古代貴族の歴史観(其の一)

 

 嘗て、第6回の駄文で『日本書紀』について述べたが、今となっては恥ずかしい限りの内容であるし、また当時とは考えの違うところも出てきた。私の場合、考えが変わるということがよくあるが、それは私の見識がいたって未熟だからで、新たな知見を得ると即座に考えが変わってしまうということも珍しくない。何とも情けない限りだが、その時点での考えを精一杯述べていくしかないだろう、と最近では開き直っている。
 『日本書紀』については改めて駄文で取り上げたいと思っていて、現在の考えを少しずつ雑文の方に掲載していこうと考えている。こうするのは、思い付いたことは忘れないうちに書き残しておこう、と考えたからで、全く纏まりもなく方向性もしっかりと定まってはいないが、雑文は思い付きを述べていく場なので、これでもよかろうとは思う。

 戦後になって水野祐氏により提唱された王朝交替説は学界のみならず在野にも大きな影響を与え、水野説に対して肯定的または批判的な立場から様々な王朝交替説が提示された。こうした王朝交替説に対して、根本的な批判もなされるようになり、前之園亮一氏は『古代王朝交替説批判』(吉川弘文館1986年)などにおいて、王朝交替説というのは、古代貴族階級の時代区分観を王朝の交替と誤認したものである、と批判された。
 前之園氏の提示される古代貴族階級の時代区分観が妥当なものかどうか、私には判断するだけの見識はないが、興味深い見解だと思う。以下、この前之園氏の見解や遠山美都男『天皇誕生』(中央公論社2001年)を参考に、何回かに亘って古代貴族の歴史観と『日本書紀』について述べていくことにする。

 『日本書紀』については権力側の自己正当化と記述の正確さという問題があり、在野の研究者の中には、この問題を重視して、『日本書紀』における歴史の捏造を強調する人も多い。確かに、『日本書紀』の記述がどこまで歴史的事実に即しているかはよく分からず、推古朝以降の記事は概ね信用できるのではないか、というのが一般的な見解だから、推古より前の記事にどこまで信憑性があるのか、よくは分からないということになる。
 何故このようになったのかというと、少なからぬ論者が、天皇家の万世一系と支配層の正当性を証明するために、都合の悪い歴史的事実を隠蔽しようとして過去の記事を捏造したのだ、と主張するのだが、この点には疑問がある。確かに、支配の正当化のための捏造がなかったとは言わないが、『日本書紀』の記事が年代を遡るほど信憑性が低くなる根本的な要因は、政治的圧力よりも編者の歴史的知識と見識の欠乏にあったと私は考えている。
 つまり、推古より前に関しては、文字史料が極端に少なかったため、歴史事実があまり正確には伝えられず、その時代に関する歴史的知識が乏しかったにも関わらず、推古以前の時代についても歴史書として書かねばならなかったため、編者(というか、編者も含めての当時の支配層)の価値観(願望や理想像も含まれるわけだが)・歴史観に大きく依拠した記述となったのであり、乏しい歴史知識に基づいた歴史観によって書かれたので、時として史実とは大きく異なる記述になったのではなかろうか。この古代貴族の歴史観について、『日本書紀』に即して述べていこう、というのが私の意図するところである。

 今回は前書きが長くなったので、本論は次回からということにしたい。尚、表題では「古代貴族」としたが、これは皇族なども含めて7世紀後半〜8世紀後半における律令国家の支配層全体を含んでいる。不正確な表現だが、前之園氏の表現に倣ったというのと、「古代貴族」とすると簡潔に見えるように思われたので、こうした。

 

 

歴史雑文最新一覧へ   先頭へ