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朱の想い

記憶に残る唯一の母の思い出。

それは泣き顔だった。
震える声で、蒼白の顔色で、彼女は頭を撫でてくれた。

「いい子で元気でね」


蒼の髪に蒼の瞳、端正な美貌。
側を流れる澄んだ水そのもののような、美しい容姿の青年がひとり佇んでいた。

「今月は討伐に行かないのかい?美月」

鴨川のほとりで、祭りを眺めていた青年――藤間家の当主に、ふいに現れた半透明の少年が話しかけた。

「そろそろ寿命だしな。足手纏いは嫌だから」
「まだ、君が一番強いだろ」
「じきにいなくなる者を頼りにしちゃいかん。それに、花火が綺麗だから、見たかったんだ最期に」

寿命、そして最期――と青年は口にした。
どこか悪いところがあるようにも、当然そのような年齢にも見えないというのに。

黙り込んだ少年に対し、美月と呼ばれた青年はそっと笑いかけた。

「なぁ、黄川人」
「なんだい?」
「呪い解いてくれないか?」

それはどうしようもないほど穏やかで、優しい声で。
動きが止まった少年に対し、当主は続ける。


「俺は構わないからさ、腹いせは俺だけにして子供たちは見逃してくれないか?
あの朱点を倒せば、お前への封印は解けるんだろう?」

青年の言葉は真実であった。
だが――争いの道具である彼が知るはずのないことでもあった。
教える筈がない。彼ら一族と敵対している振りをする鬼も、彼ら一族に協力している振りの神々も。

「いつから気付いていた?」

わずかに殺気を滲ませながら、少年は訊ねた。

対する答えは、驚くべきことで。

初めて会った時から――と青年は笑った。
ずっとずっと、誰が敵かを知っていたのだと。

「子供たちはさ、今交神出来る程度の神しか知らないだろう?だけど俺は、昼子にも朱点にも会っているから、強さが分かる。
お前はその状態でも、遥かに他の神より強いよ。あの朱点よりも」


