の中を創りたい―――、そのために、この江戸を―――大切なものを護りたいだけなんです。一人でも多くの人の命を救うためにこの《力》を使って」

無論、美里が気付くはずもない。
頭目にも荒い口調で話し、幹部らしき者たちとも対等に語り合い、見張りや村人が頭を下げる彼が、そんなふざけた立場にあるなどと。

「あなたにもあるでしょう? 護りたい大切なものが―――」

頷いた男の穏やかな瞳に、勇気付けられ、美里は問いを放った。

「良かった……。あなたにも、あるのね。とても大切なものが……。それならば、どうして?」

戯れる子供たちも、見守る大人たちも。懸命に汗を流しながら、畑作業に従事していた人々も。
鬼の隠れ住む村の住人たちは、ごく普通の人間にしか見えなかった。

「どうして、あなたたちは、人の命を奪うの? 痛みと悲しみを刃に変えてしまえば、それはまた、新たな悲しみを生むだけ」

だが彼らは、村を出れば鬼となる。
復讐の刃を研ぎ澄まし、幕府に揮う鬼道衆へと変じる。

「両親を幕府に殺された。信者を目の前で改宗拷問の末に殺された。金目当てに妹を殺してしまえとの命を知った。それが彼らの理由であろうな」

あっさりと。
肯定するでなく否定するでなく、龍斗は事実を語る。

全てを聞いた訳ではない。だが、断片を聞いただけでも眉を顰めるような悲劇が、彼らひとりひとりを襲った。ゆえに彼らは決意した。闘うことを。己の力を揮うことを。

「俺は幕府に恨みはない。奴らのことを判ってはやれない」

苦しみも悲しみも怒りも憎悪も。
想像することしかできない。

力になりたいし助けたい。
けれど理解できぬ自分には敵わない。それは思い上がりに過ぎない。

「だから俺にできるのは、側にいてやることだけ。奴らが苦しみ悩むときに、奴らをひとりにしない」

声は穏やかで寂しげで。
瞳には優しさが宿っていて。

「多分、お前の言葉は正しいのだろうな。復讐は連鎖を生む。だがな――かといって耐えていれば、最初の奴は、何時までも他者を傷付け、そして何の報いも受けないのではないのか?」

美里は答えられなかった。
彼は――彼らは、復讐が何も生まないことを、分かっている。でも――耐えられなかったのだ。

「はっきりと断言するが、天戒がお前を手酷く傷付けることなど有り得ない」

九桐と彼との会話。そして己が血に宿る力から、龍斗にはこの女と天戒との係わりを大体察していた。

誰が望もうと、あの甘い男は、認めまい。
血族を――おそらくは妹を傷付けることなど。

いや、この女が他人であった上で、龍閃組に属していたとしても、無理だろう。

『済まぬが、美里の様子を見に行ってきて欲しいのだ。その……俺が行くと、あの女も怖がるだろう』

心底こいつは馬鹿だと思った。お人好し過ぎるとも。
色々と理由を付けてはいたが――ただ単に心配だったのだろう。

「だがそれでも聞かせて欲しい。もしもお前が――いや、お前は自身ではなく親しい人間の方が良いか。あの弓使いの娘辺りが、我らに捕らえられ凌辱され、惨殺され、その様を目撃したとして――――我らを赦せるのか?」

神父が陰に入ったのは、自分が導いた信徒たちが死を望むほどに虐げられ、あげく殺されたから。
女が呪詛を成したのは、哀しい遊女が愚劣な連中の歓びの為だけに殺されたのを目の当たりにしたから。
忍びが里を抜けたのは、誰よりも大切な妹を我欲のために消してしまえと画策する長を殺したから。
狼が反旗を翻したのは、護るべき民衆を下衆な衝動により傷付ける、権威を笠に着た隊士達に失望したから。

彼らは己の為でなく、他人のために鬼となった。

己が命すら惜しくないと語るこの女は、友人が死ぬ目にあったとしても、手を下したものを許せるのだろうか。許せるとしたら、それは本当に『優しい』のだろうか。そこまで深く限りない慈愛。誰のことをも愛するというのならば、誰も愛していないのと同じことではないのか。


「すまんな。喧嘩を売るつもりも揚げ足をとるつもりもなかった。ただ聞いてみたかった」

言葉を失ってしまった美里に気付き、龍斗は首を横に振った。
別に彼女自身を気に食わない訳ではない。

ただ――彼は十四年もの間、人間ではない生活を強いられた。

慈愛の心を持つ菩薩眼の聖女の決死の覚悟が引き起こした結果であった。
勿論、女のせいではなく、実行したのはそれを愛した男の暴走ではあったが、大元まで辿れば、原因は彼女。

『私の命が喪われたとしても、この子を産みたい』と願った愛。

ゆえに龍斗は、自身の犠牲すら厭わぬ献身が好きではなかった。だが、美里には関係のない話であった。


悪かったと、もう一度頭を下げ、今度こそ踵を返した龍斗は、消え入りそうな声を聞いた。

「ごめんなさい。勝手な事ばかりしゃべって……。でも私は本当に、ただそう願っているだけなの。いつか―――、誰もが争うことなく、幸せに暮らせる日が来ますように、と」


お前はそうなのだろうなと、龍斗は振り返らずに思った。
きっと彼女は、そして龍閃組の連中は、純粋に信じているのだろう。

だが――幕府はどうなのだか。


離れより、そう遠くない場所で佇んでいた赤い頭が、龍斗の姿に気付いて顔を上げる。

「美里はどうしていた。大人しくしていたか?」

ここで待っている位ならば、中に入れば良いだろうと思いながらも、龍斗は口には出さなかった。
天戒は、妙に不器用なところがあり、龍斗はそこを突付いて遊ぶのが好きではあったが、今は互いにそんな心境ではないであろうから。

