大山誠一『聖徳太子と日本人』(前編)
風媒社より今年(2001年)発行された。『<聖徳太子>の誕生』(吉川弘文館1999年)の続編といった感じの本で、聖徳太子が実在しなかったことや聖徳太子を創作した人物の証明など、重複もある。聖徳太子は架空の人物である、という大山氏の見解は大変な反響を呼んでいるようで、『東アジアの古代文化』においては2回に亘って特集が組まれ、その他の号でも大山氏の見解が掲載されている。また、現在刊行されている講談社の『日本の歴史』でも、第3巻の熊谷公男『大王から天皇へ』で取り上げられている。
聖徳太子は後世に創作された架空の人物であるとの大山氏の見解は、少々分かりづらいものとなっていて、一般には誤解されているところもあると言えるかもしれない。大山氏の見解を簡潔に述べると、廐戸王は実在した人物だが、聖人・偉人としての聖徳太子は後世に創作された人物で、憲法十七条といった偉業は後世の捏造である、ということになる。つまり、実在した廐戸という王族に、後世の捏造も含めて様々な業績を仮託して出来上がったのが、聖徳太子という聖人・偉人である、というわけである。
従来、聖徳太子に関する聖人伝承や政治的業績の一部を否定する見解は学会の一部でも認められたが、聖人・偉人としての聖徳太子を全面否定したのは、学会では大山氏が最初だろう。一見すると突拍子もない見解だが、先行研究を充分踏まえたものであり、一部で言われているようなトンデモ的見解では決してない。以下、本書の具体的な記述を読んでの感想を述べていく。
聖人・偉人としての聖徳太子を証明する史料は全くない、というのが大山氏の聖徳太子架空人物説の根拠である。これは、久米邦武や津田左右吉などの先行研究を踏まえたものであり、大山氏が突然提示されたわけではない。最初に結論ありきで、自説に都合の悪い史料を後世の捏造と判断しているわけではなく、聖徳太子の偉大さを伝える各史料の真偽を検討していった結果、聖徳太子は架空の人物であるとの見解に達したわけである。
先ず大山氏は、『隋書』の記述を参考に、6世紀後半〜7世紀前半の日本における中国文化に対する理解の低さを指摘され、憲法十七条はそのような文化水準に相応しい内容だろうか、と疑問を呈されている。確かに、憲法十七条が7世紀初頭のものか疑問は大いにあり、『隋書』に見える日本側の使者の発言からは、当時の日本での中国文化に対する理解の低さが窺える。
だが、そこから当時の日本の文化水準を一律に論じてしまってよいものか、疑問は残る。大山氏は、『隋書』を日本の為政者の政治・文化認識を知る貴重な書とされる一方、『日本書紀』は政治的意図のある書で真に受けてはならない、とされているが、政治的意図があるのは『隋書』も同様で、中国知識人の観念も反映されているわけだから、『隋書』の方に信を置くのが必ずしも正しいとは言えないだろう。それはともかく、当時、既に仏教寺院が建てられていて、過去の中国への使者派遣の際の国書の文面などからも、中国か朝鮮出身の知識人が日本に少なからずいたことが窺われる。そうした知識人の教えを受けた、優れた学識の王族や豪族がいた可能性も、全否定はできないだろう。
聖徳太子は中国的な聖天子であり、中国の知識人に劣らないだけの見識を備えた、儒仏道に通じた優れた知識人として『日本書紀』において創作され、その中心的創作者は藤原不比等と長屋王と道慈だ、というのが大山氏の見解である。確かに、『日本書紀』において中国的な聖天子像と優れた知識人像を提示する必要はあっただろうし、その対象として廐戸王が選ばれたことは間違いないだろうとは思う。
だが、何故その対象が廐戸王となったのか、大山氏の主張は明快ではなく、その点は大山氏も認められている。日本武尊のような大昔の伝説的人物ならばともかく、100年程前の人物を聖天子・優れた知識人として描いたのは何故か、納得のできる説明がない。大山氏は、この疑問は焦らずにじっくりと解決していけばよい・・・と述べられているが、この疑問に対してある程度明快に説明ができなければ、聖徳太子架空人物説も説得力に大いに欠けるのではなかろうか。大山氏は、聖徳太子の偉大さを示す全史料が後世の捏造だということと、聖徳太子像の創作者が誰かということを証明できれば、それで自説の説明としては充分であるとお考えのようだが、どうも違うのではなかろうか。
仮に聖徳太子の創作者が藤原不比等と長屋王と道慈だとして、彼等は何故廐戸王を聖徳太子に仕立てたのだろうか。子孫が断絶していたのでやりやすかったとの説明もあったが、少々御都合主義的ではなかろうか。優れた人物として崇拝されていた廐戸王を一層理想化した、との想定も充分説得力があるのではなかろうか。大山氏は自説に大変自信をお持ちのようだが、廐戸王が『日本書紀』において聖天子的性格の優れた知識人として描かれた理由が明快に説明されない限り、研究者や一般人の聖徳太子像への確信が大きく揺らぐことはないと思う。
随分と批判的になってしまったが、要するに大山氏の自信程には説得力はないのではないかということで、史料批判も含めて大山氏の見解は大変興味深いもので、大筋では正しいのではないかと思う。ただ、聖徳太子像の提示も太子信仰も、『日本書紀』の成立よりもかなり前に一部で行われていた可能性は高いように思われる。
十七条憲法については、後世の潤色があるにせよ、推古朝のものとするのが一般的な見解だが、聖徳太子一人の作かというと、その点については疑問もあるようである。大山氏の見解は上述した通りで、どちらが妥当かとなると、正直なところ私にはよく分からないが、どちらかというと後世の偽作とする大山氏の見解に惹かれる。法隆寺系史料や聖徳太子の遺品とされる物などを後世の偽作とする指摘は、概ね妥当なものだと思う。
『三経義疏』が後世の偽作との指摘については、妥当かどうか悩むところではある。『勝鬘経義疏』については、敦煌出土の『勝鬘義疏本義』と7割同文であることが証明されていて、『三経義疏』も中国製だったのではないか、との見解が有力ではある。ただ、『勝鬘義疏本義』などの中国の注釈書を聖徳太子が大いに参考にした、との解釈も成り立たないことはないだろう。とはいえ、その出現状況からして、『三経義疏』が聖徳太子の作ではない可能性は極めて高いと言えよう。聖徳太子の実在を証明する有力な証拠とされる「天寿国繍帳銘」が後世の偽作との指摘は、使用されている暦法からも間違いないと言えよう。
こうしてみると、確かに聖徳太子の実在を示す史料はどれもあやふやなもので、大山説にかなりの妥当性が認められるのは間違いないと思う。古代史の大家である上田正昭氏も、聖徳太子について書くにあたって、太子の活躍を示す確実な史料が極めて少なく苦労したと述べられているくらいだから、聖徳太子が実に曖昧模糊とした人物であることは間違いない。ただ、上述したように大山説にはまだ疑問点もあり、聖徳太子が架空の人物だったと断言するのは早計だろう。
実は本書の主題は、聖徳太子像を形成してきた日本人の思想や心情、更には、創出された架空の人物である聖徳太子に長年寄せてきた日本人の想いを手掛りに日本(人)を論じる、というものである。だが、ここまで聖徳太子架空人物説についてずっと取り上げてきたのは、主題を論じる際の大前提となっている聖徳太子架空人物説に疑問もあったためである。当初の予想以上に長くなったので、本書の主題についての雑感は、次回述べることにする。