静かに語った青年は、ふいに調子を変え、明るく続けた。

「ま、今年の冬には鬼の朱点なら、倒せるだろう。そうしたら考えてやってくれ」


河原から屋敷へと戻った青年に、ぱたぱたと少女が駆け寄った。

「美月様、皆様、無事にお帰りになられました!」

だが、美月は違和感を感じた。少女の――イツ花の声が、異様に遠い。
騒がしいといえるほどの彼女の声が、微かにしか聞こえない。

「今月は、美月様?あぁーー!!」

小さくしか聞こえない悲鳴に、おかしいのは自分の方だと気付いた。
だか、遅かった。程なくして目の前が暗くなり、意識が消失した。

彼が目を覚ましたのは床であり、その周りには息子・娘・孫と、皆が揃って泣いていた。
一番しっかりした顔のイツ花が言う。

「お別れの時が、来たようです」

そうか、とうとう――と諦めが押し寄せてくる。
自分のことは、構わなかった。

ただ、皆に申し訳ないと思った。
こんな運命とやらに付き合わせたことを。

せめて、前を見て生きて欲しいと願う。
少年が解呪してくれなければ、彼らにはこれから延々と続く闘いが待っているのだから。

「俺の死を悲しむ暇があるなら、一歩でも前へ行け。
決して振り向くな。子供たちよ……俺の屍を越えてゆけ」


千三十一年長月。
藤間家に、新たな子が誕生した。
天界から連れてきたのはいつものように、手伝いの少女。

「……気な男の子です」
「良……わね、兄さん」

これは顔見世であり、名を付ける間だけのこと。
それが済めば、また子がある程度成長するまでは、天界の親神の元へ戻される。

はじめて見た息子を抱き上げ、青年が告げる。

「俺がお前の父だ。お前の名は朱月だな」
「な、兄さん!!よりによって朱なんてつけなくたって」

たかが色。なのに女性の声には、忌避の響きさえもが含まれていた。

「髪も瞳も紅いんだ。それに緋月も紅月も、今までいただろう。むしろ決着をつけるに相応しいかもしれん」
「だけど……」

途切れ途切れに聞こえる会話を聞きながら、赤子は思った。

何故またこの家に生まれるのか――と。
やはり黄川人は呪いを解いてくれなかったのか――と。

考えるべきことは多かった。だが赤子の身体では……、眠気に抵抗する事はできなかった。



二箇月弱が経過し、天界から藤間家へ、ある程度成長した少年が送られた。
出迎えた少女は、いつも通り当主へ報告しようとし、途中で叫ぶ。

「新しい御家族が、大照天昼子様の元より、……初代様!?」
「どうしたんだ、イツ花」

かなりの大声に、当主であり少年の父である人物が、呆れた様子で奥から顔を出した。
玄関先で硬直するイツ花と見慣れぬ紅の髪と瞳の少年に、問いたげな眼差しを向ける。

「あ、美月様。朱月様のお顔が、初代の美月様にそっくりだったもので」
「そうなのか?」

首を傾げる当主に、彼女は頷いた。
まだ驚きの余韻が冷めなかった。
生後二箇月の間は、通常は親神が育てるのだが、彼の親神は最高神である責務と忙しさから、外的年齢が十に満たぬ頃から他の神に世話を任せていた。
よって最高神と一族との連絡を担う彼女も、子の姿を見ていなかった。ゆえに完璧な不意打ちであった。

「ええ、髪と瞳が蒼だったら、区別がつかないくらいです」

外的年齢が十五・六となった少年は、長い髪も、優しげな顔立ちも初代当主似ていた。遥か昔に喪われた、懐かしい青年に。



千三十一年霜月、親王鎮魂墓にて光が生じた。
呪いの朱の首輪が外れ、鬼が神に戻る際の閃光が。

「ふっ、家族の絆か。勝てぬ訳だ」

かすかに笑った無骨な神は、ゆっくりと天へ昇っていった。
優れていたがゆえに、兄に疎まれ殺された哀しき親王が、やっと解放された。

当主はそれを見て嬉しそうに笑った後、息子と姪に問うた。

「あー疲れた。朱月、翠月無事か?」
「「はい」」

素直にこくんと頷いたのは、紅の青年と翠の少女。
青年は剣士の装束を、少女は拳法家の装束を纏っていた。

対して、こちらは呆れた様子で、拳法家の女性が突っ込んだ。

「初陣のふたりに、こんな処まで来させたから、こんなに大変だったんでしょ」

何考えているのよ、兄さんは――と続いた不満の声に、当主の青年は口を尖らせた。

「あの人を解放するには、兄弟か親子がいる事だと思ったんだよ」

家族が信じられなくて、兄の手によって死した彼には、そんな哀しい事ばかりではないと伝えたかったから。

「ああ、それで両方兼ねたわけね。でも、やっぱりふたり初陣は厳しいわよ」

当主と拳法家の女性は双子の兄妹であり、残るふたりはそれぞれの子供である為、雰囲気は気安いものだ。

その空気をぶち壊すかのように、突然現れた影が笑う。

「正解は兄弟さ。あんな目に遭いながらも、まだ家族に憧れていたんだよ。
愚かな事だね。アハハハッ」

嘲笑の声に、親ふたりが身構える。

「「朱点!!」」

「やぁ、氷月、蒼月。いや、蒼月は、美月になったんだっけ」
「うっせー、馬鹿兄貴。何しに来やがったッ!」

黄川人は、当主の怒気に対して、面白そうに笑った。
当主たちの母とは片羽のお業。彼らと黄川人は、異父兄弟であった。この場には、見事に血縁ばかりが集っているということである。

「弟妹に子供が出来たそうだから、見に来たのさ。
おまけに、お前のはあの女の子供でもあるんだろ。どっちがそうなのさ?」

「私ですが」

朱月が静かに返答した。
あの頃よりも、遥かに荒んだ様子の黄川人に哀しくなりながら。

「朱月、相手にしなくて……朱点?」
「み、つき?」

黄川人は、呆然とした表情で呟く。
それは当主たちが不審に思うほどに、本当に愕然としていて。

「そこまで似てんのか?イツ花もそんなこと言ってたよな」

当主の問いにはなにも答えずに、黄川人は消えた。

「どうしたのかしら、一体?」

彼らが見たことのある朱点の表情とは、嘲笑か憎悪。あれほど弱々しい顔など想像したこともなかった。

「いつも、なんかしら嫌味をいってくのにな。まあ良い、髪も倒すぞ」

豪快な性格なのか、当主は特に気にしないようだった。

だが、その平然言葉に、他三名は眉根を寄せた。
神の解放後に、その奥に陣取る髪をも倒す。それは滅多にある事ではなかった。

「本気ですか?叔父上」
「本気だ。お前らふたりとも、笑えるほど才能あるからな」


千三十二年弥生、忘我流水道の瀑布にて、人魚姫は、歩いてくる朱色の髪の青年に気付いた。

この場に訪れる者の目的は決まっている。
ましてや、そんな特殊な色を持つ者たちは特に。

「あら、藤間の坊や。今日はひとりで私を殺しに来たの?」

戦意と殺意を煌かせながら、美しい姿のままで、藤間の青年に問うた。
すぐにでも、現在の姿に戻り、食い千切ることが可能だという憎悪を、その凄まじい眼差しに乗せながら。

