呉市の歴史に関する教養(雑学?)講座


灰ヶ峰より呉軍港を望む 640*512

軍港となる以前の呉

明治23年に海軍の鎮守府が置かれる以前、呉はどのようなところだったかというと、 半農半漁の和庄村、宮原村の集落が点在しているだけのところで、当時の海岸線は現在の 本通6丁目付近だったようです。

現在の呉の繁華街・・俗に言う「旧市街」は全域が後の開発で埋立てて出来た土地なのです。


軍港として求められる土地の条件

呉周辺海軍施設地図 その1:水域は広く外海から遮蔽されていること

呉の場合、背面は灰ヶ峰と休山、前方を江田島と倉橋島に囲まれた形になるので まさにこれに該当します。

その2:充分な水域があり教育施設、鉄工所、造船、修理工場などの諸施設を建設できる 広い土地があること

呉市街は埋め立てによって十分な用地が確保出来、また対岸の江田島や休山を挟んで 東側に位置する広や倉橋島などの各所に工場など建設できる土地がありました。 具体的には、呉工廠以外にも江田島の海軍兵学校、広の海軍工廠、亀ヶ首の試射場 などが挙げられます。(右側地図参照)

その3:腐りにくくて良質な大量の水を取水できる水源が近くにあること。

これについては、後に詳解します。


今に残る軍港の面影

呉近郊に今も残る軍都時代の名残には、有名どころ以外にもこんなところが・・・

大空山公園・・・阿賀北の上にある小高い山にあり、当時の高射砲陣地の跡が生々しく残っています。
串山公園の裏側・・・神社の跡地の階段付近にトーチカを今も見ることができます。
鯛の宮・・・三条通りに、あの佐久間艇長の記念碑があります。

その他、呉からはだいぶ離れていますが、上記地図の中にある亀ヶ首試射場は戦艦大和の主砲の 試射なども行っております。ここもまだ施設の跡が残っています。


外にもこんなところが・・・

その1:電話交換
海軍のおかげで普及したもののひとつに自動交換台があります。 広島市がまだ人手による電話交換がメインの頃に、呉は自動交換を採用していました。

基本的に今の方式と同じ、かける側がダイヤルを回すと、パルスで自動的に相手先を選択する ステップバイステップ方式(クロスバー方式だったかなぁ〜)というもので、理由としては、海軍の 機密保持の観点で電話交換に人間が介入してしまうと機密にはならなかった為のようです。

その2:上水道
現在、日本の近代水道100選に選ばれている、宮原浄水場は元々海軍の施設だったりします。 呉市の給水設備は明治22年に海軍専用の水道として築造されて、戦後呉市が引き継いだニ河水源地と 宮原浄水場の上屋式れんが造りの配水池、昭和18年に呉市が独自に構築した三永水源地から成ります。

この宮原浄水場に使われているれんがは呉海軍鎮守府(現海上自衛隊 呉地方総監部)に使われている ものと同じもので、呉市近郊三津村製のものが使われています。

終戦に際して、海軍は水道施設が軍の管理下にあった場合、進駐軍に接収されてしまう可能性が あると言うことで、進駐軍がやってくる前に呉市側に譲渡され、結果として進駐軍の接収を免れたのでは? という話もあるようです。

その3:鉄道
敗戦を迎えておじゃんになった計画のひとつに、呉線の呉-広島間を複線化するという計画 があります。

呉の海岸線を通ってみると、必ず現在使っている鉄道トンネルの横に、レンガのポータル(トンネル)が あるのに気がつく事と思います。実際、用地の確保も終わっていたので芸備線などに比べて線路の周囲は 無駄な空き地が多く、幹線級で建設された呉線は吉浦、呉など古いホームは蒸気機関車付きの12両編成が 止まれる長さになっている訳です。

その4:道路
現在、呉の呉越えをかわすバイパスが建設中です。

本通り5丁目だか6丁目に入り口が作られてトンネルを掘って阿賀に抜ける道ですが・・・ 実は戦中に計画されて今のルートに当たる家は、みな軍の名のもとに移転が決まってたのですが、 敗戦とともに計画だけがずーーっと中断されていたのです。

それが、ようやく近年になって計画が発動されたっていわくつきのバイパスだったのです。

ちなみに、このバイパス、一部は工事に着手していた様で、近年になって戦争中に掘っていた トンネルが発掘されて新聞に載ったことがありました。


こうしてみると、たかだか100年程度の事なのですが、いろんな事があるものなんですねぇ〜
それにしても、これだけの"濃い"話題についてこれる人ってどれだけいらっしゃるのでしょう???(笑)


〜 End of text 〜




上の階層へ
Home