WALK'IN THE RAIN
沢村紀行の狂言集

SINCE 14th.FEB.2005

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《2005年度のエッセイへ》


2006年3月19日(日)

解せぬ個人情報

インターネットが普及して早幾年。
我々芝居仲間の中は、基本的にアナログ人間であるために今だにパソコンや携帯を使いこなせず有機的に生活している者も多々いる。
しかし、若い輩は生活(環境)にパソコンやインターネットが普及しているために、何の躊躇もなく有効的(?)に使いこなしている。

そこである。
データ管理や情報発信のアイテムとしてパソコンやインターネットを利用するのはいいのだが、要は目的である。

役者などという生き物、もともとは自己顕示欲の強い連中である。
インターネットを使いこなせる人間は、これぞとばかりに己を不特定多数の人間に配信する。
これは、役者に限らず、最近の人々は己の思い、想いをやたらと世界中の人間に発信する。
そこは別に問題にしていないのである。
先に言ったように、その目的である。

まず、個人情報が云々と文句を言いながら、己の思いは発信する。
ここにひとつ矛盾を感じるのである。
人によっては、「バーチャルな自分だから!」とか「本当の気持ちだから!」とか「日記代わりだから・・・」などど言う。
HPなどというレベルであれば、まだ作ってゆく煩雑さから気合いも感じられたものだが、ブログというものが発案されてから、その操作性の扱いやすさから、猫も杓子も吉田兼行よろしく「そこはかとなく移り行く想いを」綴り始めたわけである。

中にはバーチャルな自分を利用して阿漕な商売をしたりする輩も横行しだした。

「バーチャル?」、「本当の自分?」、「日記代わり?」
いずれにしても、ストレスの発散口となっているわけである。
バーチャルは個人的に楽しめよ。もしくは、同じような人間で楽しめ!
本当の自分って何?いかに日常生活で、適合できずに、まさにバーチャルな人間を取り繕って、いい人間を演じているだけでしょ。個人として、社会にしっかり正々堂々接していないってことの裏返しでしょ。
日記代わりって、それ、日記は他人に見せる前提で書くものではないんじゃない?!自分の成長を省みるべきいちアイテムでしょう。まれに、日記が公開されるものもあるが、日記代わりと思いながら綴る内容が後世に影響を与えるような物に成り得るとは思えない。

それでも、一日も欠かさず(実際は後日、調整を取りながら)思いを書き留め続けている人は、それなりに評価できる。

しかしである。
私の周りに多いのだが(類友と思われては困る)、ひょんなきっかけで、その個人のHPなりブログを発見してしまうと、途端に更新速度が遅くなり、揚げ句、閉鎖して、また秘密裏に別サイトを立ち上げているのである。

何なのであろう、こういう輩は?
不特定多数の人間に発信していることを忘れているのであろうか?
私ひとりが発見してしまったが為に、発言が狭まり、果ては閉鎖?!
何の為の情報発信なのだろう?!

どれだけの人間が自分の情報を発信することに責任を持っているのだろう?

メディア・リテラシーという概念があるが、発信者も責任を考えてもらいたいものである。

インターネットは発信するからには、不特定多数の人間の前に晒される。その覚悟くらいは持ってもらいたいものである。
私に発見されたくらいで、鞍替えするようでは、よほど良からぬことをやっているに違いないと思う。と言うより賢くない。

私などは、自分の個人的な趣味・趣向は、結婚後、一切家内に話をしない。
それでも、勘ぐられ、見透かされ、私が口を割らずとも証拠物件を並べられ、白日の下に晒されるのである。

「バーチャル・・・」やら「本当の自分やら」というのは、後付けの逃げ口上、言い訳である!
「都合の良い者同士で傷を舐め合うより、ガチンコでしっかり社会に向きあえ!」
こう強く言いたい、と家内が私に言った。

このコーナーを強制的に閉鎖される日も近いのかなぁ・・・。


2006年3月5日(日)

まだ明けぬ冬を想いて・・・

新年が明け2ヶ月ほど経ったが、ようやく世の中が動きだしてきたようだ。

毎年思うのだが、年が明け1月の間は人間で言うとまだ物心のつかない子供のような時期で、あっという間に時が過ぎ、
取り立ててイベントらしい出来事があまり記憶に残っていないものである。
(受験生やその頃誕生日を迎えたり、結婚や出産など特別なイベントがあった人は別である。しかし、そんなことを
言い出したら、どの月もそんなものなような気もする)

ということで、私はと、ここで訂正を入れておきたいのだが、しかし、一般的には1月2月というのはあっという間に
過ぎ去るイメージがなかろうか?
大抵の人は、2月が短く(4年に一度例外もある)突然3月に突入して、焦りを感じ、残された一年を意識するのではないだろうか?