「いいえ。ちょっと真名姫と皇子にお伺いしたいことがありまして。一族が御前試合に出場していて、丁度良かったので参りました」

だが、彼はあっさりとした様子で首を振る。
そこには敵愾心など微塵も無く。そして、一族に知られたくは無いなどとはどういうことか。

真名姫は、怪訝な表情になり訊ねた。

「坊やの親神は誰?」
「一番信用なさそうで嫌ですが、母が大照天昼子です」

聞いた途端、真名姫の眦がきりりとあがる。
青年の言葉は正しい。堕ちた神たちには、その名は忌まわしいものであった。
謀略と強大な力と混じった血と―――最高神は忌避すべきものばかりを、備えているがゆえに。

「じゃあ駄目ね。殺すわよ」

口元だけの笑みであった。目には一片の笑いさえ存在しない。
今にも、姿を繕う力を戻し、襲い掛かろうとせんばかりに。

しかし青年は、真名姫の殺気にも動じずに続けた。

「でも、もうひとりの母はお輪。片羽のお輪とでもいうのでしょうかね」

その名に心当たりがあるのか、真名姫の表情が変わった。
彼女を人間から救ってくれた鬼子が、それに良く似た名の母を持っていた。

「どういう事なの?」
「その辺りを、お話ししつつ、色々お伺いしたいのです」


忘我流水道 冷泉の間で、色を持たない青年がいつも通り佇んでいた。
全てを捨て去ったかのような、表情に乏しい氷細工のような青年が、珍しいことに驚きの表情を浮かべた。 その原因となったのは、妙な取り合わせのふたりであった。

「真名姫どうした?それはなんだ」

思いきり指で指されて、人魚姫と連れ立ってきた青年は、憮然として応じる。

「それ呼ばわりですか。酷い」
「他にどう呼べというのだ?藤間よ」

脱線しそうな話を、真名姫が戻した。

「私たちに、話があるんですって」
「話?おまえら一族がか?」
「先に私の方からお話します。何か違いましたら教えてください」

そう宣言すると、青年は適当に腰掛けた。
寒さに眉をひそめながら、彼は用件を切り出した。

「私の現在の名は、藤間朱月といいます。母は大照天昼子、父は片羽のお業の子、要は姉弟間の子供です。それだけ、打倒朱点に賭けているのでしょう」

さらりと、かなり重いことを告げる。
だが、彼の自己紹介は、どこかおかしかった。

「で、現在の――とは?」

氷の皇子の当然の問いに、彼は笑みを返す。
悟ったような、どこか老成した空気を纏い、印象が一変する。

「昔の名は藤間美月。一族の始祖にして、初めの呪の犠牲者です」

その名は有名であった。
悲劇の始まりの赤子。父を殺され、母を攫われ、自らには重い呪いを掛けられた哀れな混じり子。
だが彼は、呪い通りに、二年程でその生を終えたはずだった。

「転生か?」
「再生に近いと思います。記憶は残っているし、顔も同じです。色が違いますがね」

朱月は、鮮やかな紅い髪をつまみながら、さも何でもないことのように答える。

「で、私の記憶と伝承書から判断すると、始祖の母――お輪とは片羽のお業が、姉さんと言っていた相手、つまりは神ですね」

それが彼の推論。
女神が、人間との間に子を産んだがゆえに生じた悲劇。
姉さんがその為に――と嘆いた彼女の顔は、記憶に残る母と瓜二つだった。

少しの間、沈黙が訪れ、そして、真名姫が答えた。

「そのとおりよ。そして、彼女は昼子ちゃんに、人間との子を産むように、命令されたようね」

妹のした事の責任を取り、事態を収集するために。
そんな無茶な命に頷いた母と、そんな非道な命を下したもうひとりの母に、溜息を吐くしかなかった。

「やれやれ……。お伺いしたい事とは、一つは朱点童子について。これは神と人との間に生まれた、強大な力を持つ者、ですね」

神ふたりは、頷いた。
どういう理屈からか、人と神が混じった血には、稀に強力な力が宿っていた。
尤も、その発動は不安定であり、能力継承の制御なども不可能なのだけれども。

