ローマにおける世相の変化

 

初めに
 今回は、
第21回の駄文「バッコスの密儀」の続編のようなもので、ローマにおける世相の変化を、ローマ社会の変容と絡めて僅かながらも探ってみようという試みである。各史料の現代語訳は、古山正人・中村純・田村孝・毛利晶・本村稜二・後藤篤子編約『西洋古代史料集』(東京大学出版会1990年)から引用した。赤字で記した()付き数字は注で、文末に纏めて記した。尚、句読点と漢字は一部改めた。

 

 

@『アルス=アマトリア』
 これは、アウグゥストゥス時代の詩人オウィディウス(1)の作品である。アルス=アマトリアとは、愛の技術という意味である。以下引用である。

 法廷さえも、−一体誰が信じられるというのだろうか?−恋愛に都合がよい所であり、情炎は喧しい法廷にも屡々見出されるものである。大理石で造られたウェヌス神殿の下に設けられたアッピアスの像が勢いよく水を噴き上げて空中に撒き散らしているような所では、弁護人が愛の神の虜になることが度々ある。他人を庇ってやった者が自分自身を守れないことになる。そこでは雄弁な人でも自分の言葉に詰まることも珍しくなく、新たな恋愛沙汰が起こって自分自身の弁護をしなければならなくなる。つい先程まで保護者であったのに今では庇護民になりたい(2)というこの男を、傍にある神殿の中からウェヌスは笑っている。
 でも君は、特に円形劇場で獲物狩りをしてみることだ。この場所こそは、君の願いにとって一際実り多い所である。ここでなら、愛を語る相手にも、弄ぶことのできる相手にも、一度だけ感触を楽しんでみようという相手にも、長く手許に置きたいと思う相手にも君は会うことができるだろう。
 (中略) 垢抜けした女性はこのように人の集まる見世物に殺到する。その数が多いために、私の鑑識眼を迷わすことも度重なる程だ。女達は見物に来るのだが、自分自身が人の目に晒されるためにも来ているのである。あのような場所は、恥を知る貞淑な女性には害がある。
 (中略) 君は、駿馬の競争の機会をものがすべきではない。大群衆を収容し得る競走場には都合の良いことが多い。秘密を語るのに指を使う必要はないし、頷いて合図を受け取るまでもない。邪魔者が全くいないのだから、良い女のすぐ隣に座りなさい。君の脇を相手の脇にできるだけ密着させることだ。それに具合の良いことに、相手が嫌がったにしても座席の並びが密着させるのだし、座列の定めのお蔭で女の子に君は触れざるを得ないのだから。
 さて、ここで君は近付きになるための話のタネを探すことだ。それには、月並みの言葉でお喋りを始めるのが良いだろう。誰の馬が入って来るかわ、熱心に聞いてみることだ。そしてすかさず、彼女が誰を贔屓にしていようと、それを贔屓にするのだ。さて、神々のの象牙像を各々先頭にした競技者の群れの行列がやって来た時、君はウェヌスに贔屓の拍手を送りたまえ。
 そしてよくあることだが、もし偶々女の子の膝に埃が落ちたとしたら、指で払い去ってやるべきである。たとえ埃など全くないにしても、そのない埃にしろ払ってやりたまえ。どんな口実でも良いから、君の奉仕に都合の良い口実を設けることだ。外套がもしあまりに垂れすぎて地面にくっ付いていたら、かきあげて注意深く汚い地面から持ち上げてやりたまえ。忽ち君の心尽くしの報酬として、女の子はじっと堪えたまま、彼女の脚が君の目に触れて晒されることになる。その他に、辺りを見回して君達2人の後に誰が座っていようと、そいつが彼女の柔らかい背中に膝を押し付けたりしないように気を配るのだ。ささやかなことが浮気心を捕えるものである。多くの男達にとって有効であったのは、座布団をさり気なく手でずらし直してやったことである。更に、薄い書板で風を送ってやつたり、華奢な足の下に踏み台を差し出してやったのも効を奏した。
 (中略) だが、先ずものにしようとする婦人の小間使い
(3)を知るように心掛けるべきである。小間使いは、君が接近しやすくしてくれるだろう。彼女が女主人の一番身近な相談相手となるよう、そして隠れた戯れ事をよく知り、少なからず信頼できる者になるように気配りすることだ。この女こそ、君は約束したり頼み込んだりして手懐けておくのだ。君の望むことは、彼女さえその気になれば容易く成し遂げられるだろう。彼女は女主人の気分が良くてものにするのに相応しい時期を選んでくれるだろう。医者もまた治療時期を測るものであるが。
 (中略) しかし、小間使いが塗蝋板
(4)のやり取りの仲介をしているうちに、もし彼女の甲斐甲斐しさだけでなく、その容貌をも君のお気に召したならば、先ず女主人を先にものにして、かの付人の方は後にするようにしたまえ。君は情交を小間使いの方から始めてはならない。 (中略) 一度小間使いが君と罪を分かち合えば、密告する者は取り除かれるのである。

