「捨石になるだけの人生かよ。家出してぇなあ」
呟いたのは、紅の髪と瞳の青年。
満月の下、ひとりふらふらと歩いている。
現在の京の治安から考えれば、それは正気の沙汰ではない。
しかし、青年は多くの鬼を屠ってきた一族、藤間の者であった。
人里にまで現れる程度の鬼ならば、物の数ではなかった。
京の人々を苦しめる、鬼たちの首領であった朱点童子。
青年の母達の世代が、必死で倒したそれは、更なる強大な鬼の封印でしかなかった。
今の一族の実力では、真の朱点はおろか、その直の配下のものたちにさえ、殆ど歯が立たないことがわかった。
今唯一、彼らにできることは、強い子孫に託す事
つまり、自分たちはつなぎでしかない事がはっきりとしてしまった。
もちろん実際には家出などは、できないことはわかっていた。
自分だけならば、本気で考えただろう。
だが、彼の双子の兄は、次代の当主に決まった。
童顔の現当主の生命の炎は、おそらく数日のうちに消えるだろう。
女好きで娼館通いの常連で、適当にみえて、でも誰よりも責任感が強いのが、彼の兄だ。
当主として、人知れず尽力するに決まっている。
そんな兄を置いて出奔できるほど、彼の神経は図太くなかった。
だから、鬱屈が溜まると、彼は夜に出歩いた。月を、星を見て、闇に包まれて安らぐために。
そうやって歩いていると、ひとりの女の存在に気が付いた。
女は川のほとりの大岩に腰かけて、月を見上げていた。
こんな深夜に、この京で。
月光に透ける長い白の髪。
身にまとうは、白拍子の衣装。
「あら、こんばんわ」
彼の視線に気が付いたのか、女は振り向いて言った。
まだ、あどけないが美しい顔に、化粧をしっかりとしている。
「こんばんわ。危ないよ、こんな時間に」
「こんな時間しか、外に出られないのよ」
彼の言葉に、ふわりと笑った瞳は、朱。
「あら貴方の瞳も赤なのね。私といっしょだわ。私は和泉というの。あなたは?」
「俺は、緋月」
答えに彼女は、空を見上げた。
「緋色の月? まるで、今日の月みたいね」
彼の瞳を覗き込み、幻想的に微笑む。
その姿は、さながら月の妖精。
緋月は魅了された。
己の一族の特殊性さえ忘れて。
「で、今日はどこに行くんだ」
「うわああぁぁ」
深夜に、そうっと家を出ようとした緋月は、背後から急に声をかけられて絶叫した。
煩そうに眉を顰めて、双子の兄は詰問してきた。
「煩い。最近夜、ほっつき歩いているそうだな。妖者にでも騙されているのか」
兄のぶっきらぼうな口調に隠された、心配の色に気付けぬほど、緋月は愚かではない。
ゆえに、比較的素直に答えた。
「女の子と会っているんだ。……好きなんだよ」
女性に優しい兄ならば、納得すると思い、緋月は理由を口にした。
事実、彼は納得してくれた。ただ一つの誤算は、彼がついてくると主張したことであった。
こうなると、絶対に譲らないことは、よく分かっていた。諦めて兄同伴で、和泉の元へ向かう。
「あら」
ふたりに気付いた和泉が目を丸くする。
無理もない、彼ら双子は、髪と瞳の色が同じなだけではなく、顔立ちも非常に良く似ているから。
「はじめまして、私は、これの兄で紅月といいます」
「紅月さん――ふふ、お会いしたのが分かったら、桔梗や白蓮姐さんに妬まれてしまいますわ」
彼女が口にした名を聞いて、紅月は得心がいったようだった。
「彼女たちの事は、愛しているから大丈夫ですよ。では私はこれで」
「あら、ゆっくりなさっていけばよろしいのに」
「いえ、弟が妖者の類に騙されていないか気にかかっていたのですよ。だが、要らぬ心配だったようですね。貴女は人間だ。美しすぎるきらいはありますがね」
「けっ、たらしが」
会話を聞いていた緋月は小さく毒づいた。兄の娼館での態度が、目に浮かぶようだった。
そして少し哀しくなった。
彼らの会話内容から、和泉の境遇が容易に想像できたから。
「で、訊くまでもないとは思うが、遊びか? 本気なのか?」
翌朝、紅月は真面目な顔で、帰ってきた弟に訊ねた。
「本気に決まってる。彼女が好きなんだ。どんな境遇であっても」
