信長の野望(其の十三)越前侵攻

 

 前回述べたように、1570年1月23日、信長は周辺の大名に上洛するよう命じ、徳川家康などがこれに応じたのだが、京都に近い朝倉義景はこれに応じなかった。すると信長は、これを口実に朝倉領へと攻め込んだが、信長は最初から義景が上洛に応じないことを見越していて、朝倉家を攻める口実を作るために上洛を命じたのであろう。当時、義昭は各地の大名に御内書という私的文書を送っていたようだから、前回述べた五ヶ条の事書では、義昭が無断で書状を送ることが禁じられたのである。恐らく義昭は、嘗て逗留していた誼から義景に対しては特に期待するところがあったのだろう。或いは、信長に替わって後見役を勤めるよう要請したのかもしれない。そのような背景があったため、信長が、上洛して将軍に仕えて天下安寧を図ろう、などと言ってきても、義景は最初から応ずるつもりはなかっただろうし、信長もそれは分かっていた筈で、朝倉家を早期に制圧する必要性があると認識していたのだろう。
 だが、義昭が御内書を送ったのは朝倉家だけではない筈で、武田家や毛利家や嘗て最も親密であった上杉家などにも送っていたことは間違いなく、それは信長も分かっていた筈である。故に、朝倉家を早期に制圧しなくてはならなかったとしても、必ずしも最初にする必要はなかった。そこで、義昭との対立が確定してから最初の攻略目標を朝倉家とした理由を少し考えてみたい。

 この時点での信長の領国は尾張・美濃・伊勢・南近江で、石高は約180万石となる。更に、畿内の多くの勢力は親織田家で、三河と遠江を押さえている徳川家と北近江の浅井家とは織田家優位の同盟関係にある。そうすると、織田家の侵攻方向としては、四国・山陽・山陰・紀伊・和泉・駿河・信濃・飛騨・越前・若狭といった所が考えられる。このうち、まだ領国とは言えない畿内または同盟国を通過しての侵攻となる四国・山陽・山陰・和泉・駿河は、飛び地となるので維持が難しい。そうなると、残りは紀伊・信濃・飛騨・越前・若狭となる。
 このうち飛騨は、既述したように諸勢力が武田派と上杉派に分かれて争っていて、上杉・武田両家の争いにわざわざ首を突っ込むのは、飛騨の低い国力を考えると得策ではない。そうすると、若狭には朝倉家が勢力を浸透させていたから、要するに紀伊・武田家・朝倉家のいずれを次の有力侵攻方向とするか、という問題になる。紀伊へは南伊勢から侵攻できるが、地形が険しく紀伊半島をぐるりと回る形となり行軍距離が長くなるので、大軍を展開するには不向きである。それに、紀伊は諸勢力が乱立していて、国を挙げて織田領に侵攻するという危険性はないから、取り敢えず放置しても構わない。
 大軍の展開が不向きなのは信濃への侵攻路も同様で、しかも信濃を治める武田家とは友好関係にあるから、敢えて敵を作らなくてもよい。妥当な判断と言えるが、この時期の武田家は四面楚歌とも言うべき状況で、北条・徳川・上杉の三大勢力を敵に回していて、周囲の有力な友好勢力は織田家のみであったから、ここで反武田側に回って信濃に侵攻するという手もあった。だが、信長の戦略はここでも慎重で、京都に近く現時点では敵に回る危険性のより高い朝倉家を最初の侵攻対象としたのである。
 この時点での朝倉家の石高は約45万石なのに対して、連合軍は織田家単独でも180万石もあり、これに徳川家や松永家なども加わるのだから、信長は六角家と同様に朝倉家も一気に潰せると考えていたかもしれない。だが、内紛で分裂していた六角家とは違い、朝倉家の底力は侮れないもので、4倍以上の織田家を相手によく戦い、信長も、3年以上軍事的圧力をかけて疲弊させることで、朝倉家を漸く制圧することができた。