うちの近くには大きな商店街があることは、すでに承知してもらっていると思うが、この商店街ですら3月に入ってから
人出が増えてきているような気がする。
これはひとえに寒い時期に人があまり外に出歩かないからなのか、私が寒い時期に出歩かないからなのか、定かではない。
よくよく考えてみると、寒い時期でも通学、通勤している人間はいるわけで、そんな時間に私が商店街を歩かないから
かもしれない。
しかし、私が歩く時間でも人通りの差は季節によって感じ取られる。
ただ残念なことに、私が商店街を歩く時間が定まっていないため、正確なデータとは言い切れない。
でも間違いなく寒い時期は人は町に出歩かないものである。

それは、根拠のない年間イベントからも伺い知ることができる。
正月は抜いたとしても、日本が寒くなる冬場にはいわれのないイベントが立て続く。
12月はクリスマス、2月はバレンタイン、3月はホワイトディーと、これほど根拠のないイベントはないのでは
なかろうか?
人出の少ない時期に無理くり理由をつけてイベントを盛り上げ、売り上げを伸ばそうと目論む商売人のトリックである。
春から秋にかけては、セールという決算期を前にしか商戦を打たないのを見ても如何に冬場は人が出歩かないかが判断できる。
最近ではそれでも飽き足りないのか、10月にはハローウィン、11月にはうちの家内の誕生日パーティーとイベントを
仕掛けてきている。

考えてみればおかしな話である。
特に冬のイベントには、ある種の脅迫感すら感じさせるものが多い。
クリスマスにしても、バレンタインにしても、ホワイトディーにしても然りである。
愛する人にプレゼントをしなくてはいけないようなムードを煽り立てている。
本当はもうそれほど愛していなくても、イベントに何かをしなくては人非人と判断されかねない脅迫感を感じえないのである。

私など学生の頃は、そのイベントに備え、貯蓄をし、自分はコンビニのおにぎりを頬張って生活していたものだ。
その当時、飼っていた猫はおにぎりだけでは食べないので、プラスオカカと私より良い食生活をしていたほどである。
男にしてみれば、クリスマスとホワイトディーが山。その前2ヶ月は小銭を貯める禁欲生活を強いられるのである。
つまり、実際は、10月から3月までの半年はそのイベントのために生きているのである。
冬の時代とはよく言ったものだ。

賢明な私は、10月〜3月生まれの女性と付き合わなかったこともうなずいてもらえると思う。

賢明でない男子諸君、目覚めよ!!
欧米化に乗じた商業主義に惑わされてはいけない!
実際の欧米では、それほど金や物で相手の愛情を計ってはいないのである。
それは確かにO型がメインのゲルマン民族であるから、言葉(毎日のように愛していると言わなければならない)や
行動(家事の分担など)で確認を取らなければ不安な人種である。
しかし、それにしたって、毎日言わなければいけない言葉や行動に疲れ果て、離婚率も高い人種である。
そういった風習を利用した商業ベースに利用されてはいけないのである!

何故、クリスマスやホワイトディーに豪華な食事やプレゼントを行わなければならないのか!?
そこに何の根拠があるというのだ?

来るべきホワイトディーに男子諸君は立ち上がるべきである!
本当に愛しているのであれば、イベントなどクソ食らえだ!!
その強い愛情と信念を愛する者にぶつけてみればいい!
そうすれば、私のようにいわれ無きイベントという呪縛から解き放れよう!
そして、うちの家内がそうであったように、君の愛する人間も同じ言葉を返してくれよう!

『そうね。イベントっていう義務感で何かしてもらってもねぇ・・・。なら、毎日は大変だと思うから、毎月でいいわ!』

何のことはない。
義務ではなく習慣にすればいいのである。
朝起きて、顔を洗い、歯を磨くように・・・。朝起きて、顔を洗い、歯を磨くように・・・。

春はまだ遠い・・・。


2006年2月26日(日)

熱い想い・・・

芝居で演出をやっていると言うと、『役者さんを怒鳴ったりするんですか?』とか『灰皿なんか投げたりするんですか?!』などとよく言われる。芝居の世界を知らない素人ならまだしも、たまに役者の面接で、『どういうタイプの演出家ですか?』などとも言われる。
(面と向かって「演出家にどういうタイプの演出家ですか?」と聞く役者などいるものかと疑問に思う方もいると思うが、面接の際、私は別の名を語り面接をすることが多い。よく使うのが久世恭弘の名前である)

『どういうタイプですか?というのはどういう意味ですか?』と聞くと、『怖いタイプですか、それとも優しい感じなんでしょうか?』と質問したことに関して、質問返ししたと言うのに、また、質問で答えてくるのである。

ここで問題になるのは、質問したことに質問で返すことではなく、演出家のタイプを怖いか優しいかで判断する役者のレベルの低さである。
演出家の能力というのは、怖い、優しいで判断するものであろうか?!
演出家を目の前にして質問することでもないであろうし、一見して私の風貌で判らないものであろうか?
そのセンスの無さに、役者としての能力を疑ってしまううえ、苛立ちを感じえない。