「あれが大人しければ、巴御前はおしとやかだな」

真顔で答える龍斗に、天戒は苦笑する。

「手におえなかったと? 大人しいだけの娘ではないだろうとは思っていたが、何せ相手は龍閃組のひとり―――、少しくらい芯のあるところを見せられても、仕方がなかろう」
「芯があるのとは、また違う気もするが。なんにせよ、あの手の女は苦手だ」

力が同じものだからか、伝え聞いた言動が同じだからだろうか。
どうにもわだかまりが在った。

不機嫌ともまた違う、なんとも複雑な表情で溜息を吐く龍斗を天戒は不思議に思った。

龍斗は基本的に人を苦手だの嫌いだの思わない。

人間として認めすらしない下衆か。
どうでもいい存在か。

大切なものか。

一刀両断を通り越して、清清しいほどに分断するのが常の彼なのに。


相手の珍しい反応に困惑していた天戒は、不意に頭をくしゃりと撫でられ、目を丸くする。

まるで幼子のように扱われるのは、初めてではないが。
話に聞いた双子の弟とやらのことを思い出すのか、たかが一日先に生まれただけのこの男は、時折兄の如く振舞う。

「しばし、孤独にうじうじと悩んでいろ。心細やかな俺は、皆の配慮に回らなくてはならん。妹と会えた甘ちゃんへはもう十分。次は苦しむ忠臣の番だ」
「龍!?」

何故それを知っていると、顔に大書きしながら、天戒は驚愕に固まる。
従兄弟すら知らぬはず。父が命を賭して逃した生まれたばかりの女児の行く先は。

「俺は、菩薩眼の女には造詣が深くてな。では」

答えにならない答えを返し、彼はすたすたと去っていく。

『孤独にうじうじと悩んでいろ』

彼流の言葉。要はひとりでゆっくりと考えろと言っているのだ。

兄として妹と接するのか。
鬼の頭目として龍閃組の一員と対峙するのか。

「龍……すまぬ」

龍斗の聴覚に、呟きが聞こえぬはずがなかったが、龍斗は振り返らずに歩いていった。

彼のこんなところに救われるのだと、天戒はつくづく思い知らされる。
道理も思想も押し付けることなく、距離を見誤らぬ彼に。


「何をしている? こんなところで」

不意に声を掛けられた『苦しむ忠臣』は、涼んでいたのさ――と、表面は朗らかに応じる。

「夜の滝を眺めるなぞ、なかなかの風流じゃないか」

だが、面を幽かに過ぎった苦渋の色を見逃すほど、龍斗は鈍感ではなかった。

「はッ。拗ねるのならば、寒くはないところを選べ」

鼻で笑い飛ばし、隣までやってきた男に、九桐は苦笑を洩らす。傍若無人に見えながらも人心に敏いこの男の目を誤魔化せるなととは、元より考えていなかったが、それにしても早い。

「廊下を歩いていたときに、若とお前の話し声が聞こえた。何か――話していたのではなかったのか?」
「妹御の様子を見てくるよう頼まれただけ。もう報告を済ませ、悩むなら悩んでいろと尻を叩いて出てきた処だ」

隠すことなく『妹御』と口にした龍斗に、驚きをみせることなく九桐はなるほど――と笑った。

「ははは。お前以外の者が同じ言葉を口にしたら、半殺しか――殺しているな」
「しみじみ穏やかに、物騒なことを呟くな」

呆れた龍斗に、当然だろうと九桐は応じる。

「若に庇護され、若を拠り所とする――若の重荷のひとりがそんな口をきいたならば」

許さないと断じた瞳は、心底本気であった。

「俺は若ほど孤独な人間を知らない……。俺たちや村人にその弱さを微塵も感じさせない強さを、若が持ち合わせている事もまた確かだ。しかし、それはまた―――、若がひとりで多くのものを抱え込んでいるという事の証でもある」

こいつは気付いていたのだなと、龍斗は少し安堵する。
天戒の危うさなど、この村を訪れたときから分かっていた。皆に頼られ、皆から信じられる彼の『頼もしい』人物像は、双子の弟と同じものだった。

憎悪に狂った当主。幽閉された異様なまでに色素の薄い嫡男。
黒の髪に黒の瞳を持った『優秀』な次男。

配下の者たちは希望の星に一斉に縋りついた。少年が聡明ゆえに、余計に苦しむことなど考えずに。

誰かひとりでも気付いた者は居たのだろうか。彼が人前で笑顔以外の表情を浮かべたことがないことを。

狂った父を殺した、狂った兄を前にしても、彼は静かに微笑んだ。

確信した。
彼もまたとうに狂っていることを。
狂ったまま、誰にも気付かれず、名君として生きていくのだろうと。

鎖を外した者が誰かなんて分かっていた。その目的も知っていた。

なのに乗ったのは、自分も確かに父を憎んでいたから。そして、放って置けばいつか彼こそが父を殺すと理解していたから。柵を背負って生きてく彼から、せめて親殺しくらいは引き受けたかったから。

「この村のほとんどの人間が若を拠り所にしているが、若自身には、何も頼りにするものがないといっていい。いかにも、それは若の慈愛が築いた立場だ。この村全部の信頼とともに、重過ぎる矛盾をも、若は背負わざるを得ない」

