UNDER THE ROSE〜薔薇の花の下で〜

 
空さえ削る荒れ地の果て、電子の海のその果てに在ろうとも。
こころの還る場所はたったひとつ。
 
 
 漆黒の空間に縦横に走る格子が時折薄くきらめく。電脳の海見晴るかす遙かな高楼、純白のポリゴンに透ける白亜のCG。
 ───電脳図書館《ORACLE》───
 偉容聳えるその仮想平面に一条の紫雷が墜ちる。轟く雷鳴の代わりに高速演算の気配が周囲のグリッドを一瞬歪ませて、その光は徐々に緻密なCGを組み上げた。すらりと立つキッド・ブラウン、ひらめくアイボリー、覗く襟元には深紅のヴェルヴェット。白磁の肌にダーク・ブロンドがはらりと落ちて───最後に暁の瞳がふうっ、と開く。
 夜闇残る無機質の色に、陽の光が命宿すように。
 整った容貌にひときわ力が宿り、オラトリオは不敵に表情を緩めた。調整と一緒にマイナー・チェンジも行ったためか、CGの構築もスムーズで演算が軽い。
 「さっすが教授、いい仕事してますね♪」
 本当はそんな場合ではなかったけれど、それでも心は正直だ。オラトリオが鼻歌混じりに右手を翳し、認証コードをアクセスすると音もなく重い扉が開く。磨き込まれた艶やかな大理石の床に歩を進めながら、オラトリオはその瞳を甘く和ませた。
 迎えるひとの姿を思い浮かべて。
 
 「お帰り、オラトリオ。」
 硬く整った白い貌がほのかに緩む。《ORACLE》にもたらされたはずの一通の訃報は、オラクルにもその事実以外の何物かを届けたのだろう。カウンターで迎えるオラクルの表情は少し硬い。
 Dr.クエーサーの突然の事故死は、ここにも影を落としている。飾られた花も重たげに花弁を濡らし、純白の花弁に滲む緑の陰がどこか虚ろな華やかさをこの場に纏わせる。
 オラトリオは振り払うように明るく笑った。
 「よ♪」
 変わったことなかったかー、とマホガニーのカウンターに寄りかかって覗き込むと、オラクルが苦笑を零す。ちらちらと忙しなく瞬いていた雑音(ノイズ)が少しだけ淡く滲んだ。
 「特にはなかったよ───一週間くらいだろう?」
 お前が居なかったのは、と笑う。不在期間としては短い方だ。世界中を飛び回る監察官の仕事は多忙を極め、長いときで三ヶ月ほどを現実空間で過ごすこともあるオラトリオは、どちらかと言えば《ORACLE》に居ることの方が珍しい。メールやヴィジ・ホンで連絡することはあっても。
 こうして触れる近さで語り合うことを、今までふたりは知らなかった。
 「あちらはどうだった?」
 「うーん、まあいろいろあったな。」
 オラトリオは向かい合った椅子に腰を下ろし、帽子を取ってくしゃりと髪をかきまぜた。たった一週間離れていただけで、話したいことがこんなにも溜まっている。 ひとつひとつ、確かめるように探すように思い返して、オラトリオはくすり、と小さく笑った。
 「そういやぁ、こっちに戻るって言ったらちょっとした騒ぎでさ。」
 あれはちょっと困ったっけなぁ、と喉で笑うオラトリオに、オラクルがきょとんとする。
 「騒ぎって?」
 Dr.クエーサーのこと?と首を傾げるのにひらひら手を振って、オラトリオは話し出した。
 「いや、実はさ…」 
 
 
 「え?オラトリオどっか行っちゃうの?」
 信彦が大きな目をこぼれそうに瞠った。男が困ったように笑う。
 「どっか…って信彦、俺仕事しに帰るんだけど…」
 信彦は体を乗り出し、オラトリオのコートを掴んでせがんだ。
 「なんで──!もっといなよ、ね?」
 どこか必死なその面持ちに、男も怪訝そうな色を浮かべた。どちらかと言えば聞き分けの良い子供のはずが、珍しく頑張っている。
 「シグナルたちがいるだろう?」
 俺一人いなくなってもさみしくねえだろーに、とオラトリオがいうと、しぶしぶながら同意の頷きが返ってきた。
 「そうだけどさ…」
 それでもあきらめきれない様子の少年に向き直って、オラトリオは行儀悪くソファに凭れながら続ける。
 「大体おめー、自分の両親が家あけてても平気だったじゃねーか。」
 何で俺だけ騒ぐんだ?と困り果てた顔をする男に、信彦はぽつりと呟いた。
 「父さんと母さんは昔っからそうだもん、慣れてるよ。」
 それにカルマは戻ってくるって言ってたから、さみしいとは思わなかったよ?
 オラトリオは微かに寄せていた眉を解いて、俯く少年を見下ろした。小さな肩、拙い言葉だけれど、精一杯思いを伝えようとする彼は、とても優しい、そして驚くほど聡い子供だ。
「でもオラトリオは『帰る』んだろ?」
 今そう言ったもん!と顔をあげ、信彦はぐしぐしとしゃくり上げる。それなら他のロボット達もここへは帰ってこないのだと言って泣く少年に、オラトリオは返してやる言葉を持たなかった。
 小さな愛おしい存在。ロボットに過ぎない自分たちを『家族』だと言ってくれる、優しいこころ。守ってやりたい子供ではあるけれども。それでも。
 「でも、そー言われても…なあ…?」
 自分の帰るところはただひとつ、思い浮かぶのはただひとりだ。
 「オラトリオおにーさーん、帰っちゃめーですー!」
 足下であいあい泣きわめく『弟』からも目線を逸らして、オラトリオは困惑の態で肩を竦めた。
 「あ、俺人気もん…」
 
 
「…まあ結局例の件もあって有耶無耶になっちまったんだけどな。」
 その後コートに二人してしがみついてさ、と苦笑するオラトリオに、オラクルが笑う。
 「それは大変だったね。」
 好かれて良かったじゃないか、と微笑む相棒を見やってオラトリオが紫瞳を甘く和ませた。言ってはやらないけれど、そもそもの初めから自分の帰る場所はここだった。あんなに嫌っていた起動したての頃でさえ。
 「…だよなぁ…」
 心地よい場所がどれだけ増えても、心安い人々がどれだけ在っても。
 きっと変わることはない約束の地。
 「…何が?」
 「秘密♪」
 オラトリオはカウンターに懐いてくつくつと笑った。飾られた白薔薇の下でそっと呟く。
 
 「…ただいま。」
 
   大切な人にも教えない、そんな秘密は花の下に埋めよう。
                      その根で、棘で守ってくれるから。
         薔薇の花の下には、大切な言葉。
                   誰にも言わない、たったひとつの。


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