『イリヤッド』の謎について

 

初めに
 『イリヤッド』は基本的には歴史ミステリーであり、サスペンスとしての性格も強いので、私もそうですが、謎解きに魅力があると考えている読者は多かろうと思います。そこで、119話まで進んでいた2007年4月24日に、『イリヤッド』の謎について整理し、自分なりの考察を掲載しました。その後、『イリヤッド』の連載は
2007年6月20日発売の『ビッグコミックオリジナル』2007年13号(7/5号)にて123話で完結し、単行本も2007年7月30日発売の15巻で完結となりました。
 連載完結後にも、ブログで『イリヤッド』の謎について自分なりの考えを色々と述べてきましたので、改めて、『イリヤッド』のさまざまな謎について、自分なりの考察を整理して掲載することにしました。中心となるのは、人類にとっての禁忌も含めたアトランティスにまつわる謎で、これについては『イリヤッド』の紹介でもちょっと述べましたが、ここではもう少し詳しく述べていこうと思います。また、直接アトランティスには関わらない謎についても述べていくことにします。以下の文中には、何話を根拠にした推測か述べた箇所がたびたび出てきますが、それぞれの話が単行本のどの巻に収録され、どういうタイトルかということについては、主要登場人物一覧表を参照してください。

 

アトランティス文明の実像
 もちろん、実像とはいっても、あくまで作中での設定ということです。アトランティスは紀元前10000〜紀元前9000年前頃に成立した世界最古の都市・文明であり、イベリア半島の南西部とアフリカ大陸の北西部、さらにはイベリアとアフリカの間の大西洋に浮かぶ島々にまで領土を有していました(121話)。アトランティスの中心地(都)は、アトランティス文明の発祥地を都だと考えると、イベリア半島南西部の、セビーリャを頂点としてティント川とグアダルキヴィル川に挟まれた三角地帯内(場所はこの地図を参照してください)だと思われます。現在、そこにはドニャーナ国立自然公園があります。
 ただ、テネリフェ島の山中遺跡の砂絵の地図が古代の地形を表していて、ピラミッドがアトランティスの中心だという入矢の推測(95話)が正解だとすると、アトランティスの都は大西洋上に浮かぶ島ということになりそうです。始皇帝陵からルスティケロが持ち出した聖杯(ソロモン王の壺)に入っていた地図には、イベリア半島の南西部とアフリカ大陸の北西部の西側の大西洋上に巨大な島が浮かんでおり(121話)、そこがアトランティスの都だったとの解釈もあるでしょう
。また、入矢たちがジブラルタル海峡に面したイベリア半島側からアフリカを眺め、巨大な島に見えると発言した123話の最後の場面も気になるところです。

しかし、121話の入矢とグレコ神父の会話や、『イソップ物語』「柱の王国」(112・113話)を考慮に入れると、アトランティスの都はイベリア半島南西部と解釈するのが妥当だと思われます。『イソップ物語』「柱の王国」は、アトランティスの都の崩壊(アトランティスの滅亡)を意味していると解釈するのが妥当でしょうが、古代ベルベル語で柱はタルセッツと呼ばれていて、これが『旧約聖書』のタルシシュ=ヘロドトス『歴史』のタルテッソスという名称の語源になったものと思われます(119話)
 作中では断言されていませんが、アトランティス文明の都に攻め込んだアマゾネス族(ベルベル人の祖先)は、アトランティス文明を「柱の王国」と呼んでおり、アトランティスの都の壊滅後に、アトランティス人の生き残りとイベリア族(欧州に巨石文明を広めた)とが建設した国家も、アマゾネス族やフェニキア人などに「柱の王国」と呼ばれ、後に『旧約聖書』のタルシシュ=ヘロドトス『歴史』のタルテッソスとして記述されたものと思われます。なお入矢は、アトランティスのキーワードである兎はイベリア族の象徴だと述べていますが(119話)、作品全体の流れからは、イベリア族だけではなくアトランティス人をも含むものと考えたほうがよさそうです。

