人類史に疑惑?(8)

 

 1月17日の日記にも書いたが、インドで人類史を大幅に書き換える可能性のある大発見があった。この他の海外サイトでも伝えられているし、海外の掲示板でもこの発見をめぐって議論がなされており、かなりの話題を集めているようである。まあ、人類史というよりは文明史・世界史を大幅に書き換える可能性のある問題と言うべきであろうが、まあ広い意味で人類史上の問題であることも間違いなく、「人類史に疑惑?」の連載で取り上げることにした。

 1月17日の日記にも書いたように、この発見には大いに疑問が呈されている。東海大非常勤講師の小磯学氏(南アジア考古学)の談話は、一般的常識では考えられない話だ。放射性炭素年代測定法で測っていると思うが、測定した資料が何かを知りたい。資料が海底で汚染されている可能性もあり、その場合、正確な値が出ているとは考えにくい。海底の資料を陸上の遺跡と同じように考えるのはどうかと思う、となっていて、海外の掲示板でも同様に、この測定結果への疑問が呈されていた。確かに、常識はずれの年代測定結果だから、まあ仕方のないところだろう。ただ、問題は測定結果だけではなく、インド政府の公式発表の表現にもあるように思われる。どうも、インド政府がつい誇張して発表してしまい、それが年代測定への疑惑を招いているのではなかろうか。

 発見されたものは、建築資材・陶器・玉・彫刻の破片・ヒューズ付きの工芸品などで、海面下40mには、庭や階段や浴室や寺院らしきものがあるらしい。インド政府は、これらをインダス文明と関連があるとし、メソポタミア文明を遡ること4000年以上前に、既に都市と文明があった可能性に言及したわけである。
 紀元前7500年に都市文明が存在したなど、とうてい信じがたいわけで、年代測定結果に疑問が呈されたのは無理もないことである。インダス文明を遡ること5000年前とされるこの「文明」は、その後どうなったのだろう。5000年にも及ぶ空白を、インド政府はどう説明するのだろうか?
 もちろん、インド政府は、関係各分野の専門家からなる調査団を編成し、さらに詳しい探索と検証を実施することを決定したのだから、私のような素人は調査団の報告を待つしかないともいえるが、敢えてこの一連の事態を推測すると、インド政府が先走ってしまい、遺物とインダス文明とを安易に関連づけてしまったのではなかろうか。

 そもそも、都市や文明という用語は定義があんがい曖昧なもので、近年では縄文都市・縄文文明といった言説も日本では一部で盛んになっているくらいである。どういう基準を満たせば都市であり文明であるのか、歴史家・考古学者・人類学者などの間で、共通の認識などないというのが現状であろう。
 その都市や文明という用語を安易に持ちだしてしまったことが、インド政府の今回の最大の失敗だったように思う。遺物は、紀元前7500年のものとしては確かに驚異的といえるかもしれないが、それでも出土することなどありえない、というものでもない。また、海底の遺構らしくものに関しても、自然の地形なのかどうか、今後の詳細な調査を待つしかないであろう。近年、日本でも沖縄の「海底遺跡」が話題となったが、これは自然の地形ということで既に決着がついたようである。
 だから、インド政府も、海底に遺跡らしきものがある、という程度にしておけばよいものを、あろうことか。寺院の存在する可能性にまで言及してしまったから、大いに信用を失ってしまったのではなかろうか。寺院が存在するとなれば、とうぜんのことながら、一定水準の高度な宗教の存在を想定することになるから、まあ事実とすれば、確かに後のインダス文明をも一部では凌駕するような高度な文明の存在する可能性もでてくる。

 このような誇張を考慮して今回のインド政府の発表をあらためて考えてみると、紀元前7500年という測定結果は、ただちに全否定すべきものではなかろう。当時、インド西海岸に優れた文化の存在した可能性もあり、その場合、そうした文化と後のインダス文明、あるいはメソポタミア文明とをどう関連づけるかということが、考古学にとって大きな課題となることだろう。ただ、やはり小磯学氏の指摘されるように、今回の年代測定の結果は大いに疑問の残るところで、今後大幅に下方修正される可能性が高いのではなかろうか。

 

 

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