さらに、苛立ちを覚えるのは、そういう低俗なレベルを意識している役者に限って、本番良い結果を出したりする点である。
自分の他人を観る目の無さに苛立ちを感じるのである。

やはり、蜷川幸雄やつかこうへいなどのイメージが強いのであろうか、演出家とは常に怒っているイメージがあるのであろう。
確かに、稽古場の雰囲気は一般人ではなかなかお目に掛れないほどの激しさはある。うちもどちらかというと激しいほうかもしれない。
怒鳴り声というより、むしろ、怒号、蛮声に近い発言が私に対して発せられる。

『あの野郎(私のことである)、ぶん殴ってやる!』なんて言葉はもう聞き慣れたもので、質の悪いものでは、酒の席で私が覚えていないことを良いことに、あることないこと話をでっち上げられる。
それは、言葉だけでなく物理的なものも然りで、宴席においては、おしぼりなどを投げつけられ、稽古場においてはサジを投げられる。
全くもって戦場のような激しさがあるのは事実である。

戦場において生き残れるのは、常に冷静な人間であるのと同じく、私はどのような虐げにも冷静に立ち向かい、今日を生き延びている。
(それは家庭での、家内の私に対する姿勢についても同じである

そんな私を劇団員は、「ただの華奢でクールなナイスミドル」くらいにしか思っていないようだが、そこに秘めたる熱い想いは劇団一と自負している。その(火傷するほど)熱い男だということは意外と知られていないようだが、知らない人以外みんな知っているくらい有名なことなので、あらためてここに記しておくとにする。しかし、それだけでは説得力がないので、たまたま本日起こった、私が熱い男(火傷するほど)を裏付ける事件を紹介したい。

仕事柄、取材も多く、取材先の宿などでは旅人と間違われるくらいだが、今日も取材を終え東京に戻ろうと空港でチェックを受けていた時である。最近は、テロ対策なのか空港でのチェックも厳しくなっているのは知っていたが、例によって持ち物をキャリアに載せX線を通し、自らもゲートをくぐるわけだが、旅慣れた私はもちろんひっかかる事もなかった。しかし、同行していた家内(私の取材費で旅行をしている)が捕まった。(きっと大したことではないのだろうが、家内が捕まるのは何故かうれしい)

『お荷物の中を拝見してよろしいですか?』と警備員に言われる。
『どうぞ・・・!』と言う家内の顔は、映画やテレビで観る開き直った犯人のように見える。
『開けていただいてよろしいでしょうか?』と警備員も慎重である。
勘のいい私は、家内の目配せで、すぐに家内の鞄を開けた。
『中に水溶物が入っていませんでしょうか?』の確認に、鞄をまさぐったところ、お茶のペットボトルに入った無色透明の水溶物が出てきた。
『お借りしてもよろしいでしょうか?』との言葉に、家内は目を合わせることなく頷いた。
お茶のペットボトルに無色透明の水である。そのうえ、そっけいない家内の態度。私も少したじろいだ。

「もしかして、私の目の届かないところで何やら良からぬものを運んでいるのではなかろうか?」
普段、優しさを微塵も感じさせない家内を疑うのは容易なことだった。
「どおりで自分だけ羽振りのいい生活をしているな・・・」などと思い当たるフシも出てきた。

警備員は、預かった水溶液を見たこともない機械に差し入れる。「解析中」なるデジタルな文字が点滅している。緊張の瞬間である。
そして、次の瞬間、みごとに青いランプが付いた。
『はい、ご協力、ありがとうございました!』と警備員は、意と反して、水溶物を私に返した。
何故か、ふ抜けしてしまった私は、やはり作家としての好奇心も相まって、つかさず、『これ、何の機械ですか?』と聞いてみた。
『これは、可燃物を検査する機械です』と警備員。テロ対策として、ガソリンや高濃度アルコールが持ち込まれないよう確認するものらしい。
監視を解かれ、家内に『恥ずかしいなぁ。何だよ、これ?!』と水溶物を示すと、黙ってひったくり自分でバッグの奥底に大切にしまっている。

警戒が厳しくなったとは言え、便利な機械ができたものだなと思い、ふとその機械の挿入口に手を差し入れた時である、『リ〜〜〜ン!』とけたたましい音が割れんばかりに館内に響き渡った。と、同時に3名の警備員が駈け寄って来た。

『すっ、すいません!触ったら、鳴っちゃって・・・!』と言うと、『大丈夫ですよ』と優しい笑みで機械をリセットしてくれた。
ほっとした私は、『昨夜、飲みすぎたから、まだアルコールが残ってたのかなぁ?』と言うと、『お気を付けて!』と凛とした表情に変わった。『あなた、ほんと恥ずかしいわ・・・!』と捨てぜりふを残して先へ行った家内の後に続きながら、判明したことがあった。