アトランティス人は、アトランティス滅亡の前にも後にも、地中海各地など広範な地域に植民していたと思われますが(26・33〜36・62〜65・116話)、その中で、アトランティス滅亡後にアトランティス人の生き残りがイベリア半島南西部に築いた国が、柱を語源とするタルテッソスと呼ばれていたのは、そこが元々はアトランティス文明の都だったから、と考えるのが妥当だと思われます。おそらく、アトランティス文明の都は地震で崩壊しても、土地がすべて沈んだというわけではなく、入矢が言うように(121話)、残った土地の上にタルテッソスが建設されたのでしょう。
 アトランティス文明の担い手は、8万年前にアフリカから紅海を渡った現生人類か、同じ頃に大西洋を越えてイベリア半島に到着した現生人類の別の部族かもしれない、と入矢は述べていますが(121話)、アトランティス文明の都が
イベリア半島の南西部にあったことを考えると、後者が担い手だったと考えるほうがよさそうです。ただ、前者の一部がイベリア半島まで進出し、後者と融合したと考えてもよいかもしれません。

アトランティス文明は、世界でいち早く金属器の使用を始めたため、他の地域にたいして優位に立ちましたが、紀元前2500年頃に他の地域も青銅器時代に入ると、その優位性が失われてアトランティスによる平和の時代は終わり、アフリカ沿岸で勃興したアマゾネス族に侵略され、その直後に地震と洪水のため、アトランティスは滅亡しました(121話)。
 アトランティスが滅亡した年代について、作中では断言されていませんが、重要な手がかりとなりそうなのは、テネリフェ島の「冥界の王」のミイラの年代です。テネリフェ島を含むカナリア諸島最古の移住者はアトランティスの生き残りだったとの伝承がありますので(96話)、これが正しいとすると、カナリア諸島最古の移住者の生存していた年代がアトランティス滅亡の年代とほぼ一致することになります。
 カナリア諸島にいつから人類が住むようになったのか、作中では明示されていませんが、「冥界の王」のミイラが紀元前2500年頃の人とされているので、紀元前2500年にはカナリア諸島に人がいたという設定のようです。もっとも、「冥界の王」の死体は別の場所でミイラ化し、後世になってテネリフェ島に持ち込まれたという可能性もありますが、テネリフェ島はミイラ作りに適していると入矢が述べていることから(94話)、「冥界の王」はテネリフェ島で死亡したと考えるのが自然でしょう。「冥界の王」がカナリア諸島最古の移住者であり、テネリフェ島でミイラ化したとすると、アトランティスが滅亡したのは紀元前2500年頃ということになりそうで、他の地域も青銅器を使用するようになってすぐのことなのでしょう。

アトランティスが滅亡した経緯は上述の通りですが、出雲の民間伝承とのつながりが気になるところです。『イソップ物語』「柱の王国」では、兎の女王の国(アトランティス)はあっさりと国を明け渡したことになっており(112・113話)、これは、「最初の日本人でありながら何もせず、次に来た人々に都市を明け渡した」という出雲の民間伝承(48話)と通ずるところがあるように思われます。
 ただ、出雲の民間伝承は日本列島内の二つの巨大な都市国家の対立を表している、ともされていて(50話)、出雲の民間伝承がアトランティス滅亡の伝承を日本に置き換えたものなのか、偶然日本でもアトランティスの滅亡と似たような出来事があったのか、判断の難しいところです。人類共通の記憶との赤穴博士の話(50話)からは、前者と考えるほうがよさそうですが、この赤穴博士の話はオカルト色が強く、『イリヤッド』ではやや異色な感がしますので、とりあえず今後の宿題ということにしておきます。

以上、作中におけるアトランティス文明の設定について推測してきましたが、以下、作中におけるアトランティス文明像を整理して述べていくことにします(曖昧なところも断定調で述べることにします)。
 アトランティスは、紀元前10000年〜紀元前9000年頃、イベリア半島南西部に成立した世界最古の都市・文明でした。アトランティスは、
イベリア半島の南西部とアフリカ大陸の北西部、さらにはイベリアとアフリカの間の大西洋に浮かぶ島々にまで領土を有し、その都は、セビーリャを頂点としてティント川とグアダルキヴィル川に挟まれた三角地帯内(場所はこの地図を参照してください)にありました。
 アトランティス人は、都が崩壊した後だけではなく、その前から、地中海沿岸の各地やコーカサス地方などにも進出しており、各地にアトランティスの文化を伝えていました。また、紀元前3000年よりも前にアフリカからイベリア半島に渡ったイベリア族も、アトランティス文明の影響を受けた後に各地に進出したため、巨石文化を広めるとともに、アトランティスの文化を各地に伝える役割をも果たしました。