全てのものを背負い続けた先を――天戒の行き着く先を、知っていた。目の当たりにした。
天戒には浮かべて欲しくない。
あんな整った頼りがいのある――虚ろな微笑みは。

彼を構うのは、罪滅ぼしなのかもしれない。元服を過ぎ、頭目として気を張る彼を弟の如く扱うのは。

「気付いていたのなら――言ってやれよ。全てをお前が背負うことはないと」
「俺は、生まれたときより従う者だ。そんな資格はない。若も望まない」

遥か昔よりふたりして今のままだったのかと思うと、龍斗は人事ながら泣けてきた。せめて餓鬼の時分に気軽に振舞っておけば、ふとした時に――酒を呑んだ折にでも、気安く戻ることも可能だったろうに。

――と思ったが、こいつら双方うわばみだったな。

どこまで行っても袋小路な、真面目な当主と律儀な重臣に、龍斗は頭が痛くなってきた。酒への耐性などというどうでも良いところで血の繋がりを主張してどうするとも思う。

「お前と共にいる若を見るたびに、いつもこう感じるんだよ。若は―――、お前を信頼しているんだってな。庇護する対象としてではなく、また命を下す部下としてだけでなく、対等な立場にある友として、お前の事を信頼しているのだとな」

天戒が望むものは友だと知っていながら、羨むような目をしながら、それでも己は一歩下がる。
おそらく彼の選択は、最良ではなかった。友として部下として在れたかもしれない。
だが、責めることなどできない。

「だから、龍斗、若を裏切らないでやってくれ。もしお前が若を裏切れば、俺はお前を殺さなくてはならなくなる」
「くく……酷い話だ。お前、俺のことも好きだろうに」

何の話だと突っ込みたくなるようなことを口にしながら、龍斗は笑い転げる。
心を許し、感謝すらしているというのに、あくまで主が第一だと九桐は言い切るのだから。

「ああ。感謝している。この村にいるのは、若を崇拝する奴か―――、若の手足となって働く事しか考えていない奴だけだ。お前だからこそ、若は自分の心を開いた」

九桐には到底できなかった役目。他全てを投げ出してでも主の為に存在する彼だからこそ、唯一、それだけは成しえない。

「心得ておく」

お前は怒ると怖いからなあと、呆れた口調の龍斗に九桐は非難の眼差しを照射する。

「先日の件ならば確実にお前が悪い」

酒の余興じゃないかと、あくまで平然と応じる龍斗に、薄らと殺意さえ抱く。



賊が押し入ったと、何することも敵わず一撃で昏倒させられたと、腹でも斬りかねないほどに猛省する見張りの男に、九桐は気にするなと告げた。

ですが宝をと、碌に動かぬ身体で懸命に起き上がろうともがく男に、九桐は静かに首を振る。

犯人は分かっている――と。

一撃でこの上なく完璧に急所を打ち抜く技術を持つ者は、村中を探してもふたりしかいない。そして――こういった妙な真似をするのは、片方に絞られる。

確か今日は酒宴であったはずと、座敷へ向かえば、案の定そこには訳の分からぬ世界が広がっていた。

水が水がァ――と、時折うなされながらも、ムニャムニャ眠るは風祭。矢張り犯人はあちらかと視線を動かせば、正座し、『どうして貴方はそう細いのですか』などと、徳利に対して説教している御神槌。瞳には、正気が一片たりとも存在しない。

下戸ふたりの惨状に、九桐は見なかったことにして、今からでも布団を頭からかぶって眠りたくなったが、目的を思い出してどうにか持ちこたえる。

唯一まともに見えるのは、一歩引いた場にてひとり座して飲む隻腕の面打ち師。彼は酒に強かったし、場所も良かったのだろう。

『で、これはどういう事態なんだ?』

結界に囚われ、血の涙を流しながら止めろと叫びもがく奈涸と。
龍々の力も借りとるから破るのは難しいで〜などと笑いながら、本気の験力で結界を張る們天丸と。

正気の癖に正気とは思えぬ振る舞いをする彼らから九桐は目をそらし、静かに構える剣士へ問うた。

『村正の実力試しだそうだ』

落ち着いた声が応じたが、さりげなく目が赤みがかっている。壬生は酒に強かったはずではあるが、場所が悪かった。奈涸や們天丸、そしてここに居ない龍斗らざる連中の速度に巻き込まれたのだろう。かなり目が据わっていた。


村正の嫉妬が、壬生が他の刀を揮うことを厭う。剣を抜き構えようものなら、存在すら許さぬほどに怒りをぶつける。

そんな話を聞いた龍斗が、ならばどの辺りの刀なら対抗できるのかと、無駄な行動力を発揮して試しているのだという。

事情をきき、色々と合点が行く。

奈涸の嘆きと必死の抵抗の理由にも。
辺りに散乱する、元名刀の刀身らしきものたちの哀れな顛末にも。

『何者かに』奪われた九角の宝刀の使用法にも。

沸々と殺意を焦がし、地獄絵図の中で、九桐は静かに待っていた。

『そんな透き通って、恥ずかしいとは思わないのですか』と。御神槌の説教の対象が酒に移った頃合に、微かに廊下の軋む音がした。

すまん遅くなったと呟きながら、部屋に足を踏み入れた男は、動きを止めた。

『よッ、龍斗』
『蛸……じゃない、尚雲、まあ、待て。……落ち着け』

どうどう――と。落ち着けと向ける手には、何度か見た大業物が確かに握られていて。

九桐の忍耐は――――――音をたてて、きれた。


「酒宴の余興で、九角家の宝刀を砕かれてたまるものか」
「あの刀なら対抗できると思うんだがなあ。それにしても酔った人間に小柄十本も投じるのは、人としてどうかと思うぞ」

