合理主義の発達(其の二)

 

 前回触れたことの補足ともなるが、合理主義発達の要因として、他者(この場合は、人間以外のものも含む)との接触機会の増加というのも挙げられると思う。人間の認識というのは、他者の存在なくして発達はあり得ないし、恐らく、より多く他者を知るほど、人間の認識というものは豊かなものになるものだと思う。

 いつ頃までと明確に言えるわけではないのだが、春秋時代の半ば辺りまでは、中国において、中原とその近辺には、漢族の祖形と言える集団(当時は自らを華夏などと称したが)のみではなく、彼等から夷狄と呼ばれる集団も存在していて、それはは珍しいことではなかった。だが、両者の間に遺伝的・文化的差異があったのかというと、そうでもなさそうで、春秋五覇も夷狄の出だったとする見解もある。恐らく、夷狄も割りと容易に華夏の側に転化し得たのであろうが、一旦華夏の側に転ずると、今度は周囲の多少風習の違う集団を夷狄と称したものと思われる。
 春秋時代の前半頃までは、中国各地の集団も諸条件から居住地や活動地が割と限定されていて、未知の世界が周囲に広がっていたのであり、そうなると自ずと知見も限定されるから、迷信・呪術・祭祀といったものが大きな影響を持つことになる。やがて、戦乱に伴う征服、技術の向上などに伴う開墾地・居住地の拡大により、他者との接触機会が増大し、それだけ知見が増すことになったが、それだけに留まらず融合も進展し、より大規模に意識や価値規範が共有されることとなった。
 こうして春秋時代を経て戦国時代には、漢族が概ね成立することになったのだが、それは、中原にいる集団が拡大殖民していった結果ではなく、雑多な集団の融合の結果とする方が適切なのではないかと思う。無論、こうした状況の中、融合していったのではなく、居住地を追われて移住を強いられた(或いは選択した)集団も多数存在したのだろう。そうした集団の一部が、朝鮮半島や日本列島に移住して大きな影響を与えたのだと思うが、それはさておき、周囲が未知の世界と既知の世界とでは大違いで、未知の現象が減った分だけ、合理主義の発達を促したと思う。
 このことに関連するのが、市場の立てられた場所である。そもそも市場とは、異なる共同体間の交易のために設けられたものであろうが、知見の限られている時代においては、相手のことがよく分からないだけに、迂闊に取引はできない。そのため、原初的な市場は概ね境界と意識される場所に立てられた。よく分からない相手を自己の領域内に引き入れるのは危険なのである。
 中国における市場も、当初は境界領域に立てられていたのだが、次第に囲壁集落・都市の中に市場が立てられることになる。もっとも、華北と華南とでは、集落形態の在り様も含めて差異はあったようだが、あくまで一般的な傾向を述べていくことにする。戦国時代の初期には、まだ境界領域に立てられていた市場も少なからずあったようだが、漢代の頃には、市場は概ね囲壁集落・都市の中に立てられることとなり、こうした市場の在り様が次に大きく変化するのは、唐〜宋にかけてであった。こうした変化は、知見が増大して既知の世界が広がり、それだけ未知の世界が狭くなったということ意味しており、合理主義の発達を示しているのではないかと思われる。

 合理主義発達の要因について、何だか全く纏らないが、凡そ全ての事象には相互に何らかの関連性や類似性が見出せるものであり、そうした関連性や類似性の程度を適切に評価し分類することこそ、人間の知的思考・学問の本質だと思う。私のような無能な人間がある事象の要因を探っていくと、纏りのないものになりがちではあるが、今後は多少なりとも纏りのある叙述を目指したいものである。

 

 

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