アトランティス文明は、現代文明をも超越するような水準にあったわけではありませんが、他の地域よりもずっと早く金属器の使用を始め、他の地域にたいして圧倒的に優越した地位を保っていました。しかし、紀元前2500年頃に他の地域も青銅器時代に入ると、アトランティス文明の優越性は失われ、アフリカ沿岸に勃興したアマゾネス族(ベルベル人の祖先)がアトランティスに攻め入り、その直後にアトランティスは地震と洪水のために滅亡しました。
 アトランティスが滅亡した後、アトランティス人の生き残りとイベリア族は同化してトゥルドゥリ族となり、地震で残った島や土地の上に国家を建設しました。これが『旧約聖書』のタルシシュ=ヘロドトス『歴史』のタルテッソスであり、その語源は
古代ベルベル語で柱を意味するタルセッツです。ベルベル人の祖先であるアマゾネス族は、アトランティスを「柱の王国」と呼んでいました。タルテッソスは紀元前9世紀頃にフェニキア系チレス人との戦いに敗れて植民地となり、紀元前6世紀には同じフェニキア系のカルタゴに破れて歴史から姿を消しました(121話)。

 

人類の禁忌
 『イリヤッド』においては、アトランティス探索を妨害し、殺人をも辞さない秘密結社が登場します。この秘密結社の現代の通名は「山の老人」ですが、なぜ結社が殺人を犯してまでアトランティス探索を妨害するのかというと、アトランティス人が語り伝えてきたある真実は人類にとってぜったい禁忌にすべきことであり、アトランティス探索を続けていると、この真実にたどり着くことになりかねないから、ということのようです。この人類の禁忌を知ると、人類はたいへんな衝撃を受け、夢さえ奪われかねない、と作中では示唆されています。まずは、人類の禁忌について作中の情報を改めて整理します。

●ネアンデルタール人が現生人類に語った、ある「真実」のことと思われます。
●その「真実」は、太古においても現在においても現生人類を絶望させるものであり、現生人類にとって呪われたものと思われます。その呪われた真実にアトランティス人が絶望したため、アトランティスは滅亡しました。また、その「真実」は、進化論的な内容をも含むと思われます。
●ネアンデルタール人と現生人類との接触は広範囲で起きたことですが、アトランティス人のみが、ネアンデルタール人の語った「真実」を文字の形ではっきりと残しており、アトランティス文明の後継者たるタルテッソス文明も、スペインのドニャーナ国立自然公園内にある、アトランティス文明のポセイドンの社を模した地下宮殿内の柱に文字を刻むことにより、その教えを伝えました。
●人類の禁忌の隠蔽をすることを目的とする秘密結社が、アトランティス探索を妨害し続けてきたのは、アトランティス文明を追及すれば、現在はドニャーナ国立自然公園内にある、地下宮殿の存在も明らかになるからと思われます。その意味でも、アトランティス文明の都(中心地)はドニャーナ国立自然公園かその周辺にあった、と考えるほうがよさそうです。

まず疑問なのが、なぜアトランティス人のみが人類の禁忌を伝えてきたのかということなのですが、作中では、アトランティス人のみが文字の形ではっきりと伝えてきたからだ、とされています。入矢はストラボン『ギリシア・ローマ世界地誌』を引用し、タルテッソスを築いた人々は、6000年以上前(ストラボンの視点からなので、紀元前6000年以前ということになります)から文字を使用していた、と指摘しています(123話)。上述したように、タルテッソスを築いたのは、イベリア族と生き残ったアトランティス人の一部とが融合したトゥルドゥリ族だ、と入矢は指摘していますので(121話)、作中では、世界ではじめて文字を使用したのはアトランティス人だ、という設定なのでしょう。
 アトランティス文明においては、他の地域よりもずっと早く文字の使用が始まったので、他の地域ではネアンデルタール人の教えが忘れ去れていったのに、アトランティスでのみ文字化されたのだということなのでしょうが、かりに入矢の推測通り、アトランティス文明(都市国家)の成立が紀元前10000年頃で、それから間もなく文字の使用が始まったとしても、ネアンデルタール人の滅亡からアトランティス文明の成立までかなりの時間が経過しているでしょうから、アトランティス人のみが「真実」を伝えてきた理由としては弱いように思われます。
 もっとも、ネアンデルタール人がいつ絶滅したことになっているのか、作中においては不明ですので、アトランティス文明の発祥地であるイベリア半島においては、通説よりもずっと後までネアンデルタール人が生きていた、という設定なのかもしれません。ちなみに、通説でもイベリア半島はネアンデルタール人終焉の地の有力候補とされていて、現在のところ、諸説のなかでもっとも新しいネアンデルタール人の滅亡年代は、24000年前頃となります。まあそれはともかくとして、とりあえずここでは、アトランティス文明の発祥地であるイベリア半島においては、ネアンデルタール人の絶滅年代から文字の発明までの期間が他の地域よりもずっと短く、そのため、ネアンデルタール人の語った「真実」が、アトランティス文明によってのみ文字の形で残されたのだ、というように解釈しておきます。

