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人物像の形成とその虚実・・・斎藤道三について

初めに
 今回は、前回の駄文「伝承と歴史書からの日中比較」の補足のようなものである。前回の駄文は本当に雑感のようなもので、具体的な根拠など皆無であった。そこで今回は、多少は根拠のある例を挙げてみようかと思う。前回に限らず様々な場所で、伝承では別人の似たような事績を特定人物に集約させてしまうことも多々ある、伝承上の事績の中には他の多くの似たような事績が集約されて成立したものもある、と述べてきたが、確証のある例を提示したことは一度もない。
 こうした考えは主に『日本書紀』を念頭に置いて述べてきたのだが、では具体的に『日本書紀』のどの記述が集約の例かというと、現在の私の力量では充分な自信を持って答えられず、幾つかの推論があるくらいである。その中で現在ある程度の自信があるものは、四道将軍の説話も含めての崇神「御肇国天皇伝承」と日本武尊の征服説話くらいで、基本的に征服説話というものは集約伝承である可能性が高いように思う。日本武尊については、元来の伝承上では雄略と同一人物であった可能性があると考えている。征服者としてのタケル王伝承(これも集約伝承だろう)とでも言うべきものがあり、これと別系統の伝承も存在したため、その矛盾を解消し辻褄を合わせるために、タケル王を日本武尊と雄略とに分離したように思うのである。ただそうだとしても、前者はほとんど伝承からの創作で、後者は歴史上存在した個別具体的人格をそれなりに反映しているように思う。まあこれは私の全くの推測で、大して自信があるわけではない。
 『日本書紀』を対象としても確証を得ないので、かなり時代を引き下げて集約伝承の実例を提示してみよう、というのが今回の試みで、その対象として戦国大名の一人である斎藤道三を取り上げてみようかと思う。『日本書紀』編纂時と比較して遥かに文字記録の豊富な戦国時代以降においても集約伝承が発生し得るなら、古代においてはそれが頗る盛んであったろうことは想像に難くない。先ずは、ほとんど定説となっていた従来の斎藤道三像から述べていくことにする。まあ、私が以下に述べようとする斎藤道三の実像は、現在では既に広く知られているだろうが。赤字で記した()付き数字は注で、文末に纏めて記した。尚、道三の従来像と各史料は色を変えて記した。

近年までの斎藤道三像
 斎藤道三に限らず、人口に膾炙している戦国時代像には史実と異なる場合が少なくない。織田信長発案の楽市楽座、長篠の合戦における鉄砲三段撃ちと武田騎馬軍団の存在、専制的な戦国大名などである。ではこうした戦国時代像はどのようにして誕生したのかというと、江戸時代に書かれた軍記物や合戦物に拠るところが大きいのである。江戸時代に書かれた軍記物や合戦物は、戦国時代を体験していない人が著作者の場合も多々ある。更に、作者が参照できる資料が少なく、厳密な史料批判学の確立されていなかった時代に書かれたものであり、また後人が加筆することもあったため、実像と掛け離れた記述内容となることが屡々あったのである。とはいえ、資料の少ない問題に関しては軍記物や合戦物に頼らざるを得ないところがあり、そのために史実とは異なる戦国時代像が広く浸透することになったのである。斎藤道三もその一例で、近年まで史実とは異なる人物像が人口に膾炙していたのである。
 近年までの斎藤道三像を代表させるとすると、司馬遼太郎氏の『国盗り物語』ということになろうか。ただ、ここでの斎藤道三は時代の先駆者として描かれており、従来の悪人としての評価は随分と和らげられている。とはいえ、その人物像は概ね軍記物と妙覚寺に残された道三の遺書に拠っていて、やはり従来の斎藤道三像を逸脱しているわけではない。この遺書は、江戸時代の初めにある商人が妙覚寺に置いていったもので、軍記物と同様にやはり信頼性はないとされる。因みに、時代の先駆者としての斎藤道三像を最初に提示したのは、坂口安吾氏だという。先ずは、近年までの斎藤道三像の概略を記すことにする。
 