たとえ姫だとしても。
「おそらく、彼女は姫ではない」
搾り出したような緋月の言葉を、紅月はあっさりと否定した。
「娼館はその性質上、子供が生まれる時がある。そして、全員が健康とは限らないのだよ。ありそうな話だろう。不特定多数の男との行為の代償だ」
「そんな言い方をしなくてもいいだろッ!!」
思わず激昂する弟に対して、紅月は諭すように静かに語った。
「別に、見下しているわけではない。成就は難しいと言いたいんだよ。あれほどの美人だろう? それでも、桔梗に白蓮ということは――夢華館だな。あそこに白子の姫はいない。つまりは、客がとれない身体なんだよ、多分」
それでも良い、何もできなくても。
そう繰り返す弟に、紅月はやや呆れた目を向ける。
それでも、直情型の彼がこう答える事は、予想の範囲内だった。
「わかった」
「え? いいのか」
あっさり認められてことに驚いて、緋月は目を丸くした。
交神のことなど、彼なりに悩んでいた。
ゆえに、こんなにも簡単に済まされるとは、考えてもいなかったのだろう。
「止めても聞かないだろう。俺は、ちょっと出かけてくるからな」
「ああ……わかった」
まだ、釈然としない様子の弟を置いて、紅月は出かけた。
馴染みの館の一つへ。
「いらっしゃいませ……紅月さまッ!! お久しぶりです」
「やあ、桔梗。変わらずに綺麗だね」
けだるそうに挨拶した女は、客の男の髪が赤い事に気付いて、態度をがらりと変えた。
美しいが虚無的な表情であった彼女は、今は明るい笑みを浮かべて客を招きいれる。
紅月は、さりげなく女の腰に手を回し、瞳を覗き込んで言った。
「ちょっと館主に会わせてもらえるかな」
「はじめまして、藤間さま。いつもご利用頂きありがとうございます。……本日は、何用で?」
典雅な顔立ちの館主が、挨拶に現れる。
確か、四十近いとの話であったが、せいぜい三十前後にしか見えなかった。
それに、もしやこの館主――との疑念を、紅月は抱いた。
けれど、色街の実力者を敵に回す必要も無いので、それには触れずに用件のみを切り出した。
「はじめまして。こちらを良く利用するのは姫たちが素晴らしいから――当然の事ですよ。
用件とは、ひとつお伺いしたい事がありまして――和泉姫のことで」
名を聞いても、館主の表情は全く変わらなかった。
白々しい程に首を捻る。
「はて、そのような娘は当館にはおりませぬが。我が館に在るは華のみでございます」
「おや? 伝説の姫――紫苑に非常に似ていましたが? 確か、彼女はこの館の女性で、十五年ほど前に引退していたような気がしますが」
館主の目に剣呑な光が宿る。隣室で、かたっと小さな音が生じた。
だが紅月は、隣室の殺気を気にした風もなく続ける。
「弟が、本気で惚れた相手だ。その純粋な恋を邪魔する気など無い」
それは心よりの言葉。
交神も、朱点のこともどうでも良かった。元より自分たちの代で倒せるはずもない。少々の回り道程度、誰も責めはしないだろう。
「だが紫苑は、栄華をほしいままにしているかの一族の、出世頭のお気に入りでしたな。……急に力を付けた藤間を疎む者は、少なくない。そしてその筆頭は、かの一族」
和泉と名乗った白の少女は、華の名を抱く美しき女たちの中でも、伝説となった姫の風貌に似ていた。
そして、その伝説の姫は、藤間の家に事ある毎に難癖をつける男の、専属であったはず。
「弟たちの出会いが偶然ならば構わん。だが、仕組まれた事なら、どれほどあれに恨まれようと排除する」
口調を変えた彼は、静かに座したままであった。
だが、鬼と直接相対する者、それに相応しい迫力を有していた。
その迫力に、隣室の殺気が消滅する。誰が己より遥かに強いと、本能で分かる相手に凄めようか。
「ただ、そう伝えに来たのですよ」
紅月は、一転して穏やかに言った。
そんな彼をじっとみつめた後、館主は観念したように、語りだした。
「確かに、和泉という娘はおります。私と紫苑――志乃の娘です」
紅月は、その内容に呆気に取られて、思わず訊ねてしまう。