では、人類の禁忌とされた「真実」とは何なのかというと、私ていどの推理力と読解力では、かなり推測が難しいのは否めません。彼の島(アトランティスの発祥地・都のことでしょう)が沈んだのは人々が絶望したためであり、人々が絶望した理由は、神が最初に選んだのは「彼ら」であって「我々」ではなかったからだ(「彼ら」とはネアンデルタール人で、「我々」とは現生人類のことと思われます)、とのグレコ神父の発言(122話)は、人類の禁忌の核心に迫るものでしょうが、あまりにも抽象的なので、具体的にどのような教えが禁忌となったのか、これだけではよく分かりません。
 そこで、絶望について少し考えてみることにします。絶望とは、時間という側面に注目して分類すると、過去にたいするものと、未来に向けてのものとがあります。自らの出自や経歴を嘆き忌まわしく思うのは前者ですし、将来の展望に悲観するのは後者です。もう少し具体的に述べると、ドラマなどにおいて、自分が養子であって両親と直接の血のつながりがないことにうちのめされるような場合がありますが、これは前者となります。後者には、貧困のためどうにも生活が成り立ちそうにないとか、虐めにあってこの先には苦痛ばかりしかないと判断したとかいった具体的な事例や、**年に人類が滅亡するとか、末法の世に突入した(ここでは、基本的に日本での末法思想を念頭においています)とかいった宗教的で抽象的な事例があります。
 では、人類の禁忌はどちらなのかというと、「神が最初に選んだのは彼らであり、我々ではなかった」、「彼らは狒狒を指差し、次のおまえ達だといった」というグレコ神父の発言(122話)からすると、過去にたいするもののように思われます。しかし、現生人類が絶望するのは、多くの場合、過去よりも未来にたいしてだと思われますし、過去にたいする絶望も、未来への悲観につながるから絶望と考えられるのだ、という側面もあります。
 まあそれはともかくとして、進化論の浸透した現代において、レームのような無神論に近いと思われる人物でさえ衝撃を受ける(51・66話)ような秘密となると、過去だけではなく未来にたいしても呪われた「真実」であると考えるほうが、説得力があるように思われます。とはいえ、太古の現生人類も現在の現生人類も絶望するような「真実」となると、なかなか設定が難しいのは否定できませんが、ともかく推測を続けていくことにします。