道三は1494年山城国乙訓郡西岡で生まれた。父は松波左近将監基宗といい、元は北面の武士であったという。道三は幼少の頃に京都の妙覚寺にて出家させられ、法蓮房と名乗って修行していた。ところが、後に寺を出て還俗し、油売り商人山崎屋に婿入りして山崎屋庄吾郎と名乗った。油を一文銭の穴に通す妙技で人気を博したのはこの頃である。美濃へ商用で赴いた時、岐阜常在寺の住職になっていた妙覚寺時代の同僚日護上人と再会した。道三は、上人の口添えで、その兄である長井長広(1)に取り入ることに成功し、西村勘九郎という名を与えられた。その後道三は、当時守護職にあった土岐盛頼と対立していたその弟の頼芸に接近し信頼を得ていった。その後、頼芸を扇動して盛頼を越前に追放し、頼芸を美濃守護の地位に就けた。その後、恩人の長井長広を殺害して自ら長井氏の名跡を継いで長井新九郎規秀と名乗り、更には守護代斎藤家が断絶すると、その所領を手中に収め、斎藤山城守利政と名乗ることになった。美濃の実権を着実に握っていった道三は、1542年、主君の頼芸を追放して遂に美濃一国の国主となった。その後1554年に、実父は土岐頼芸とも言われる息子の義龍に家督を譲ったが、義龍と不和になり両者は対立を深めていった。その結果、1556年には遂に、義龍と道三との武力衝突を招来した。道三側には義龍側の十分の一の軍勢しか集まらなかったため、衆寡敵せず、道三は美濃国長良川で敗死した。
 次に、こうした道三像を形成した軍記物について、その一部をニ例ほど挙げてみたい。先ずは、『土岐斉藤軍記』で、文中の法運坊とは斎藤道三のことである。
 
其頃日善上人(2)嫡弟に法運坊とて西効者(3)成りしか。内外の学にさとく、南陽(4)を常に引き廻けるか。あるときいかなる心つきけん三衣を脱きすてゝ、堕落(5)して旧里に帰り、又奈良屋某か家をも継ス。山崎屋松波庄五郎と名乗。毎年美濃国へ通ひ油を売りけり。常在寺(6)の日護上人(7)の吹挙に依て、斉藤家へ入出し、斉藤長井の得意と成けり。 (中略) 太守寵愛甚しく、長井か家老西村三郎左衛門か遺跡を継せられけり。角て西村其主長井か行跡の正シからさるを見て享禄三庚寅(8)正月十三日岐阜(9)におゐて夫婦共に殺害し侍りぬ。
 これは、概ね近年までの斎藤道三像に合致しており、従来の道三像を形成する上で重要な役割を果たしたと言える。続いて、美濃と近江の合戦を記した『江濃記』である。
 
然ニ斉藤家ノ家僕ハ永井(10)藤左衛門、同豊後守等也。豊後守ハ山城国西ノ岡ヨリ牢人シテ斉藤家に来リ、藤左衛門が与力ト成テ度々合戦ニ労功ヲツミ、永井豊後守ト彼家ノ家僕ト成ル。斉藤ノ家督断絶ノ時、彼ノ家領ヲ両人シテ知行ス。 (中略) 其後藤左衛門ト豊後守ト不和ニ成テ、豊後守ハ病死シテ、其子山城守利政が代ニ成テヤガテ藤左衛門ヲ討取、斉藤ヲ名乗り自ラ美濃半国ヲ知行シ、入道シテ道三と号ス。
 ここでは、従来は道三一代の事績とされてきたことが、実は道三とその父の二代に亘るものであったとされている。では、一代説と二代説のどちらが真相に近いのだろうか。大田牛一の『信長公記』には、道三が一代で美濃の支配者となったかのように書かれており、これは従来の定説を補強するかのように思えるが、『信長公記』が書かれたのは道三が没して数十年後で、しかも道三による「国盗り物語」の開始からは60〜70年経過しており、どうも万全の信頼は置けないようにも思える。これではこの問題は容易に決着が付きそうにないが、戦後になって発見された資料により、二代に亘る「国盗り」説の方が史実に近いと判明したのである。次に、二代説の重要な根拠となった史料について触れることにする。

