織田信長

 

 前回は豊臣秀吉について述べたので、今回はその秀吉の主君だった信長について述べることにする。

 信長は、人によって好みがはっきりと分かれる人物で、そのため総合的な人気では秀吉に劣るとは思うが、熱心な支持者の数では秀吉を上回り、日本史上の人物でも1・2を争うのではないかと思う。先進的な諸政策・有害な旧勢力を妥協せずに制圧し近代化への道を開く・果断な決断力と素早い行動・潔い最期、といった感じで高く評価されており、現在の混迷した日本では、「信長待望論」には根強いものがある。
 一方、信長を嫌う人も多く、その理由は、一向一揆や比叡山への残酷な弾圧・家臣に対する過酷な処置、の二つに概ね集約されるのではないかと思う。信長は残酷な独裁専制君主だった、というわけである。だがこの二点も、信長を支持する人は、統一国家形成への止むを得ない犠牲であった、と反論することが多い。
 ともかく、信長の評価に関しては賛否両論といった感じで、二極化する傾向が強いように思われるが、信長への好悪の感情は実は表裏一体のもので、どちらの立場を取るにせよ、信長の事績や人物像については、実は大きな差はないように思われる。まあ、それだけ個性の強い人物と言えようか。

 だが、一般に浸透している信長の事績についての評価には、私にはどうにも納得できないものも少なからずある。その代表例が信長と鉄砲との関係で、この点については、従来かなり誤解されていたところがあるように思われる。長篠の戦いでの3000丁の鉄砲による三段撃ちなどはなかったし、中には世界史上初の一斉射撃戦術だったと評価する人もいるが、これなどは大嘘である。信長は他の大名家に先んじて大量の鉄砲を装備し、それが信長の勢力拡張に大いに貢献した、という説明もかなり怪しく、織田家の鉄砲の大量装備が他家に先んじていた・他家を圧倒していた、という根拠は薄弱であり、寧ろ信長は、対本願寺など、他家の大量の鉄砲装備に苦しめられた場合が多かったのではなかろうか。信長の統一事業における鉄砲の役割は、どうも過大評価されているように思われ、却って信長を矮小化しているのではなかろうか。信長の凄みは、その卓越した政治・外交・謀略の手腕にあったと思う。
 商業の自由化を果たしたとされる楽市楽座についての一般的な理解も甚だ怪しく、信長や秀吉も含めて戦国〜江戸時代の大名は、旧来の座の特権を保護するのを一般的な政策としていた。大名権力の最重要の目的は生産流通の把握・統制であり、楽市令は、民衆により形成されてきた楽市場の慣行を保障したもの、またはその慣習を新規に建てた市場に取り入れた都市政策、とするのが最も妥当だと思う。また楽市令は、例えば六角氏など、信長以前にも出した大名がいる。
 宗教勢力に対する信長の弾圧についても、誇張されているところが多分にあるのではなかろうか。比叡山焼き討ちについては、麓を焼いただけで大したものではなかった、との説も提示されている。越前や長島の一向一揆の「撫で斬り」についても、対象は百姓層には及ばなかったのではないか、との指摘もある。そもそも、戦国大名が威嚇のために戦果を誇張することはよくあり、信長も、長篠の戦いの後に、長岡(細川)藤孝宛ての書状で、武田方数万人を討ち果たした、と述べている。信長による一向一揆弾圧についても、「撫で斬り」などの文言をそのままに受け取ることは危険で、信長の残酷さが誇張されている可能性も充分あるのではなかろうか。

 現在、一般の信長評は二極分化傾向にあるが、そのどちらの立場にせよ、判断基準となっている信長像は、多分に実像と乖離しているように思われる。大変に難しいことではあるが、先ずは信長の実像に多少なりとも近付くことが必要なのではなかろうか。

 

 

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