 

Aユウェナリスの諷刺詩
 ユゥエナリスは帝政初期の諷刺詩人で、生年は60年頃、没年は130年頃である。諷刺詩では現実を些か誇張し歪曲した表現がよく用いられる。以下引用である。

 妻の臥す寝台は、いつも言い争いや咎め合いが飛び交う。そこで眠り込むなんて滅多にない。彼女は夫を耐え難く苦しめるのであり、我が子を失した母虎よりも始末が悪いのだ。というのも、彼女は自分の秘め事を意識しているので、悲嘆に泣き濡れるふりを夫の稚児達を罵り、愛人(5)を拵えたと言って泣き喚く。彼女の涙は絶えず溢れ出んばかりか、いつも相応しい場面に備えられていて、流し出そうとすれば、どんなやり方でもそれを待ち受けているのだ。虫けらどもよ、お前はその時それを愛だと信じて有頂天になり、その涙を唇で拭い去ってやる。もし、この嫉妬深い姦婦の綴り箱が開かれたならば、なんたる書きものを、なんたる多くの恋文を読むことになるというのに!
 でも、彼女が奴隷か騎士の腕に懐かれて横たわっているのを見付けたとしてみたまえ。彼女は言うだろう「仰って、仰って、何かこの場合の言い訳を、クィンティリアヌス様
(6)、お願いです」。姦夫クィンティリアヌス、は答える「わしは嵌って動けない。あなたが自分で言いなさい」。そこで彼女は夫に向って言う「ずっと以前に、これはあなたと同意し合ったことです。あなたは自分の欲することをなし、私も気ままに振舞えないわけではないということでしょう。あなたが喚き立てようと、天と海とを引っくり返そうとなさっても構いません。でも、私は人間なのです」。現場を取り押さえられた女達ほど面の皮の厚いものはない。彼女達は、その罪業のために、却って激怒と逆上に身を委ねるのだ。

 

B小プリニウスの書簡
 小プリニウスは文人官吏で、生年は61年頃、没年は113年頃である。ユウェナリスとはほぼ同時代の人間ということになる。これは小プリニウスの書簡だが、一般に私人の書簡は自己の周囲の世界を美化する傾向にある。以下引用である。