六角承禎条書写
 これは、近江の戦国大名六角承禎(義賢)が家臣の蒲生定秀らに宛てたもので、全文十四ヶ条から成り、日付は1560年7月21日である。これは、1964年から始まった『岐阜県史』編纂の過程でその価値が認識されるようになり、現在は『岐阜県史史料編古代中世四』に所収されている。この条書写は、道三没後四年のものであり、先ずこの点で上記諸書よりも遥かに価値が高い。更に、承禎は頼芸の妹を妻に迎えており、またこの時期には美濃から追放された頼芸が六角家にて保護されていたから、その信頼性は極めて高いと言えるだろう。内容はというと、承禎が、子の義治と斎藤義龍の娘との縁組を阻止することを重臣に命じたものである。縁組阻止の理由として、承禎は斎藤家の悪辣とも言える事績を列挙し、家柄が低く、また早晩没落するだろうから、としている。以下、該当部分を引用する。
 
一彼斉治(11)身上之儀、祖父新左衛門尉者、京都妙覚寺法花坊主落にて、西村与申、長井弥二郎所へ罷出、濃州(12)錯乱之砌、心はしをも仕候て、次第ニひいて候て、長井同名ニなり、又父左近太夫(13)代々成惣領を討殺、諸職を奪取、彼者斉藤同名ニ成あかり、剰次郎殿(14)を聟仁取、彼早世候而後、舎弟八郎殿(15)へ申合、井口へ引寄、事に左右をよせ、生害させ申、其外兄弟、或ハ毒害、或ハ隠害(16)にて、悉相果候、其因果歴然之事。
 一斉治父子及義絶、弟共く生害させ、父与及鉾、親之事取候。如此代々悪逆之体、恣ニ身上成あかり、可有長久哉。美濃守殿
(17)、当国ニ拘置なから (以下略)
 
この条書によると、従来は道三一代でなされたとされてきた、京都妙覚寺の僧侶から美濃一国の支配者になったという「国盗り物語」の事績は、美濃の小守護代である重臣の長井氏と同格になるまでは、道三の父の事績であったことになる。つまり、二代説が正しいといことになるのである。次に、これらの史料を元にもう少し詳しくこの間の事情を見ていくことにする。

「国盗り物語」の真相
 道三の父である西村新左衛門尉が長井氏と同格になり長井豊後守利隆と名乗ったのは1527年のことである。この年、美濃守護土岐盛頼が越前に追放され、代わりに土岐頼芸が守護となった。西村新左衛門尉が長井氏と同格になったのは、この追放劇に功があったためなのだろう。当時、長井家の当主は藤左衛門尉長広であった。土岐氏の重臣で小守護代の長井氏は土岐家の実権者とでもいうべき存在で、これと同格になったということは、当時美濃守護代の斉藤家が振るわず、両者で斎藤家の所領を折半していたらしいだけに、両者共に実質的な守護代になったと言えよう。両雄並び立たずの諺にあるように、実権者が二人いては両者ともお互いの存在が邪魔に思えて仕方なかっただろう。
 道三の父の事績を確認できるのはここまでである。『斎藤系譜』によると、1533年2月2日、長井長広は上意討ちにされたが、どうやら実行者は長井豊後守利隆の子である規秀だったようである。同年11月26日付の「長滝寺寺領安堵状」では、長井長広の子である長井藤左衛門尉景広と藤原規秀による連名の署名となっており、前者が上位に署名されている。この藤原規秀が後の斎藤道三で、道三が確実な史料に登場するのはこれが初めてである。恐らく、1527〜1533年の間に長井利隆は病死し、子の規秀が跡を継いだのだろう。長井でなく藤原で署名したのは、まだ正式に長井氏を継いでいたわけではなく、藤原を正式の姓としていたからだろうか。長井景広の名はこれ以降確認できず、翌1534年9月に出された谷汲の華厳寺宛の禁制書には、規秀のみ署名している。恐らく、1533年か1534年に規秀は景広を殺害し、長井氏の名跡と権限と所領とを全て自らのものとしたのだろう。
 その後、守護代として復活していた斎藤利良が病に倒れると、その死の前から斎藤家の名跡相続を願い出て、利良死後にこれに成功している。或いは、利良が病に倒れる前後より毒を盛っていたのだろうか。この後、上記の条書写によると、土岐頼芸の弟を婿に迎えながら殺害し、他にも土岐氏の一族を次々と殺害したようである。恐らく、これらは追放された土岐頼芸からの情報で、道三への恨みから誇張して伝わっている可能性はあるものの、概ね事実なのだろう。流石にこの過程で随分と反感を買ったようで、土岐氏や長井氏の中に反乱を起こした者もいるようである。
 こうして有力者を次々と殺害し、守護代斎藤家の名跡を継ぎ実権を握った斎藤道三は、遂に守護の土岐頼芸を追放して名実共に美濃の支配者となった。従来、頼芸を追放した年は1542年とされていたが、近年の研究によると1552年のことらしい。1554年には道三は家督を息子の義龍に譲っているから、名実共に美濃の支配者だったのは2年間ということになる。その2年後には義龍と武力衝突となり、道三には義龍の十分の一の軍勢しか集まらず敗死しているから、どうやら強引な簒奪が美濃国内の諸豪族の反感を買い、家臣達に器量なしと判断されて隠居せざるを得なかったのではないかと思われる。更に、『信長公記』には道三が微罪の者を牛裂きにしたり煎り殺したりしたと伝えており、どこまで本当かは分からないが、それでも少なくとも一部は真実を伝えていただろうから、どうやら治世面でも随分と評判が悪かったようで、この点も器量なしと判断された要因だろうか。
 従来、斎藤道三の「国盗り」は道三一代でなされたとされてきたが、京都妙覚寺の僧侶から長井氏と同格になるまでは道三の父の事績であったことが判明した。道三は氏素性を持たない者の戦国大名への成り上がり例とされてきたが、既に父の代でほとんど守護代と同格になっており、守護代からの戦国大名への転身として分類するのが妥当だろう。戦国時代は下克上が盛んではあったが、それでも豊臣政権下での抜擢を除けば、氏素性の定かならざる者で戦国大名に成り上がったのは松永久秀と豊臣秀吉くらいで、如何に乱世で階層が流動化したとはいえ、やはり基盤のない下層の者がいきなり大名にまで成り上がるのは困難だったと見える。

