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  最愛の妻を胃ガンで失う

ガンという病気の恐ろしさ W

3ヶ月と13日の闘病記

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◇ 再入院

抗ガン剤は4週間飲んで2週間休む、その休んだ最後の日の5月28日、夕方、急に発熱。計ってみたら39度もある。

病院に電話で事態を説明した結果、緊急入院ということになった。

熱が高いということは脱水症状が起きやすいということで、点滴を常注。それからは急な坂道を転がるように、日々、全身症状が悪化。

腹水で、お腹がポンポン膨らんだり、吐き続けたり、本人より、付いているこちらの方がいたたまれないほど、それはそれは悲惨なものだ。
医者まかせで、私は何もできないわけだから、もどかしいやら、悔しい限り。

利尿剤を追加したり、食べ物にしてもカリウムの多い方が利尿効果があっていいというので、末娘の栄養学の本で調べ、バナナ、アボガド、アーモンドなどなど、 食べやすいもの、食べにくいものを主旨選択し、差し入れに持っていったりもした。

また、笑うことが免疫力の増進につながるからと、末娘はTSUTAYAからお笑いのCDを借りてきたり、マツやミカンの匂いも免疫を高めるというのでいつも枕元に置いたり、 モーツアルトもいいからと聞かせたりもした。

しかし、病状は悪化の一方、腹水は減らず、始終、吐き続けることもあった。食べ物も、ほとんど口に入らない。
その自分の胃液で、唇も、舌も荒れ、ひどい口内炎になったり、ついには、胃にチューブまで入れ、胃酸を抜くようになってしまった。

三週間後、なかなか減らない腹水のため、お腹に注射針を刺し、500ccの腹水を抜き、シスプラチンという抗ガン剤を投与。

四週間後、再び腹水を抜く。ようやくお腹が凹みはじめた。

その頃から、個室のトイレに行くにもたいへんそうな状態になっていた。

ある日のこと、病室に入ったら、家内はペタンとベッドの端に座っている。『起きていてもいいの?』と聞くと
『ひとりでトイレに行ったんだけど、もう、ヒマラヤへ登ったぐらい疲れる・・・』というのだ。

本人の意志の、本意、不本意にかかわらず、ガン細胞は家内の体内からドンドンエネルギーを奪い取り、増殖していくのだろう。
それは、だまって寝ていても、きっとフルマラソンに匹敵するほどの消耗になるのかも知れない。

それ以来、早朝から夜にいたるまで、トイレには付き添い、抱えるようにして座らせ、用を足させるようにした。

あるとき、狭い個室のトイレでのこと、うっかり利き手を滑らせたら、コツンという音と『あっ痛!』という家内の声。

やせ細ってしまった臀部が、便座のプラスチックにあたり、骨盤と便座が当たった音だったのだ。

それほど無遠慮に、腫瘍は家内の身体を蝕んでいた。

亡くなる、十日ばかり前の夜中のこと、その頃は、すでに付き添って隣の簡易ベッドに横たわり、病院に泊まり込んでいた。

酸素吸入をしていても息づかいは荒く、うめき声で目を醒ましました。

そんなとき、そっと姿勢を変えるだけで静かに眠ることが多かった。だが、その夜は違っていた。

微熱がつづき氷枕をしていたから、ときおり、首筋を軽くマッサージしてやると気持ちがいいことも、その頃よくあった。
そして、そっと首筋に手を入れ、軽くもんだりもした。

でも、彼女は軽く首を振る。

『痛いようなら、先生から痛み止めの座薬ならOKが出ているから、看護婦さんを呼ぶよ』と聴いても首を振る。

『看護婦さんがいやなら、ボクが入れてあげるよ』といってもノーだった。

トイレに連れて行っても、自分でパジャマを下げたりウォシュレットのボタンさえ押せないほど、力が弱くなっていたから、用を足してベッドに戻るまで、何度も付き添ったこともある。

また、私たちは年老いてからも一緒に風呂に入ることも多かったし、そうした夫婦間だけに許される行為でもあり、 もし、彼女が看護士さんに対しての遠慮があるのなら、夫である私にはそんな遠慮はしないだろうと思っての提案だった。