実は嘘だったのである。
私は昨夜、一滴も酒は飲んでいなかったのである。
ということは、である。
私は高濃度アルコールにも負けない発火点を持った熱い人間だということである。技術の粋を極めた精密機械が証明したことになる。

ちなみに家内が持っていた無色透明な水は、内蔵機能を整えお肌をきれいにする効能があると言われている、昨日立ち寄った温泉水だった。
でも、たったそれだけ飲んでもねぇ・・・。


2006年2月15日(水)

時代を読むということ・・・

昨日は何の日であったか、お分かりであろうか?
きっと誰もが忘れ得ぬ日となっているはずである。
そうである。このエッセイのコーナーが非公式に立ち上がった記念日なのである。
普段、私はホラを吹く人間だと、周りの人間がイメージ付けをするために信用を全く失墜している人間だが、
上に書かれてある『
SINCE 14th.FEB.2005』の文字を見ればいかに私が歪曲されてみなに紹介されている
かが理解してもらえると思う。

実際の私は、慎重厳格なタイプで、昭和初期の映画などで出てくる誠実で実直なタイプの父親と言おうか、
通俗ではあるが芸能人で言うと、日本が誇る世界の高倉健のようなタイプである。(見た目は違うが・・・)
また厳格さに加え柔軟さを持ち合わせた私は、たとえ、記念日を過ごしたとしても誠意的に「昨日は・・・」と
今日のように書き出すし、明らかに口に出来ない時期に至ってしまったら、『SINCE 15th.MAR.2006』とでも
『SINCE 53th.AUG.2083』とでも変更する勇気迅速な判断力をも持っている。

そんなこんなで、みなさまの要望に報いるかのように一年も書き綴ってしまった。
その要望の高さは、立ち上げ記念日の下にあるカウンター数をご覧いただければわかると思う。

立ち上げ当初は、1ヶ月で1,000を超えるアクセスがあったものの、一年経って、こんなものである。
カウンター数が伸びていないと執筆する気にもなれず、需要も下がり、供給も下がるといった低成長期を立ち上げから
味わった一年であった。(まだ続くかもしれないが・・・)

しかし、内容は手を抜かないのが真の作家である。
一年間の記事数も大したことないのに、確実に物議は醸し出しており、カウンター数を超えるほどの苦情、投書の類いと
思われるメールが届くと管理担当の流石に言われた。流石の小言も入れれば、想像を絶する反響だ。このエッセイの持つ、
潜在的力はかなりのものと言えよう。アクセス数だけにとらわれてはいけないのである。

表面的な数値だけで判断してはいけないといういい例に、先のライブドアにおける粉飾決算も当てはまる。
情報化社会となって久しいが、とかくスピードと合理化が美徳とされ、すべてが数字でのみ判断されがちである。
しかし、実際はどうであろう?
世間一般は、そんなに数字的結果至上主義に辟易してるのではないだろうか?癒しブームがその典型ではなかろうか?

数字では判断できない見えないところにこそ、うま味があったり(特に割安株などがその例である。あと、何が入っているか
わからないラーメンの隠し味など)、悪(基本的に見えないところにいる)が潜んでいたりするものである。

『もう急な話なんだもん・・・』
例のライブドアの手入れで駆り出された特捜に身をおている友人がぼやいていた。
詳しく話しを聞くと、ライブドア一斉捜査の同日、例の耐震偽装建築でお馴染のヒューザー小島社長の証人喚問があったのを
ご存知であろうか?

ヒューザー小島と関係のある国会議員が吊るしに合わないよう、世の中の目をライブドアに向けさせるため政府が指示した
捜査だったことを。
特捜的にはもっと内偵を確実なものにして検挙したかったようだ。現に野口さんのように結果的に被害者を出してしまった。
特捜の美学ではあり得ないことらしい。

こんなことは世間ではよくあることである。
アメリカの例で言えば911をきっかけにイラク戦争が始まった。
しかし、あれだって実は、ブッシュが昔、ウサマ・ビン・ラディンの従兄弟と共同経営で石油会社を経営していたのだ。
その従兄弟のお願いで、ウサマ・ビン・ラディンから目を反らせるために起こした戦争だとことはご存知であったろうか?

このように、政圧と視聴率至上主義と成り果ててしまったマスメディアの情報を鵜呑みにしてはいけないのである。
ジャーナリズムですらこれである。
もっと、個々が数字やメディアに躍らされることなく、その奥にある真実を見つめる危機管理能力を持つべきである。

ちょっと難しい人には難しかったと思うので、判りやすい例として・・・。
私の何倍もの収入がある家内と私と数字的には大きな開きがあるが、果たして、どちらが人望があるかということである!!

