聖と俗(其の二)

 

 俗の世界が聖の世界を圧倒していくのには大変長い時間がかかったものと思われ、一朝一夕に成し遂げられたものではなかろう。また、未解明・未知の現象が存在する以上、どんなに俗の世界に圧倒されようとも聖の世界は存在するのであり、かなり形骸化しつつあるものが多いとはいえ、現在にも聖の世界は存在しているのである。
 大変に長い時間のかかったことであるから、力関係の逆転がいつだったかと明示するのは難しいが、転機と言える様な時期はあったように思われる。無論、それは地域によって様々であった筈だが、私の知見では日本と中国について多少なりとも見通しが述べるのが精一杯なので、以下、日本と中国を中心にこの問題を考えてみたい。もっとも、日本や中国とはいっても地域差があり、更に言うと現行の地域区分を過去にそのまま当て嵌めることなど到底できないが、取り敢えず便宜的にこの名称を使うことにする。

 日本においては、戦国時代が聖と俗との力関係の逆転した時期である、との指摘があるが、これは概ね妥当なのではないかと思う。例えば、勝俣鎮夫『戦国時代論』(岩波書店1996年)のP3〜P4から引用すると(筆者の注も含めて紫色で示した)、法螺貝に対する呪術観念にもとづき、善神を呼び集め、邪気を祓う目的でさかんに吹き鳴らされ、その威力を発揮した状態をさす「法螺を吹く」という言葉が、今日の大言を吐く意味に変化したのもこの時代(筆者注:戦国時代)であった。この変化は、法螺貝の呪術性を信ずる社会から法螺貝をたんなる大きな音をだす道具と考える社会への移行を象徴的にしめすものであった。同じく貝の持つ呪性から出発し、呪性の力を秘めたものとして、さまざまな用途にもちいられた貨幣が、たんなる交換の道具として広く使用されだすのも、この時代であった、というわけである。
 呪術や祭祀を司ることにより大きな勢力を誇っていた朝廷や寺社といった権門勢力は、南北朝時代と戦国時代という二つの争乱期を経て没落していき、武家勢力による「俗的政権」が日本を覆うこととなった。無論、これには他の多数の要因があったとはいえ、聖の世界が俗の世界に圧倒されていったことが、最大の要因だったと言えるのではなかろうか。

 中国においては、春秋戦国時代が聖と俗との力関係の逆転した時期であるように思われる。殷や周や同時代の都市国家は、祭祀や呪術が政治において大きな意味を持つ神権国家的性格が強かったが、春秋時代を経て戦国時代ともなると、中国の諸国家は俗的性格が強くなり、祭祀や呪術の役割が減少していったり形骸化していったりした。無論、紀元前の世界のことであるから、現代の視点からすると多分に迷信に囚われていると言えるが、現代に通ずる俗的社会の確立期であると言えるようには思う。
 孔子を開祖とする儒教が神秘性を排したことは屡々指摘されているが、これは何も孔子や儒教の専売特許などではなく、当時の社会的思潮を最初に整然と理論体系化したのが孔子であり儒教であったということなのだと思う。もっとも、その儒教も、後には時として神秘主義的思想を取り入れたこともあったが、だからといって儒教を従来の観念や思潮と同列に扱うことはできない。
 『史記』「滑稽列伝」には、西門豹が魏の文侯の下で県令となり、赴任先で、河神のために人柱を捧げる習慣を苛烈な手段で止めさせる、との記事が見え、ここからは、迷信が次第にその力を失っていく様子が窺える。もっとも、これがそのまま史実を伝えたものかどうかは分からないが、恐らく、こうした話が流布して人々に受け入れられる社会的状況が出現していたのであり、その頃には(魏の文侯の時代のことだから前5世紀後半ということになる)同様のことが中国各地で起こっていたのだろう。

 呪術や祭祀や迷信が大きな意味を持っていた聖が優位な世界から、俗が優位な世界への転換は、前回触れたように、人智の発達を示すものではあるが、それは合理主義の発達ということでもある。次回は、この問題について述べていくことにする。

 

 

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