信長の野望(其の四)清洲奪取
1553年4月の斎藤道三との会見により道三の支持を得ることに成功した信長は、尾張国内の敵対勢力の制圧と今川家の尾張侵攻の撃退に力を注ぐことになる。
同年7月12日、清洲に居を置いていた尾張守護の斯波義統は坂井大膳・河尻左馬丞・織田三位に殺害された。義統の子の義銀は川狩に出掛けていて難を逃れ、信長を頼って那古野に逃げ延びた。清洲織田家と対立していた信長は、この事件を口実として同父同母弟の信勝(信行)の家臣である柴田勝家に命じて清洲を攻撃させた。成願寺の前で両軍は激突し、信長軍は、河尻左馬丞・織田三位を初めとして清洲織田家の有力な武将約30人を討ち取り、勝利を収めた。清洲織田家は有力な武将を失い、以後逼塞することとなったから、信長にとってこれは重要な戦勝となった。
翌年1月24日には、今川軍が三河の水野家攻略のための付城として村木に築いた砦を攻撃し、激戦となり多大な損害を出しつつも夕刻にはこれを陥落させ、翌日には今川家に寝返った寺本城の麓に放火して那古野に帰陣した。前回述べたように、この村木攻めの時に斎藤道三から援軍が派遣されている。また、この時の戦いでは織田軍が鉄砲を使用していて、確かに鉄砲の使用例としてはなかなか早いが、既に同時代には各地で鉄砲が用いられているから、信長が鉄砲に逸早く着目したとの根拠にはならないだろう。
成願寺前の戦い以降苦境に立っていた清洲織田家の当主で守護代の織田彦五郎(信友)は、信長の伯父である織田信光と提携しようと画策し、1554年4月19日、信光は清洲城の南櫓に移り、両者の間に尾張下4郡をそれぞれ2郡ずつ領有する約束が交わされた。翌日、織田彦五郎の家老である坂井大膳が信光に礼を述べに南櫓に参ろうとしたが、実は信光は、信長と謀って当初より織田彦五郎を騙まし討ちにする所存だったので、兵を伏せていた。坂井大膳はこの様子に気付いて駿河へと逃走して今川義元を頼ったが、織田彦五郎は逃げ切れず切腹させられてしまった。こうして合戦に及ぶことなく謀略にて清洲城を奪取した信長は、那古野城を信光に譲り、自らは清洲城に入った。那古野城に入った信光は、同年11月26日に急死した。『信長公記』には、不慮の仕合せ出来して、孫三郎殿御遷化、とあるが、恐らくは信長の謀略なのであろうし、そのことは家中の者も気付いていたのだろう。
翌年、つまり1555年6月26日、信長の弟の喜六郎が、信長の父方叔父である守山城主の孫十郎の家臣に、川狩の最中に射殺されるという事件が起き、信長の報復を恐れたのか、孫十郎は守山城には戻らず逃亡してしまった。事件を知った信勝は末盛城から守山城へと出撃し、城下に放火した。信長は、一旦は清洲城に帰還したものの、その後に飯尾近江守らを派遣し、一方信勝は柴田勝家らを派遣して守山城を包囲した。信長は異母弟の安房守(秀俊)を守山城に派遣したところ、孫十郎の重臣であった角田新五と坂井喜左衛門が安房守に内応し、安房守が守山城主となった。安房守は、『信長公記』には利口なる人と見える。
着実に勢力を拡大していた信長だったが、1556年4月、岳父の斎藤道三が息子の義龍と戦い敗死し、美濃斎藤家が敵対勢力となったため、以後、桶狭間の勝利と徳川家康(当時は松平元康)との同盟まで、存亡も危ぶまれる厳しい期間を過ごすこととなる。