「商品に手を出すのは、厳禁なのでは? それに……」
通常はそう考えられる。最低限の規則ともいえることだ。
加えて、この館主と姫の間に、子が生まれるとは思えなかった。
「女に拒否権はございます。当館では、館主は遊女との間に子を設けます。そして男ならば館主に、女ならばまた遊女に。女を商品として扱わぬ為に、遊女を母に持つ者が、館主となるのですよ。
私は、先代の館主と胡蝶の間の子です」
胡蝶――それもまた、最高級の遊女とされた女の名であった。
館主の美しさにも、納得がいく。
そして館主は語った。
和泉とかの一族との関わりはなにもない。知らせてもいない。
彼女は、本当に偶然に、彼と出逢い惹かれただけなのだと。
館主の話に頷いた紅月は、立ち上がり、去り際に微笑んだ。
「わかりました。あの出逢いが偶然ならば――それでいいのです。ありがとうございました」
月下の逢瀬の中、和泉は自らの境遇を語り出した。
「私は姫になれない。身体が弱すぎて、客をとるどころか、日の光の中に出る事もできない。
この肌は焼けてしまう。この瞳は、光に痛みを感じる」
紅月の言葉は正しかったようだ。
彼女は遊里に生まれたものの、身体の弱さから遊女となることはできなかった。
だが、父が館主であった為、捨てられることもなく、遊女たちの話し相手として生きているとの事であった。
「でも、いいの。貴方が教えてくれた。太陽には会えなくても、月と星がある」
その微笑みに、緋月は兄との会話を思い出す。
「交神したくない……と云ったらどうする?」
「誰かが二度行う。それだけだ。というより、俺なんか喜ぶね」
当然、理由を察しているのだろう。ゆえに紅月は、わざと明るくふざけた調子で答えた。
血の収束は避けた方が良い。
当主としては、認めるべきでない事であろう。だが、兄は構わないと言った。
兄と交わしたその会話の内容を、和泉に伝える。
すると、和泉は目を丸くしてかぶりをふった。
「駄目よ、緋月。子を産むべきだと思うの。私では無理なのだから。神様とでも」
「だって、俺は君以外」
緋月の言葉を遮るように、和泉は軽く彼の唇に手を触れた。
驚いた顔の彼に、儚く笑って自分の考えを告げる。
「父が言っていたの。たとえ自分の子でなくとも、愛する者の子供ならば、絶対に愛せるって」
「和泉、それって」
その言葉は、血の繋がらない子供を育てた事がある人間の言葉だ。
つまり、和泉と館主は――。
緋月の問いには答えずに、彼女は続けた。
「絶対に愛するわ、貴方の子を。だから、その方が良いと思うの」
久方ぶりに館を訪れた男に、館主は困惑していた。
先日の藤間の青年よりも、余程に忌むべき存在。その際の話に上った人物であった。
男の無茶な要求が、困惑を助長させる。
『紫苑の娘である姫を抱かせろ』
藤間の青年に告げたとおり、彼女の存在を男に知らせたことはなかった。
だが、存在が既に掴まれていたとしても不思議ではない。男は今の京では最高級の権力を誇る地位に在った。
「ですが、あれは虚弱ですし、なによりも、貴方の……」
「だからなんだ? 子を生めぬのだろう? ならば、血のつながりなど関係ないではないか」
傲慢な物言いに感じた殺意を、館主は必死で押さえた。館主がいかに力を持つといっても、それは花柳界内での話。右大臣にまでなった男にかかれば、吹けば飛ぶようなものに過ぎない。
「ならば、お前が抱かれるか? それでも構わぬが」
的確に嫌がらせをする男に、内心歯噛みしながらも答える。
「それでも宜しいのなら」
「ふん、戯言よ。我が望むのは、紫苑のみ。それが叶わぬのなら、顔の似たものを抱く」
愛情すらなく。
代用品だと言い切られ、館主の声は、震えていた。
「一言だけ言わせて頂きたい。貴方は最低の下衆ですな」
怒気にさえなんら感じるものはないらしく、男は平然と答えた。
「知らなかったのか?」
その夜、館主に呼ばれた和泉は、相手の苦渋に満ちた表情に驚いた。
館主は口を開くのも嫌そうに苦々しく訊ねる。
「和泉、客をとってくれるか。右大臣様が、お前をご指名なのだ」
