小路田泰直『「邪馬台国」と日本人』

 

 平凡社新書として、今年(2001年)初めに平凡社から発行された。書名は『「邪馬台国」と日本人』となっているが、主題は近現代日本における「日本史」叙述・認識の問題で、皇国史観が如何にして生まれ、何故未だに克服されていないのかを論じている。邪馬台国論争は、皇国史観に傾斜していく戦前の日本史研究状況を説明する一挿話として描かれているといった感じで、書名は、「皇国史観の形成過程」とでもするのが妥当なように思う。或いは、邪馬台国を書名に入れた方が人目を引くから、といった理由で、編集者がこの書名を提案したのだろうか(邪推かな・・・)。
 冒頭では、歴史認識・叙述の在り方として、物語としての歴史(構成主義的歴史観)と客観的歴史観とが挙げられ、以下の章で、近代日本における歴史認識・叙述が、両者の間を揺らぎながら次第に前者に傾倒していき、遂には皇国史観が成立するに至った経緯が、『大日本編年史』の編纂と挫折・白鳥庫吉と津田左右吉の思想と認識を通じて述べられている。簡潔に要旨を述べると、次のようになる。

 不平等条約改正・一流国の仲間入りを目指した明治前半の日本に要求されたのは、文明国としての証であり、具体的にはそれは立憲制であった。だから、立憲制国家に相応しい力量のある国民を育成するために、普遍的な価値観に基づく文明史としての客観的な『大日本編年史』の編纂が企図された。だが、憲法が制定される頃になっても、先進国の立憲制には到底及ばないことが明らかになっていく。そこで政府は、天皇の絶対的権威を持ち出して政府の議会に対する優越を歴史的に説明しようとし、特殊的性格を持つ日本という歴史像の創出を企図し始めた。
 この流れは、その頃より民族自決の原則が主張されるようになったことによって、一層強くなった。何故なら、独立国としての条件が、文明水準から民族の存在へと転換することを意味したからである。故に、以後の日本では、日本の特殊性を歴史に求める傾向が強くなったが、それは歴史の物語化を招来した。その理由は、一つには中国(外来)文化の影響を受けない日本固有の文化の存在を確認できなかったからであり、もう一つには、流入する中国文化に圧倒されないよう、古くに成立した固有文化に回帰して歴史的発展を図る復古の英雄の存在を想定するしかなかったからである。
 だが、日本の特殊性を歴史に求める動きの中にも、物語を作り上げることによるものではなく、実証的手法によるものもあった。その手法を開拓したのが、東洋史家の白鳥庫吉とその弟子である津田左右吉であった。白鳥は、記紀神話などの古伝説を、過去の事実を反映した歴史として理解する前に、書き手の思想の産物として理解しようとした。白鳥は、日本神話には中国思想の影響があるが、その影響を受けていない日本固有思想の部分は、自然崇拝に留まっている中国思想より優れている、とした。そして、中国思想の流入にも関わらず日本固有の思想が消え失せなかったのは、歴史のある時期までは、日本は中国と文化的に隔絶されていたからだ、とした。この見解の補強のため、白鳥は邪馬台国九州説を唱え、それに執着した。大和朝廷、即ち日本の主要部分が中国と接触した時期が遅いほど、自説には有利になるからである。だが白鳥は、一見すると中国思想の影響を受けていないように思われる日本神話の一部も、実は仏教の影響により形成されたものだと気付いていた。だが、日本孤立主義を採って「満州進出不可論」を主張し、「尊厳なる国体の本質と、我が皇室の万世一系であらせられる真の理由」を発見することを企図していた「国士」白鳥は、生前にはその考えを一部にしか漏らさなかった。
 白鳥の弟子である津田は、一層徹底した日本孤立主義論者だった。津田は、中国思想は普遍的なものではなく、また文化水準の低い日本に浸透したわけではなかったとし、日本における中国文化の影響を軽視した。津田は、日本と中国との違いを強調し、両者は東洋文明・文化などといって一つに括れるものではなく、全く別個の地域であった、と主張した。そのため津田は、一つの東亜を形成しようとした時流への反逆者と受け取られ、戦前には政府から睨まれることとなり、反戦・反体制の歴史家と理解された。
 津田や白鳥とは対極的に、一つの東亜という立場にたったのが内藤湖南で、内藤は西洋文明に対する東洋文明の対抗可能性を歴史研究の課題としていた。故に内藤は、日本の歴史を東洋の歴史に組み込む必要性を感じ、日本文化の固有性や外来文化摂取の選択性といった議論に反駁し、邪馬台国畿内説を主張したのである。
 白鳥と津田の、日本的固有文化を歴史的に実証せんとする試みに限界が見えると、同様の目的を掲げる者の多くが皇国史観を選択することとなった。皇国史観は、単に物語的歴史の延長にあるのではなく、進んで日本人になろうとする皇道実践に生命をかける歴史家の主体性に支えられてはじめて成り立つ歴史観であり、日本文化の特殊性を証明しようとする大きな流れの最後の姿であった。
 皇国史観は、戦後になって非合理・非科学的として糾弾されたが、その誕生過程・理由を解明するといった徹底的な克服はなされなかった。それは、戦後歴史学もつい昨日までは皇国史観と五十歩百歩だったので、歴史家がそれに触れたくないためであり、もう一つは、戦後日本も、国家のアイデンティティ確立のために、日本文化の特殊性・固有性を主張するしかなく、歴史学がその証明のために動員されたからであった。戦後歴史学は根本的に皇国史観を超えることはなく戦前期歴史学と連続しており、その中では、実証的・反戦的と理解されていて日本孤立論を採る津田史学とのみ公然と接続することによって、戦前期歴史学との連続を図った。

 戦後歴史学が津田史学とのみ・・・との最後の辺りには疑問もあるが、戦後歴史学においても日本の孤立性が強調されてきたことを考えると、一定の妥当性は認めてもよいのかもしれない。皇国史観形成の過程については、上手く題材を選択して纏めており、なかなか分かりやすく説得力があると思う。皇国史観が過去の問題ではないことや、日本の新たなるアイデンティティの確立など、現在の重要問題へと上手く繋がる内容となっており、歴史を学ぶ本来の意義を再確認させてくれる本だと思う。戦後になって反動化したと非難された津田左右吉についても、やはり井上光貞氏や今谷明氏が仰るように、戦前戦後を通じてその主張が首尾一貫していることを確認できたことも収穫であった。

 うーん、殆ど要約になってしまったか・・・。

 

 

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