いまだに反省していないらしい。
非難の色すら見せる男を睨み、九桐は断じる。

「赤くもならぬうわばみがよく言う。大体全てを避けて、即座に逃げただろう」

宝刀すら投げ捨てて――と、怒りが再燃した九桐であったが、顔色が変わる。龍斗も同様に、真剣な表情へと変じ、周囲を窺う。

僅かな殺気。むしろ食欲に近いそれは、人間の発するものではない。

「山にいるのに飽きたかな」
「ふ。無駄な殺生を巻き起こしている、不届きな《人ならざる者》よッ。最初に当たったのが俺と龍斗とは―――。お前はこの村の人間に、指一本触れる事叶わんッ」

予想通りに。
獣のような声を上げて姿を現す異形の者たちに、九桐は槍を構え叫んだ。

「丁度良かった。龍斗への怒りを受けるが良いッ!!」

俺へのかよ――と呟きながら、龍斗も駆け出す。
緊張感は足りなかったが、九桐の言は正しい。
理性も碌にない、ただ強靭なだけの化け物は、彼らの相手に値しない。


村が気になると急ぎ戻れば、そこは喧騒と血臭に満ちていた。

「おやかた……さまは、……御無事ですか?」

掠れる声で呟くのは、傷ついた若い下忍。いち早く気付き、お前たちのお陰で無事だと言い聞かせる頭目の姿から、龍斗は目を逸らした。
分かってしまったから。彼が致死の傷を負っていることが。

「違うな」
「……ああ。俺たちが闘ったのは、こんな鎧の武者ではない」

同じく沈んだ声の九桐が答える。
残骸が、異なっていた。こちらに残っているのは、人の形をした人でないもの。

だが、叫びにより思索から引き戻される。

「馬鹿者ッ!! 馬鹿者が。このような傷で死ぬ奴があるか。しっかりしろッ。今年の秋は、母親と紅葉を見に行くといっておったではないか」

頭目自ら下忍の血止めを施し、死んだら骸は山に――などと口にした相手を叱咤する。
彼も無論、傷が致命であることは理解しているだろうに。

「だから、死ぬなどというな。俺が、何としても救けてやる」

あまりに無茶な命を下しながら、天戒は術を行使する。桔梗も慌てて隣に座し、癒しの言葉を唱える。だが、彼らの術は傷を塞ぐもの。離れようとする魂を引き止める事は敵わない。


混乱する場を、ある意味で治めたのは、迷いのない足音。

「貴様ッ、なぜここにッ!!」
「こいつッ、混乱に乗じて離れを抜け出して来やがったかッ。この村から、逃げ出そうたって、そうはいかないぞッ」

下忍の言葉にも、風祭の怒気にも反応せず、美里は真っ直ぐに、傷付いた下忍の元へ駈け寄る。溢れる血にも、はみ出かけた中身にも怯むことなく、地に膝をつき、語りかける。

「しっかりして、もう大丈夫よ。がんばって―――」

溢れる白の光に、龍斗は目を見張った。
天戒も桔梗も弥勒も。彼らが使う癒しとは、己が生命力を分け与え、相手の生命力を活性化させるもの。ゆえに、消えゆく命には、手の施しようがない。

だが、この光は。
天より施されたか、地より汲み取ったか。ともかく無尽蔵の自然の力を、直接生命の炎に注ぐ。

血は止まり、傷口さえもが再生する。紙よりも白ちゃけていた顔色も、途切れかけていた呼吸も、正常へと戻る。

「もう、大丈夫です。御屋敷の中に運び込んで、傷口の手当てを」

うろたえる下忍たちに、もう一度きつく指示を与え、彼女は立ち上がり周囲を見回す。
怪我人を探しているらしいその背中に、天戒が複雑な表情で問う。

「お前は、今、敵である者の命を救ったのだぞ? それが、どういう事か判っているのか」

心配に翳っていた美里の表情が変わる。詰と眉を寄せ、半ば叫ぶように言葉を搾り出す。

「あなたたちは、目の前で死んでいく人を見て何とも思わないのッ?」

言葉を失った天戒に対し、彼女は臆することなく続ける。

「確かに、私たちは、今は争っているかもしれない。でも、そこにある命の尊さに違いはないはずだわッ。敵の前で命を散らす事が尊いとでもいうの!? 死んでしまったら、何もかも終わってしまうというのに」

怪我人の手当てをしなくてはと、歩き出す彼女を、天戒はもう止めなかった。ただ九桐に見張るように告げ、彼自身は屋敷へと戻る。

「なんだか……身体が傾いでるな」

呟きながら、龍斗は友を少し馬鹿だと思っていた。衝撃を受けたのが丸分かりな、よろける寸前の状態で歩む姿に、余計そう思った。


事態が落ち着き、報告を一通り受けた天戒は、視線をある人物へと移した。
龍斗と九桐に伴われた美里に対し、軽く頭を下げる。

「お前の《力》で村の者の命が救われた。とりあえず、礼をいっておこう」
「お礼なんて……どうしても、あのまま見過ごす事ができなっただけです」

黙って美里をみつめていた天戒が、ふと視線を外し、訥々と語りだす。


《菩薩眼》の女は、富と栄光をもたらす―――。
それ故、世の施政者たちは、その女を求め、手許に置いた。多くの《菩薩眼の女》が、産まれては死に、死んでは産まれた。

《菩薩眼の女》は、自分の命と引き換えに子を産むといわれている。
だが、正確にはそうではない。死ぬのではなく、殺されるのだ。この大地を流れる《龍脈》に―――な。

《龍脈》を視る《力》をもつ《菩薩眼の女》は、子が産まれると、その《力》を失うのだ。今までその身に宿り、女を護ってきた強大な《力》が失われた時、《菩薩眼の女》は、ただの女に戻る。

