日記を読む(3)
前回に続いて、1987年10月頃から1988年3月頃までの日記から、時事ネタをひろっていきたい。
1987年11月13日(金曜日)
巨人の江川投手が引退した。今季は13勝しており、まだ働けると思うのだが、肩が大変悪いらしく、ここ2・3年は「100球肩」と呼ばれていた。入団する時も、引退する時も騒がせた人だった。
引退する時も騒がせた人だった、と書いたのは、引退発表と記者会見が唐突だったためなのだと思うが、記者会見の内容がまた物議を醸すものだった。記者会見で発表された引退理由は、日記にも書いたとおり、肩の状態が大変悪いということで、現役を続けられないほどの状態だったかどうかはともかくとして、その発言自体に虚偽はないだろう。
問題は、引退を決意した直接の経緯についての説明だった。優勝争いをしていた広島との重要な一戦の登板が予定されていたのだが、肩の状態がよくないので、何とか万全な状態にもっていきたいと考え、ある鍼灸師のもとを訪ねたところ、「次の試合には万全な状態にもっていけるが、そのかわり、来年には投げられなくなるよ」と言われたというのである。それでもかまわないと思い、治療を受けて広島戦に登板した江川だったが、小早川にサヨナラホームランを打たれて敗戦投手になってしまった。この時、江川が激しく泣く姿がテレビで全国に放送され、クールとの印象のあった江川投手のことだけに、当時はたいへん驚かれたものである。
江川の言い分を信じれば、なんとも感動的な話しということになるのだが、広島戦登板の前後、巨人はとくに追い詰められていたわけではなく、はたしてそういう危険な治療を受ける必要があったのか、そもそも、「次の試合には万全な状態にもっていけるが、そのかわり、来年には投げられなくなる」ような鍼灸治療などあるのか?という疑問が当然のごとく記者団から出されたのである。
記者団の質問に対して江川は、説明を撤回することはなかったが、案の定、鍼灸師会から「そんな危険な鍼灸治療など行なうはずがない。その治療を行なった鍼灸師の名前を公開しろ」との質問を受けることとなった。江川はついに問題の鍼灸師の名前は明かさず、問題はうやむやに終わってしまったが、どうもこの問題は、頭のよい江川が、引退事情を美談めかしたものにするとともに、小早川に配慮しようともして、つい事実を潤色してしまった結果おきてしまったように思われる。
「小早川ごときに自信のある球を打たれてしまい、投手を続けていく自信がなくなりました」と素直に言っておけば(もっとも、これは私の邪推なのだが)、このような問題にはならなかったのではなかろうか。まあそれはそれで、また別の意味で問題となったのかもしれないが。