「神が最初に選んだのは彼らであり、我々ではなかった」とは、現生人類がネアンデルタール人に夢を見る力を与えられ、神との交信が可能になった、ということだと思います。別の表現にすると、人類の特徴とされている「高度な精神性」を最初に獲得したのはネアンデルタール人であり、我々現生人類ではなかった、ということでしょうか。現生人類にとって、ネアンデルタール人はいわば大恩人であり、ゆえに神として崇められるようになり(神として崇められたのはネアンデルタール人だけではありませんが)、アトランティス文明圏では、ネアンデルタール人を模した柱状の偶像(アマゾネス族により、正体が隠されて梟とされました)が作られた、ということなのでしょう。これは、現生人類にとって衝撃的かもしれませんが、多数の現代人が絶望するようなことかというと、違うように思われます。
 では、「彼らは狒狒を指差し、次のおまえ達だといった」のほうはどうでしょうか。入矢はこれを、進化論的な教えだと解釈していますが(122・123話)、進化論の浸透した現在において、いまさら人類が進化論的な内容に絶望するとも思えません。また過去においても、蛇などから人類が進化したと考えている人類集団は少なくなく、進化論的な教えに人類の多数が絶望したとは、考えにくいところがあります。ただ、これが進化論的な内容だとしても、未来に向けての警告・宣託でもあると考えれば、将来にたいする絶望につながるかもしれません。
 ネアンデルタール人が獲得した「高度な精神性・知性」は、現生人類に伝えられたが、その他の動物も、「高度な精神性・知性」を獲得する可能性があり、人類の優位・特別な地位が失われることになるのだ、という意味に解釈すると、将来に絶望することになるかもしれません。しかし、そうだとしても、太古も現在も現生人類が絶望するかというと、疑問です。これならば、終末論的な世界観や末法論のほうが、よほど現生人類を絶望させるようにも思われます。もっとも、終末論的な世界観においては、たいていの場合、信仰による救済が提示されています。ここで気になるのは、モーセやイエスなどが、「真相」を知りながら人類を騙してきた、とするグレコ神父の解釈で、人類は将来絶滅するが救済はないのだということになれば、人類が絶望する理由になります。

そうだとすると、人類が絶滅する理由について、太古においても現代においても現生人類が納得しなければなりませんが、そのような説得力のある教えなどありえるだろうか?との疑問があります。いくら創作ものとはいえ、ネアンデルタール人が環境・人口・大量破壊兵器の問題を見通していたとすると、『イリヤッド』の作風に合いませんし、人類が絶望するような教えを考えるのは、やはり難しいものです。ただ、あえて推測すると、ネアンデルタール人の絶滅こそが、ネアンデルタール人の教えが真実だ、と現生人類に信じ込ませた理由なのかもしれません。
 現生人類とネアンデルタール人が遭遇したとき、すでにネアンデルタール人は衰退過程にあり、やがてネアンデルタール人は絶滅しました。自らの集団の絶滅を悟ったネアンデルタール人は、最初に神に選ばれた(高度な知性を獲得した)我々(この場合はネアンデルタール人のことです)でさえ、絶滅は避けられないことと、ネアンデルタール人や現生人類だけではなく、狒狒(文字通りの「ヒヒ」だけではなく、霊長目全般のことを指すと思われます)もやがては神に選ばれるだろう(がそれでも絶滅は避けられない)、ということを現生人類に伝えました。
 もしこの解釈が妥当だとすると、現生人類がネアンデルタール人の教えに絶望し、その教えを人類の禁忌と考えたのは、

(A)現生人類は元々は神に選ばれた(高度な知性を備えた)存在ではなかった、という進化論的な教えが含まれていました。
(B)しかも、最初に神に選ばれたのはネアンデルタール人であり、現生人類ではありませんでした。現生人類はネアンデルタール人に夢を見る力を教えられることで、真に人間らしくなりました。
(C)神に選ばれるのはネアンデルタール人や現生人類だけではなく、やがては他の動物もそうなるのであり、ネアンデルタール人や現生人類は特別な存在ではありません。
(D)しかし、神に選ばれたとしても絶滅は避けられません。そうしたことも含めて、現生人類にさまざまなことを教えたネアンデルタール人自身が、自らの絶滅をもって、その教えが真実であることを証明しました。

といった理由になります。(A)・(B)は過去にたいする絶望であり、(C)・(D)は未来にたいする絶望となります。(D)の結果、神は存在するのか、神への信仰に意味はあるのか、といった疑問も生じるでしょう。そうすると、人々の信仰心が失われることにもなりかねません。前近代においてはともかく、現代において、ネアンデルタール人の教えが信仰心を失わせるような結果をもたらすかというと疑問なのですが、秘密結社はそのことを懸念しているという設定なのでしょう。では、前近代においてはともかくとして、現代においても信仰心の喪失が問題とされる理由は何でしょうか。ある秘密結社の幹部は、結社はいわば人類の護民官だと発言していますし(86話)、たんに既存の宗教組織の既得権の問題だというわけでもないでしょう。そこで、この問題について、以下において私の考えを少し述べることにします。