「つまり昼子と、黄川人と美月……まあ、それ以降は全員ですけど。みな、朱点童子なんですね」

ふたりは更に肯定した。

朱点童子とは、神さえも凌駕する半端者を示す敬称であり蔑称。
哀しき姉弟や彼ら藤間一族は、全員がそれだった。

訊きたくないのだろうか、朱月はしばらくの間悩んでから、一つ質問を追加した。

「お伺いしたいのですが、黄川人と昼子は姉弟で、そして藤間のお手伝いをしているイツ花という娘は……昼子本人ですか」
「昼子と黄川人は確かに姉弟だ。その娘の事は知らぬな」

答えを聞いて、朱月は哀しげな表情になった。
そして、辛そうに小さく呟いた。

「同じ顔をしているんですよ。多分そうなのでしょう」

くるくると働きまわる明るい少女と、一週間も傍にいてくれたか分からない母は、確かに同じ顔をしていた。
少々騒がしい少女の声は、冷徹で落ち着いた声と、まるで同じものであった。


考えをまとめたのだろう。では――と、朱月は最後に訊ねた。

「昼子は、神々に朱点が倒せないなら、彼と同じものを創り、それに倒させようとした、という事ですかね?」
「おそらくはな」
「そして、それを黄川人に気付かれたのか」

問いではなく、おそらくは独り言であった朱月の呟きに、真名姫が律儀にも答えた。

「だからあなたが赤子のうちに呪いをかけたんでしょ。強くなりすぎないように」
「世界最強に傍迷惑な姉弟喧嘩ですねぇ。私は一応従弟なのに、思いっ切り巻き込まれているし」

やれやれと云わんばかりの表情で、疲れたように朱月は呟いた。

神たちは、黙り込んだ。
それは、大部分の神々が一族について同情している理由そのものだったから。

「だから、理由を聞く権利もあると思います。教えてください。知らなければ、判断も出来ない」

彼らもやはり同情していた。巻き込まれただけで、悲劇を続けてきた一族に。
ゆえに躊躇は一瞬だった。氷の皇子は、決心したように語り出す。

神々の歴史と、人との関わり合い。
そして、神と人との間に生まれた、哀しいふたりの永き争いの歴史を。


「なるほどね。だからあんなにすねてるんですね」
「それで済ましちゃう貴方を、尊敬するわ」

呆れたように、真名姫が言った。
半分は、本心であった。

「まあまあ。
ところで御二方はいつ朱の首輪から、解放されて下さいますか?」

「そうねぇ、さすがに何も知らないあなたたちが可哀相になってきたから、次でいいわよ」
「私もそれで構わんが、いきなりどうしたのだ?」

急の話題転換を怪訝に思ったのだろう、氷の皇子が問うた。
くすりと悪戯っぽく笑み、朱月は相手を指差す。

「従姉が貴方が好きなのですよ。交神するなら、貴方が良いそうです」

それでは関係ないはずの人魚姫は、首を捻った。

「どうして私にも、聞くのよ」
「それは、私が貴女を好きだからですよ。貴女がいいです」

予想していなかった言葉に、神二名は真っ赤になる。

「からかわな……」
「からかってなどいません。私たちの寿命は、あっという間ですから、躊躇する暇などないのですよ。一目ぼれが全てです」

真名姫の抗議の言葉を、途中で朱月が遮った。ふざけている様子など微塵も無く、ただ真摯な表情で。

その言葉のさりげなくも重い内容に、真名姫は哀しくなった。
二年も生きられない彼らが、あまりにも痛々しくて。

「ごめんなさい」
「慣れた、と言えます。ですから謝らなくて、結構ですよ。
では、一族は、多分来月辺りに参りますので」

黙って聞いていた氷の皇子が、静かに頷く。

「そうだな、その時に、私に勝てたら味方になろう」
「私も」

真名姫も続けた。
天に帰り交神可能になるという表面上だけではなく、自分たちくらいは本当の味方になろうと決心して。

「ところで……従姉とは、どんな娘だ」
「お、気にしてますね。翠月という髪と瞳が翠の娘です」

美人ですよ

面白そうに笑って、朱月は最後に一言付け加えた。
その従妹の名と目の前の青年の名を不思議に思い、真名姫は尋ねた。

「色で名前が付くの?」

翠の髪と瞳で翠月、紅で朱月。それは分かりやすいが、彼ら一族は色が揃うとは限らなかったはずだ。

「髪と瞳が同色だった場合、その色に関連した名前にすると私が決めたのですよ。だから色に限らず、雪月とか焔月・梢月・樹月等もいます。同色でない場合は、月さえ入っていれば良いことにしました」
「凝ってるのね」
「方針がないと、名前付けにくいかなと思ったのでね」