圧倒的に家内に人望があったとしても(実際、周りの評価は高い)、それすら疑い、私にも目を向ける(真実に目を向ける)
危機管理能力が必要とされる時代に突入したと言えよう。


2006年2月7日(火)

経済と文化を支える紙伝説の終焉

先日、任天堂DS人気により株価が云々という話をしたが、粉飾決済でライブドアが摘発された。
今後、どのような展開を見せるのか見物であるが、ライブドア、そして関連株が急落しているらしい。
ドラマである!
この株価急落で、人生が変わる人間が出てくるに違いない。
概ねは悪い方向に向かう人間であろうが、確実に良い方向に向かう人物も出てくるのである。
今後が見物だ。

それに伴い、日経平均株価にも影響が出ているようだが、これは一時的なことだろう。
ここ数年の株価上昇を観れば、日本経済は全体的に上昇安定期に入っている。
しかも、前述した任天堂に至ってはDSの影響か、下がることを知らずに上がり続けている。
ガソリンの値段が少々気になるところだが、今更、トイレットペーパーの買い占めなど起きるはずもなく、
景気が徐々ではあるが上向いているという傾向は良いことである。

そこでである。
日本経済は安定上昇期に入っているというのに、我が家の経済状態というのは何も変わらない。
むしろ、慶事ごとが立て続き、私個人のの経済はひっ迫してきている。

朝食の席で新聞を広げ、コーヒーなど啜りながら株価などに目を通し、本日の投資戦略など練りたい
ところだが、実際は折り込みチラシと赤のサインペンである。

早朝から社用車で出掛ける家内と違い、朝は割と時間のある私は必然的に朝市にて破格の商品をゲットしなければならない
暗黙の掟があるのである。
『喰わせてやってる!』と新婚の頃、私が何を血迷ったのか(たぶん、セリフの練習だったと思うのだが・・・)言ってしまってから、
家庭の食費は私が担当することとなっているのである。つまりは、私のポケットマネーである。(まぁ、当たり前なのだろうが・・・)
心もとない懐から何とか捻出するためには、朝市かタイムサービスなのである。

家庭の食事と言っても家内も娘も朝食はパン、サラダ、卵、ミルク、ヨーグルト、果物、ベーコンやミートローフのような洋食派で、
私はというと、見た目と違い、根っからの和食(パンを食べると胸焼けがする)で、経済的にも不合理な気がするのだが、私持ちなのである。
これについては、どこから見ても日本人顔の二人が持っている欧米文化コンプレックスに他ならないと寛大な気持ちで受け止めている。

しかしである。トイレットペーパーの質(一枚式と二枚式)を気にするのであれば(これがあるがために、別のスーパーに行かなくてはならないことが多い)、朝食も和食にしてもらいたいものである。
このトイレットペーパーについては、二人に強く言いたいことがある。
まず、量である!
ある専門家(消費量を計る人)によると、女性は男性の4倍もトイレットペーパーを使うのだそうだ。
にもかかわらずである。稽古場などで、たまに耳にする『カラカラカラ〜ッ・・・』という音、どんだけ勢い良く巻き込んでいるのかと思う。
男性の4倍も消費しているのに、倹約するという感覚はないものであろうか?!
それとも、そんなに拭かなくてはならないほどのおびただしい量を放出しているのであろうか?!

それはきっと我が家も例外ではないであろう。我が家では2日に1本の割合でトイレットペーパーが消費されてゆく。
しかもである。取り換え担当が私になっている。いや、厳密には私がするように調整されているのである。
私がめったに使わないはずのトイレットペーパーを使うときに限って、チョロンとしか残っていないのである。
「まだ残ってるよぉ〜」と言わんばかりにきちんと折られたトイレットペーパーの先は、引くと「ダハハ、ひっかかったかぁ〜!」と
言っているかのように、するりと抜け落ち、芯のみが空回りする。
手を伸ばして格納だなも確認するが、私が格納する量より、彼女らが消費する量が多いのが常で、格納棚にも換えはない。
どうしろというのだろう?大体が拭けもしない量である。

備え付けのウォシュレットを使えばよいのだが、使い方がわからない。
(以前、トライして服をビショビショにしたことがあるため避けている)
それ以前に、私は便座に腰掛ける習慣がない。便座を上げ、便器の上に跨がっているのである。
(
イメージできない方は、『燃えよドラゴン』を見よ!)
この習慣については、説明すると長くなるので別の機会とさせてもらうが、いずれにしても文化の利器ウォシュレットをもっても、
どうすることもできない状態なのである。

となると、拭けもしないカケラ程度のトイレットペーパーどうするか?ということである。

これもこのエッセイを読んでいる人の中に食事中の方もいると思うので、割愛させていただく。
ご察しのように、非文化的で屈辱的な行動をとらなくてはならなくなるのである。
しかも2日に1回の頻度である。

彼女達に学習能力はないのかと訴えたい!
残り少ないトイレットペーパーを上手に折り畳む知恵や無尽蔵に勢い良く巻き込んでいるであろうトイレットペーパーの量も
実は調整できる計算能力は持っているはずなのに、何故、換えのペーパーを準備して用に挑まない!
何故、残すのであればせめてひと拭き分ぐらい残しておく
計算ができない!