 あなたは家族への愛情の模範でいらっしゃいます。そしてあなたの優れた敬愛すべき御兄弟を、彼が懐いたのと等しい温かさで愛されました。また彼の娘(7)をまるでご自分の娘であるかのように可愛がられ、彼女に対して伯母(8)としての気持ちだけでなく、亡くなった父親の気持ちをもお示しになっていらっしゃいます。ですから、彼女が父親に相応しく、あなたを辱めず、祖父の名を落としめない女性に成長したことをお知りになりますなら、あなたの御喜びが如何ばかり大きいことか、私は疑いを持ちません。
 彼女は最高に俊敏で、この上なく倹約家です。彼女の私への愛は貞淑の印なのです。これらと並んで文学への熱心が加わります。この熱心は私への愛情故に育まれたものです。彼女は私の作品を持ち、それを繰り返して読み、暗記さえ致します。私が近く法廷弁論に立つであろうことが分かると、彼女は何と深い不安に襲われ、私の弁論が済むと、彼女は何という大きな喜びに動かされることでしょう。彼女は人々を配置して、私がどのような賛同と如何なる喝采を巻き起こしたか、如何なる判決を勝ち得たかを、彼らが彼女に知らせるようにするのです。
 私が朗読会を催すような時には、彼女は近くのカーテンの蔭に聴衆から離れて腰を下ろし、私の勝ち得る賞賛を貪欲なまでの聞耳を立てて聞き取ろうとします。そればかりか彼女は、私の詩にに曲を付けて唱い、それをキタラで伴奏さえ致します。それも誰か音楽家に教えて貰ってではなく、愛に導かれてです。愛こそは最高の教師です。こういうわけですから、私は今では絶対確実な希望を持つに至っています。我々の睦まじい仲は永遠のものに、そして日々より大なるものになるであろう、と。何故なら、彼女は、私の年齢とか肉体−それらは少しずつ衰え老化してゆくものです−を愛しているのではなく、私の名誉を愛しているからです。
 あなたの手によって育てられ、あなたの指図によって教育され、あなたの家庭で純潔なものや廉直なもの以外は見なかったような彼女、そして最後に、あなたの賞賛によって私を愛することに馴れたような彼女には、これ以外のことは相応しくありません。実際、あなたは私の母を御自分の母親のように尊敬しておられましたから、私を少年の時からずっと教育し、誉めて励まし、また私が今私の妻に思われているような人間になると予言なさるのがいつものことでした。ですから私達二人はあなたに心から感謝を申し上げます。私はあなたが彼女を下さいましたことを、彼女はあなたが私を与えて下さいましたことを、あなたは私達二人を大勢の中からお互いに選び出されたかのように結び付けて下さったのです。

 

性・恋愛・家族・夫婦意識の変容
 AとBは100年前後とほぼ同じ時期に書かれており、@は紀元元年前後に書かれているから、@とABの間には約100年の年代差があるが、どうもその間にかなりの世相の変容があったようである。
 @では性や恋愛に対しての作者の大らかな心情が窺え、またこれは当時のローマにおける一般的な風潮でもあったと思われる。ほぼ同じ時期のAとBからは、性を享楽する人々がいる一方、家族の睦まじい関係や貞淑さを模範とし実践しようとした人々がいることが窺えるが、果してこのような理解に留めておいてよいのだろうか。
 対照的に見えるAとBだが、Aは性の乱れへの指弾、Bは貞淑さへの賞賛であり、結局のところAとBは表裏一体のもので、当時、性の乱れを嫌悪し貞淑な夫婦愛を賞賛するような風潮が強まりつつあったことを示すものではなかろうかと思われる。

 共和政期から帝政期に入り、ローマの東西分裂から西ローマの滅亡に至るまで、時代が下るにつれてローマの性風俗が乱れていったとする認識もあるようだが、どうもこれは少し違うように思われる。@の時代よりも更に前、前2〜前1世紀頃には、ローマには素朴主義の社会に見られる質実剛健の気風が漲っていたとされるが、実際には前3世紀後半頃より、素朴主義社会は変容しつつあり、個人主義的傾向が強まっていった。
 それと共に性風俗も乱れていったものと思われるが、それ以前にも奴隷や兵士の間では同棲や内縁といった自由な関係が一般に行われ、そもそも奴隷は雑居状態だったので、ある意味、まだ素朴的だった共和政期も随分と性風俗が乱れているとも言え、元来ローマ社会には性に寛大な素地も充分あったものと思われる。
 これに対して、素朴的というか保守的な勢力からの反発は当然あったが、先進的な東方へと勢力を拡大していく過程で文明化の進展していったローマでは、こうした「堕落」を保守的な価値観で防ぐのはなかなか困難であった。@からは、この時代、一般の間では、性の享楽に対して寛容な風潮が存在したことが窺われる。これに対して、ABの頃には性の乱れに厳しい風潮が存在しており、@とABとの間の100年間にローマの世相は随分と変化したように推測されるが、実際、タキトゥスは『年代記』の中で、ネロ帝以後、即ち68年以後のクラウディウス朝に厳格な風紀が始まったと述べている。
 恐らく、ローマの性風俗が時代が下るにつれ乱れていったというよりも、性風俗の乱れに対して厳しい風潮が次第に強まり、それを糾弾する文章が多く書かれるようになったため、後世では、一見するとローマの性風俗が次第に乱れていったように思われる、というように解釈する方が真相に近いのではなかろうか。