何人も何人も生まれるのだから――と、また暗くなるようなことを口にしながら、彼は笑っていた。




朱月はふたりに挨拶を済ませ、氷室を出た。
帰り道、河童を倒してながら進んでいると、大疎水の辺りで見慣れた空間の歪みが生じた。
苦笑を浮かべる間もなく、そこから猛炎が飛びだす。とりあえずは、真名姫の名を戴いた術で、その炎を押し流した。

蒸発した水から発した湯気が、視界を曇らせる。
だが、上空に浮かぶ緋色の衣が誰なのか認識することは容易かった。

突如現れ焔を放った人物は、宙に浮きながら、何事もなかったかのように話し掛けてくる。

「ひとりで、散歩かい?藤間朱月」
「ええ。なにか御用ですか?黄川人さん」

焦りもせず、憎悪も浮かべず。

黄川人は、心臓をつかまれたような苦しみを、脳髄を裂かれたような痛みを感じた。
こんな表情をする者は、自分こそが朱点だと告げてから、忌まわしい鬼の封印から抜け出してから、誰一人存在しなかったはずだった。
まるで友のように、笑顔で彼を迎えたのは始祖とその娘と息子。そして双子の孫娘までだった。
その彼らも、真実を知ってからは、敵愾心ばかりをぶつけてきた。

それなのに、とうに――生まれた時から真実を知るはずの朱月は、微笑んでいた。
長く離れていた友と再会したかのように柔らかく。

「僕を黄川人と呼ぶのは、始祖の美月と精々その孫までだよ」

黄川人は、首を振って告げると、朱月に語りかけた。
美月――と。

「それ以降の君の子孫は、僕を朱点と呼ぶ」

憎悪の対象であるから。
一族にとっては、もう黄川人と名乗った少年ではなくて。
彼らの瞳に映るのは、一族を呪い、利用し、封印から抜け出した紅い鬼だから。

「あらら」

朱月が肩を竦める。
そういえば皆は朱点と呼んでいた。だが、その名称の差異を気にした事は無かった。
彼にとっては、あくまでも黄川人であったから。

「なぜ、また藤間に生まれた?」
「そんなん俺に聞かれても、知るかよ。大体呪い解いてくれなかったじゃないか。鬼」

糾弾するかのようなきつい言葉に、朱月の言葉遣いが、がらっと変わる。
整った顔立ちに、不敵な面構え。それは紛れも無く、初代の藤間美月のもの。

ほんの少しの躊躇の末、黄川人は、素直に本心を口にする。
懐かしい相手だからこそ、長く語ったことのない真実を。

「……迷ってはいたさ。だが封印が解けたら、憎しみが抑えられなくて、ね」
「それで、あれか。家系図見てたら泣けてきたよ。子孫があんなにいる事に。そして死んだ事に」

朱月にとっても、紛れも無い本心らしく。滅多に消さない笑みが、今はどこにも存在しなかった。
その静かな言葉を聞いて、黄川人は嫌な笑いを浮かべた。

「許さない――と、断罪したいのかい?」

ごうごうと炎を纏いながら、彼は金の瞳を輝かせる。
殺気を発する相手を、朱月は、ただ静かにみつめて答えた。

「その辺りは、お前の幸薄い人生に同情する。そんな事を言ったら、俺達も不幸どころじゃ無いけどな」
「どっちなんだい」
「許すかどうかは、俺が決める事じゃないって事さ。今の俺は、当主じゃないしな」

