江戸時代の文学

 

 前回の続きで、少し具体的に、江戸時代の文学の取り上げられ方について触れてみる。私が高校生の頃使用していた日本史教科書は、山川出版社の1989年版『新詳説日本史』だったが、江戸時代の文学として挙げられているのは、好色物・町人物・黄表紙・読本・人情本・俳諧・川柳・狂歌・歌舞伎や人形浄瑠璃の脚本など主に町人の文学であり、そこに漢詩文が取り上げられることはない。
 江戸時代には、漢詩文は主に武士の文化であったが、武士の文化より町人文化の方が圧倒的に重要であるとの評価が妥当なものであれば、『新詳説日本史』のような記述もそれ程問題はないだろう。確かに、漢詩文を嗜むには、読本・人情本・俳諧・川柳を嗜む場合と比較して、相当に恵まれた学習環境と長い修養が要求されるわけで、誰でも簡単に漢詩文を作れるというわけではない。
 だが、太平期である江戸時代の武士は、戦士としてよりも、寧ろ行政官僚としての役割とそれに相応しいだけの教養が要求されていたのであり、その教養とは具体的には儒学であった。故に、武士は幼少期より漢詩文を叩き込まれて育ったわけで、漢詩文を読み書きできる者は多くいて、実際に多くの漢詩文が残されたのである。
 例えば、書院造の住宅の床の間に漢詩の軸物を掛けたり、襖に漢詩を大書したり、墓誌などが荘重な漢文で記されたりしており、漢詩文がここまで浸透したのは江戸時代になってからであった。江戸時代こそ、日本史上最も漢詩文、つまり中国文化が浸透して尊重された時代であった。そうすると、総量の比較はともかくとして、江戸時代の文学について述べる際、漢詩文の流行について全く触れないのは、著しく偏っていると言わざるを得ない。それに、何と言っても武士は当時の支配層だったわけで、その点も考慮する必要があると思う。まあ、漢詩文の流行については、儒学の隆盛についての記述から汲み取れ、との意見も成り立つかもしれないが・・・。

 江戸時代の漢詩文の流行をもっと重視すべきではないか、と主張する理由は、当時の実態の評価だけによるものではなく、もう一つ、明治期との連続性にもよるのである。明治期の政治・社会的支配層の多くは、武士身分の出自である。明治14年(1881)時点で、中央・道府県の官員に占める士族の割合は70%弱であり、郡区町村の官員にまで広げても約40%に達する。
 官員の上層にいくほど士族の割合は高まるのであり、明治政府は、実質的には武士の政権であり、大正期になっても、南部藩の家老級の家柄の出身である原敬が、平民宰相として持て囃されたくらいである。確かに、明治になって武士の政治・身分的特権は剥奪されたが、だからといって士族が武士としての意識を捨て去ったわけではない。いや寧ろ、特権を剥奪されただけに、一時的には却って武士としての意識を高めたと言えるのではなかろうか。明治維新から100年以上経って誕生した私でさえ、旧士族出身を誇りに思うと公言する人に度々会ってきたくらいである。
 だから、明治期の支配層の中には、例えば乃木希典もそうだが、漢詩文を嗜む人が多数いた。当時の支配層の観念や美意識や価値基準に、漢詩文は大きな影響を持っていた。漢詩文を嗜む傾向は、明治維新以降に本格的に教育を受けた世代が台頭するに連れて衰えていったが、明治期における漢詩文の影響力は決して軽視されるべきではなかろう。
 そして何よりも、明治以降に欧米文化を導入する際、漢詩文を嗜んだ人々によって多数の的確な漢字表記の翻訳語が創出され、欧米文化の普及に貢献したことは特記されるべきで、江戸時代の漢詩文の流行は、日本の近代化に少なからぬ貢献をしたと言えよう。こうした点からも、江戸時代における主に武士階級での漢詩文の流行は、決して軽視されるものではなく、もっと取り上げられるべきだと思う。

 

 

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