 こうした風潮の変化は、夫婦愛観念の形成に起因するものと思われる。前3世紀後半以降、ローマは、個人と共同体とが強く結び付いている可視的な都市国家共同体から、個人は広い世界の一員にすぎず個人と国家との結びつきが希薄な不可視的な世界帝国へと転換していった。この過程で個人主義的傾向が強化されていったが、同時に人々の意識は内向化し、また道徳も内面化していった。
 こうした流れの中、性関係を対をなす男女関係に限定し、内面的な絆による結合を求める動きが出てきて、夫婦愛や結婚形態が浸透していくことになったのだろう。帝政期に入って奴隷や兵士の間で、法的利点があまりないにも関わらず結婚が増加していった。家名が尊重される家族形態から、夫婦愛に基づく家族への転換である。嘗て、matrimoniumという単語は「娘を母親の地位に就けること」という意味のみで用いられていたが、やがてこの一語で「結婚」を現すようになった。また墓碑にも、「妻⇔夫」という表現が用いられるようになり、夫婦愛に基づく家族への転換が窺える。
 兵士の間で結婚が流行したもう一つの理由は、ローマの内乱と拡大が終息し、安定期が到来したためなのだろう。当初兵士は結婚が禁止されていたのだが、これは、現在のFTドライバーの多くが独身者であるのと同じ理由で、家族がいてはつい身の安全を考えてしまい、命懸けで戦うことがなかなか難しいためなのだろう。
 また、性関係を対をなす男女関係に限定する風潮は、性そのものが場合によっては人間の尊厳を傷付け得る、という「汚れた性」という意識を顕在化させた。嘗ては、adulterium=姦通は既婚女性に、stuprum=淫行は未婚・離婚女性に用いられていたが、3世紀の法学者は「現在は両者の使い方が混同されている」と述べている。家名や身分により性行動が制約されるのではなく、性行動そのものに対して、倫理が要求されるようになったのである。

 

結び
 ローマの性風俗は時代が下るにつれ乱れていったとする見解もあるようだが、実際には帝政初期の頃より性の乱れを厳しく糾弾する風潮が強くなってきており、結婚形態の流行と共にローマにおける世相の変化を窺わせる。こうした変化は、ローマの拡大に伴う意識の内向化や道徳の内面化に伴う結果であり、恐らくそうした傾向は前3世紀後半より存在したのだろうが、性の乱れへの糾弾や結婚形態の増加は、紀元後になってから顕著になってきたものと思われる。
 道徳の内面化は全ての人間に要求される倫理観・道徳規範の成立を促し、恐らくローマ社会には、1世紀の時点で既に、キリスト教を受け入れる地盤がかなり成立していたのではないかと思われる。

 


(1)前43年〜後17年。民衆や神々の戯言を題材とすることが多かったので二流詩人との評価を受けることがあるが、鋭利な心理分析と的確な性格描写は類稀な才能の証明である。その作風のためかアウグストゥスに追放されたが、彼の作品は、元首政期ローマの平凡な人々の様子を窺うのに適していると言えよう。
(2)
保護者(patronus)は庇護民(clientes)に様々な便宜を施し、庇護民は保護者の傘下にあって協力した。これはローマ社会の基本的人間関係である。
(3)
女性の奴隷のこと。
(4)
手紙の書板として使われた。
(5)
愛人としての稚児だから、同性愛である。
(6)
修辞学者としての誉れの高かったクィンティリアヌスを当てこすっている。
(7)
名前はカルプルニアと云う。
(8)
叔母かもしれない。

 

 

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