戦国時代

 

初めに
 日本と中国には戦国と呼ばれる時代がある。日本の場合は15世紀後半〜16世紀後半、中国の場合は前5世紀〜前221年で、両者には約1700〜2000年の時間差があり、中国の戦国時代の方が早いわけである。日本の戦国時代という名称は中国のそれに由来し、中国の戦国時代は『戦国策』という書物に由来する。既に戦国時代の日本の武家や公家の中には、中国の戦国時代との類似性を意識していた者もいるようである。
 両者共に多勢力による争乱期という共通点があり、そのために日本でも応仁の乱から豊臣秀吉の統一辺りまでが戦国時代と称されるのだろうが、両者にはそれに止まらない共通点も認められるように思う。
 そこで今回は、日本と中国の戦国時代について、両者の共通点と共に相違点にもごく簡単に触れ、日本と中国の歴史状況の比較を僅かながらも試みたい思う。

 

共通点と相違点
 両戦国時代の最も分かりやすい共通点は、戦乱の世ということである。ただ、その前段階は異なり、日本が曲がりなりにも政治的統一を経験していたのに対して、中国の方は未だ統一はなされていなかった。だが、旧来の権力層の没落と秩序の崩壊が大規模に起きたという点では共通するところが多い。また、中国の戦国時代が同じく戦乱の世である前代の春秋時代の傾向を引き継いだものであるように、日本の場合も、間に安定期があるものの、戦国時代は前代の南北朝という争乱期の傾向を引き継いだものである、と言えるように思える。
 中国の場合は、貴族層が没落すると共に氏族制が解体し、日本の場合は、朝廷や幕府や守護大名や旧来の寺社が衰退していった。無論、こうした動向の中で旧来の支配層が権力を強化することもあり、中国の戦国時代の各強国の王は従来からの君主の家系か貴族層出身であったし、各国の支配層の中に旧来の貴族層出身者も少なからずいた。また日本の場合も、守護大名から戦国大名になった家もないわけではない。
 だが一方で、日本でも中国でも成り上がりが顕著に認められ、中国では有力な背景を持たない者が高官に抜擢されることが屡々あり、日本では戦国大名の多くが国人と呼ばれる土着的豪族の出身で、上位権力である守護や守護代を倒して成り上がった。日本ではこうした風潮が下克上と表現されたが、戦国時代に終止符を打った豊臣秀吉が全くの庶民の出であるのは正に象徴的と言えよう。一方中国でも、始皇帝による秦の統一があったとはいえこれは短期間で崩壊し、最終的に戦乱状態を解決したのが全くの庶民の出である劉邦であったのは、日本の場合と同様に、やはり旧来の秩序崩壊を示す象徴的な出来事であった。

 こうした旧来の秩序の崩壊と新興勢力の出現を促した要因として、日中共に生産力の向上と庶民の地位向上とが挙げられるが、どちらが主導的であったということはなく、両者は相関的であったと思われる。生産力の向上は、技術の向上や戦乱による旧来の権力の衰退など様々な要因があるが、日中共に鉄器の普及が果たした役割が大きいようである。この点については、前回でやや詳しく述べた。
 庶民の地位向上は、生産力の向上などによる小規模経営の自立により齎され、農業・工業・商業などにおいて単婚小家族単位の経営が充分可能となった。これにより、共同体的生産という側面が強かった頃よりも、君主権力による個別人身支配が浸透することとなった。日本の場合、戦国時代の後を受けた江戸時代は一般には封建時代とされるが、支配層である武士は土地所有者ではなく俸給生活者となっており、君主(大名)権力が領土を一元的に支配していた。これは、個別人身支配の浸透により可能なことである。日本全体としては徳川家を盟主とする割拠状態のように見えるものの、個々の大名家の領国では、中央集権国家的性格も有していて、所謂近代国民国家とされる明治国家の基盤は、既に戦国時代にかなり整っていたのではないかと思われる。
 中国では既に戦国時代に個別人身支配がかなり浸透していて、漢代に一応の完成を見た。漢代の諸侯は、当初は個別に領土を支配して独自に徴税を行っていたが、やがて俸給生活者となっていった。嘗て日本では、律令国家成立期に個別人身支配を行おうとして、唐の律令制度を大いに参考にした諸制度を定めたが上手くいかなかった。これは同時代の新羅でも同様だったが、結局のところ、日本も新羅も中国とは異なり、個別人身支配が可能となるだけの社会的条件が整っていなかったということなのだろう。

 中国が紀元前に達成していたことが、日本では16世紀以降になって漸く可能となったのである。先進的・後進的という図式を安易に持ち出すのは危険だが、やはり中国が日本よりも随分と進んでいた時期があるのは否定できない。日本から見ると、中国は随分と早熟だとも言えようか。
 だが、中国の戦国時代と日本のそれとでは実年代にして1700〜2000年の差がある。そのため、日本は(中国の)戦国時代より発展した中国の影響を(日本の)戦国時代以前に受けることになり、このこともあって、日本の戦国時代は中国のそれよりも先進的なところも少なからずある。
 例えば湿地帯の開発がそうである。概ね古代では、技術的制約があり、湿地帯よりも適度に乾燥している地域の方が生産力が高いことが多い。中国でも、戦国時代、更には漢代あたりまでは、乾燥した華北の方が、湿地の多い華南よりも生産力が上回っていた。華南の開発が進んだのは三国時代以降で、華北を圧倒したのは宋代以降となる。これは、技術の向上もさることながら、戦乱や天災などにより華北の人的資源が華南に大量に流れ込んだことも大きな要因となっている。一方日本では、16世紀後半頃より、尾張・美濃・伊勢といった湿地の多い地域での農業生産力が大いに向上している。
 因みに、華北と華南では農業生産力向上の様相が異なっており、華北、特に関中では、灌漑なども国家規模の大事業として行われ、それが農業生産力向上の決定的な要因となったが、華南では、各豪族による小規模な灌漑などが農業生産力を向上させている。漢末以降の華北の農業の荒廃の要因は、一つには、華北における国家権力の衰退があると推測される。

 

結び
 日本の15世紀後半〜16世紀後半の争乱期が、中国に由来する戦国時代と呼ばれるようになった当初、争乱期という以外にどこまで日本と中国の戦国時代の共通点が意識されていたか分からないが、私が思うにこれはなかなか的確だったように思われる。実年代に大きな差があるとはいえ、戦国時代の日本では、戦国時代の中国とよく似た現象が起きていたと私は思うのである。

 

 

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