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平等を巡るいい加減な考察

 私がなぜ国家(公的)制度としての天皇制は廃止すべきだと考えているかというと、人間は平等であるべきだとという理念を信奉しているからである。「人間は平等であるべきだ」という文脈で用いられる時の「平等」は、結果平等と機会平等の二つに大別することができると思うが、私が天皇制廃止の根拠とするのは主に後者である。
 アメリカ合衆国(本当は
合州国と表記すべなのだろうが、当ページでは慣例に従う)が機会平等を原理としているのに対し、第二次世界大戦敗北後の日本は結果平等を重視しており、日本は自由主義経済の皮を被った社会主義国家であると言われることも多いが、そう言う人の多くは、社会主義的原理である結果平等を重視してきた日本が米国に大きく遅れを取ってしまったのは当然で、今後日本は機会平等をより重視しなければならない、と主張している(ように思う)。私も、機会平等をより重視するというのには賛成で、徹底すべきだが、結果平等も、極度の社会不安や混乱を抑えるために、特に経済的側面である程度は図らねばならないと思う。

 勿論、機会平等を徹底するといっても、完全に実現するのは不可能だし、これを重視しているはずのアメリカ合衆国でも、現実には誕生した時点で既に大きな差がついており、スラムで生まれれば、中産階級以上の家で生まれた場合と比較して(職業選択なども含めて生き方の)選択肢が非常に少ないことになるだろう。勿論、経済的な格差だけが機会平等を阻むというものでもなく、個人を取り巻くあらゆる環境が阻む可能性があるわけだから、完全な実現は不可能というとこになるのである。
 例えば、歌舞伎役者の家に男子として生まれれば、明確な自己主張のほとんどできない幼少時より歌舞伎の稽古に明け暮れて舞台に立つこともあるわけで、非常に優秀な漁師や大工や弁護士や作曲家になれたかもしれないのに、自我が確立する頃には、歌舞伎役者の道を歩むしかないという状況になっている可能性が非常に高いわけである(勿論例外はあり、歌舞伎以外の道に進む人もいるのだろうが)。また、史上五指に入ると後々まで謳われるほどのピアニストになれたかもしれない人が、両親が音楽にほとんど関心がなかったために平凡な人生を送るということや、実は適した職が他にあったのに向いていない家業を継ぐのを強制されてストレスや不満がたまってしまい、周囲に大迷惑をかけるということもあるかもしれない。
 恐らく、環境に恵まれなかったばかりに素晴らしい才能を発揮できなかったという人は無数にいて、人類の歴史は、エパミノンダスや韓信や李白や狩野永徳やアインシュタインになりえた人物を多数切り捨ててきた歴史でもあるのだろう。勿論、ヒトラーやスターリンや毛沢東や酒鬼薔薇聖斗になりえた人物を阻止してきたとも言えるのだろうが。

 日本のように極端な貧困層がほとんどいなくなった先進国においては、こうした機会平等の喪失に伴う才能の切り捨ては世襲制の家において最も起きやすく、才能の切り捨てというだけでなく、多様性の喪失ということにも繋がると思う(多様性についての見解は、前回の駄文を参照してくだされ)。だからこそ、私は世襲制の最たるものである天皇制は廃止すべきだと考えるのだが、歴史を紐解くと、多くの権力が世襲制を抑えようとして失敗し、結局は容認せざるを得なくなっている。その原因は、王や皇帝が自らの権力の世襲は自明のこととしながら配下の者の世襲は押さえ込もうとする矛盾にもあるのかもしれないが、世襲制にも利点があり、また人々のある種の心情に強く響くものがあるためでもあろう。
 勿論、世襲制の損得勘定という点で言えば損失の方が大きいと思うし、天皇制廃止論を撤回するつもりはないが、国家(公的)制度としての天皇制が廃止された後、天皇制が裏千家のような形で存続するのは止むを得ないとも思う。世襲制は確かに多様性を喪失させるが、それが国家制度として認められなければ、平等理念が普遍的となった現代社会において大きな影響を与えることはないだろうし、世襲制という制度を受け入れるのも、多様性の容認とも言えると思うからである。
 これは、思想・信条の自由を否定する思想をも受け入れるべきかという問題とも通じていて難しいところだが、そういう思想を初めから否定するのではなく、思想・信条の自由を想定される事態から防御できる制度(口で言うのは容易だが、実際には大変困難で、ダメ人間の私には到底名案が思い浮かばないが)を整えることを先ず考えるべきだと思う。

 うーん、今回もよく纏まらない文になったか。最後まで読んでくれる人いるかなあ。それにしても、憲法第14条と憲法第1章は矛盾しているよなあ。天皇制否定論者は大抵憲法擁護を唱えるが、憲法第1章をどう解釈しているのだろうか。天皇制否定論者で改憲を主張する人がもっと現れてもよいと思うのだけど、憲法9条改正(改悪)勢力に利用されるのを恐れているのかな。そう言えば、護憲的改憲論を主張している人もいると以前聞いたことがあるけど、そうした主張を私が実際に読んだことがないのは、私の怠慢によるものなのだろうか。