結び
 二代がかりの「国盗り物語」が道三一代に集約されこちらが一般に広まったのは、参照史料不足のためなのだろうが、もう一つ、英雄願望とでも言うべきものが働いたためでもあるように思う。評判が悪く器量なしと判断されたであろう道三が英雄視されたというのも変な話だが、『信長公記』にもあるように道三は同時代から甚だ悪人視されていたようで、大悪人というのはある意味英雄視されるものだと思うし、そもそも悪人と英雄とは紙一重または表裏一体なのだろう。英雄は、その時々の価値観により、肯定的な英雄として評価されたり大悪人として評価されたりし、その中で過大または過悪な評価がなされることが多々あるのだろう。
 英雄視される人に事績が集約されるのは現代でも珍しくないことで、記録の少ない時代には検証が困難なだけに、時としてそれが事実であるかのように伝えられることが頻繁にあったと思われる。道三の場合、同時代より悪人視されたと推測され、そのため、江戸時代の軍記物では道三一代で「国盗り」がなされたと書かれたのだろう。また、この過程で道三の悪人としての性格が誇張された可能性は充分にあり、この点での修正これは今後の新史料に期待したい。実際、道三と共に戦国時代の三悪人とされる松永久秀と宇喜多直家についていうと、主殺しを初めとする数々の悪事をなしたとされる前者は、その多くが根拠曖昧か無実であり、後者は騙し討ちなど数々の悪辣な手段を取ったとされるが、これらは他の多くの戦国時代の群雄も行っていたことである。
 古代と比較すると文字記録の遥かに多い戦国時代でも、大名のような上層支配者においてさえ、一種の集約伝承が発生し得る。とすると、古代において集約伝承が頗る盛んだったとの推測は充分妥当性があるように思われる。『日本書紀』の古い時代の記事は、特にその傾向が強そうで、そこから史実を構築するのは容易ではないだろう。


(1)長井氏は美濃守護土岐氏の重臣であった。
(2)妙覚寺の僧侶。
(3)京都西部の郊外、西岡のこと。
(4)法運坊の弟弟子である南陽坊のこと。
(5)僧が俗人に戻ること。
(6)日蓮宗の寺である。
(7)南陽坊のこと。
(8)1530年に相当する。
(9)この時代は井口。岐阜と改称されたのは織田信長統治時代になってから。
(10)長井が正しいが、ここでは当て字が用いられている。
(11)斉藤治部大夫の略、斉藤義龍のこと。
(12)美濃のこと。
(13)斎藤道三のこと。
(14)土岐頼芸の弟である土岐頼充のこと。
(15)土岐頼芸のこと。
(16)暗殺のこと。
(17)土岐頼芸のこと。