本来、とうに命じられても可笑しくなかった指令。
そして、永遠に命じられないことが正しい指令。
「はい」
ひとつ息を呑み、それでも和泉は承諾した。
「すまぬ、お前には……」
館主は、どう謝ったら良いのかさえ、わからなかった。
娘が、好きな男ができたのも知っていた。体の弱さゆえに、何もしていない事も勘付いていた。
それなのに、館の為に他の男に抱かれろと云うのか。その生命さえも賭けさせて。
「それが、私の生業です」
痛々しいほどに血の気の引いた貌で、和泉は健気にも微笑んだ。
ふたりはいつものように、深夜に会っていた。
だが互いの顔には、緊張感が漂い、会話も途切れがちであった。
「和泉」
「ねぇ、緋月」
幾度目かに会話が途切れた時に、どちらからともなく互いの名を呼んだ。
「え、なんだ」
「ううん、いいの。緋月から言って」
「いや、和泉が先に」
しばらく押し問答を繰り返した後、根負けした緋月が口を開く。
「前に言った交神という儀を行うことが大体決まった。来月一杯は、こちらの世界に居ない」
それを聞いた和泉は俯いた。そして、そのまま小声で語りだす。
「私も、初仕事が決まったの」
「そんな」
青ざめた緋月に、和泉は哀しそうに微笑んで事情を説明する。
「相手は、右大臣様だから、お父様でも断れなかったの。だから」
そこで彼女は顔を上げた。静かな、だが、ある決意に満ちた表情で。
「抱いて欲しいの。馬鹿みたいな感傷だと思う。私は遊女としての教育も受けているのに。でも……初めては貴方がいい。もしかしたら、死んでしまうかもしれない。それでもお願い」
涙を堪えるような表情の和泉を、緋月は思わず抱き寄せた。
精一杯優しく和泉を抱き、彼はかすれる声で言った。
「俺も、無茶を承知で頼もうと思っていた。優しくするから」
翌日、緋月は疲労しきった和泉を、館へと送っていった。
入り口では遊女たちに散々冷やかされ、更に館主が挨拶をしたいとのことで、一室で待たされ、緋月の緊張は頂点に達していた。
現れた館主の冷徹な雰囲気に、このまま逃げ出したい衝動に 駆られながら、緋月はなんとか挨拶をこなした。対して、厳しい顔の館主は、予想外の言葉を発した。
「ありがとうございます。あの子と出会って下さって」
「え?」
当然、何らかの 叱責を受けるものだと覚悟していた緋月は、間の抜けた声で答えてしまった。
「あれは、二十まで生きられないと、幼いときに診断されました。
それを知ってなお、我侭をいうでもなく女たちの話し相手を勤めてくれていました。
それでも、色々辛くは思っていたのでしょう。あれが深夜もひとりで出歩けるのは、鬼を怖れていないから。生命に執着していなかったのです。それが、貴方と出会って、あの子は変わりました」
緋月の脳裏には、最初に出逢ったときの和泉の姿が浮かんだ。
深夜、あんな場所にひとりで、人影に対し、怖れる風もなく笑った和泉。
「殺されても構わないから……あんな所にひとりで」
独り言のように呟いた緋月の問いに、館主は答えた。
「自殺などは考えていない、だけど何も求めない、執着しない。それがあれの生き方でした。
それが変わったのです。嬉しそうに貴方のことを話すあの子は、年頃の普通の娘でした。本当に感謝いたします」
その足で、緋月は兄の元へと向かった。
「当主、交神相手を決めました」
「本当にいいのか? 誰かに双子を生んでもらえば」
心配そうに言い募る兄に、静かに首を振った。
既に決めたのだ。彼女とふたりで。
「いいよ。純粋に能力で決める。愛する事は、できないからな」
「わかった……謝ったりするなよ。云わなければわからんのだから」
清浄な空間にて、現れた美しい女神が頭を下げ、口を開く。
「初めまして。よろしくお願いします」
云わなければ分からない。
兄の言葉が浮かんだが、その選択を押し通すことは、彼にはできなかった。
「申し訳ありません。私は最低の人間です。貴女を愛する事はできずに、それでも、子を生して頂くことになります」
真実を告げる。