前近代においても現代においても、秩序の維持には、権力の暴力装置だけあればよいというものでもなく、人々の規範意識も必要です。だからこそ、社会主義諸国は警察・軍隊に頼るだけではなく、宣伝活動にも力を入れていたわけです。社会主義ではない国々の多くも、社会主義国ほど露骨ではありませんが、人々の規範意識の醸成・維持に配慮しています。その規範意識の基盤には、宗教があります。もちろん、それだけではありませんし、社会主義国は宗教を排そうとしましたが、その社会主義国においても、けっきょくのところ宗教の排除には失敗したと言うべきでしょう。進化論の浸透した現代においても、アトランティス人の伝えてきた「真相」は人類の禁忌だと秘密結社が考えているのは、人類の禁忌が明らかになれば、人々の信仰心が失われ、秩序の乱れを招来する結果になりかねない、と懸念しているからなのでしょう。
 4巻所収の30話「運命の人」において、島民が堕落した結果沈んだ島の伝説が語られますが、これはアトランティスのことであり、アトランティス人が絶望した=信仰心を失った=夢を見ないということを意味しているのでないか、と思われます。「アトランティスはそれを創造した者自らが破壊した」というアリストテレスの発言(110話)も、アトランティス人が絶望した結果、アトランティスの都が崩壊したことを意味していると思われます。だからこそ作中においては、無神論でありながら文明・秩序を維持している日本(社会・人)に、アトランティスの謎を解明する資格があるのだ、とされているのでしょう。もっとも、これは作中での設定であり、本当に日本社会が無神論的なのかどうかということは、改めて検証が必要です。

 

秘密結社
 秘密結社については不明な点が多いのですが、作中で明かされた情報をもとに、推測していきます。上述したように、秘密結社の現在の通名は「山の老人」ですが、「山の老人」のように、アトランティスにまつわる秘密を隠蔽し続けてきた秘密結社は他にもいて、欧州には「古き告訴人」や「秘密の箱を運ぶ人々」がいました。「秘密の箱を運ぶ人々」は、アトランティスにまつわる古文書の入った箱を管理している人々のことで、4世紀にローマ教会に属しましたが、19世紀にローマ教会から切り捨てられ、中東の秘密結社である「山の老人」と合流します(107・109話)。
 「山の老人」は、マルコ=ポーロが述べた中東の秘密結社ですが(20・51話)、その起源は不明です。「秘密の箱を運ぶ人々」がクリスチャン中心の秘密結社なのにたいして、「山の老人」はムスリム中心の秘密結社でしょうか。「山の老人」とは元々ネアンデルタール人のことですが(118・121話)、なぜネアンデルタール人が「山の老人」と呼ばれていたかは不明です。「古き告訴人」は紀元前の欧州に存在し、裏からソクラテスを死刑に追い込んだ秘密結社ですが、「山の老人」や「秘密の箱を運ぶ人々」との関係は不明です。『ソクラテスの弁明』にはアニュトス一派を「新しき弾劾」、正体不明の弾劾者を「旧き弾劾者」と呼ぶ場面があり(koalaさんのご教示による)、原作者さんは「古き告訴人」という名称をそこからとったのでしょう。

秘密結社は数万年間存続してきたとされていますので(117話)、あるいは、更新世にはイベリア半島以外の地域にも存在したのかもしれません。ただ、アトランティス文明の発祥地であるイベリア半島以外では文字として残されることがなかったため、アトランティスの滅亡前には、アトランティスにのみ秘密結社が存在したものと思われます。ただ、作中では明示されていないので断言はできませんが、秘密結社がネアンデルタール人の教えを隠蔽しようと本格的に活動を始めたのは、アトランティスが滅亡した後と考えるほうが、作中でのさまざまな設定と整合的であるように思われます。
 おそらく、アトランティスにおいてはネアンデルタール人の教えが文字として残されていたため、アトランティス人の多くがネアンデルタール人の教えを知ってしまい(識字率が低くても、文字を読めた人間が読めない人間に説明するわけです)、そのために絶望してアトランティスが滅亡したものと思われます。アトランティスの滅亡を見た秘密結社は、ネアンデルタール人の教えを人々が知る危険性を悟り、ネアンデルタール人の教えとアトランティス文明を隠蔽するようになったのでしょう。アトランティスが滅亡した後、アトランティス人はカナリア諸島や地中海沿岸やコーカサスなどに進出していきましたが、そうしたアトランティス人のなかに秘密結社の構成員がいて、欧州の「古き告訴人」・「秘密の箱を運ぶ人々」や中東の「山の老人」を形成していったものと思われます。