相手の殺気にも構えることもなく。
静かに待っているだけの相手に、それ以上凄めるはずも無かった。
次は殺し合おう――それだけを言って、黄川人は消えた。

残った朱月は、哀しげにその空間を見上げた。
やはり闘いは回避できないのか――と。
あれからの数十年は、全てを水に流すには悲劇を生みすぎたのか――と。


千三十二年皐月、藤間家の座敷には、一族全員が揃っていた。
それは討伐前には、当然のこと。だが、今は、通常にはありえないほどの緊張に満ちていた。

「全ての神を解放した。もはや待つ必要はない。
今こそ、朱点童子との永きに渡る闘いの決着をつける刻だ」

朗々と響く声で、当主十代目藤間美月は告げる。
異父兄である相手を倒し、宿願を叶えると。

「塔を昇る者は、少数精鋭、現在最強の四名を任命する。
他の者は、少しでも負担を減らす為、三階ごとに鬼の足止めを行う」

だれかの喉が、ごくりと音を立てた。
直に相対するか補佐か、その危険性はあまりに異なる。

「弓使い 月姫、槍使い 藍月、拳法家 翠月、剣士 朱月。以上の四名を任命する」

呼ばれた名に、皆が嘆息する。
そこに異議はない。彼ら四名は素質も年齢も実力も、全てが適していた。

「はい」
「一命に変えましても」
「はっ」

頭を下げる三名に当主は頷いてみせ、そして己の息子に視線を向けて告げる。

「そして、隊長は朱月、お前だ」

一言も発していなかった朱の青年は、小さく頷いた。
ゆっくりと万感の想いを込めて、彼は誓う。

「必ずや――終わらてみせましょう」


修羅の塔の最上階に辿り着き、嗤う少年の姿をしたものと彼に召喚された龍との闘いがはじまってからどれほど経過したのだろうか。
炎が水が風が渦をまき、金属音が響き渡る。
延々と続くかと思われた闘いを変えたのは、幾本もの高速の矢。

「連弾弓霧月」

雨のように降り注ぐ月姫の矢が、朱点童子の動きを制限する。

「「「七天爆」」」

併せの術が、そこへまともに炸裂する。
しかも起点が、焔術を得意とする朱月であったが故に、それは尋常ではない威力であった。

藤間の者たちは、朱点童子の金の瞳が驚愕に見開かれたことと、そのまま炎が命中したことを、確かに見て取った。
炎と音と爆風とが収まったとき、最後の龍と朱点童子の姿は存在しなかった。

「倒した?」

呆然と、翠月が呟く。
続いてきた一族の願いを、確かに果たせたのか確信できずに。

「気配は感じないな。どう思う朱月?」

周囲に気を配りながら、藍月は隊長に尋ねる。
その蒼の瞳は、戦闘時の剣呑さを有したままであった。

「わかない。あれで死んだとは考えにくいが、気配を全く感じない以上、気を抜かないでいるしか、手はないだろう」

幾ら探ろうとも、居場所が掴めない。
あの執念が終わったとは考えにくいが、どうしようもないと。
くれぐれも油断しないようにと告げ、捕らえられた女性に近寄る。

鬼たちは急に消失した。
まだ油断できないとは思いつつも、逸る心をどうにか抑えて、まずは六階で足止めをしていた四人が、次いで三階の三人が昇ってきた。
全員が酷い怪我を負う事もなく無事であった。


「顔をよく見せて……」

ようやく解放されたお輪が、ひとりひとりの顔を見る。
泣きそうな表情であった彼女が、あるひとりの前で愕然として声をあげる。

「あんたは、美月!?どうして?だってあれから、もう十年は経っているのに」

それは無論のこと朱月であった。
イツ花といい黄川人といい、またか――と、一族の大部分は思っていた。が、朱月の返答は予想外であった。

「私は一年八ヶ月で、死にましたよ。寿命で。そのあとに同じ顔、記憶持ちで、ちゃんと剣士の家に転生した理由は分かりません」

平然と彼は肯定した。
己と始祖が、同一の存在であることを。

「じゃあ、本当にあの子なのね」

ぼろぼろと、気丈な女性が涙を零す。
恐る恐る手を触れようとする。幻でない事を確かめるかのように。

「魂はそうです。ずっと貴女を助けたかった。唯一記憶に残る貴女は、泣き顔だったから。大江山での、あの抱いてくれた時の……」

本心からの微笑みで、朱月は懐かしそうに目を細めた。
泣き顔で、震える手で頭を撫でてくれた母が、今は目の前に居る。

だが、やはり終わっていなかった。
倒した筈の、朱点童子の声が、何処からか響いた。

「美しいねぇ。とうに死んだと思っていた我が子は転生していた。しかも当主と大照天昼子の子、という立場と歴代最高の力を持って。
もうひとりの母を助ける為に。くくくっ泣かせるねぇ」

それは幾重にも反響し、居場所を掴ませるようなことはなく。
聞き間違えるはずのない声が、嗤っていた。

「「「朱点ッ!?」」」
「黄川人、もう止めよう」

構え、周囲を探る一族とは対照的に、朱月は静かに呟いた。
彼は憎んでなどいなかった。一族の――子孫の悲劇の歴史には怒りを覚える。
それでも、一族の前で演技をしていた彼の姿は楽しそうだったから。心許せる友人という渇望していたものを、偽者でも刹那でも手に入れたから。