でも、彼女は軽く首を振り、そして、彼女は力のない両手を振るわせながら、ゆっくり持ち上げるのだ。

ボクは、腕をもっと深く差し入れ、そっと抱きかかえ、強く抱きしめた。

『こう? こうして欲しいの?』と聴くと、『ウン、ウン』と小さくうなずく。

それは、ひとり、命の炎が徐々に弱くなっていく、そんな不安感や恐怖心であったかも知れない。

でも、私にとっては、きっと彼女は、『よく面倒を見てくれて、ありがとう』という、彼女にとっては最大の、夫に対する感謝の気持ちをあらわしたかったのではないか、と今では考えている。

『人事を尽くして天命を待つ』、文字通り最後の半月ほどは徹夜の日々が続いた。

自分で動くことさえできなくなってからは、夜中まで、1時間から2時間単位で姿勢を変えた。

「床ずれ」を起こさないよう、いちばん楽な「安楽姿勢」にしてやるのだ。

少しでも気持ちがいいと思われるような、全身をやさしくマッサージするようなことなど、できる限りことはした。

◇ 永久の眠りにつく

最後の晩は、血圧が下がり、尋常ではない空気。先生は『二日、三日が山でしょうか』という。

ボクも家内もどちかというと「ガン系統」。

極力、痛みや苦しまないような治療を望み、無駄な延命治療は嫌だから、前もって先生にはそのことは伝えてあった。

そんな状態だったから、万一のことを考えて息子や娘たち全員を招集。

愛する家族全員に見守られ、彼女は、眠るようにしてそっと息を引き取った。


彼女のお母さんのときには、末期ガンの痛みがとても激しかったようだが、幸い、彼女はモルヒネは一本も打たずに済んだし、座薬の痛み止めでさえ、延べ十数本だけ。そうした意味では、ほんとうによかったと安堵した。

それだけに、永久の別れの辛さより、彼女のためには『よく頑張ったよね、もう苦しまなくていいよ、ゆっくりお休み!』という気持ちの方が強かった。

また、男として、若いときからともに歩んだ連れ合いを、無事、終演の幕がおりるまで送り届けたという責任感と、ひとつのことを成し終えたという達成感さえもあった。

◇ 告別

葬儀も、生前の家内とはときおり話し合っていたことでもあるから、ごく地味に、かつ個性的にやった。

祭壇には、ピカピカ、キラキラするものがとても嫌いだったから、あえて、キリスト教用の黒い布をかぶせただけのシンプルな台を使い、それを白い布に取り変えただけ。

変な電気のローソク?もいやだから、遺影の左右には胡蝶蘭などのランで飾り、ごくごくシンプルなものにした。

その胡蝶蘭も、私のラン友達であるKさんが快く引き受けてくれ、その心づくしのフラワーデザインで飾ってくれたものだ。

そのほか、私がつくったヴァイオリンを使い、霊前で生演奏するような、そんな個性的なものにした。息子や娘たちも、そのことには大いに賛成してくれた。

家内が好きだったモーツァルトの『アイネクライネ・ナハトムジーク』、それに、戦死した父も好きだったし、 私の大好きなバッハの『G線上のアリア』、その二曲を、私の先生(吉貝多佳子先生)にお願いして演奏していただいた。

少なくとも当地では初めての、スマートでシャレた内容の葬儀で送ってやったつもり・・・。

もともと、我が家の菩提寺はご先祖様が眠る新潟だった。

三年前、息子の赤ちゃんが乳幼児突然死症候群で亡くなったこともあり、その新潟の檀家だった墓地から撤去、市内の同じ宗派・曹洞宗のお寺(東光寺)に移築していた。

移築とはいっても、自然石を使い、家内と一緒にデザイン。

墓石や花立、線香立てまでが自然石、台座には桜ミカゲを使用。


しかも、価格の高い国産品ではなく、こちらは安い中国製。安くても、中国産であっても、石は石、溶けたり腐ることはない。

その正面には、我が家の「時空」を象徴するうに『光陰』の二字を大きく入れ、右下に小さく、『角谷家』と横書きで入れた。

ご覧のようなオムスビ型。

墓誌だけは、亡き母が作ったものだったから、それはそのまま新潟から持ってきて、右端に立てた。

当たり前の「お墓」なのに、「何々家の墓」なんてよく見かけますが、そんなナンセンスなことをする勇気はボクにはない。

無駄な装飾や華美な曲線はつとめて排除し、こちらも葬儀の祭壇同様、ごくごく自然体でシンプルなデザイン。

ここでもふたりの個性を、十分、生かしてつくったものだから家内も自画自賛、このお墓をたいへん気に入っていた。

 きっと、きっと、心安らかに眠りについたことを確信している。

昨年、妻に先立たれた友人のように「涙に明け暮れる」なんてことは、私には絶対にない。

むしろ、知り合ってから夫唱婦随、足掛け45年間、こんなに素敵な女性と人生をともにできたことを心から歓び、残された人生は家内同様、 つとめて明るく、できるだけ輝いて生き、その分、眼一杯、供養するつもりでいる。

