信長の野望(17)比叡山焼き討ち

 

 浅井・朝倉と和睦した信長は、12月17日に岐阜に帰還し、この後半年近くは表立ってた動きはなかった。この間の織田方にとっての最大の収穫は、1571年2月24日、浅井方の佐和山城主磯野員昌が降伏し、京都と岐阜の連絡線上に位置する重要拠点を奪取したことである。員昌は高島へと移り、替わって丹羽長秀が佐和山城に入った。
 織田家と浅井・朝倉家との講和は、同年5月に破れることになった。5月6日、浅井長政は本拠の小谷城から出撃し、配下の浅井七郎に一揆と合わせて5000の兵を率いさせ、箕浦へと出撃した。ここには織田方の鎌羽城があり、
第54回で述べたように、城主の堀秀村は前年に浅井方から織田方に鞍替えしていた。堀秀村の後見役は、樋口直房が務めていた。
 浅井軍は、例によって城下の諸所に放火していき、この報を受けた木下藤吉郎は、小谷城監視の役割を担っている横山城から100騎ほどを引き連れて出撃し、堀・樋口の軍と合流し、織田軍の兵力は合計500〜600となった。兵力は劣勢だったが、浅井軍は一揆も含めた烏合の衆だったためか、それとも実際の兵力差はさほどでもなかったためか、織田軍は浅井軍を敗走させた。

 これ以降、4ヶ月に亘って織田軍の軍事行動が活発となっていく。同月12日、信長は伊勢長島の一揆を攻略するために出陣し、尾張津島に本陣を置いた。だが信長は、攻略は難しいと判断したのか、早くも16日には退却命令を出した。この時、殿軍の柴田勝家が負傷し、美濃三人衆の一人である氏家卜全は討ち死にした。
 暫しの休息の後、信長は8月18日に近江へと出陣し、例によって、一揆の立て籠もった城や砦の周囲を焼き払ったり、周囲の農地で苅田を行なったりしていき、小川を屈服させることに成功している。
 9月12日には比叡山へと向かい、麓の町坂本と延暦寺を焼き払い、僧侶など数千人を殺害したという。前年の延暦寺への予告をそのまま実行したわけだが、その規模に関しては疑問もある。比叡山焼き討ちは、同時代人には大変衝撃的だったようだが、これをあまりにも過大視してはならないだろう。延暦寺と信長との間には、元来寺領の押領などで対立があり、それが前年の延暦寺の浅井・朝倉への加担で、更に激化した。
 この焼き討ちは敵対勢力への攻撃というのがその本質で、中世的権威への挑戦という意味合いを積極的に認めることは難しいように思う。また、信長は信仰そのものを問うているわけではなく、自らに従わず敵対していることを問題視しているのであり、この点は一向一揆・本願寺との戦いも同様である。

 信長は9月20日に岐阜に帰還し、この後半年ほど、再び戦線は膠着するが、織田軍は休息していたわけではなく、横山城など各地の城にて、浅井軍や一揆を牽制していたわけである。織田家よりも遥かに国力の劣る浅井家は、潰されないためにも動員を思い切り緩めるわけにはいかず、次第に財政事情が苦しくなっていった。
 この間、畿内では松永久秀と三好義継が反織田方に鞍替えし、宿敵だった三好三人衆と講和を果たした。畿内の有力な織田勢力が鞍替えとなると、信長も劣勢に追い込まれそうなものだが、諸勢力の乱立する畿内ではそうもいかない。久秀の長年の宿敵だった大和筒井家当主の順慶は明智光秀を通じて信長への帰順が認められ、大和ではこの順慶が織田方として活動しており、8月には松永軍は筒井軍に大敗している。久秀が反織田に鞍替えしたのは、順慶の信長への帰順が認められたことも大きな理由となっているのかもしれない。このように、畿内では諸勢力が乱立しており、一向一揆・本願寺は外征能力が低いから、反織田勢力も、大攻勢というわけにも京都を脅かすというわけにもいかず、戦線は膠着していたのである。

