神武天皇
言うまでもなく、「神武」とは『日本書紀』成立以降に追贈された漢風諡号であり、『日本書紀』では、(和風)諡号は~日本磐余彦天皇(カミヤマトイハアレヒコノスメラミコト)、諱(実名)は彦火火出見(ヒコホホデミ)と記されている。
今回は表題を「神武天皇」としたが、『日本書紀』卷三(所謂「神武紀」)の記事を詳しく見ていき、神武の『日本書紀』における位置付けや、神武が実在したか否か、実在しなかったとしたらそのモデルは誰なのか、といった問題を詳細に論じるわけではなく、初代天皇または初代王とはそもそもどのような存在なのかという問題を、初代天皇とされる神武について触れながら述べていくことにする。
戦後の日本では、神武天皇は実在しない架空の人物である、との見解が主流となってきた。しかし一方で、初代王・天皇というのは実在した筈であるから、『日本書紀』における神武の事績をそのまま認めることはできないにせよ、初代王の事績や系譜や名前が伝承されて、それが神武の事績に反映されているのではないか、との見解を採る人は決して少なくない。そうした見解を採る人の中でも、どの程度正確に初代王の事績や系譜や名前が伝承されて『日本書紀』の該当記事に反映されているかについては、必ずしも意見が一致していないのだが、実在した人物とその事績が、神武の記事の核となっている、という点では概ね一致しているわけである。
初代王は実在した筈であるとの議論は、一見すると説得力があるのだが、私には大きな問題があるように思われる。そもそも、初代王が誰なのかという共通認識が古くから存在していたとは考えにくいのである。どの地域でも国家形成には大変長い時間を要しており、王位(に類するもの。首長などと言ってもよいかもしれない)や国家制度は、長い時間をかけて徐々に形成されていったわけである。
ある程度国家組織が発達した地域では、**王朝の初代王や**政権の初代最高指導者といった人物を特定するのは難しくなく、例えば鎌倉・室町・江戸幕府の初代将軍などもそうなのだが、国家組織の発達の最初期段階においては、初代王を特定するのは非常に難しいと思われる。誰かが「私が初代王に就任する」などと宣言して(或いは周囲から推戴されて)、それが当時の人々の共通認識になったということは想定しづらい。
王位というものは、集団における指導者の地位が徐々に発達していったものであり、前回述べたように、国家形成の初期段階(日本においては弥生〜古墳時代初期)においては、その地位は必ずしも世襲ではなく、王を輩出し続ける特定の家柄というのも恐らくは存在しなかったのであろう。そういう段階においては、現在の王位に繋がる初代王が誰なのかということは重要な関心事ではなく、初代王の存在が関心を呼ぶのは、王位の継承と国家組織がある程度安定してからのことであろう。国家組織発達の最初期段階においては、最初から明瞭な形で王(或いは指導者)が存在したのではなく、その辺は自然に徐々に形成されていったのであろう。仮に、当時の正確な記録が豊富に存在したとしても、後世の人間は誰が初代王か特定するのが難しかっただろうし、初代王候補の当事者達も、自分が初代王との認識はなかったものと思われる。
王位の世襲が安定してから創出・提示される初代王像とは、多分に創出当時の理念を反映したものであり、具体的な史実を反映していた可能性は低いだろう。特に日本の場合、5世紀までは殆ど文字記録がなかっただけに、創出された初代王がどこまで実在した人物の事績や系譜や名前を正確に反映していたか、甚だ疑わしいと言うべきであろう。日本において、そうした初代王像が本格的に創出され始めたのがいつなのか、はっきりとしないのだが、恐らくは5世紀前半を遡ることはないだろう。
こうしたことは、大相撲の横綱という地位にも言えることである。今日でも、初代横綱が誰なのか意見が分かれるているが、それは当初の横綱がどのような地位・権威・特権を有するかという点が曖昧なためでもある。恐らく、初代横綱が誰なのかという問題は、横綱という呼称が使用され始めた当時には殆ど意識されておらず、横綱という制度がある程度確立して初めて問題として取り上げられるようになったのだろう。後の天皇位に繋がる王位についても、同様のことが言えるのではなかろうか。
うーむ、どうも考えていることを的確に述べられなかったか・・・。