 信長は1570年2月25日に岐阜を発ち、観音寺城近くの常楽寺まで出て相撲を取らせた後、3月5日に入京し、その後、徳川家康・北畠具房・畠山高政・一色義道・三好義継・松永久秀・姉小路頼綱が上洛している。4月14日には能楽を催しているが、これは朝倉義景を油断させるためだろうか。りしていた。早期に敵としての立場対心北条・徳川・上杉一気ににだろう。妥当なところだが、も脅威
 4月20日、信長は連合軍を率いて京都を発った。3万もの軍勢を率いてのこの出兵の名目は、若狭の豪族で反抗的な武藤友益を屈服させるというもので、その反抗が朝倉家の策動だと分かったので、越前に攻め込んだのだ、と信長は説明しているが、武藤云々は単なる名目で、最初から朝倉家攻撃が目的だったのは間違いないだろう。表立っては敵対していない朝倉家を攻める大義名分をしっかりと用意しているあたりが、信長の芸の細かいところである。
 連合軍は22日に若狭の熊川に宿泊し、23日には越前との国境に近い佐柿に到着し、翌日もここに留まっている。25日には越前に攻め入り、要害の天筒山城を力攻めで陥落させ、同時に義景の従兄弟である朝倉景恒の籠る金ヶ崎城を攻め、翌26日には開城した。また、疋田城の朝倉軍も撤退し、労せずして同城を手に入れた信長は、家臣を遣わしてこれを破却させた。
 朝倉家に油断があったのか、こうして連合軍は敦賀郡をあっという間に制圧し、続いて木芽峠を越えて戦果を拡大しようとしたところ、浅井家が「離反」したとの一報が伝わり、浅井長政は義弟だけに、信長も当初は信じられなかったようだが、その後も続々と浅井家離反の報が注進されてきたため、信長は止むを得ず僅かな人数を連れて、琵琶湖西方の若狭街道を通って素早く京都へと退却した。途中、朽木谷の領主である朽木元綱の歓待を受け、京都に帰還したのは4月30日であった。この時、殿軍を務めたのが木下藤吉郎、即ち後の豊臣秀吉であった。

 浅井家「離反」の理由は、幾つか考えられる。義昭は各地に御内書を送っていたから、浅井家にも届いていた可能性は高く、これが織田家との手切れを決断する際の理由の一つとなったかもしれない。また、若狭の武藤家征伐を名目としていて、三河岡崎の徳川家が参戦しているのに、ずっと近い近江小谷の浅井家が参戦していないのも変な話で、この事実から推測するに、この時点でも浅井家と朝倉家とは親密な関係にあった可能性が高い。恐らく、信長が両家の関係を考慮して浅井家には動員を命じなかったのだろう。
 尚、『總見記』などを根拠に、織田・浅井同盟締結の際、織田家と朝倉家が戦う時は事前に浅井家に通告するとの約束がなされていて、これに違約したため浅井家は織田家と手を切ったのだ、とする解釈も根強くあるが、浅井家との同盟締結でそこまで自らの行動を束縛するような約束を信長が交わした可能性は高くないように思う。更に、上洛戦の際に、浅井軍は信長に協力し、宿敵の六角家を滅ぼしているのに、旧六角領の南近江が織田領となったことが挙げられる。北近江の支配は認められているとはいえ、これでは、当主の長政のみならず、家臣団も信長に対して不信感を抱いたのではなかろうか。
 長政と家臣団は上洛戦以降信長に対して不信感を抱いており、今度は親密な関係にある朝倉家に攻め入ろうとしている。義昭からの書状より推測するに、反信長派に立つ勢力も少なからずいるようである。何よりも、反織田家として今起てば、織田軍を挟み撃ちにして信長を討ち取れる可能性も充分ある。このまま織田家に従っていたら、上洛戦の時のように便利使いされ、しかも侵攻方向は険しい山越えとなる丹波くらいしかないが、信長を討ち取って織田家を瓦解に追い込めば、南近江や美濃など国力の高い地域を取れる可能性がある。
 恐らくこのような考えで、長政は織田家との手切れを決意したのだろう。ただ長政の誤算は、恐らくは信長の朝倉攻めを事前には想定していなかったことで、そのため素早く軍を展開できなかったことであろう。もう一つの誤算は、信長が素早く退却してしまい信長を討ち取れなかったことで、長政は約6倍の織田家を相手に戦わざるを得なくなったのである。ただ長政は、信長を討ち漏らしたとはいっても、反信長派の決起に期待していただろうから、この時点では敗北を覚悟していたわけではなかろう。

 

 

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