〜その譲り葉の〜


 「〈A-O〉のことなんだけれど、やっぱり音井君にお願いしようと思うのよ。」
 ほんのお茶のみ話でもするかのように、その初老の女性はさらりと言った。シンクタンク・アトランダムの前総帥、マーガレット・Q・カシオペア。総帥の座こそ弟に譲ってはいるが、今もなおロボット工学の礎として未だ若いこの学問を支えている科学者の一人である。
彼女は目の前の男が目を白黒させている姿に、軽く笑いをもらした。口をぱくぱくさせている様は、さながら酸素不足の金魚のようである。
 「何か不都合でもあるかしら、音井君?」
 ロボット工学未曾有の天才、と言われて早幾年。それでもなお残るこの世慣れないところが、彼の良いところではあるけれど、と苦笑する。手元のファイルをぱらぱらと捲り、プロジェクトの概要の項目を示して、再び彼女は問いかけた。
 「悪い話ではないと思うのだけど?」
 どうかしら、と問われて信之介は頬をぽりぽりと掻きながら困ったように答える。
「〈A-O〉は、《ORACLE》projectの一環でしたよね?」
「ええそうよ。」
 「《ORACLE》の主人格(プライム・パーソナル)は先輩が?」

「ええ、基本人格プログラムは手がけたわね。」
 「…それで何で私なんですか?」
 あらあら、質問ばっかりね、とDr.カシオペアはにこにこと笑う。何から答えましょうか、と少しの間思案して、それから一つ溜息をついた。
 「そうねぇ、いろいろ理由はあるのだけど…」
 まずひとつは、《ORACLE》と〈A-O〉が「ふたりでひとり」のSYSTEMだということね。
 彼女のその言葉に、信之介は首を傾げた。「ふたりでひとり」だからこそ、制作者を同じくする方が良いのではないだろうか。その疑問を予想していたのだろう、Dr.カシオペアはその後の言葉を続けた。
 「《ORACLE》と〈A-O〉は同じ電脳で常にリンクされることになるわ。」
 「だったら、〈A-O〉も先輩が組まれた方が良くはありませんか?]
 「それでは近すぎるのではないかしら。私はそう思うのよ?」
 制作者を同じくする兄弟のようなシステム、人格プログラムではいけないのだと彼女は言った。

 「うまくいっている間はそれでもいいかも知れないわね。」
 けれども、例えば鏡のように。向かい合った二人がその罅までをも映してしまったら。
 「近しいシステムは、片方がバランスを崩せばもう一方も弱い?」
 「そういうことね。」
 リンクされているだけに、それは一層顕著だろう。信之介は頷きながらも、納得のいかない部分を問うた。
 「それは分かりますが…私でなくても…」
 やりたくないわけでは決してないのだが、どうしても気後れする気分があることは否めない。これはもう性格的な問題である。
 「弟さんでもいいじゃありませんか。」
 悪あがきをする後輩に、Dr.カシオペアは苦笑した。考えなかったわけではない、むしろ一番に浮かんだのは弟だったのだけれど。
 「私は音井君のプログラムの方が、このプロジェクトには向いていると思うのだけど?」

それを決めさせたのは、弟であるエリオット・S・クエーサーの組んだプログラムたちだった。まるで制作者を写したかのような、性格、言動。自己完結するきらいのある彼らは、今回のプロジェクトには向いていない。
 「優しくて強い、誰かを愛することのできる…そんなプログラムがいいのよ。」
 優しいけれど脆い強さ、そんなものしか与えてやれなかったわが子達。それと比べて彼の組むプログラムの、なんと強靱なことだろう。A-H〈HARMONY〉、A-L〈LAVENDER〉に見られる、眩しいほどの逞しさ───ついぞ与えてやれなかったその強さを、せめて我が子の縁にしたいと思うことは、或いは人の思い上がりなのかも知れないが。
 「あの子のプログラムにはそれができないような気がします。」

 彼女はふわりと寂しそうに笑みを浮かべて、そんな風に言った。姉の自分でさえ眉を顰める彼の物言いには悩まされてきた。人の感情を逆立てるそれらに、幾度理解できぬ弟を嘆いたろう。

  「弟は…エリオットは、歪んだ鏡に似ているわね。」

 ぽつりと零されたセリフに、信之介は沈黙でしか答えられなかった。自分に言えることは何もない。総帥としての、研究者としての顔は知っていても、それが全てと言えるはずはないのだ。
 「あの子の言うことは、間違ってはいないのかも知れないけれど…」 

 敢えて見ないようにしている事柄を、歪めて映し出しているような不快さがある。細部までをも映し出して、より醜悪な形で取り出して見せるような。
 「だから今回のプロジェクトは音井君に、と思ったのかも知れないわね。」
 ロボット工学とて、綺麗事ばかりではやっていけない。それは重々承知の上で、それでも追いたい理想があると。信じさせてくれる彼に、彼の子どもたちに。
 これから生まれくる数多の『子どもたち』を託していきたい。
 「…分かりました、やってみます。」
思い切ったような彼の言葉に、Dr.カシオペアは微笑んで応えた。
 
 全てを譲って散りゆく 譲葉のように。
 優しい後輩達に、愛しい子どもたちに、託してゆける自分はなんと幸せなことだろう。
 
 こうして承認された〈A-O〉プロジェクトが成功を見るのはしばらく後のことである。

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