そして、それまで、抑えられていた禍が堰を切ったかの様に襲いかかる。身を護る術のない普通の女に、その運命から逃れる事はできない。


その瞳は哀切で、懐かしさを含んでいたが、突然こんなことを言われても、普通、人は驚くだけではないのだろうかと、龍斗は内心で首を傾げる。
何を言われてるのかさえ、掴めないのではないだろうか。

「昔―――。その《菩薩眼》の女を救おうとした男がいた。権力に翻弄され、生きる意味さえ奪われたその女を男は救おうとしたのだ」

だが、ここにつなげるのかと納得した。菩薩眼の歴史と――そして彼らの両親の話。

「女を利用していた徳川幕府は慌てふためいた。自らの富と栄光が崩れるのを怖れたのだ。男は闘った。女を護る為に―――。闘いは、何年も続いた。男は闘い続け、やがて、女は子を宿した。先刻いった通り、《菩薩眼の女》が子を産む事は死を意味する。だが、女は、自分の命と引き換えに子を産む事を決心した」

女は、男を愛していたのだ。

天戒の静かな語りに、龍斗は口元を歪めた。ここでも同じ選択肢。
皮肉な話に、笑い出したくさえなっていた。逃げ出した先で――同じ境遇から、失敗しなかった家族の話を聞く羽目になるとは。

「やがて、子が産まれ、女は、その《力》を失った。報は、徳川の耳にも入った。しかし、徳川は追撃の手を緩めなかった。何故だと思う?」

不意の問いに困惑する美里に代わり、龍斗が呟く。

「女の産んだ子が《菩薩眼》の《力》を持っていると考えたからだろう。《力》は伝えられる。親から子へ、そのまた子へ」
「そう……女は死んだが、その子には、《力》が宿っているかもしれない。そう考えた徳川は、今度は《菩薩眼》の《力》を持つであろう赤子を掌中に収めるため、男を追い詰めた」

菩薩眼の女の最大の利用価値。富と栄光をもたらすその恩恵は、女の意思を必要としない。愛も信頼もなにもかも。ただ傍らに在る者に、祝福を与える哀れな道具。
せめて心が必要であれば、菩薩眼の女は、もう少しまともな境遇にあれたであろうに。

「男は、闘った。愛する者を―――自分と女の間に産まれた子供を護る為に。だが、激しい戦の末、男は炎の中で絶命した。炎と共に消え、やがて、《菩薩眼》を知る者もいなくなった―――伝説だけを残して」

伝説として諦めるには、使い勝手の良すぎる道具。ゆえに何時の世も為政者は、かなりの力を割いてでも女を捜す。

「徳川の歴史は、略奪の歴史。多くの屍の上に築かれた血の歴史だ。そのような歴史は、終わらせなければならない。たとえ、その為に、多くの命が失われようとも誰かが、それをやらなければならないのだ」

己にこそ言い聞かせているのか、後半は呟きのようなものであった。
散々悩んだ末の結論は、それなのだろう。より多くの哀しみを忌避する為に、小さな哀しみには目を瞑ると。

「確かに、今は戦乱の時代―――。人が人の命を奪って、それを正義と見誤っている。お互いの思想を相手に押し付けるだけで、解り合おうともしない。でも、それは、わたしたち徳川幕府とあなたたち鬼道衆にもいえる事だわ。どんな因縁があったにせよ、闘いで何かを解決などできない」

それすら認めないと美里は否定する。
何かを成す為に、何かを犠牲にすることなどないと断じる。

「平穏を望まない人間なんていないでしょ? 誰の命も失われず、よりいい時代が来れば、その方がいいでしょ? 人は、お互いの罪を許し合えれば、きっと、変わって行ける。きっと、解り合える―――。そうじゃなくて?」

美里の問いに、天戒は首を横に振った。
それは幻だ――と。

水面に映った月と同じ、力なき者は全てを奪われ、その言葉が天に届く事もない。
理想も叶わなければ、ただの夢。
希望も叶わなければ、ただの幻。

「聞くが、ここで、俺がお前の命を奪ったらどうする? それでも、そのような事をいっていられるか?」

手を掛けられた日本刀にも、鬼の統領の冷たい声にも怯むことなく、美里は頷いた。

「えェ、いえます。たとえ、私のいっている事があなたにとって、理想だとしても人には、その理想を叶えようとする力がある。誰かに、伝えていく心がある。それがある限り、そういう想いは決して、失われる事はないわ。いつか、その願いの叶う日が来る―――私は、そう信じています」

正直、龍斗は気持ち悪いと思った。気に食わないとか気に障るではなく、考え方自体が気色悪い。
残された人間の気持ちは考えないのであろうか。
先刻も思ったが、この女は、誰のことも、それこそ道をすれ違う見知らぬ人間すらも大切で――誰のことも大切ではないのではないか。

美しい博愛精神が、怖くすらあった。
それとも、そんな風に感じる己の性根が腐っているのだろうか。

心をぐらぐらと揺さぶられているらしき天戒の様子から考えるに、矢張り自分が汚れているのかと、龍斗は寂しく思った。
同じく菩薩眼の女から生まれたのに、自分たち兄弟は、どうしてこの兄妹のように優しい心を持てないのだろうか。

