邪馬台国九州説

 

 上記のように表題を掲げたが、邪馬台国九州説について詳細に述べるというわけではなく、「邪馬台国九州説」というのは「ツカミ」であり、まあ羊頭狗肉ということになる。では何故こうした表題を掲げたのかというと、邪馬台国と表題に掲げれば読んでくれる人が多いかなあ、と考えたからである。看板に偽りありだが、最後まで読んで頂ければ幸いである。

 著名な古代史家の門脇禎二氏が邪馬台国九州説に転向された、と最近ある掲示板で知った。まあ、転向時期は定かではないのだが、九州説が専門家の間ではさっぱり支持されなくなってからの転向のようで、門脇氏のような名声のある研究者だけに、「殿、御乱心」といった感じである。門脇氏の転向理由はというと、6世紀の日本においても各地域には独自の文化と政権が存在した可能性が高く、6世紀の日本にも各地に多様な政権が存在したのなら、3世紀において統一国家的な倭国が存在した筈はなく、邪馬台国を都とする倭国は地方政権であり、九州を支配していた程度であろう、というものである。
 確かに、6世紀の「日本」においても、各地域に「独自」の文化と「政権」が存在した可能性は高いだろう。だが、それを理由に、『魏書』に見える倭国が九州を支配している程度の「地方政権」とすることはできるのだろうか。これは、倭国や後の律令国家「日本」は強固で一元的な統一国家である、との理解から生じた認識なのだろうが、実のところ、7世紀後半に成立した律令国家といえども、必ずしも統一国家とは断言できないのである。
 
第10回で高柳光壽氏の発言を引用したが、高柳氏は次のようにも述べられている。古代国家日本は決して単一国家ではなかつた。原始神社は、それぞれ独立した政権であつた。それがだんだんと大きな一つの政権の政治機構の中に編入されて行つた。そして、要するに地方独立政権の中央政権への吸収といふことは長い時間を要したのであり、その完全なる中央の政治機構への編入といふことは近世を待たなければならなかつた、というのである。
 高柳氏のこの見解は、大変に興味深いものである。単一の制度が、東北の一部や北海道や南西諸島などを除く「日本」の主要部分を覆っていたとする理解は、甚だ怪しいというのである。これは高柳氏の単なる思い付きなどではなく、氏は古文書を通じて社会の実態を考察した結果として、このような結論を提示されたのである。
 統一政権の重要な指標の一つとして、度量衡の統一が挙げられるが、中世の「日本」における各地の枡や田積などの度量衡は実に多様性に富んでいた。果たしてこれは、中央権力の統制が弛緩した結果として新たに出現した状況なのだろうか。これは、古代と比較して文献が増大したことにより後世の人間が気付いた事象であり、新たな現実ではない、というのが高柳氏の見解で、私も氏の見解に同意する。律令国家といえども、「日本全土」における支配力はそれ程強力なものではなかったが、それでも一応は、「日本」の大部分における政治的統合を果たしたとは言える。実際、各地から人やモノが都に徴発されたわけだが、その実態を見ると、中央集権的な統一国家と呼べるか、甚だ怪しい。
 要するに、統一国家でなくとも広域的な政治統合は成立し得るわけで、3世紀段階の倭国も、広域的な政治勢力であった可能性は充分にあると言えよう。ただ、それを国家と呼べるかというと、異論を唱える人が多いであろう。3世紀の倭国というのは、やや強い同盟・連合と考えるのが妥当かもしれない。そして、一見すると強力に見える律令国家といえども、そうした性格を払拭できてはいないのだろう。

 

 

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