愛せないと。なのに貴女を選んだと。
深く頭をたれた緋月に、土神――百合唐蝶子は悲しげに微笑んだ。
「存じております。昼子様から、貴方には愛する人間の娘がいると」
はっとしたように顔をあげた緋月に、彼女は云った。
「愛してほしいなどとは申しません。だた、この場に居る間だけは、忘れて欲しいのです」
「おまえが紫苑の娘か」
「はい、芙蓉と申します」
完璧な笑みを浮かべたのは、遊女としての和泉。
衣も化粧も整えた彼女は、尊大な態度の男を前にして笑んでいた。
「母によう似ておる。脱いでもらおうか」
和泉は、臆するでもなく、淡々と服を脱ぐ。衣擦れの音だけが場に響く。
一糸纏わぬ姿となった和泉は、震える心を完全に押し殺し、柔らかく優美に微笑んだ。
それは、彼女の誇り。最高の遊女の血を受けた誇り。
和泉を抱き寄せて、組み敷いた男はそのまま動きを止めた。
何もせずに硬直する男に、和泉は怪訝そうに訊いた。
「藤原様?」
美しい全裸の遊女に、動きを止めた男は自嘲した。
「流石に駄目だな。私は最低な父親だ」
和泉は、志乃と館主の子ではあり得ない。
父親として、彼女を育てた館主は、身体としては女だったのだから。
男は嘗て、ある遊女に惚れ込み、囲い女にしようとした。
実は、妻に迎えようとまで思い詰めた。当然身分の違いから、一族挙げての反対をくらったが。
仕方なく囲い女にと、身請けを申し出たら、今度は館主に拒まれた。
男は納得がいかず、そして美しい館主と遊女の仲を疑って、執拗に調査した。
結果、確かにそのふたりは愛し合っていたことが分かった。
ただし、男の予想とは違って、直接的な形ではなかったが。
先代の館主は、最愛の女との間に生まれた美しい娘を遊女とすることを拒んだ。
因習を逆手に利用し、男として――館主の候補として育てた。
彼も流石に考えなかったのだろう。男として育てられた館主が、館の女を愛することは。
そして相手が、同性と知ってなおも、その思いを受け入れることも。
男の心を持ち、志乃を愛していても、子が生まれるわけはない。
なれば和泉は客との子。そして、志乃――紫苑姫は、当時男の専属状態であった。
「勝手だが、お前の事を調べた。藤間の男とできているそうだな」
「ええ、愛しています」
そういって自然に浮かべた彼女の笑みは、先ほどの営業上の完璧なものとは、本質的に異なっていた。
男は、娘をまぶしそうに見ながら、気になっていた事を訊ねた。
「お前は、籍の上では、ここの姫なのか?」
「はい、その名が芙蓉。本名は和泉と申します」
そこで、和泉の表情が曇った。男は大体は察したが、正確を期するため、あえて訊ねる。
「では、身請けには結構な金が必要なのだな。――藤間では、辛い程度には」
「――はい」
新興の、そしてなぜか京の復興に多額の寄付をしている藤間の一族には、高級の遊里に籍を置いている和泉を身請けする金など到底払えない。正確には、それだけの金額を、個人の都合の為には費やせないという事だ。
「身請けの金は、私が払う。その後は好きにするがいい、尼になるのもあの一族の屋敷に行くのも、お前の自由でな」
「藤原様、それは……」
「十四年も、お前を放っておいた。これは償いだ、気にするな。それに私には、金など腐るほどある」
なにしろ腐敗政治を仕切っているのだからな。
言葉に詰まる和泉に対して、男は自嘲気味に、そう言った。
「ありがとうございます。藤」
弾かれたように頭を下げた和泉は、動きを止める。
たっぷりと逡巡する。彼女にとって父親とは、母を愛し己を育ててくれた館主。
子を孕ませ、手に入れられないと知るや、館を訪れなくなった男ではないはず。
それでも、たとえ、今更な、僅かなものでも。
確かにこの男は、初めての優しさを見せた。
「ありがとうございます――お父様」
「では、緋月様、お元気で」
一月は瞬く間に過ぎ。
安息の日々は終わる。偽りの、仮初の夫婦の関係もまた同じ。
「本当に、申し訳ありませんでした」
「いえ、緋月様はお優しい方でしたから」