秘密結社がどのように維持されてきたかについても、作中ではあまり明かされず謎が多いのですが、幹部による推薦により新たな幹部を補充するという方法で、人材を調達してきたようです(117・118話)。おそらく、アトランティス探索者や宗教の起源などを追及している研究者のなかから、信仰心の篤そうな者を秘密結社の幹部が見出して推薦し、幹部会で加入を認めるか議決しているのでしょう。殺し屋や情報収集要員など幹部ではない構成員については、個々の幹部が雇っているようです。秘密結社の首領は幹部のなかから選出されるようで、基本的に秘密結社の幹部は他の幹部の素性を知らず、相互に連絡できないようですが、首領だけは他の幹部の身元を知っています(118話)。ただ、首領とはいっても、他の幹部とはわりと平等に近い関係にあるようです(117・118話)。
 現代の秘密結社の通名は、上述したように「山の老人」ですが、ミハリス=アウゲリス『ソロンの詩』によると、秘密結社の真の名を唱えれば秘密結社を撃退できる、とされています(19話)。では、秘密結社の真の名とは何なのかというと、けっきょく作中では明かされませんでした。おそらく、秘密結社には正式名称なく、『ソロンの詩』の「真の名を唱えれば秘密結社を撃退できる」との一節は、ヒムラーの赤穴博士にたいする発言(59話)も考慮すると、秘密結社が隠蔽したい禁忌が明かされれば、秘密結社の存在意義がなくなる(その結果としてアトランティス探索者を殺害する必要がなくなる)、ということを意味しているように思われます。

 

その他の謎
 始皇帝とその異母兄である呂信との関係は謎のままで、始皇帝が呂信に死を命じ、呂信が始皇帝に毒薬を用意していたということをどう解釈するか、どうもよく分かりません。張は「参商の如し」の格言について、一般とは違う解釈をしていると言い、二人の兄弟は本当に仲が悪かったのだろうか?と疑問を呈していますから、始皇帝・呂信の異母兄弟も、たんに憎しみから殺しあったというわけでもなさそうです。
 また、始皇帝が異母兄の呂信を殺すさいの、「吾は神となり不死となり現世を治むる・・・・・・兄は死して冥界の王となれ・・・・・・吾甦る時、冥界の王の許しを乞わん」という『秦始皇伝奇』の記述も気になるところですが、連載が完結した今となっても、その意味するところはよく分かりません。始皇帝と呂信との関係は、同じく異母兄弟である呉文明と呉規清の関係と対応しているのでしょうから、憎しみを抱きつつも、敬意も抱いているという関係だったのでしょうか。

グレコ神父の側近の死体が、「偉大なるウサギ」遺跡の地下神殿に通ずる入口近くにある、今では廃墟となっている教会にあったのも(122話)、なぜそうなっているのかどうもよく分からず、謎のまま残りました。考えられるのは、

(1)側近がグレコ神父を裏切ってペーテルと組んでいて、「秘密の箱」を置いておくとグレコ神父が側近に伝えた川沿い5kmの教会に、ペーテルと側近が馬で赴いたが、ペーテルが裏切って側近を殺した。
(2)側近はグレコ神父のことが心配になり、川沿い5kmの教会に馬で乗りつけたが、それをペーテルが尾行していて、側近を殺すとともに「秘密の箱」を奪った。
(3)ペーテルはグレコ神父と別れた直後の側近を殺し、グレコ神父を尾行するとともに、すぐに発見されないようにドニャーナ国立自然公園へ死体を馬で運んだ。

といった可能性ですが、

(1)・・・側近がグレコ神父の強硬路線を危ぶむような様子は描かれていても、裏切っていることを示唆するような描写はなさそう。
(2)・・・馬上の人間を徒歩で尾行するのは難しいだろうし、グレコ神父の行方を確認するのが困難。
(3)・・・馬をすぐに手配するのは難しいし、わざわざ死体を運ぶのは不自然。死体の発見を遅らせるためなら、わざわざ教会まで運ぶ必要はなく、ドニャーナ国立自然公園内に入ってしばらくしたらのどこかに放置すればよい。

といった疑問が残るので、やはりよく分かりませんでした。

 

 

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