信長の野望(其の七)桶狭間後編

 

 具体的な戦闘経過とその評価に関しては、諸説あって決めかねるところがあるし、また前回述べたように、戦闘経過を詳細に述べることがこの連載の目的ではないので、簡潔に述べていくことにする。
 1560年5月19日、清洲城を僅か6騎で出撃した信長は、一旦は善照寺に入った。従来、ここから迂回して義元の本陣を奇襲したとされてきたのだが、どうも、そこから直進して中島砦に入り、今川軍本陣を強襲したというのが真相らしい。中島砦に入った時点では、信長率いる兵は2000人弱だったようである。ここで信長は、家臣の反対を押し切って出撃し、今川軍の前進部隊を攻撃したのだが、信長は敵の新手を疲労兵と勘違いして出撃したようである。或いは、士気を上げるために敢えてそう言ったのかもしれないが、ともかく、信長は叩きやすい敵に打撃を与えて今川軍を撃退することを意図していたのであり、必ずしも当初から義元の首を狙っていたのではないことが窺われる。
 今川軍の前進部隊を撃破した織田軍は、戦果を拡大すべく追撃し、遂に今川軍本陣に到達した。義元は、周辺部隊の来援を待つのではなく、一時撤退して体勢を立て直そうとした。この判断自体は、間近に来援可能な自軍部隊がいなかったと推測されることから、特に間違いとは言えないように思うのだが、今川軍本隊は勢いに乗る織田軍に突き崩されてしまい、義元は討ち取られてしまった。撤退せずに踏み止まって戦った方がよかったのかもしれないが、それは結果論というものであろう。
 信長がどの時点で義元本陣の場所を突き止めたのかは分からないが、どうも、今川軍の前進部隊が本陣に向かって敗走しているのを追撃していたら、敵本陣に到達したという感じで、直前までは確証はなかったのではなかろうか。信長の桶狭間の戦いにおける勝利は、かなり恵まれたところがあるように思う。堅実に勢力を拡大してきた義元の失策は、やや孤立した形で布陣していたところを織田軍に強襲されてしまったことだが、これも結果論的解釈のように思われる。要するに、桶狭間の勝敗は運によるところが多分にあったと思うのだが、信長に数少ない好機を活かすだけの器量があったことも間違いないであろう。

 義元の敗死を受けて今川軍は退却し、信長は初期の目的を果たしたどころか、当主の義元まで討ち取るという想定していた以上の戦果を挙げた。だが、これで今川家の脅威が根本的に除去されたということはなく、それは徳川家康(当時は松平元康)との同盟締結まで待たねばならなかった。とはいえ、家康との同盟も桶狭間の戦いにおける勝利なくしてあり得なかっただろうから、桶狭間の戦いが信長にとって一大転機だったことは間違いない。
 家康は、桶狭間の戦いの後、本拠の岡崎城に帰還したが、義元の跡を継いだ氏真は信長に到底及ばないと判断したのか、織田家と通じていた三河の豪族水野家を仲介役に、信長と1562年1月に同盟を締結し、今川家から離反することとなった。これにより、織田家と徳川家は尾張のほぼ全域と三河西部を押さえることとなり、推定合計石高約60万石で、今川家の推定合計石高約50万石を逆転することとなった。もし、家康が依然として今川家に従っていたとしたら、義元を討ち取って鳴海城などを奪取したとはいえ、依然として今川家の半分強という勢力に留まっていたわけだから、苦戦は免れないところであった。
 桶狭間の戦いの結果、戦国時代によくあった代替わりに伴う劇的な勢力変動が起きたわけで、以後信長は、今川家の脅威に悩まされることなく美濃に侵出できたし、一方家康も、今川家の内紛と衰退に乗じて三河東部から遠江への侵出が可能となったから、織田・徳川両家にとって、この同盟は大いに有益なものとなった。もっとも、この同盟により、今川家、更には武田家という東方の大敵の脅威が大いに軽減されたわけだから、織田家の方が遥かに多く利益を享受したと言えるかもしれない。また、或いは信長には、三河侵出という選択肢もあり得たとの想定も可能かもしれないが、美濃斎藤家と既に敵対関係にある以上、やはりそれは難しかったであろう。信長の慎重な外交方針がここにも認められると思う。

 蛇足だが、義元は斎藤家などと連携して織田家を圧迫すればよかった、との見解も或いはあるかもしれない。だがそうなると、尾張制圧の達成時には斎藤家も尾張の一部の領有権を主張してくるであろうから、単独で尾張を制圧できる可能性の高かった今川家としては、割りのよい話ではない。斎藤家は、当主の義龍が若死にしたことから推測するに病弱だったようで、それでも父の道三よりは器量があったのか、美濃国内は何とか纏めていたが、父子の争いの余波もあってか、国外に積極的に出撃することはなかった。
 北伊勢は諸勢力が乱立して一枚岩とはいかなかったから、今川家の尾張侵出を妨害する強力な勢力はなかったわけで、義元とすれば、それらの勢力は尾張を単独で制圧した後に服属させていくつもりだったのだろう。仮に義元が桶狭間の戦いで信長を返り討ちにしていたら(その可能性は充分すぎるほどあったと言えよう)、そのまま今川家が尾張と美濃と伊勢を制圧し、最大の勢力にのし上がっていた可能性は高いであろう。
 もっとも、義元が信長のような天下人となれたかというと、年齢の問題もあるので難しかっただろうし、後継者が氏真だけに、今川家による統一が達成された可能性は低いだろう。当主の器量に大きく左右されない体制の確立には、それ相応の時間と「手順」が必要なのである。
 ただこの場合、義元は戦国時代屈指の名将として現在も賞賛されたていたであろうことは間違いないと思う。だが、信長の出撃策が運よくずばりと嵌って義元は討ち取られてしまい(義元に全く過失がなかったとは言わないが)、信長は現在も日本史上屈指の英雄・天才として賞賛される一方、義元は貴族かぶれした文弱で間抜けな大名という評価がまかり通ってしまい、近年になって漸く一般にも高く評価されるようになった。一度の失敗でこれだけ評価を落としてしまうとは、世評とは何とも怖いものである。

 

 

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