遠出してトイレットペーパーを買いに言っている私の気持ちをこれ以上逆なでするのはやめてほしい。
ということで、私の思いをわかってもらいたくストライキに打って出た。切れたにも関わらず、トイレットペーパーを買わないでおいた。
結果はご察しの通りである。
自宅にいる率の高い私が、最初の犠牲者になった。ティッシュを持ってトイレに行くのは、とても屈辱的だった。

せめてもと思い、「トイレットペーパーの量は、女性は男性の4倍!」と書いた簡易貯金箱をペットボトルで作り、
トイレに置いてみたが10日経った今でも一円たりとも募金はなされていない。

紙の消費量がその国の文化の高さを示すと言われるが、それはもう遠い話だと思った。


2006年1月24日(火)

Desperateなシナリオ

そういえば、正月、実家に帰っていた時、母親がかぶりついて見ていたテレビ番組があった。
「Desperate Housewives」というドラマであるが、ご存知であろうか?

2004年10月から全米で放映し、あっ!という間に新作ドラマシリーズ部門の視聴率1位を獲得、
日本でも昨年の9月からNHK衛星第2で放送されているようだ。(毎週水曜日22時から)

デスパレートとは、「せっぱ詰まった・絶望的な・死に物狂い・がけっぷちの」という意味。
その名のとおり、デスパレートな悩みを抱えた4人の主婦が主人公のドラマである。

日本で話題になった要因のひとつは、ブッシュ大統領夫人が、早く寝てしまう夫を皮肉って
「夜9時、大統領はすでに就寝。そして私は副大統領夫人と一緒に“デスパレートな妻たち”を見ます。
私自身もデスパレートな妻ですから!」とスピーチしたことかららしい。

ドラマの舞台は、閑静な住宅街に住み、何不自由なく幸せそうに暮らしている主婦たちがだが、
人には言えない問題を抱えている。そんなシリアスな問題をコメディタッチで描いている。

「主婦たちが暮らす住宅街に一発の銃声がとどろき、自殺したのは4人の友人。彼女はなぜ死を選んだのか、
さっぱり分からない。が、なんと遺品の中から謎の脅迫状が・・・」

ドラマの核心のストーリーは、実はサスペンスなのである。
メロドラマを織り交ぜたサスペンスなので、次の展開が気になり見てしまうのである。

ただのメロドラマであれば、共感する女性たちしか見てくれない。
ただのサスペンスであれば、現実の生活とかけ離れ深く入り込むことができない。

多くの女性が共感して見るだけでなく、米国の視聴者の4割が男性ということからも分かるように
男性にも人気なのは、メロドラマとサスペンス、さらにコメディーが混ざっていることによって、
三つの要素からドラマの展開が楽しめるからのようだ。
『よくあるドラマのようで、実は新しいドラマなのだ』と評されていた。

『そうか、だから日本では、まだいまいちウケが良くないのだな・・・』と納得してしまった。

しかし、ここからが問題である。
私の存在を受け入れてもくれない家庭や、劇団を捨て、実家に戻りたいのは山々だが、果たして、今、実家に帰って
現地で創作し、業界関係者と人間関係を構築する時間と、3年遅れで流行りだすのが常の日本で機が熟すのを待つのと、
どちらを選択するか?!
まさに「Desperate Husband」である。

husbandは複合名詞にならないため、集合体としての複数形がない。
「Desperate Housewives」とは違い、共感してくれる夫どもがいないような気がして、心もとない。

世の男性諸氏よ、今こそ決起すべき時である!!


2006年1月22日(日)

恐るべし人間の可能性

みなさんはご存知であろうか、東北大学教授の川島隆太郎氏監修の「脳を鍛える大人のDSトレーニング」を?!
松嶋菜々子が『チョキ、チョキ、パー!』とか言っているCM、あれである。

現在のソフトは第二弾ということだが、第一弾は150万台も売れたヒット商品である。
第二弾であるソフトの売れ行きも止まることを知らず、そのソフトで遊ぶ本体任天堂DS自体が
品切れ状態が続いている。
オークションなどでは倍以上の価格で取引されいるほどである。
恐るべき勢いだ。

その勢いの凄さは、ライブドアショックでも全く値の下がらないどころが上がり続けている任天堂の株価からも伺える。
株をやっている方は、任天堂株がお奨めである。私などは、年明けから3桁に近い取引損益を得ている。(バーチャルトレードだが)

何故、このことに気がついたのかというときっかけは些細なことであった。
私の父の誕生日が1月1日ということもあり、『あなたのお父さんボケてるから、遊び道具にでもコレ買ってあげたら?!』と、
年末、家内が言い出した。