「もう遅いよ。僕らはどちらかが死ぬまで、喰らいあうしかない。そういう風に、姉さんに決められているんだからッ!!」

血を吐くように叫び、そして現れた朱点童子は、お輪を取り込み異形へと変貌していく。

「母さんッッ!!」

そんな場合ではないのに、一族全員が驚いてしまった。
朱月の大声など、初めて聞いたから。彼は――――生まれた瞬間から、常に冷静であったから。


「さあ、弱点はここだわよン。ぐちゃぐちゃにしてン」

原型など止めぬ、鬼朱点などよりもはるかに醜悪となった姿で、お輪の部分を示しながら、朱点童子が嘲笑う。

「私ごと斬れ!迷うな!!」

お輪が、凛と叫ぶ。
これ以上己が足枷となるわけにはいかない――と。

「どうする?美月。やっと会えた母親を殺すかい?」

朱点童子は、朱月のほうを見て、そう嬲る。
朱月の目には、未だ憎しみが存在していないから。憎みあい殺し合う最強の存在が、そんな状態では面白くない――と。
甲高い声で嘲いながら、泣いていた。

「やめろッ。なんで、憎ませようとする。俺は……」

『美月』は知っていた。
鬼朱点が倒されることを最も怖れていたのは、黄川人であることを。
封印が解ければ、己を笑って出迎える優しい一族を喪うから。手に入れた仮初の友人たちは、瞬時にして宿業の敵へと変わる。

「憎むべきだからだろう」

朱月の叫びを、現在の美月である蒼月が遮る。
彼には馬鹿兄の考えていることも、息子であり始祖である人物の気持ちも分かった。

一族を憎んでいることも、大切に思えたことも、兄にとってはきっと真実で。
止めて欲しい。だけど憎い。そんな相反する想いの処理を、深き因縁を持つ朱月に任せたかった。だが、その相手は、憎しみを抱いていない。

それでは駄目なんだと。憎しみ合い殺し合うことで相殺される互いの罪。殺し合いの結果ならば、残った方も罪を負わずに生きていけるからと。
おそらくは生き残るであろう友人の為に――憎ませたいのだろう。

だから続ける。――父として、そして当主としての言葉を。

「始祖、いや、俺の息子でもあるのだからいいか。
その大馬鹿野郎には、同情すべき点も多い。神と人の利己的な争いに巻き込まれただけといっても良いだろう。だが、他人に不幸を強要していいという事は、決してない」

その言葉は、どうしようもないほどに正論で、朱月の胸の何処かが痛む。
哀しかったから、辛かったから――だからといって巻き込んで良いはずはなかった。

「そいつには、育ててくれて親代わりもいたんだ。なのに、復讐を選択した。
こっちの中には、子供と会えずに死んだ親だっていたのにな。間に合わずに」

暗い言葉に、朱月としてはじめて家系図を見たときの衝撃が思い出された。

ひたすら哀しくなった。
綿々と繋がる血筋にも、時折見られる悲劇にも。

娘は、少しだが、寿命より早く死んでいた。
僅か六箇月で急逝している剣士もいた。
交神の儀の月に身罷った女性が居た。子の存在を感じることもなく。

それら悲劇の原因は、紛れもなく黄川人。
たとえ自身も悲劇に見舞われていようとも、それは赦されない罪。

「だから、あなたが出せないのなら、俺が指示を出す。だが、あなたが出すべきだ。隊長であり、最初の犠牲者なのだから」

あくまでも静かな父の声。
確かに現在の指揮を任されたのは朱月。
確かに因縁の始まりとなったのは美月。

これだけの人数差であれば、彼が引っ込んでいようと、朱点童子を倒せるはずである。
彼は一歩引いて、ただ悲痛な顔で眺めていれば、事が済む。

「私、藍月、伽月は直接攻撃と護り。月瀬は回復に専念。他の者は月影を起点として、雷獅子の併せを行う」

だが、そんな選択ができるはずもない。朱月は、指示を皆に出した。
全てを終わらせるために。
願いを果たす為に。

そして、彼を見る。

「ふふふふふ、ははははは」

笑いながら、その巨大な力を振るう、異形に堕ちた従兄。
彼は気付いているのだろうか。自分が泣いていることに。

闘う事でしか確かめ合えない、哀れな者達。

氷の皇子の言葉は、誰のことを指していたのだろう。
永き時を争い続ける、姉神と鬼の弟だろうか。
母を同じくする、現在の当主たちと童子のことだろうか。
同じ存在でありながら憎み合った、神と人の混じった一族と黄川人のことだろうか。