「いつの日か、我らとお前らが―――、いや……何でもない。連れて行け」

下忍に美里を屋敷へ戻らせながら、何か言いたげな天戒を眺めながらそう思った。
命を賭して子を守った男と、子を虐待し子らに憎まれ子に殺された男と。父親の違いなのだろうかと、つらつらと追憶して。


「尚雲よ。悪いが、龍と二人で、藍を夜が明ける前に、町に戻せ」

予想していた展開であったため、龍斗は頷く。だが、珍しいことに九桐の方が、問い返す。

「いいのですか? 帰してしまって―――」
「構わぬ。《菩薩眼》の《力》は、伝説のまま、消えていくのだ」

躊躇し、それでも九桐は、問いを続けた。

「いえ、《力》の事ではなく、あの女は、若の―――」

やはり気付いていたか――と苦笑し、天戒は頷いた。

「血筋というのは、受け継がれるものだな。藍の母親も、そういう女だった。人を信じて疑わぬ強い意思をもった―――。息を引き取るその時まで、闘いを止めようと必死だった。そう……幼い頃から、村の者たちに聞かされていた」

皆、その系統なのかと、言葉には出さずに、緋勇は小さく溜息を吐く。ならば美里も、愛する男が出来たとき、同じ選択をするのだろうか。

そうよ。生まれた命には、全て愛される資格がある。生き続ける権利がある。

先刻呟いた言葉が、いかに彼女が幸せに生きてきたかを語っていた。
美しく正しい信念だった。きっと己の母もそんな思いを抱いて、子を産むことを選択したのだろう。

愛した夫が、ふたりの結晶である子をあのように扱うなどとは、想像もせずに。

龍斗の顰め面には気付かずに、天戒は穏やかに微笑み呟いた。

「いつか、お互いの願いが交わるのなら、その時は、また会いたいものだ。美里 藍よ―――」


「情感たっぷりに呟くくらいならば、見送れば良いのにな。あの馬鹿」
「あの馬鹿いうな。――ああいう御方だ」

離れに向かいながら首を傾げる緋勇に、九桐は誇らしげに応じた。
馬鹿主従と思わんでもない龍斗であったが、口にするほど愚かではなった。



「美里藍、我らが責任を持って新宿へ送り届けるから、ついて来てくれんか」
「その前に、少しは休んだ方が良いのではないか?」

上辺だけではなく本気で気遣う鬼たちに、美里は平気だと答えた。

普通早く帰りたいと思うに決まっているだろうと、呆れた様子の僧侶に、拳士は今は遊び好きの若い娘の味方送り提灯があると肩を竦める。あれは絶対に、嘘の被害者も居るはずだと暢気に語りだした男たちに、美里は何か突っ込むべきなのか悩んでしまった。

そのとき、先を行く彼らが一瞬足を止めて身構え、そして緊張を解いたのに気付いた。
現れたのは人影――ふたり分。

「あの……感謝いたしております」

まだ傷は塞がりきらぬ状態ながら、先程の下忍の青年が、若い女性に支えられながら立っていた。青年に併せるように、彼女も礼を口にする。

この人の命を救ってくれてありがとうございました――と。

「そんな……それよりも、まだ休んでいなくては」

慌てた美里の言葉に、青年はこれでも一応鍛えていますからと首を振った。
彼を少し非難するように見た女性が、笑って続ける。
この後すぐに休ませますと。


「九桐様、緋勇殿、お願い申し上げます」

最後にもう一度、青年が深々と頭を下げた。

頷く九桐も、頼まれたと片手を上げる龍斗も。
美里が鬼道衆に抱いていた印象とは違いすぎた。

青年が先程纏っていた装束は、幾度か見た。下忍に位置することを示しているのだろう。対して、装束や言動から、九桐たちは幹部なのだと知れた。

なのに彼らは、見下すことも軽視することもなく。
そもそも頭目である青年自ら、血に塗れながら彼を救おうとしていた。母との約束を口にして、励ましながら。

その後も、幾人もの人影が現れ、ひっそりと頭を下げる。
美里に手当てをされた者や、その縁者なのであろう。

「ここまで筒抜けなのも面白いな」

くすりと笑みを零し、龍斗が呟く。
美里を帰すことは、頭目自ら、わざわざ九桐と龍斗だけを呼んで決めた極秘事項。なのに、この状況。

「若の性格上、有り得た選択肢だ。立ち聞きなどではなく、皆――予想していたのだろう」

九桐は正しい。
無論、常に影のように付き従う妖艶な美女も同じ。
詰まらなさそうに、裏口に寄りかかっていた彼女は、目線を美里に合わせることなく呟いた。

「謝りはしないよ。けど――感謝はする」

用は済んだとばかりに、振り返りもせずに去って行く桔梗の後姿に、耐え切れなくなった龍斗が腹を抱えて笑い出す。

「龍斗、夜分に煩いぞ」
「はははは……皆、馬鹿ばかりで――微笑ましい。それにしても、これで知らぬは澳継だけだな」

明日が楽しみだ――と続けた笑みは、もう皮肉なものに変わっていて、美里は勿体無いと思った。大笑いする彼は、とても楽しそうだったから。


道中、怖がらせない為なのか、九桐と龍斗は細かく話し続け、沈黙が降りることはなかった。
だが新宿の近くまで来たところで、龍斗が黙り込み、しばらく経ってから意を決した表情で顔を上げる。