最後まで謝る実直な人間に、女神は、優しく微笑んでいた。その名の通り、華のように絢爛に。
「さようなら」
嫌いではなかった。むしろ和泉に先に出会ってなければ、愛していたかもしれない。
優しくて控えめな性格で、豪奢な美しい外見の女神。それなのに、他の女を愛したまま彼女を抱き、子を生した。
罪悪感が、もやもやと残っていた。
「帰ったよ」
緋月は不機嫌な表情で、現れた人影に無愛想に告げた。
そして、驚愕に目を見張った。
予想とは全く違う人物であった為に。
「お帰りなさい」
微笑み迎えたのは、和泉。
しばらくの間、緋月は硬直していた。
「な、ななな……」
「なに言ってるんだ、浮気直後だから後ろめたいのか?」
もうひとりが、後ろから新たに現れる。
「紅月さん」
少し怒ったように兄の名を呼ぶ和泉の気安さに、彼女がここに居るのは、昨日今日の事ではないと察した。
そんな彼女の様子に、更に混乱しながら、説明を求める。
「ちょっと待て紅月、何だこれは」
「彼女はもう、館の住人じゃない。ちゃんと正式な手続きの上で身請けされた自由の身だ。だからここに居る」
落ち着いた様子で答える兄に、混乱が増したのか、緋月は頭を抱えた。
「ちょ……そんなに金を払ったのか!? 俺がなんとかしようと……」
「ウチじゃあない」
ゆっくりと首を横に振る。
大金を出したのは、無論藤間の家ではなく。
「え? だって、いかに娘の事だろうと、特例は認められないだろう?」
ならば、領主が愛しい娘を想い、特別に見逃したのかとの問いに、紅月は、一層顔を顰めて、もう一度首を横に振る。
「館主殿でもない、ふじわら・さ・ま、だよ」
「は? あそこって、うちのことを目の敵にしてなかったか」
緋月は兄の答えが、理解できなかった。
傍系中の傍系に過ぎない藤間の最近の台頭を、最も厭っているのは、大元の本家にあたる藤原家であったはずだ。
「だから、お前の為じゃない。我が娘の為に――ってことだな。呼び出されて、大切にしろと、散々釘を刺されたぞ、うだいじんさま、自らにな。―――ああ、鬱陶しかった」
「ご、ごめんなさい、紅月さん」
困ったように俯く和泉に、紅月は優しく微笑んで否定する。
「いや。君は全然悪くない、悪いのは、あのたこ入道だよ」
「君とか言うな、この助平当主」
さりげなく肩に手を置いた兄を、和泉から遠ざけながら睨み付ける。
ふっと鼻で笑った兄は、不意に厳粛な表情となり、無慈悲な宣告を下した。
「藤間緋月、来月の氷室討伐に命ずる、構成はお前ひとり、以上」
「絶対に死ぬだろ!! 職権乱用だ!」
和泉は、じゃれあう兄弟に妬けたのか、緋月の顔をぐいっと自分の方に向けさせる。
「緋月」
「は、はい」
妙に迫力のある声音に、緋月は裏返った声で応えた。
かなりの緊張状態の彼に、和泉は微笑んだ。
「まだ、返事を聞いてないわ」
緋月はやっと思い出した。
驚愕に我を忘れ、まだ彼女から最初に掛けられた言葉に、応えていないことに。
「あ、ただいま」
よしっと小さく微笑んで、彼女は満面の笑みを浮かべて、もう一度言った。
「お帰りなさい」
それから一年、幸せな日々が経過した。
緋月が生まれてから二十ヶ月目のある日、ついに別れの時はやって来た。
穏やかにふたりは語り合っていた。
軽い病にかかった者と、その看病といった風情であった。
「私も、五・六年もすれば行くわ。待っていてね」
「遅くて構わん。ゆっくり待っているからな。龍月のこと……頼むぞ」
「ええ、私の娘ですもの」
それから緋月は、顔を向けた。一足先に逝った兄を継いで、当主となった娘に。
最期の願いを彼女に告げる。
「龍……いや、当主。たとえ資格があっても、氏神にはしないでくれよ。和泉は天界には来てくれぬのだから」
「はい、父様……」
最も年少であったゆえに当主となった龍月も、交神の刻を迎えようとしていた。
その件について相談された和泉は仰天し、義娘を廊下の片隅へと引っ張り込んだ。
囁くような声で、真剣に訊ねる。
「ねえ、龍月。本当に、あの方でいいの? 御姿を見たけど、あの御方って……」
「ええ、父様に似ているじゃない」
