久米邦武「鎌倉時代の武士道」
これは、1908年の日本歴史地理学会の鎌倉講演における久米邦武の講演を纏めたものである。初出は日本歴史地理学会編『鎌倉文明史論』(1909年1月)で、引用は『久米邦武歴史著作集 第二巻 日本古代中世史の研究』(吉川弘文館1989年)より行なった。どうも歴史雑文の方に時間を割いてしまい、読後雑感の方は久々の更新となる。軽めの内容にして、もっと頻繁に更新したいところだが、HPにばかり時間を割くわけにもいかず、当分は月に2〜3回の更新となりそうである。
この論文を知ったのは、高橋昌明『武士の成立 武士像の創出』(東京大学出版会1999年)の冒頭を図書館で読んだ時のことであった。同書はその後購入したものの、まだ読み終えていないので、できるだけ早いうちに読んで読後雑感に掲載したいものである。まあそれはさておき、 この論文について言うと、もう100年近くも前に書かれたものだが、その内容は、なかなか示唆に富んだものだと思う。本題は鎌倉時代の武士道なのだが、「デ話」の方が長く、また示唆に富んでいると思うので、そちらの方を中心に雑感をについて述べていく。
先ず冒頭で久米は、今日は鎌倉時代の武士道と云ふ題を出しましたが、鎌倉時代には武士道と云ふものが無かつたと言うて宜いでせう。是は多分此四百年以来流行つた言葉で、其以前は無いと思ふ (中略) それならば鎌倉時代では何と言つたかと言へば弓馬の道、弓馬の道と云のが武士道かと言へば、武士道は即ち弓馬の道と言つて宜いけれども少し違ひがある、と述べている。
ただ、武士道の語が武士の道徳を一般的にさすようになるのは明治以降で、それ以前は士道と言った。江戸時代になって、戦国期までの武士の道徳を儒教によって根拠付けた士道が成立したわけで、久米の発言は大筋では間違いはないわけである。因みに、戦闘者としての武士の伝統的立場は、士道論者から狭義の武士道と呼ばれ、江戸時代にはこの両者が併存していた。
久米によると、弓馬の道は強ち武士が始めたわけではなく、元来は朝廷の中から生まれてきたものだった。貴族には文弱との印象が強いが、それは遥か後になってのことで、本来は武勇に長けた人々であり、だからこそ日本全土の種族を征服して国家を建てたわけで、彼らの間での様々な武力闘争の中から、弓馬の道が現われてきた、というのである。
朝廷には軍防令があるから、全国から豪族の子弟を上京させ、彼等に弓馬の道を仕込んだが、その中でも優秀な人が出世することになり、全国的に弓馬の道が浸透することになった。だが、各地方では、やはり本場の都の域には到底及ばない。都の弓馬の道というのは、名人の芸に達しているわけだが、国家機構が整備されていくにつれ、都では争乱が減って実際の武勇からは遠ざかっていき、形式的な奥義となっていった。これに対して地方では、自力救済の社会の中で、実地の武勇が鍛えられていった。
こうして、次第に弓馬の道にも公家のそれと武士のそれとの違いが生じてきたが、両者とも同根であり、決して別々になることができず、前者は発達した文明的、後者は蛮勇というわけである。そして武士の弓馬の道も、人種の違いもあるのだろうが、自然に上方・東国・西国の三種に分かれてきた。三者の中で最も強かったのは、弓馬の道の本元に居りまして一体の研究も積んで居たのであらうが、其上に京都の御威光を持つて居る上方武士であった。源平合戦で上方武士の平氏と西国武士が東国武士に負けたのは大将が悪いからで、東国武士はそれほど強くはない。
久米の主張の要旨は大体こんなものだが、『武士の成立 武士像の創出』での高橋昌明氏の要約を引用すると、武の本体は京都の公家社会にあり、そこで発達した弓馬の道を吸収することによって武門武士の武芸が生まれたこと、またその野蛮さにもかかわらず、都の武士に比して、東国武士は必ずしも強くはなかったというのである。
一般に浸透した日本史像とは随分異なると言えるが、1970年代以降の武士見直し論にも通ずる、先見的なところもある論文と言えよう。だからこそ、近年の武士を巡る論争の中心的論者である高橋氏も、この論文を高く評価されているのだろう。
東国(鎌倉)武士こそ武士の典型であり本流であるとの理解は、実は「創られた伝統」なのではなかろうか。鎌倉幕府の武芸と儀礼には都のそれが多く取り入れられ、源頼朝は鳥羽院の北面に仕えていた西行から「弓馬の事」と「兵法」を学んだ。こうした点も、久米の見解の妥当性を証明しているように思われる。
また、久米の見解は、従来の文弱・怠惰な貴族像の修正も迫るものであり、近年の専門家の間で、貴族が享楽に明け暮れた存在ではなく、実務に長けた存在だとの見解が主流であることからしても、久米の見解の先見性が覗えるように思われる。この貴族像と、東国(鎌倉)武士こそ武士の典型であり本流であるとの理解とは、表裏一体のものであり、相互に影響を及ぼしつつ形成されていった「創られた伝統」であって、近代西欧史学の導入が、その傾向に一層の拍車をかけたと思われる。この点については、『武士の成立 武士像の創出』の読後雑感で、いつか述べてみたい。