これは独り言なのだがと前置きし、龍斗はポツポツと語りだした。視線を向けることすらないが、対象は美里のようであった。
菩薩眼の女はな――と、彼は呟く。

「いつか愛する男に出会っても、子は避けるべきだ。親たちはいい。それでも子を産みたい――女は望み、男は了承する。だが、いざ子供が、本当に妻を殺すと、その怒りを子にぶつける男もいる」

至極しみじみと。憎悪や怒りではなく――それは諦観。
事実として起きたことを、静かに語っているかのように。

「天戒は、少し嘘をついた。それとも本当に知らんのかもしれんが。菩薩眼の女は、子を産むと死ぬわけではない。二つ理由がある」

一つは、彼の話どおり。
女を産み、菩薩眼の力が、子に継承された時。これは今までの恵みの反動で、龍脈に殺される。病気なり、怪我なりの理由で、大体二年以内には死ぬ。

だが――もう一つは、違う。

「類稀なき氣の力を持つ男との間に、男子が生まれる。子は黄龍の器と呼ばれ、龍脈を制御する力を得る。巨大すぎる力を産み出す為に、菩薩眼の女は己の生命を代償とし、産み落とした直後に逝く。こちらの方がより、子のせいで母が死んだ感が強い」

子を産むためのみに女が生きていたかのように。
子が母を殺したかのように。

子とて望んで母を殺すはずもないのに。
厄介なだけの強大な力を持て余し、親から憎まれて。

「子が母の面影を残さぬ男児であることも、父親の憎しみを募らせる」

淡い茶の髪を乱暴に掻きながら、龍斗は微かに口元を歪め、結んだ。

「あまり男を信じるな。女の方が強いんだ。置いていかれて耐えられない男は多い」
「あ……あの」

当惑する美里が、何かを口にしようとしたと同時に、緋勇は一言告げる。質問は禁止だ――と。
それ以上のことを教えるつもりはないようであった。


「この辺で構わんか? なんだったら寺まで送っていくが」
「それは龍斗だけにしてくれるか」

顔見知りというには、ちと縁の深い剣士が居る。
渋る九桐に、光よりも速く移動して見えないように心掛けろなどと平然と応じる龍斗。


「いえ、ここで結構です」

知らず美里は微笑んでいた。

「すまなかったな、美里」
「では、我らが口にするには妙な台詞だが――気を付けてな」

頭を下げた九桐に、正しいが間違っている言葉とともに手を振る龍斗。
確かに妙な話だと思う。自分は彼らに拉致され、監禁されていたのだということも分かっている。

それでも――美里は頭を下げてから、町並みの方へと足を向けた。



美里の背が確かに人の中に消えたのを確認してから、九桐は口を開いた。

「龍斗は先に戻っていてくれるか? ちょいと――」

野暮用で――それ以上は語らぬ九桐に、龍斗は苦笑した。一応の忠告だけはしておく。

「火遊びがすぎると火傷するぞ」
「はは……承知してるさ」

だが、火遊びは熱くなくては面白くもないだろう?

僧侶とは思えぬ不謹慎な言葉に、龍斗は苦笑を深める。美里を攫いに来た際に、彼が大宇宙党とやらに興味を持ったのには気付いていた。

「勝手にしろ。……気を付けろよ」


「行くぜェ」
「くッ」

振り上げられた刀は、九桐に達する事はなかった。

「ここまでにしてもらおうか」

白刃取りでさえない。勢いをつけて振り下ろされた刀は、忽然と現れた龍斗の指先に、摘ままれていた。
力を入れている様子もない。だが、刀は微動だにしない。

「て、てめェッ!! いつの間に!?」
「龍斗!? 戻っていなかったのか?」

等しく驚愕の込められた問いに、彼は肩を竦めるのみで答えなかった。

「今回は明らかにお前の敗けだ。それで良いだろう。どうしても殺されたいのならば止めはしないが、あいつの事を遺して逝っていいのか?」
「それは……」

糾弾の言葉は、痛いところを衝いていた。勝負に命を賭けることは厭わない。けれど――己の死の知らせを、主はどんな想いで聞くのだろうか。

「『大切なものを護るため、時には命を賭けねばならん事もあるだろう。だがその時、後に残されたその大切なものはどうなる?』鍛冶屋の餓鬼にそう説教を垂れたのは誰だったかな? まして、あれを護るためでさえない。たかが、勝負の結果で、命を捨てる必要はないだろう」

しばしの躊躇の後、九桐は頷いた。龍斗と違い、彼には死合を軽んじるつもりは、毛頭ない。だが、それでも――主とどちらを優先させるべきかくらいは、理解している。

それでよし――とあくまでも偉そうに、龍斗は笑い周囲を観察する。
美里は流石に疲労があるのか、この場には居なかった。その他の人間の能力を推察し、逃げの方針を固め、手近な人間に話し掛ける。

「ええと……蓬莱寺、これは親や師匠の形見だったり、大業物だったりするか?」
「な、何を……、普通のもんだけどよ」

意表を突かれて、蓬莱寺は素直に答えた。
龍斗はにっこりと微笑み、そして酷い行動に出る。

「では失礼」

力の方向を僅かに変える。バキッと音が鳴り、刀はへし折られた。

「な、なんだと!! うぎゃあ」

呆気に取られた一瞬の隙に、蓬莱寺は屋根より蹴落とされる。
力はこもっていなかった。だが、打ち所によっては、危険な事になる。
彼はなんとか受け身をとり、上を睨んで怒鳴りつけた。