「どどどど、どこが!!」
直情的な性格、素直な言動、それらがあまり感じさせなかったが、緋月は美形と言える顔立ちをしていた。
対して、あの御方――不動泰山は……。
あまりの反応に、龍月は苦笑した。面食いではない彼女は外見を気にしないので、彼女にとっては、かの神と父は、本当に似ているのである。
理由を義母に説明する。
「溢れるほどの炎の力、それが似ているの」
「私にも、反魂の儀ができれば良かったのに」
ここ数日は床から起き上がれなくなった龍月の枕元で、和泉はぽつりと言った。
龍月は、既に次代の当主の指名も果たした。残された時間は、そう長くない。
「母さまったら……。私は、長生きな方なのよ、二十三ヶ月も生きるなんて」
「短すぎるわよ、私でさえ自分の寿命を呪ったのに」
額に当てられる義母の暖かい手に、懐かしさを感じながら、龍月は諭すように言う。
「母さま、私は幸せなの。私たちは、親神様とは一月ほどしか共に居られないの。
それなのに、私には二年間も母さまが居てくれた。
私には生んでくださった親神様と、育ててくださった母さま、ふたりの母がいるんだもの」
「龍……」
「母さま、萩月を、私の息子をお願いします」
言葉に詰まった和泉に、龍月は最期の願いを託した。
「でもよかったわ、さすがに貴方よりは先に逝けて。義孫まで看取ったら、正気でいられる自信がないもの」
看病をしていた義孫というべき存在に、和泉は軽い調子で言った。
父親があまりに凄いので、どれほどごつい子が産まれるのか、密かに危惧していた和泉だったが、龍月の息子――萩月は、女子と見紛うほどに美しい容姿を持っていた。
金の髪を緩く束ねた優しい顔立ちの少年は、軽く眉をひそめて返事をする。
「お祖母さんなんて呼んだら、凄く怒るんですから、母親のつもりでもっと生きてください。お母さん」
「いやよ、もう四年以上生きたのよ、緋月の居ない世界で。もう十分よ」
萩月は、既に子を設け、一線から退いていたが、寿命はあと数ヶ月残されていた。
和泉の生命は、あと数日のうちに消える。
彼女の顔には、明らかな死の影がとりついていた。
軽い眠りについた和泉を確認して、萩月は退出した。
一族内においては、麻痺してしまうが、彼女はまだ十九になったばかりであった。
普通の人間としては、十分すぎるほどに短命であろう。
痛ましさが消えなかった。
萩月と入れ替わりで入ってきたイツ花は、音を立てないように気をつけていたが、もう眠りも浅いのか、和泉は目を開けた。しまったという表情になるイツ花に、和泉は話しかけた。
「ありがとう、イツ花ちゃん。この一族ではない私に、こんなに良くしてくれて」
「なにを仰ってるんですか! 和泉様は、緋月様の奥方です!」
イツ花は、花瓶の花を取り替える手を休めて、少し怒ったように言った。
感情を素直に表すそんなイツ花を、和泉は眩しそうに見ながら呟く。
「私がこの家に来て五年――何人もの人が生まれて死んだわ。
私でさえ、こんなに辛いんだもの。それを貴女は、この物語が終わるまで続けるのでしょう。
だから願うの。貴女にも、幸せがありますように」
イツ花は、凍りついたように動きを止めた。
「イツ花ちゃん?」
怪訝そうに、心配そうに問い掛ける和泉の朱の瞳が、イツ花の記憶の中の、一族の瞳と重なった。
皆、今までのこと感謝しながら逝った。
そして、娘を、息子を頼むといいながら、イツ花を信頼しきった瞳で見た。
―――不幸の元凶を
「私に、そんな資格は無いのです」
藤間の者ではない和泉にだからこそ、告げる気になったのかもしれない。
イツ花は――太照天昼子は、全てを語った。
誰が、この一族の不幸の元凶なのか、
そして、始祖にもう一つの呪いをかけたのは誰なのかを。
『長生きするんだぞ』
その言葉通り、朱点がかけた呪いはただ一つ『短命』
そして、その呪いは今や最高神として、天界に君臨する彼女にも解けなかった。
折角の期待をかけた『いとこ』が、二年しか生きられない。
その寿命では、自分たちに匹敵するはずの彼の力は成長しきらない。
