その『事件』が起きたことを、ラヴェンダーが知ったのは夕刻も大分過ぎてからだった。
「まったく、不甲斐ない弟を持つと苦労が絶えん。」
ラヴェンダーは薄く笑った。赤みの強い紫の瞳がきらりと光を弾く。
「そう思わんか、コード?」
ばさりと聞こえた羽音は、桜吹雪を纏ってラヴェンダーの肩に舞い落ちた。A-NUMBERSの中でも最古参、A-C〈CODE〉が不機嫌に唸る。
「…俺様に同意を求めるな。」
ラヴェンダーは器用に片眉を上げてコードを見やった。苦り切った口調の中にほんの少し混じる、失意の響きが珍しい。口では何と言おうと、不承不承ながら認めつつあった『弟』を案じているのだろう。
『…というわけで、あなたにはアトランダムの捜索にまわって頂きたいのです。』
スクリーンを通したカルマの表情は硬い。ラヴェンダーは一つ溜息を落とすと頷いた。
A-NUMBERSの統括役を務めるカルマからの要請を断る理由は何一つない。例え己には向きそうにない任務であっても、だ。
早々にパルスにでも押しつけてやろうと思いながら、ふとラヴェンダーは振り返ってカルマに問いかける。
「見つけたらどうする。」
いわゆる『確保』は彼女の得意とするところではない。お互い戦闘型ではないにせよ。
『理由を。』
返答は短かった。何故アトランダムが〈SIRIUS〉を奪ったか。大凡の所は誰もが知っていて、真実は誰も知らなかった。それがなければ先へ進めない、元へは戻れない。シグナルだけではなく、関わる誰もが知りたいことはひとつだった。
───何のために?
起きたことが全てだと、ラヴェンダーは思っている。要人警護の任務に本来「何故」というファクターはないからだ。どんな理由があろうとも、向かってくる者は全て叩きつぶすのが彼女の役割だ。それでもカルマの要請を受けたのは、アトランダムの後ろに誰かがいると、確信しているからだった。
理由がないのだ。
理由のないテロリズムはあり得ない。例え独りよがりの正義であろうと、独善的な大義であろうと、なにかしらの理由がテロ行為にはある。それがアトランダムにはない。
少なくとも彼個人には見あたらないことが、ラヴェンダーの勘に引っかかった。
おそらく彼は追い込まれたのだ 大義を擁する誰かによって。
「あいつか。」
ラヴェンダーは大した感慨もなく呟いた。
冷静な仮面の下に得体の知れないものを潜ませ、緑の裾を翻して立ち去ったあの男。
A-Q〈QUANTUM-QUATER〉だろうと、大体のところは分かっている。容易なことでは姿を現さず、尻尾も掴ませはしないだろうが。
証拠は何一つなくとも、その考えはすんなりと事実を繋いだ。だとすればまず間違いはない。あとはそれを証明することだ。HFRに証言能力はないが、それでも相手が同じロボットであれば、それなりの拘束力は有している。
カルマの要しているのもそんな理由からだろう。だが、全く異なる理由からそれを求める者もある。例えばコードのように。
「おそらく間違いあるまい…それにしても。」
あの馬鹿めが、と吐き捨てるその『馬鹿』が、弟と弟子のどちらを指すのか。さてどちらだろうとラヴェンダーは笑う。見かけに依らず情の深いコードは、おそらく返す刀で己をも罵倒している。何故気づけなかったか、と。
「やはり心配か?」
問う声に、無表情な鳥の顔が一瞬歪な光を弾き。
コードは苦く呟いた。
「…心配などするか。」
心配などしてやるものか、という意地。してやられたことへの憤りと、気づけなかった
己への怒りと─── そんなものの全てがそこに込められている。
「そうか。それならいいが…では何が欲しいのだ、お前は?」
ざわりと翼が蠢いて、肩に爪が食い込む。それでも肩に留まる猛禽の、桜がはらりと散ったような気がした。持って回った言い方は得意ではない。さり気なく聞き出すことなど考えもつかない。いくら飾ったところで結局のところ傷に触れるのなら、聞きたいことを率直に聞く方が、痛みが少ないのではないかと、ラヴェンダーは思っている。切れたことすら気付かない、鋭いナイフの傷のように。
「欲しいものはカルマと変わらんな。」
欲しいのは理由だとコードは呟く。アトランダムがシグナルを襲った理由、〈SIRIUS〉を奪った理由、そして何より。
アトランダムを信じるに足る『理由』が欲しいと。
「信じている、と言って笑いおる。」
苦々しく吐き捨てる。何より大事にしてきた妹は、コードにそう言って笑ったのだ。
「何か理由があったのだと『信じる』そうだ。」
事実は変わり得ないけれど、隠された真実があるに違いない。そう信じることで、ユーロパは精神を保っている。繊細な感情プログラムは、ほんの少しの齟齬で精神崩壊を引き起こすだろう。今もきっとユーロパの精神回路には、ある種の負荷が掛かり続けている。人間で言えば『狂気』という名の。
信じ続けることの狂気。
反する事実を突きつけられても、望むものだけを見続けることが人の狂気なら。自分たちには狂うことすら許されてはいない。望まぬことをも理解する電脳と、狂えぬ心の行き着く先は───機能停止(ブレイク・ダウン)だった。
「どうせユーロパの名前でも出されたのだろうよ、あの馬鹿は。」
それでも、それをアトランダムの口から聞いてさえ。
自分たちには許すことができまい。どんなに緻密に組んだとて、結局人の靱さと柔らかさを再現することなどできはしないから。
自嘲の響きが声に混じる。口ではいくらでもそう言ってやれようが、その度に微細な負荷が電脳に掛かる。リュケイオンの後でカルマが感じていたように。
「ではどうする。私が行ってもそれは同じだ。」
私もロボットだからな、とラヴェンダーは怜悧な笑みを浮かべた。事実を聞き出すことはできようが、それは真実ではありえない。誰も救われない事実なら、真実にはしたくなかった。それでも知らずに済ませられない不器用な存在だ、ロボットというのは。
「信彦だ。」
コードは短く言った。たった一つ残された可能性、焦がれてやまぬ人の靱さを体現する、優しい子供の名を。
あれならできる。自分たちにはできないことが。
「あの子供なら、許すだろう。」
信彦なら、きっと赦すことができる。カルマが〈SIGNAL〉に癒されたように、アトラ
ンダムを────自分たちを、きっと癒してくれるだろう。人に許されたものなら、
自分たちは赦すことができるから。
「高くつくぞ?」
私が仕事を譲ってやるのだからな、と笑うラヴェンダーの肩を離れて、花の枝が大きく羽ばたいた。薄紅の山桜に木洩れ日が射し、金属(メタル)の鳥が小さく笑う。
「…承知した。」
誰もが願わずにはいられない、祈らずにはいられない。
いずれ明かされる真実が、優しいものであるように───
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