父は確かにボケいるが、それはどちらかというと天然に近いそれで、私はむしろ頑固な気質の母親のほうが心配だった。
そのため名目上は父にプレゼントという形にして、「どうせ一緒に使うものだから」、と購入を決意した。

そして、年明けとともに父にプレゼント。

機械じみたものに高価さは感じてくれたものの、メカにめっぽう弱い父は戸惑っていたが、家内が、『やり方をちょっと見てみますね』とトリセツを手に『グー!パー!グー!グー!グー!』とやり始めた。

気の強い女だけに、やたらグーを連呼する。
結果、78歳だったようだ。

一同、大ウケであった。

松嶋菜々子でも52歳だったのに、この体たらく。
顎を鍛えると脳に刺激が行き賢くなると言われるが、普段、顎で人を使っているだけでは脳は衰えていくようだ。

『どれどれ・・・』と興味を持った父を尻目に、『ちょっと待って下さい。これちょっと機械の調子が悪いんですかね。ちゃんと聞き取れてないみたいなんですよ』と家内。『もう一回だけやってみますね・・・!』とつかさずリセットし、『ちょっと静かにしておいてくださいね!』と鋭い口調で他を制止したかと思うと、『グー!グー!グー!グゥー!グッ!グ〜ッ!グッ!!』と始めた。

グー!の連呼に皆、閉口した。
結果は74歳だった。

少し気を良くしたのか、『これ、やっぱり感度が良過ぎるみたいで、周りが喋ってると感知しちゃうみたいですね』と負け惜しみに近い報告で、父親に渡された。

勝手の判らない父親の最初の挑戦は80歳であった。
それは見ていても要領を得ていないような操作の仕方であったために、最低の年齢だろうということは容易に知り得た。

そこで水を得た魚のように出てくるのは母親である。
『Pass me!』と言うか言わないかのスピードで、父親からDSを奪い取った。
要領を得てから、挑むのは彼女の常套手段である。

結果、母親は74歳の記録を打ち立てた。
家内が二回目で出した記録を母親は最初で打ち出したのだ。

気の強い者同士、一瞬、嫁姑の空気が走った。

すると家内がトリセツを見ながら、『これ、最高が20歳で最低が80歳ってことになってるみたいです!』と煽るような発言をする。

それからは、記録会である。
『グー!グー!パー!チョキ!』、『グー!パー!チョキ!チョキ!』と、途切れることなく連呼され、どこか知らない国へ連れて来られたのでは?というような気にすらなってきた。
あまりの掛け声の勢いに、傍で年賀状書きをしている私も、宛名の最初にグーと書いてしまったほどである。

30分ほどの攻防の結果、家内が48歳でトップ。母親が52歳で続き、父は相変わらず70歳台を行ったり来たりの様子であった。

冷静な私は、そんなことくらいで脳が鍛えられるのだろうか!?と、そこはなとなく思っていたところ、奇跡は起こったのである。
それは父の一言であった。

『あっ、これは早く言わなきゃいけないんだ・・・!』

ものの30分で父の脳は、明らかに鍛えられていたのだ。
その後の父の脳年齢が飛躍的に上がったのは言うまでもない。

恐るべし、『大人の脳を鍛えるDSトレーニング』。
ヒットするのも頷ける。

帰省中の8日間、その戦いは続き、帰国。
帰国時点での結果は、家内36歳、母親42歳、父親54歳であった。
その後の対戦は次回帰省時まで持ち越されることになった。

その後、うちの両親に電話で『その後もDSトレーニングやってる?』と聞いたところ、『パパじゃ相手にならないから』と母。
父親にも聞いたところ、『いちいち怒られるから・・・』と母親の侮辱に耐えられない様子。『続けることにこそ意義がある』と父親には伝えた。しかし、心もとない彼の返事からして、恐らくもうやっていないだろう。
闘うことしか興味のない母親に呆れてしまった。

帰国後、任天堂DSを探すも見つからず、悶々とした日々を百マス計算で鍛えている家内に、電話での出来事を話したところ、
『使ってないなら、送ってもらえば?!こっちじゃ手に入らないんだから・・・!』と対戦意識満々の様子である。
うちの母親にも増して、闘うことに興味のある人間だ。

しかし、経済にしても然りだが、自由競争、つまり闘うことで人は進化しているのではなかろうか。
政治や行政や圧力の言いなりになってばかりいたら、父親のように泣き寝入りするだけになってしまう。
耐震偽装の被害に遭っている人々や北朝鮮問題の被害者にもそれは当てはまる。
頑張ってもらいたいものだ。

だが、ここで履き違えてもらいたくないのは、闘うことと争うことは違うということだ。
その違いを偉そうにブルには、争いも闘いも好まない私のような人間が適任ではないようが良い気がするので割愛する。

ちなみに、争いも闘いも好まない私のDSトレーニングの結果は27歳であった。


2006年1月13日(金)

すがすがしい新年

遅ればせながら、新年明けましておめでとうございます。
年明けというのは、こうもすがすがしく希望に満ちたものだと、この年になるまで感じたことがない。
世の中の人々はいかがなものなのだろう?!