抱えていた願いとは、黄川人を解放することだった。
彼が縛られ続けていた深い憎しみと、果ての無い哀しみから。

だが、あの狂ってしまった、兄のような存在を救うにはもう……一つしか思いつけなかった。


一族の力が炸裂する中で、朱月は気を集中した。
最大の奥義を、今は難無くこなす事ができる。気配を消したままで、力だけを増幅することも容易く。最高神とその異父弟の間に生まれた彼には、それだけの力が備わっている。

静かに、傷だらけの朱点童子の死角へと潜む。
彼の壊れた笑顔に対して、朱月はそっと呟いた。


今、断ち切ってやる。お前の歪んでしまった想いを。
ただ家族と共に暮らしたかっただけの、お前の願いを受けとめて。


「源太両断殺」

信じがたい速度で、陰から一瞬で間合いを詰めた朱月の剣が一閃する。
そこには一片の躊躇いもなく。
既に綻びていた巨大な鬼の身体が、両断される。



眩しい光が生じる。
しばしの繚乱。錯綜する光。

ゆっくりと収まるにつれ、鬼が在った場所に人の姿が見える。
それは、赤子を抱いたお輪であった。今までの薙刀士の装束ではなく、天女のような姿で。


赤子に戻った少年を、もう一度育てると。
どんな神々だろうと文句は言わせないと。

たとえあの最高神が相手であろうとも――と、強い瞳で彼女は誓った。

「お願いします。今度はヒネずに育てて下さい」
「美月。私はね、妹の責任を取るつもりで人間界に来たわ。だけどあんたの事も、あの人の事も愛していたわ」

ぺこりと頭を下げた息子の顔を上げさせ、その頬に触れながらお輪は呟いた。
本当よ――と、心から。

朱月は頷き、一言だけ彼女に返した。

「知っていましたよ」

あの泣き顔を覚えている。
あの痛切を疑えるはずがない。

だから構わなかった。はじまりが計画であろうとなかろうと。


祝勝やらなんやらで賑わう藤間家の廊下で、忙しく動いていたイツ花は静かな声に呼び止められた。

「どうしたんですか?」

立ち止まり、首を傾げて相手の名を呼ぶ。朱月様――と。

「ちょっと話があるんだけどいいかな」
「何でしょう」

討伐の仕度がなくなった。それだけで随分と時間が空く。
現在の祝勝や褒賞などの忙しさでもお釣りが出る程度には。

聞く態勢に入った少女に、朱月は笑いかける。まるで世間話のように何気なく、重要な言葉を紡ぐ。

「俺は生まれ変わったから、あの時の約束はなしでいい。で、もし黄川人が、また馬鹿をした時の為に、長寿にして欲しいんだ。神になんかならなくていいから」

それは間違いなく始祖の口調と表情で。
目を丸くしたイツ花に、今度は朱月の柔らかい笑みと口調にて、頭を下げる。

お願いします。母上―――と。


しばし、時間が止まった。
無邪気な少女は、逡巡の後に、表情と声音を変えて答える。
美月に天から語りかけた最高神の声で。
朱月を少しの間だけ育てた親神の声で。

声そのものはイツ花と変わりないのに。

「元々、呪いが解けた以上、貴方たちは人と神どちらかになることを、選択できます。
人を選べば、五十年程度の命ですが、子を成す事が可能。神を選べば不老、ただし、神同士では子を成す事ができません」

人との間には、可能でしょうけれど。

小さく付け加えた言葉は冷たくて、そんな新たな火種は許さないと語っていた。
けれど朱月は、そんな冷たさを気に掛けることなく頷いた。

ああ――本当にこの姉弟は良く似ていると、思ったから。
不器用で、すぐ己を悪にしてしまうとことが哀しいほどに。

「それは、皆には?」
「伝えます」

考え込んだ息子に微笑み、問いとも確認ともつかない言葉をかける。

「貴方は神を選ぶのですね、朱月」

彼は曖昧に頷いて、問い返す。

「あれに記憶はあるのですか?」
「ええ。けれど母と伯母が一から育てているので、大丈夫でしょう」

今度は優しさを与えられて。
恐怖と憎悪の中で、育つことはないのだから。

「ま、もしも駄目だったら、もう一回殴ればいいですかね」

あっさりと酷いことを口にしながらも、その紅の瞳は、優しかった。

「ふふふ。でも随分、あれを気にかけてくれるのですね」

笑みを含んだもうひとりの母の言葉に、朱月は晴れやかに笑って答えた。

「従兄で叔父で伯父で、友人ですからね。縁が深いんですよ。
それに――あの馬鹿の妄執を断ち切る事が、俺個人の宿願でしたから」

呪いからの解放でなく、憎き敵の打倒でなく。
憎むべき敵が、解放されることが。

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