まさに「会者定離」。

結婚前、彼女には『死んでも君を離さない!』と誓った私自身の言葉通り、私はいまだに彼女を離していない。

四十九日の納骨する前夜、骨壺を空けた。

そして、骨壺には何年たっても色落ちしないエナメルで、戒名と俗名、それに没年を記した。

さらに、お骨を二切れほど、お香を入れる小さな蓋付きの陶器に入れ、家の仏壇に安置してある。

それは、直径6センチほどの丸い容器、家内好みの、一見、九谷焼風の香堂なのだが、100円ショップで見かけて衝動買いしたもの。

もちろん、お寺の和尚様や親族には分骨したことは話してある。

娘が、『それなら、心筋梗塞の患者がニトログリセリンを入れる、首から下げるロケットを買ってあげようか』と提案されたが、それは断った。

私には、チャラチャラするものをつける趣味はないし、仏壇だけで十分。

よく「あまり、後を引くようなことは、俗世に未練を残すことになり、仏のためによくない」とはいうが、そのことの善し悪しは別にして、お骨のすべてをお墓に入れてしまうのはあまりに忍びなかったし、離したくはなかった。

そして子供たち全員に、『遺言書は書かないけど、もし、俺が没したときには、絶対、ふたりのお骨をまとめ、ひとつの骨壺に一緒に入れるように』、と指示した。

若き日の、東京と沼津に別れていたときもふたりの心は一緒だったし、お骨だけではなく、いまでも気持ちは通じ合っていて精神面ではいつも一緒なのだ。

 
◇ 最後までお読みいただいた方へ

他人の文を読むことには大変なエネルギーを要することでもあり、ここまでお読みいただいたことに感謝いたします。

家内は、胃ガンと分かる直前まで、メタポリック症候群ではありませんが、理想の体重より多いことに留意し、 ここ二、三年、「痩せる」努力をしていたほどでした。しかし、なかなか思うように痩せないと、よくいっていたことも事実です。

通常、よく言われているように、ガンになると痩せるといいますが、家内の場合、上の、退院直後の写真でもお分かりいただけると思いますが、 ほとんど痩せるような症状は出ていません。

それほど、自覚症状がないまま進行しているのですから、恐いのです。私は、いままで健康すぎて、市の健康検査でさえ一度も行っていませんでした。

でも、昨年から受けることにして、あらゆる検査をしました。ガンは、早期発見が治療を容易にし、また、余命を伸ばす唯一の手段です。

ずいぶんシリアスなことも書きましたが、悲しみや辛さは、本人のみならず家族や肉親にも大きく与えるものです。

どうぞ、これをお読みになったら、いままで私のように定期検診を受けていなかった方も、ぜひ、ぜひ、受けていただくよう、強くお薦めします。

◇ 葬儀から二年後・三回忌の法要を

前ページに載せた写真、家内にとっては元気だった最後の写真から、一枚の油絵を描きました。元々人物画は苦手な方、でも、できるだけリアルに描いた。

この絵を遺影がわりにし、檀家寺の本堂で三回忌の法要を行ったのだが、お寺の和尚さん『これはいい絵だねぇ、 まるで本人がいるようだ』と、お褒めのお言葉。
たとえ社交辞令でも、一生懸命描いたものだけに嬉しい。


子供たちも、このことについては大いに喜んでくれた。

なお、写真のシャツはチェックだったが、それは描くのがたいへんなので、ベージュの無地にしたし、若く見られるのがとても好きな人でしたから、 カラスの足跡のような小じわの本数も、若干、減らしてある。

何時間も、何時間も対峙していたのだか、生前の家内に想いを馳せて描く作業そのものも、大いなる供養になる。

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