 こうした状況の中、先に動いたのは織田軍であった。織田領南近江では相変わらず一揆や六角家残党がしぶとく機を窺っており、これを見過ごすわけにはいかなかったのである。
 年が明けて1572年3月5日、信長は北近江へと向けて岐阜を発ち、7日には小谷城へと迫り、城下だけではなく余呉と木本にまで例によって放火した。予てより浅井家の者は、余呉と木本にまで織田軍が来たのならば一戦に及ぶと言っていたので、姉川の時のように浅井軍を挑発して誘き出そうとしたのだろうが、今回は朝倉家の援軍がなかったので、浅井軍は出撃してこなかった。
 そこで信長は、明智光秀らに命じて浅井方の木戸城と田中城を攻略するための付城を築かせ、自身は3月12日に上洛した。京都に滞在中、信長は義昭の勧めで滞在所の建築に取り掛かっている。この時点では、義昭もまだ、信長と表向きは協調しておく必要性があると考えていたのだろう。
 信長の京都滞在中、三好義継は松永久秀・久通父子と連携して、織田方の畠山高政の家臣である安見新七郎のいる交野城を攻めた。これに対して信長は、4月14日に交野城へと援軍を派遣し、これに恐れをなしたのか、義継と松永父子はそれぞれ自領に帰還した。これを受けて信長は、5月19日に岐阜に帰還した。7月19日、信長は岐阜を発ち北近江へと向かったが、これは嫡男である信忠の初陣でもあった。21日には小谷城へと迫り、柴田勝家らに命じて城下町を攻めさせた。信長は、22日には、木下藤吉郎に命じて、浅井家重臣の阿閉貞征の立て籠もる山本山城の麓に放火させ、23・24日には、寺院も含めて浅井領内の各所に放火していった。それと共に、山や琵琶湖に浮かぶ竹生島に立て籠もった一揆・僧侶を攻撃して多数の者を斬り、27日には小谷城の南2kmにある虎後前山に砦を築くよう命じた。

 こうして信長は小谷城の孤立化を着々と進めていき、これに対して浅井長政は朝倉家に援軍を要請し、29日には当主義景自ら15000の兵を率いて小谷城に到着した。朝倉軍は小谷城北西の大嶽という山に陣取ったが、ここも城砦化されて小谷城本丸との間に山道が繋がっており、両者併せて一つの城郭といったところである。義景自ら15000もの兵を率いながらも、浅井・朝倉連合軍が城に立て籠もったところを見ると、恐らく織田軍の方が兵数ではかなり優勢だったのだろう。
 8月8日に朝倉家重臣の前波吉継とその子3人が織田家に寝返ると、翌日には同じく朝倉家重臣の富田長繁・戸田与次・毛屋猪介が織田家に寝返った。国力では圧倒的に劣勢にも関わらず、朝倉家は2年以上も織田家相手に戦っており、家臣も軍役負担に耐えかねて朝倉家を見限ったのだろうが、無論、織田家の調略もあったのだろう。これを以って義景は無能とする見解もあろうが、大敵相手に戦っているのだから止むを得ないところもあり、義景を一方的に無能と指弾してしまうのは酷だろう。
 小谷城の陥落は無理と判断したのか、信長は9月16日に横山に移り、その後岐阜へと帰還した。小谷城の陥落こそ果たせなかったものの、朝倉家の重臣が相次いで寝返り、近江の諸一揆も次第に鎮圧されてきており、情勢は信長に有利に動いていった。そこで信長は、反織田勢力を裏で扇動していた義昭に対して強気に出て、同月に義昭に対して17ヶ条の異見書を突きつけたが、その内容は、諸国に勝手に御内書を出したている・貪欲だ、などといった義昭の非を糾弾するものだった。この異見書は信長によって各地に流布された可能性もあり、信長は、対立している義昭を糾弾することで、自己の正当化を図ろうとしたのだろう。

 

 

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