私の場合、田舎が海を越えた遠方にあるうえ、長男のため正月はいつも帰省しなければならない。
(この世に生まれて同じ時間を過ごしている双子の弟はその限りではない)
帰省したところでのんびりできるかというと、否である。
年老いた両親を相手に、やれ親戚回りだ、墓参りだと運転手か添乗員のように扱われる。

普段、両親のそばにいないために、移動中も食事の時も会っていなかった時間を埋め合わせるように、その間にあったことなどを報告。
しかも年老いて、覚えも悪くなっているために帰省中、何度も同じ話をしなくてはならない。
自分がオウムになったような気分になる。

親が寝静まってからからが、またもうひと仕事。
今となっては悪しき因習としか思えない年賀状書きである。

年末ギリギリまで仕事が込んでいるために、とてもじゃないが年を越す前に年賀状など出せない。
年末までにプリントアウトができればいいほうである。
しかも枚数が尋常じゃない。昨年はあやうく腱鞘炎になりそうだったため、今年は400枚までに絞り込んだ。
それを松の内までに知人の手元に届かせなければならないのだ。
(実際は帰国するのが例年8日のため、お年玉付き年賀ハガキの発表の前日までに遅れ込む)

400(枚)÷13(日)※配送日分を差し引く=30,76923

一日31枚を書き上げていかなければならない。
それを13日間も継続しなければならない。気の遠くなるような作業である。

しかし、これは私が出さなければならない数であって、実際はもう何十枚がある。
そうである。家内の分である。
家内も仕事柄、私以上に投函数はあるのだが、仕事関係のものは秘書が代行してくれる。
つまり、彼女の友人、親戚関係の分である。
むろん、彼女の友人の分など出すわけもないのだが、彼女の親戚の分に至っては私が出さなくてはならなくなっている。
何故なら、私の家に嫁いで名前が変わっているからだと彼女は言う。

ならば、『出さなくてもいい!』とつっぱねた時期もあったが、義理とはいえ親族に不義もできず・・・
それから私の担当となってしまっている。

とくかく膨大な数なのである。

先程、プリントアウトなる言葉を書いたが、見た目はすっかり外人面の私でも心はしっかり日本人であるために、どうしても宛名をプリントにするのが心苦しいのである。2、3年ほど前まではすべて手書きにしていたが、さすがに最近では目下にはプリントに変更した。
しかし、付き合っている方(お世話になっている方)はほとんどが目上の方で、圧倒的に手書きによる数が多いのである。
しかも律義な私は、可愛がっている目下にはやはり手書きで出してしまっているので、宛名プリントアウトの数など、たかが知れているのもご推察いただけよう。

苦労はそれだけではない。
仕上げてゆく順番にしてもしかりである。
自分にとって大切な人ほど、気持ちを込めたいがため仕上げに時間が掛かる。よって、後回しとなり、投函が遅れてしまう。
帰国して、お世話になっている偉い方などから先に賀状などいただいていると、異様な焦りを感じてしまう。

『年明け早々、不義をしてしまった!!』と毎年いや〜な気持ちから一年が始まってしまうのである。

「なら、最初から準備を早めろ!」と思われる方も多いと思われるが、仕事から絶対無理なのである!!
金を払ってバイトを雇うことも考えたが、それでは誠意がない。
それに、年賀状には元旦と書かれているが、本来、年賀状は元旦の祈念、思いを綴るものである。元日に届く年賀状など社交辞令と日本郵政公社のご都合主義に利用されているだけの話である。もっと言えば、国家財政の税収に振り回されているだけのことである。

「なら、最初から出さなきゃいいじゃん!」と言われそうだが、外人顔はしていても心がしっかり日本人のために、それができない!!

『年明け早々、どうしてこんなに苦しまなきゃならないんだぁ〜!』と毎年いや〜な気持ちから一年が始まってしまうのである。

しかし、そのジレンマも自分のノルマを達成し、投函した今となっては、宛名をプリントで出している奴の年賀状を見ては、
『無礼者め!』と吐き捨て、こちらが投函したにも関わらずその日一日待っても送ってこない人間のリストを見ては、『どういう神経してるんだよ?!』と軽蔑し、今後、慌てて返送してくるであろう連中に『まっ、今回は大目に見てやる』と寛大な心と優越感を持って、私の心は癒され、やっと希望的な新年を迎えるのである。
『人は苦労した分だけ報いがある』と言われるが、来週からが楽しみである。

今年も良い年になりそうだ。


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