「何しやがるんだッ!?」
「壮健そうでなにより。まあ気にするな」

龍斗は平然とした様子でひらひらと手を振って応じ、それから周囲を見渡し、非難がましく溜息をついてから、懐に手を入れる。

「本当に柔いな、お前たちは。ほれ、奈涸印の薬だ。各自で塗っとけ」

ぶっきらぼうに呟くと、薬らしきものを倒れている下忍たちに投げつける。
いてッだのうぎゃッだの、あちこちで小さな悲鳴が上がるが、気にはしないようだ。



「しかし、緋勇殿!! 我らとておめおめと引き下がる訳には……ぬあッ」
「阿呆」

隊を率いる者が言い募ろうとしたが、途中で遮られる。
ぐに――と音がするほどに背を踏まれ、更にぐりぐりと踏みにじられる。


「お前らの目的はなんだ?」

下忍たちは、少し押し黙り、それから一斉に口にした。

『全ては御屋形様の大義の為に』

踏まれている者さえも同様に――同じ言葉を。


「ならば、今すべきことも分かるだろう。そして、あの間抜けがお前たちの犠牲を喜ばんことも知っているな?」

皆が頷く。彼らひとりひとりの名さえ把握するあの優しき頭目は、犠牲を望まない。彼のためなら命を捨てることなど厭わないというのに、当の本人がそれをよしとしない。

「分かったな。では――散」

龍斗の命を合図に、皆が散る。もちろん、龍閃組が、それをただ見逃すはずもない。

ノウマクサンマンダ・バサラダンセン・ダマカラシャダソワタヤ・ウンタラタカンマンッ―――流れ出した力強い呪言に、龍斗の口元が歪んだ。彼の呪縛から、今の九桐や、ましてや下忍たちが逃れられるとは思えない。ゆえに、ひとりその場に留まる。

雄慶の力とはいえ、限界範囲はある。有象無象の輩と、首謀者のひとりとどちらかのみであれば、選択する方は明白。

「―――マカロシャケンギャキサラバ・ビキナンウンタラタ・カンマンッ!! 《不動金縛り》」

裂帛の気合。龍斗の周囲に光の陣が生じる。堅固な檻に囲まれた龍斗の姿を、鬼道衆たちが狼狽も露に振り返る。だが、本人から帰ってきた眼差しと身振りは『いいから行け』と語っていた。彼の実力は、周知の事実。

ほんの一瞬後には、下忍らは命に従い、退却を続けた。

「所詮は鬼か。援軍に対し、なんと薄情な。それにしても、そう簡単に逃がすと思っていたのか?」

少量の怒りさえ込めて、雄慶が呟く。彼としては、助けに来た仲間を置き去りにするなど信じられない。彼は――――ひとりに集中したこの結界から、逃れられる者が存在するなど、考えてもいない。

龍斗は軽く首を傾げる。心から不思議そうに。

「過信は危険だぞ。逃げられないと思っているのか?」

雄慶は眉根を寄せた。在り得ない。
呪縛に囚われたものが、言葉を発し、ましてや動くなど。

訝しむ間も、術を強化する間もなかった。
龍斗の腕の一振りで弾ける。高野山で、その法力を賞賛された彼の呪縛の陣があっさりと。

呆気に取られた龍閃組の隙を突くように、龍斗は一瞬で離脱の姿勢に入る。闘いにまだ不慣れな様子の派手な三色の人物と弓使いの少女は論外。雄慶は素早さに、蓬莱寺は武器に、この場合は難がある。

既に逃げの姿勢にある人物を止めることは叶わない。

闇に潜んでいた、ひとりの少女を除いては。

暗闇より飛来した九無を躱したのは、半分が僥倖、半分は微かな音。
次いで気配もなく距離を詰めて小太刀を振るおうとした少女の容姿に、龍斗は小さく笑った。

明らかに忍びの青年の面影がある。そして、その動きも酷似している。
ならば対策も同じ。飛来する軌道を読み、少女の背後に廻る。彼女の驚愕の表情に対し、龍斗は笑みすら見せて、手刀を首筋に落とした。

力を失った少女の身体を、そっと屋根にたたえ、龍斗は地に在る敵連中に、軽い様子で声を掛ける。

「落ちる前に、助けてやれよ」

奈涸に怒られてしまうなと、独り言ちながら、彼は半ば宙を駆ける。
無手ゆえ軽く、獣の如き俊敏さにて、飛ぶように走る。

町外れにて、既に忍び装束から浪人風へと着替えた男たちと、変わらぬ僧形の青年を見つけ、龍斗は音も立てずに舞い降りた。

信じてはいたのだろう。それでも安堵の色を浮かべ、口々に頭を下げる男たちに、龍斗は気にするなと答えた。

「ひとり一杯の酒で構わん」

続いた言葉に、下忍たちは肩を落とし、哀しそうに財布を確認したりする。可愛らしくすらある姿を笑いながら、九桐も頭を下げた。

「すまなかった。迷惑を掛けたな、師匠」
「全くだ。お前たち喧嘩馬鹿の相思相愛の仲に割って入るなど、金輪際お断りだからな」

笑みながら貸し一つだと、龍斗は告げる。お前は首謀者なのだから、酒では許さんとも。


いつか必ず返してもらうからなと続ける彼も。
何をさせられるのやらと戦々恐々として青ざめる九桐も。


想像もしていなかった。

約束を果たすことなく、そう遠くない未来に、双方命を落とすことを。



異なる世界にて、約束を果たすことになるなどと。

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