だからもう一つ呪いをかけた。
人間と子が成せない――神と交わるしかない。
そうすれば、次から次へと朱点童子が生まれる。
いつか朱点を倒せる力の持ち主が必ず現れる。
彼女とその弟の呪いは上手く組み合い、一族は急激に強くなった。
限られた寿命内でも、相当の力が発揮できるほどに。
あと数年もすれば、彼女たちに匹敵する力の持ち主が何人も生まれる。
自分は、この一族を利用している。それはわかっていた。
だが、それでいいと彼女は思っていた。
始祖に、優しく言われるまでは。
『まあ頑張れ。お前が自分で決めたのだ、たとえ心を凍らせてでも、この事態を収拾すると。
だが、辛くなったらいつ投げ出しても構わんと思うぞ。それに、私はお前には感謝しているんだからな。お前が居なければただ呪いを怖れ、なにもできずに死んでいたのだから』
彼は気付いていた。
自分に呪いをかけたのが誰であるかを。
十分な寿命があれば、自分ひとりで朱点を倒す事が可能である事を、
それが叶わず、子孫を巻き込むしか方法が無い事を、
全てを理解した上で、心から願った。
『これからお前は長く苦しむのだろうが――いつかは幸せになってくれ』
己に呪をかけた者たちの平穏を。救済を。
彼女には、どちらもできなくなった。
非情に徹する事も、一族を解放する事も。
一族の死に涙し慶事を喜び、そしてその裏で堕ちた神々に、一族と闘えば天界への復帰を認めると囁く。
どっちかつかずの半端の立場なまま、年月が経過していった。
「こういう訳です。私には幸せになる権利はありません」
彼女は、責められたかったのかもしれない。
非道だと、人でなしと。誰かに、そういわれる事によって、自分を確認したかったのかもしれない。
冷酷な策略家である自分を再確認すれば、昔のように非情に振舞えるから。
期待通りに、和泉の目に涙が溢れかえる。
イツ花は、その唇から罵りの言葉が紡がれるのを待っていた。
「なんて……可哀相な人なの。誰よりも貴女が一番不幸じゃない」
けれど、かけられた言葉は同情。
「悲しむだけの、優しい無力な子だったら良かったのに。
非情なだけの冷徹な鬼であったら良かったのに。どうして両方兼ねてしまったの」
その瞳には、怒りも憎しみも嫌悪も――なんら負の感情は存在しなかった。
そこにあったのは、慈しみ、労り。
イツ花はどうして良いかわからなくなった。
彼女が物心つく頃には、両親は殺されていた。
彼女を引き取った義母は、丁寧に扱ってはくれたが、それは、娘としてではなく有能な道具としてであった。
彼女に、母性を教えてくれた者はいなかった。
「神々は、私を、人間の血が混じった下賎の子だと指差した。人間は、神の血を引いた化け物だと恐怖した。母様は一度死んでからも、黄川人のことだけを心配して……だれも、私のことなんて」
和泉は、子供のように泣きだしたイツ花を、そっと抱きしめた。
母のように優しく暖かく、その胸に。
「みんな貴女が好きよ。一番は、別の人でも、ちゃんと貴女のことも好き。
それにいつか、貴女を一番愛する人に会えるはず。きっとね」
とうとう、最期の日が訪れた。
一族全員が、和泉の元に集まる。自分たちのもうひとりの母の元へ。
天界に在る神の代わりに、闘い続ける一族の女の代わりに、多くの時間を割いて、幼い頃共に居てくれたのが和泉であった。
集まった一族を見ながら、和泉は微笑んだ。
彼女の子供たちへ、細い声で囁く。
「ありがとうみんな。私を母と呼んでくれて。子をなせない私に、親の歓びを教えてくれて」
そしてゆっくりと目を閉じながら、彼女はひとりの男の事を想った。
今でも月の下での微笑みが浮かぶ。ぎこちなく、それでも優しい瞳で自分を見ていた緋月の笑みが。
緋月
ありがとう、愛してくれて。
二十歳まで生きられない。
幼き頃に、そう診断された彼女は、十九歳で逝った。
だが、その短い生を、不幸という者は存在しないであろう。
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